【黄色】


今日もやはり何も変わらぬまま、馬小屋の番が始まる。

私に、
名など無かった。
顔も名も知らぬ母の腹から這い出でたその時から、
すでに私は奴隷だったからだ。
名も顔すらも知らぬ親を恨むことは無い。
ただ知っているのは母も奴隷だったということ。
主人から馬小屋の番を一人で任されていたのは、私が優秀な馬士だからではない。
私には学がなく、
主人の、屋敷での仕事を勤めることができなかったからだ。
だからこの馬小屋にいる馬も王族が使う立派なソレではなく、
番兵や商品の輸送に使われるぐらいしかできぬ哀れな馬だ。
哀れな小屋。
そう周囲から揶揄される惨めな場所、
それがここだった。
扱いの悪い使用人に、自分達よりも更に下の者がいるのだと安心させるための、
一種の見世物小屋だ。
私は朝食のかわりに馬の食料をこっそり頂戴する。
無論、人間用ではない乾し草に。味の是非を問う愚かなことはしないが、
あまり美味しいものではないのだろうと思う。
餌を頂戴しながら馬の背を洗う。
十頭の馬は私に興味は無いのか、
ただモクモクと粗末な干し草を味わっているだけだ。
乾燥した空気が肌をかすめる。
少しだけ寒い。
何も異常はない。
小屋の掃除をすませる頃には、天はちょうど真上に上っていた。
馬に水をやるため、
私は川まで向かった。
茂みを抜け、大樹の横をすぎ、
川の音が聞こえてくる。
綺麗な川だった。
桶いっぱいに水をくむと、太陽の光が水面に反射して辺りに広がる。
私はこの光が好きだった。
ついでに腹の足しにでもしようと、もってきた釣具を垂らす。
釣具といっても、髪を結い上げた糸に魚の鱗を重ね合わせた疑似餌だが、
私にとっては大事な釣具だった。
魚の鱗は光の反射し、それを獲物と間違えた魚が食らいつく。
簡単そうに見えるかもしれないが、
私がこの技を覚えるまではかなりの時間を要した。
二時間しただろうか。
捕まえることができたのはたったの一尾だった。
まあ、こんな日もあるかと息を吐き、
川から離れようとした時だ。
「おい!そこの青年!」
向かい岸から手を振りながら呼び止める声。
私は不信に思いながらも、
足を止める。
止まった私に安心したのか、
声の主はゆったりとした歩みで私の側まで近づいてきた。
私は怖かった。
他人が私に近づくときはたいていろくな事ではないからだ。
身分の低い私をつかい、日々のウサを晴らそうとする奴らばかり。
昨夜も――、
私は主人から酷い仕打ちを受けたばかりなのだ。
「その魚、オレに売ってはくれまいか?」
声の主は黒い瞳が印象的な、背の高い男だった。
この辺りの者ではない、
城の者だろうか?
残念ながら私のような身分の低い人間に、城の住人の顔など知る由もない。
何も存在しないこの場所に、
いったいどのような用があるのだろう。
敵意はなさそうだが、真意はみえない。
「そんなに警戒するな、家族へのみやげにそいつが欲しくなったんだ。
なあ、どうだろうか?金ならきちんと払うぞ」
警戒している私に気が付いたのか、
男は苦笑しながら再度私に問う。
私は首を横に振りたかった。
金など、奴隷の私には何の価値も無い。
私には物を売る権利も、買う権利もない。
奴隷が金を所持することなど、
まして金を使うことなど大罪なのだ。
いまこの魚を奪われてしまったら、
私は今日もまた飢えに苦しむことになる。
だが、
私に逆らう権利もなかった。
「お金などいただけません、どうぞお持ちください」
なんとか声を絞り出し、私は桶ごと魚を差し出した。
関わり合いにならないほうが懸命だろうか。
早く魚を渡し逃げてしまおう。
「そうか!すまぬな、でもお金はきちんと受け取れ」
もしやこの男は、
奴隷に金の権利が無いことをしらないのだろうか。
金を断り続ける私に、
一歩も引かぬ男。
私は困ってしまった。
「本当にお金など困るのです、どうぜそのままお持ちください」
「それではオレの気が治まらぬ」
だんだん意固地になってきたのか、男はなんとしても私にお金を渡すつもりのようだ。
押し問答が続く。
男も必死だったが、私はさらに必死だった。
「……申し訳ないのですが、お金は本当に受け取れないのです。
お気がすまぬのであれば、どうかこの桶を返してはくれないでしょうか?」
「桶を返す?」
男はわけがわからぬと言った風に顔を傾ける。
男の黒い後ろ髪が風になびき、
枯葉が舞った。
「どちらにしても魚を持っていくには桶が必要でしょう、
しかし私は明日桶がなければ困ってしまいます。
ですから明日の正午までにどうかこの桶をこの場所に置いておいてはくれないでしょうか?」
「――そうか、分かった。無理をいってすまぬな」
男はしばし悩み、
渋々私の提案に納得してくれたようだ。
私は安堵した。
「明日の正午までにこの場所に返して置けばよいのだな」
男は再び笑顔で呟き、
私に感謝を述べゆったりとした歩みで橋を渡り、
向こう岸に帰っていった。
変な男だった。
私は疲れてしまった。
他人と話すことなど、絶えて久しかった。
少しだけ寂しくなった。
ふと浮かんだ感情は私の焦燥感を煽った。
貴重な食料がなくなってしまったのだ。
腹の足しになるものでも探さなければと、
私は森の木々から果実を摘みながら帰った。
この森の果実はほとんどが微量の毒を含んでいるが、
飢えで苦しむよりはマシだ。
果実を摘んで帰る頃には夕刻をすぎていた。
水を欲する馬が物ほしそうに私を見つめる。
私は急ぎ川に戻り、
馬の水をもう一度汲みに古く小さい桶を奥から掘り出し、
何度も往復し水を配る。
桶はまだ戻ってはいなかった。
馬はやはり私に無関心のようで、
ただひたすらに水を仰ぐ。
馬に水を上げ終わるときにはすでに日は落ちていた。
小屋に戻り、寝藁に身体を横たえると、
空腹のあまりに腹がなった。
干草の香りを強く放つ寝藁。
私が自作したお気に入りの寝具だ。
あの果実でも食べようと、
床に置いてあるその実に手を伸ばそうとした時だ。
私は自身の身体が恐怖で引き攣る音を聞いた。
酒に酔った主人が小屋を訪れてきたのだ。
私は恐怖を隠しきれず、
身体を震わせた。
怯える私を罵倒すると、
主人は私の顔を笑いながら殴り、
地面に倒れこんだ私を犯した。
何度も何度も、
私は穢され続けている。
いままでも、
そしてこれからも。
どれだけ悲鳴を上げても、
許しを乞いても、
誰も助けてはくれなかった。

目を覚ますと裸に剥かれた下肢をそのままに、
私は地面に倒れていた。
気絶してしまったのだろう。
立ち上がろうと足に力をいれた時だ、
ふと腿を伝う液体に私は嗚咽をもらしてしまう。
痛みのあまり失神してしまった私の体内に、
主人の精が種付けられていたのだ。
涙を堪えながら下肢の汚れを拭き取り、
私はそのまま泣いたが、すぐに泣くのを止めた。
無駄に泣いたところで、
誰も助けてはくれないのだから。
拾ってきた果実を齧る。
舌がしびれ、全身から少しだけ感覚が無くなる。
痛覚も少しだけ和らいだ気がする。
この果実の微毒を、
今だけは嬉しいと思った。
まだ夜は明かない。
明日になどならなければいいのに。


今日も何も変わらぬまま馬小屋の番が始まる。
馬は相変わらず愛想もなく、
ただモクモクと乾し草を食している。
私も相変わらず変わりなく、
小屋の掃除をこなす。
馬の背を洗い正午をむかえる。
馬に水をやろうといつもの桶を探すが、
見つからない。
そこでやっと、昨日の出来事を思い出した。
そうだ、あの桶はあの男に貸してしまったのだ。
私は小さい桶を持ち、
茂みを抜け、大樹の横を過ぎ、
川の音が聞こえてくる。
相変わらず綺麗な川だったが、
いつもと違ったのはそのほとりに桶が置いてあったことだ。
あの男が約束どおり戻しておいたのだろう。
また少し、私は寂しくなった。
桶に水を汲み、
釣り糸を垂らした。
今日も魚はなかなか釣れない。
今日は集中ができなかった、昨夜の果実のせいだろうか。
手先が微かに震え、力が入らない。
空腹から募る焦燥に、
私はますます集中力を失う。
「――……ッ!」
一瞬だった。
命の繋ぎとも呼べる疑似餌が魚に持っていかれてしまったのだ。
落胆は、そう軽いものではなかった。
あの疑似餌でさえ作るのにかなりの労力を賭したのだ。
しかし落ち込んでいる場合ではない、
代わりの餌を探さなくてはならない。
このあたりにミミズや虫などはあまり生息していない。
どうしたものか。
しばし思案し、
一度小屋に戻り何か探すことにすることにした。
帰路に着こうと、
水を汲んだ桶を手にした時だ。私がふと気が付いたのは。
桶の中に光る何かが沈んでいた。
それは水の反射などではない、
私は不思議に思い手を伸ばす。
桶の底に静かに沈んでいたのは、黄色い円形の輝く金属だった。
その美しい輝きは太陽に反射し、周囲に鮮やかな黄金を描く。
あの男が謝礼の替わりに入れていたのだろう。
あれほど頑として譲らなかったあの男の事だ、はじめからこのつもりだったのだろうか。
私は苦笑しながらその美しい金属を見つめる。
細かく刻まれた彫りモノ、文字の読めぬ私にはわからなかった。
黄金の獣王の印が彫られているようだ。
初めてみるモノだった。
黄色く輝くこれは疑似餌なのだと判断した。
あの男からモノを受け取るのは本意ではなかったが、
私はこの疑似餌に一縷の望みをかけ釣り糸を垂らした。
二時間程度たっただろうか。
魚はなんと四尾も釣れた。
私は嬉しかった。
今日は豪勢に姿焼きにして食べよう。
沸き立つ歓喜に惹かれるまま、小屋へと戻ろうと釣具をたたんでいた時だ。
「おーい、そこの青年!」
またあの男だった。
私はわずらわしさを感じつつも、
釣りの成果に浮かれていたのか、男の方を向いた。
やはり黒い瞳が印象的な、背の高い男だった。
遠くからでは判断できないが、
並みの私の身長より、さらに頭一つ分高いだろうか。
凛々しいその顔に、
私は少し恐怖を抱いた。
やはり他人は怖いのだ、と。
私は改めて感じてしまう。
ゆったりとした歩みではなく、少しだけ駆け足で、
男は私の目の前まで近づく。
石鹸と呼ばれる香りだろうか、
清潔そうな香りが鼻を掠めた。
一度でいいからその心地よい香りに包まれて、
身体を清めてみたい。
それは浅薄な夢なのだと、
我ながら愚かだと自嘲した。
「昨日は感謝しているぞ、お前名はなんと申す?」
逃げ出したい衝動に駆られるが、
奴隷の私にその権利は無い。
問いに答えようとしたが、
答えに詰まる。
答えが、なかったからだ。
「馬番と呼ばれております」
少しして、私は答えた。
「馬番?それは役職か?オレは名を問うているんだが」
やはり応えぬ私に、
男は苦笑した。
「言いたくなければまあ、良いか。
今日も魚を分けてはもらえないか?」
どうしたものか。
今日も魚を渡してしまったら私はまた飢えで苦しむことになる。
私は正直に話すことにした。
その魚はどうしても食したいのだと、
だから一尾でよければ譲れるが、あとの三尾は嫌なのだと。
男はしばし黙すると、私に頭を下げた。
「そうか、では昨日はすまぬ事をしたな、
そなたが腹を減らしているのだとは気付かなかったのだ」
「とんでもありません、私が説明しなかったのがいけなかったのです。
どうか頭をお戻しください」
いつまでも頭を下げたままの男に慌て、
私は男に訴える。
奴隷の私が他人に頭を下げさせたと分かったら、
主人にどんな罰を受けるかも分からない。
昨夜の暴行の記憶を呼び起こした体が、
少しだけ慄いた。
やはり他人は怖かった。
「ところで、その魚はどう食すのだ?」
「姿焼きにしようと思っています」
今日は久々の馳走なのだ、
海水から搾り出したとっておきの塩を使い、
焚き木で炙るのだ。
皮の表面が熱で硬くなり、内にひめた油が溶け出し汁を垂らす。
一尾は頭から丸かじりして、
二尾目はハラワタまでじっくり味わってやろう。
三尾目は骨の髄までしゃぶってやるのだ。
四尾目は乾燥させて備蓄しようか。
思い描いただけで、咽がうなる。
「どうだろう、良かったら私にも一尾焼いてはくれまいか?
興味があるのだ、この川で取れる魚の味に」
男は言いにくそうに、
だがハッキリと私に訴えた。
私は嫌だった。
だが奴隷の私が逆らうことなどできない。
「かまいませんが、小屋まで戻らねば火を起こせません。
貴方様が小屋までお越しにいただけるのならば可能ですが」
「遠いのか?」
「ここから半刻ほど南に下った場所になります」
「半刻か、まあ良いだろう。世話になろうと思うが良いのか?」
男の問いに、
私は頷いた。
この男には疑似餌を貰った恩もある。
恩には報いなければならない。

男が帰った時、すでに夕刻が過ぎていた。

男がいなくった小屋には、
普段より重い寂しさが残っていた。
男は私が焼いた魚を食しながら、
苦笑していた。
あまり美味しくなかったのだろう。
貴重な塩を男の魚に振ってやったのだが、
まったく贅沢な男だった。
男は優しい男だった。
あの男は私を苛めない。
ただそれだけの事が嬉しかった。
男はまた疑似餌を一つ残していった。
黄色い輝きを持つ疑似餌。
私がこの疑似餌の素晴らしさを感謝したからだろうか、
男はこの黄色く輝く疑似餌の使い方の説明を続けていると、
不思議そうな顔をして私の目を見つめていた。
男は本当に変なヤツだ。
だが、
やはり私は複雑だった。
あまり他人との接点はもちたくはない。
男はきまぐれに魚の味に興味をもったようだが、
それは私に対しての興味ではなく、
明日はさすがに川には来ないだろう。
水と食料を欲する馬と同じように、
あの男の興味の矛先は私自身ではないのだ。
一つ息を吐き、
私は釣具をしまうと就寝することにしたのだが、
それは叶わなかった。
悪夢の現実は終わることはない。
私は自身が恐怖で慄く呼吸を耳にした。
主人が罵声と共に、戸を開けたのだ。
主人は私を乱暴に押し倒すと、
腕を縛り、
そのまま私を貫いた。
悲鳴が咽を伝い、
小屋中に広がる。
小屋には肉が裂ける音と、
私の悲鳴。
そして荒々しい主人の息遣いだけが響く。
私の悲鳴がとても愉快だと主人は哂い、
再び私は気を失うまで乱暴に犯された。
主人は鼻歌交じりで帰って行ったようだ。
目を覚まし、痣だらけになった下肢を拭うと、
嗚咽がひとりでに漏れた。
私はそのまま泣いたが、すぐに泣くのを止めた。
私は知っていた。
無駄に泣いたところで、
誰も助けてはくれないのだから。
このまま眠ってしまおうと寝藁に身を包む。
その手の先にあの黄色く輝く疑似餌が触れた。
共に食事をした温かい時間が、
胸をするどく貫いた。
さきほどまで、
時を忘れるほどに過ぎた時刻。
久々の馳走。
私を苛めぬ初めての他人。
黒髪と黒い瞳が印象的な、凛々しいが変な男だった。
私なんかと話してくれる、
変な男であった。
ふとあの男の顔が浮かび、
私は何故だか再び泣いた。
いつものようにすぐ泣くのを止めようとするが、
何故だか涙は止まらなかった。
夜はまだ明かない。
明日になどならなければいいのに。

今日も何も変わらぬまま馬小屋の番が始まる。
馬は相変わらず愛想もなく、
ただモクモクと乾し草を食している。
私も相変わらず変わりなく、
小屋の掃除をこなす。
馬の背を洗い正午をむかえる。
寒さが、肌を刺すように感じる。
私は桶を持ち、茂みを抜け、大樹の横を過ぎる。
川の音が聞こえてくる。
相変わらず綺麗な川だ。
桶に水を汲み、
私は釣り糸を垂らした。
男は今日もやってきた。
今日もまた魚を分けてほしいのだと言う。
私は逆らうことなどできやしない。
少しだけ、
嬉しかった。
男がまた来てくれたことが、
嬉しかったのだ。
私が頷くと男は満足そうに笑った。
私も少しだけ笑った。
今日の魚は燻して食べた。
針葉樹の枯葉とサフランの実。
去年から乾燥させていた桜を塗し、
藁で包み一刻ほど。
魚はよく蕩け、無駄な油も落ちている。
男がほどなくしてソレを口に含み、
少しだけ息を漏らした。
今回の魚の味は男も少しだけ喜んだようだ。
初めて男が喜んだ事実に、
私は密かに歓喜した。
男が帰ってしばらく、
私は自身の身体が絶望に苛まれる震えを見た。
主人がやってきたのだ。
今日は上司と意見が合わず機嫌が悪いのだという、
主人は私の腹を何度も殴った、
私が嘔吐し気を失っても、何度も何度も笑いながら。
主人の嘲笑いをどこか遠くで聞きながら、
私は犯され続けた。
一人冷たい床の上で目が覚め、
嘔吐物を片付け寝藁に身体を横たえる。
片付けた汚物の中に、
さきほど男と食べた温かい魚の破片が見えた。
楽しかったあの時間。
その幻想を思い出せば出すほどに、
私は惨めになった。
私は泣いた。
だが泣くのをすぐ止めた。
誰も助けてはくれないのだ。
無駄に泣き腫らす意味などない。
殴打された腹が次第に鈍痛を生み始めた。
気持ち悪さに、
私は再び嘔吐した。
明日になどならなければいいのに。

今日も何も変わらぬまま馬小屋の番が始まる。
馬は相変わらず愛想もなく、
ただモクモクと乾し草を食している。
私も相変わらず変わりなく、
小屋の掃除をこなす。
馬の背を洗い正午をむかえる。
寒さが強くなった気がする。
私は桶を持ち、茂みを抜け、大樹の横を過ぎる。
川の音が聞こえてくる。
相変わらず綺麗な川だ。
桶に水を汲み、
私は釣り糸を垂らした。
男は今日もやってきた。
私は男を待っていた。
男は笑い、
私は笑った。
それから毎日、
男と魚を食すのが日課になった。
男はその度に黄色く輝く疑似餌を置いていき、
月日はただ無駄にすぎていく。
寒さが身に染みる季節になった。

今日も何も変わらぬまま馬小屋の番が始まる。
馬は相変わらず愛想もなく、
ただモクモクと乾し草を食している。
私も相変わらず変わりなく、
小屋の掃除をこなす。
馬の背を洗い正午をむかえる。
寒さが強くなった気がする。
私は桶を持ち、茂みを抜け、大樹の横を過ぎる。
川の音が聞こえてくる。
相変わらず綺麗な川だ。
桶に水を汲み、
私は釣り糸を垂らした。
今日は魚が五尾もつれた、私は嬉しかった。
今日も姿焼きにしよう。
男は今日も顔を見せた。
よっぽど暇なのだろうか。
私は多少あきれながらも、
男を小屋へと導いた。
男はやはりあまり美味しくなさそうに魚を食した。
私はそれを苦笑しながら見つめ、
男が帰るその時まで他愛もない話をし、
そして男は帰っていく。
夜になればまた主人がやってきて私を乱暴に犯した。
今日はすこぶる機嫌が悪いらしく、
私の顔は酷く腫れるほどに殴られてしまった。
動かなくなるまで痛めつけられた私、
主人は満足そうに哂った。
主人が帰り、一人残された汚された私。
まるで塵そのものだった。
泣き濡れた顔をそのままに、
私は天に向かい呟いた。
「―――……」
言葉にしてみると、
むなしさだけが広がる。
明日は川に行くのはよそう、
こんなに酷く腫れた顔をあの男に見せたくなかった。
夜はもうすぐ明ける。
明日などこなければいいのに。

今日も何も変わらぬまま馬小屋の番が始まる。
馬は相変わらず愛想もなく、
ただモクモクと乾し草を食している。
私も相変わらず変わりなく、
小屋の掃除をこなす。
馬の背を洗い正午をむかえる。
いつものように桶を手に取り、
私はそこで動きを止めた。
――そうだ、
今日はいつもと違い川に行くのを止めたのだった。
表現できないほどの落胆が、
私の胸を締め付けた。
私は恐怖で震えた。
主人がやってきたのだ。
再び暴行されるのではないかと、
身体が怯えるが、
今日はいきなり暴行されるような事はなかった。
主人は私に馬に乗り街に使いをしろと命令した。
愛人に手紙を出すのだろう。
前にも二度三度、同じ命を受けたことがあった。
奴隷の私に、逆らう権利はない。
私は急いで支度をした。
街に行くのはキライではなかった。
街には素晴らしいモノで溢れていたのを、
知っていたからだ。
もちろん金を持つことも使うことも出来ない私に、
それを手に入れることは出来ないが、
夢を見ることは出来る。
淡い幻想に浸る自由ぐらいは、
奴隷の私とて残っているだろう。
この小屋で一番速い馬に乗り、
私は街へと向かった。
街へは少し距離があった。
ただ緑だけが広がる草原を抜けると、
大きな一本杉が見えてくる。
この一本杉を、私は少し嫌いだった。
この杉を走り抜けると主人の屋敷が見えるからだ。
豪華な作りの恐ろしい主人の屋敷。
悪趣味な主人のコレクションが、
屋敷の横の大樹に飾られていた。
色鮮やかな飾りをまとった大樹にはランプが灯されていて、
そろそろ祝い事がある日なのだと気が付いた。
主人は毎年、冬の季節にパーティを開いている。
誰か昔に存在した偉い人物の聖誕祭なのだそうだ。
そのせいなのだろうか。
主人が愛人に手紙を書いたのは。
主人の真意は私には理解できなかったが、
私は急ぎ愛人のいる町へと馬を走らせた。

主人の愛人は手紙を受け取ると、
あからさまに落胆したように、
そして逃げるように人ごみへと消えていった。
私は少しだけ寄り道をすることにした。
馬車通りに栄える市場。
ここには何もかもが揃っている。
赤青緑、いや全ての色が揃っているかのような華やかさ。
程よく焦げた豚の臭い、見たこともない果実。
絹で丹念に織り込まれたゴルゲット、金の刺繍が施された絨毯。
そして名も知らぬ綿布で作られた寝具。
そう、この寝具にいたっては例えることの出来ないほどの羨望を感じてしまうのだ。
慰めに作った寝藁などではなく、
本物の寝具で、
あの温かい綿布に包まれ眠ることが出来たならば、
それはきっと忘れることの出来ない一生の思い出になるだろう。
まるでここは夢の市場だ。
親子だろうか。
母の手を引き、目を輝かせ鶏串をせがる少年。
母は苦笑していたが、満更ではなさそうだ。
老夫婦は果実を包んだ紙袋を腕一杯に抱き、
明日の朝食の選別に忙しそうに笑っていた。
皆が活気立ち、
皆が楽しそうに生きている。
生活している。
――本当に楽しそうに。
生きているのだ。
「…………」
だけど私は知っていた。
私は部外者なのだと。
この場所に相応しくない人間なのだと。
知っていたのだ。
嫌というほどに。
……。
活気溢れるこの市場で、
私だけが取り残されていた。
一人で、
ただ立ち尽くすことしか出来ずに。
何故だろうか、
季節の寒さがよりいっそう深くなった気がする。
帰ろう。
急に振り返ったせいか、
私は反対から走ってきた貴婦人とぶつかってしまう。
貴婦人の手から数個の黄色い輝きが零れ落ちる。
私は慌ててソレを拾い集め、貴婦人に手渡した。
貴婦人は急いでいるようで、
また裏路地へと走っていった。
太陽の光に反射し輝く黄色。
黄金の獣王の彫が施された金属。
そこで初めて気が付いてしまったのだ。
あの男が毎日持ってきていた疑似餌が、
硬貨だったということに。
いままで金など、貨幣など見たことも無かったから、
気が付かなかったのだ。
だが今は違う。
私は知ってしまった。
いま私の腕には硬貨がある、
金がある。
私の心に迷いが生じた。
今日もあの男から貰った疑似餌――、
何枚か硬貨を持ってきている。
そしてここはなんでもモノが揃う市場だ。
今ならあの夢のような綿布を買えるかもしれない。
だが、
奴隷の私がモノを買うことなど許されるはずが無い。
心の葛藤は長くは続かなかった。
たとえ罪が暴かれ罰せられたとしても、
私は心に生まれた誘惑に逆らうことなどできなかった。
急ぎ道を戻り、
寝具を売っていた店に向かう。
硬貨が足りるのか心配であったが、
店主に訊ねる。どうやらなんとか足りるようだ。
私は焦る気持ちを抑え、
店主に寝具を注文した。
柔らかな綿を包んだ枕と呼ばれる塊、
糸を織り合わせたシーツ。
そして、
とても大きく温かそうな綿布、獣の毛で構成された毛布。
全てが夢のようだった。
私はソレらを馬に乗せ、
急いで小屋に戻ることにした。
馬の背に乗りながら、
その綿布のなんともいえぬ素晴らしい手触りに酔っていた。
小屋に戻ったら、
寝藁の下に隠すことにしよう。
もし主人に見つかってしまったら、
ソレらは全て奪われてしまうのだから。
私は胸の高鳴りを抑えることは出来なかった。
夢にまで見た寝具。
それを享受するのはもうすぐなのだから。

――現実はいつでも私に厳しかった。
主人が、
私の帰りを待ちかまえていたのだ。
そしてその手には、
私が男から貰った硬貨を握り締めている。
主人は馬から降りた私を怒鳴りつけると、
事のいきさつを詰問した。
奴隷の私に、嘘をつく自由は無い。
私は包み隠さず全てを話した。
男から硬貨を貰ったこと。
それが硬貨なのだと知らなかったこと。
つい誘惑にかられて寝具を買ってしまったこと。
主人は激怒し私の両の手を樹に縛りつけ、
そのまま力任せに縄を引き、
私を樹に吊るし上げた。
私は許しを乞いたが、
誰も助けてはくれなかった。
吊るし上げられた私の身体は主人によって鞭を打たれた。
人を傷つけるためのソレではなく、
馬を走らせるための鞭なのがまだ救いであった。
だが私の肌は鞭で打たれるたびに跳ね、
緑色だった芝は鮮血にそまっている。
私は自分の悲鳴をどこか遠くで聞きながら、
この罰が終わるのをただひたすらに待ち続けた。
悲鳴さえも消えてしまった私の身体に、
主人は興奮したように罰し続けた。
主人は一通り私の全身を鞭で打った後、
残っていた硬貨全てを。
そして夢にまで見た寝具をもって、
満足そうに帰っていった。
私は樹に吊るし上げられたまま、
一人残された。
あたりはすっかり闇を迎えているのだろうか。
鞭で打たれ潰れかけた瞳では、
それを確認することはできなかった。
目が、開かなかったのだ。
嗚咽が、
暗い森に溶けていった。
いや、そうではない。
咽を傷つけられたせいで声がでていないのだ。
それどころか音すらも、
私の世界から消えていた。
鞭で打たれ、
爛れた耳から冷たい肉塊がこそぎ落ちるのを感じた。
傷つけられた耳が、冷徹な寒さに凍り、
弱った肉が剥がれ落ちたのだろうか。
奴隷の分際の私が贅を望んだから、
神が罰を与えたのだろう。
鞭で打たれ、裸に剥かれた身体からは、
感覚が失われていた。
この寒空の下、私は今夜死ぬのだろうと確信した。
だが、もう良いのだと。
もう終わりにしても良いのではないかと。
私は、
生きることに疲れてしまったのだから。
今思えば、
なぜこれほどまでに生に執着していたのだろうと不思議に思うほどに。
私の心は穏やかだった。
せめて、
最後に母に会いたかった。
だがそれも叶わぬ夢なのだと、
とうの昔に知っていた。
体温が失われていく身体は硬直し、
私を安らぎへと誘ってくれている。
もし生まれ変わることが出来るならば、
今度は意識の無い生き物に生まれよう。
そうすれば、
こんなに惨めに死を意識することは無いのだから。
私は死を受け入れ、
開かぬ眼を閉じた。
早く生まれ変わりたかった。


死というのはとても温かい感覚なのだろうか。
私はまるで綿花に包まれたかのような温かさを感じていた。
不思議と宙に浮いているかのような、
そんな感覚が私にはあった。
目が開かぬ。
耳が聞こえぬ。
だがこの温かさは幸せそのものだ。
誰かが私に触れたような気がした。
とても心地よい。
私は温かさに身をゆだね開かぬ眼を閉じた。
早く生まれ変わりたかった。

死というのはまるで寝ているかのような感覚なのだろうか。
私はまるで母胎にいるのかのような温もりを感じていた。
私は生まれ変わるために、誰かの腹の中にいるのだろうか。
分からなかった。
だが、不思議と現実味を帯びていた。
誰かが私の頭を撫でているかのような感覚が、
私の心に生まれている。
私はその心地よさに惹かれ、
その感覚に身をゆだねた。
目が開かぬ。
だが、うっすらと明かりが見えた気がした。
誰か側にいるような、
そんな幻覚が見えた。
耳が聞こえぬ。
だが、少しだけ声が聞こえた気がした。
誰かが私を呼びかけるような、
そんな幻聴が聞こえた。
死はとても心地よい。
私はぬくもりに身をゆだね開かぬ眼を閉じた。
私は生まれ変われるのだろうか?

目を覚ますと、
そこは見たこともない場所だった。
うっすらと、
かすかに見える景色。
ここは何処なのだろう。
立ち上がろうと力を入れると、
私は自身を包む違和感に気が付いた。
まるで海に浮かんでいるような、
そんな感触が私を襲った。
何か柔らかなモノの上に、
私は寝ていたようなのだ。
潰れかけた瞳ではそれが何かわからなかったが、
とても気持ちが良いものだというのはすぐに分かった。
私がこれが寝具だと気が付くのに、
時間はそれほどにはかからなかった。
ではここが天国なのだろうか。
生きていた現実では、
私が寝具を使うことなどありえないのだから。
そう頭を悩ませていると、
誰かが近づく気配に気が付いた。
何かを話しかけている。
だが傷ついた耳ではよく聞き取ることは出来なかった。
私は恐かった。
もしかしたらまた苛められるからと思ったからだ。
逃げようと身体を動かすが、
やはり満足に動かなかった。
身体が恐怖で震えだすのを感じた。
だがその震えもすぐに止まる。
私の身体を誰かがそっと抱きしめてくれたのだ。
とても温かく、
安らぎを感じる。
やはりここは天国なのだろう。
現実で、
私が安らぎを感じることなどあり得ないのだから。
誰かが抱きしめてくれることなどあり得ないのだから。
現実ではないのだから、
私は何を恥じることもなく、
その誰かの温もりに縋ることにした。
力強く抱きしめると、
ほんのりと石鹸の安らかな香りが鼻を刺した。
誰か分からぬ影も、
私を抱きしめ返してくれる。
とても心地が良くて、
私は安堵した。
天国とはとても素晴らしい場所だ。
こんなに幸せになれるのであれば、
早く死んでしまえばよかった。
安心して眠くなった私は開かぬ眼を閉じた。
誰かが耳元で何かをいった。
私はそれが聞き取れなかったが、
なぜだか小さく頷いていた。

どれくらいの月日がたっただろうか、
私の視界が回復し、
まだ私が生きているのだと気が付いたのは。
私の側では黒い瞳が印象的な、
あの背の高い男が満足そうに笑っていた。
私もその笑顔を見て笑う。
そう、
どうやら私を助けてくれたのはあの川でであった男だったのだ。
私は死んだわけでも、
生まれ変わったわけでもなかったのだ。
耳が聞こえぬせいで、
どのようないきさつがあったのかはわからない。
男は紙に文字を書いて説明してくれようとしたが、
私は文字が読めなかったのだ。
だが、どうやら私はこの男に歓迎されているようだった。
この男の正体は分からないが、
私は人生で感じたことの無い幸せを手に入れていた。
男は私になんでも与えてくれた。
耳も聞こえず、文字も分からぬ私に、
男は身振り手振り親切にいろいろなことを教えようとしてくれる。
なぜ私に優しくしてくれるのか、
そう訪ねようとしたが、私の言葉は風を切るだけだった。
これほどまでに優しくしてくれる男に、
どれだけ感謝しているか訴える術が無かった。
だから私は男の腕をとると力強く、
抱きしめるのだ。
私の感情は伝わったのだろうか、
男は笑顔で返してくれた。
私は嬉しかった。
私が眠りにつくとき、
男は自室に戻っていく。
何度か引き止めようと腕に縋るが、
男は苦笑して行ってしまう。
早く明日になればいい。
そうすればまたこの男の笑顔が見れるのだから。

今日も私は幸せの綿布に包まれ朝を迎えた。
香草と岩塩、微量の砂糖を混ぜ煮詰めた若鶏をパンで挟み、
私は贅沢に丸かじりにする。
溶けた香草の香りが肉から弾け、適量の塩分と共に口に広がった。
美味しい。
とても温かくて幸せだった。
男は私が朝食を食す姿を満足そうに眺めていた。
男は私を見て本当に満足そうな笑顔を見せる。
いまだに私の咽は言葉を許さないが、
言葉でも負けないぐらいの笑顔を私も男に返すことにしている。
自然と笑みが零れるのだ。
私は幸せだった。
幸せすぎるほどに、幸せだった。
幸せすぎる時間はすぐに進み、
もう日は沈み月明かりが部屋を包み始めた。
私が眠りにつくとき、
男は自室に戻っていく。
何度か引き止めようと腕に縋るが。
男は苦笑して行ってしまう。
早く明日になればいい。
そうすればまたこの男の笑顔が見れるのだから。


半月ほどたっただろうか。
私にはまだ幸せが続いていた。
まるで愛玩動物のように私は生活していた。
背の高い黒い瞳の男は私を丁重に扱ってくれた。
その理由はわからない。
訊ねることが出来ないのだから、
わからなかったのだ。
私の耳も咽も、
まだ機能を回復していない。
私はいままでこの部屋から出ることは無かった。
この部屋の外にはたくさんの人の気配を感じるからだ。
やはり他人は怖い。
やっと満足に足が動き、
一人で立てるようになったのはそれから一週間たった頃だ。
私は幸せだった。
幸せすぎるほどに、幸せだった。
何か恩を返したい。
私を救ってくれたあの男に恩を返したかったのだ。
だが、私にその術は無い。
私はここに居て良いのだろうか。
主人は逃げた私を探しているのだろうか。
怖かった。
傷が治ったら、
私はもしかして追い出されてしまうのかと思うと、
怖かった。
いつまでも、
男は私を丁重に扱ってはくれないだろうと。
そう思ったのだ。
恐怖で怯えることもなく、
温かい綿布で包まれて眠ることの出来るこの幸福すぎる場所。
いつかそれが無くなってしまうかも知れない、
そのいつかが怖かったのだ。
明日になどならなければいい。
もしかしたら明日には、
私は見捨てられてしまうかもしれないのだから。


一月ほどたった。
私の耳は少しだけ回復した。
男の声の聞き分けまではできなかったが、
唇を動かす空気の流れは聞き取ることが出来るようになった。
だがまだ咽は治らない。
私はまだこの部屋を出ることは無かった。
男はまだ私を丁重に扱ってくれる。
まだ幸福は私に残っている。
私は幸福すぎる現実が怖かった。
幸せを感じれば感じるほどに、
この幸せがなくなってしまう恐怖が募るばかりなのだ。
幸福が募れば募るほどに、
時間が経てば経つほどに、
私の恐怖は抑えきれないほどに膨れ上がっていた。
見捨てられるかもしれない明日がまた襲ってくる。
明日が怖かった。
毎日、毎日。
明日に怯えていた。

さらに十日が過ぎた。
今夜も夢のような綿布に包まれながら、
明日に怯え夜が明ける恐怖に苛まれていた。
身体が自然と幸せの綿布を抜け出した。
一度手に入れてしまった幸せの重さに、
私は耐えられなかったのだ。
もう足は完全に直っていた。
重すぎる怖い幸福の行く末に、
怯える心が乱され続けるぐらいなら、
私は――。
何故だろうか。
自分でも分からない。
私は初めて部屋を出た。
見慣れぬ場所に恐怖は深まる。
私は走った。
長い廊下を、走る。
辺りは部屋の中と同じ豪華なつくりになっている。
いくつもの部屋、
いくつもの廊下。
何人の他人とすれ違っただろうか。
他人は私の姿を見て驚いているようだった。
私はますます怖くなった。
金の獣王の像が私を睨み、
首だけ残された角鹿が私を見て嘲笑った。
廊下を煌々と照らすランプが私の影を薄く伸ばす。
逃げたかった。
いくつもの廊下を抜け広間にでた。
怖かった。
番兵と思わしき人影が私を見て騒然としていた。
誰何の声だろうか、
番兵が空気を震わせ私の耳を擽った。
足の震えを叱責し、
私は走った。
月光を覗かせる窓。
全力で走り身を投げ出し、突き破った。
破片が私に幾重と突き刺さり、
視界が赤く染まる。
鈍い音を立て私は地面に落ちた。
だが私はそれでも走った。
何処にいく宛もない。
道も知らぬ、場所も分からぬ。
それでも走った。
暗闇が心地よい森を抜ける、
何ひとつ果てもない草原。
月夜を黄色く反射する綺麗な川が見えた。
あの川だった。
懐かしいあの場所へと続く流れ。
私は安堵した。
思えばあの背の高い男と共に、
魚を食すために小屋へと歩いたその時間だけは、
たしかな幸福だったのだと。
私は気が付いたのだ。
ただそれだけが、
私にも許される最後の幸福だったのだと。
私は、
歩いた。
川の下流へと向かい、
歩いた。
あの場所を、あの日あの時あの男と出会ったあの場所を見たかった。
川の流れはまるで弱い足取りの私を激励するかのように、
あの場所へと流れ続ける。
歩く度に川の表面を照らす月光が反射し、
綺麗だった。
どれほどの時間を賭しただろうか。
あの思い出の場所に私は辿り着いた。
私はそこでついに力尽きたが、満足だった。
何かを成し遂げたかのような達成感。
いままで感じたことのないほどの、
空しい喜びだった。
私は川岸に座り込み、
黄色く輝く美しい川の流れに魅入っていた。
夜はまだ明けそうにない。
明日など、私には必要なかった。
川は黄色く輝き続けている。
夜は明けそうにない。
明日など私にはいらない。
川の輝きは薄くなっていた。
もうすぐ夜が明けそうだ。
明日になるなんて、
――嫌だった。
私の身体は自然と立ち上がり、
美しかった川の流れへと足が向く。
川はまるで誘うかのように私を呼んだ。
私は声に従った。
私の半身は川に沈み、
ますます私を魅了した。
もしかしたら母が待っているかもしれない。
本当の天国では、
母が私を抱きしめてくれるかもしれない。
私は誘惑に勝てなかった。
これで楽になれるのだと、
眼を閉じた時。
私を呼ぶ声がたしかに聞こえた。
目を開け、向こう岸を見ると、
そこにはあの男が立っていた。
男は顔面を蒼白させ、濡れるのにも構わず川に飛び込んだ。
私はそれをただ呆然と見ていた。
まるで試すかのように、
私は男を見ていたのだ。
男が私の目の前まで来ていた。
その顔には怒りの表情で満ち満ちていた。
唇を震わせ、目を震わせ。
私を見つめていた。
強い瞳だった。
だが、この川の流れよりも綺麗だった。
男は有無を言わさず私を抱き寄せると、
強く抱きしめた。
冷たい川の中だというのに、
私は温かさに包まれた。
もうすでに動かなくなった私の身体を力強く抱き上げると、
男は岸へと向かった。
いつも感じた石鹸の香りは薄れ、
男の汗の香りが私の鼻を擽った。
男は必死で私を探してくれたのだろうか。
私は男に抱きかかえられながら、
男のその美しい瞳を覗き続けた。
本当に、
綺麗だった。
広い馬車へと乗せられ、
馬車はゆったりと歩き出す。
これほど広い馬車だと言うのに、
男は私を抱きしめたまま放さなかった。
私もその温かい腕にしがみついたまま、
その瞳の強さに惹かれたまま。
馬車はゆったりと歩く。
男は一言も話さなかった。
私は一言も話せなかった。
ただ強く抱きしめたまま、
男は私の唇を奪った。
強く、深く。
まるで男の深い感情が私に直接訴えるかのような、
接吻だった。
唇が痛いほどに熱くなった。
男の粘膜が私の咽の奥にまで落ち、
私の咽は小さく音を立て反芻する。
何度も何度も。
男は私に接吻をし続けた。
私が接吻の痛さに泣いても、
私が接吻の深さに嗚咽をあげても。
男は接吻を止めなかった。
馬車はゆったりとした歩みで歩き続けた。

私の首には重い枷が嵌められる事になった。
枷は寝具へと拘束されていて、
私がこの部屋から出ることは出来なくなった。
部屋には厳重に鍵がかけられ、
外には見張りがたつようになった。
枷の重さは私を安堵させた。
この枷が嵌められているその内は、
男が私を見捨てたりしないのだという証に思えたからだ。
一度逃げ出した私への待遇は何も変わらなかった、
いやむしろ、以前より良くなっているような気がした。
変わったことといえば、
男は毎日私の唇を強く奪うようになった。
私の身体は包帯に巻かれ、
あちこちに深い裂傷が残っている。
主人に打たれた鞭の痕も、窓を破った破片の痕も。
こんなに醜い私を、
なぜこの男は大事に扱ってくれるのだろうか。
問いただしたくとも、
私の咽はまだ語る自由を持っていなかった。

私に異変が起き始めたのは寒さが一段と深くなった頃だ。
外は一面雪で覆われ、
壮大な白を描いた。
いつものように男が私に深く接吻していると、
私の身体がどんどんと火照っていったのだ。
男の触れる唇が熱く、
頭の中は外の雪のように真っ白に染まる。
異変に気が付いたのは男も同じようで、
私の火照った姿を見て苦笑している。
そして、
男が私の指が肌に直接触れただけで。
「……ぁ………ぅ……、ッ!」
私は自身を恥じた。
粘膜の白が、
男の指に纏わりついていたのだ。
主人が私の体内吐き出していた汚らしい液体。
私は怖かった。
この男に嫌われてしまうかもしれないと思ったからだ。
だがそれは杞憂だった。
男は私の反応に大変満足したようで、
空いているほうの手で私の髪を優しく撫でた。
そして、その粘膜の白を舐め取り、
笑った。
恥ずかしさのあまりに赤面してしまう自分を感じた。
不安に揺れる私に気が付いたのか、
男は私の身体を強く抱きしめてくれた。
私はその温もりに惹かれ、
強く抱きしめ返した。
雪はまだ降り続いている。

男の唇が深く刺さるたびに、
私は喘ぐことになった。
あの日以来、
男は私の体の火照りを優しく拭ってくれているのだ。
男は私の口をたっぷりと味わいながら、
その大きな指で私の胸の突起を玩んでいた。
男の器用に動く指先に翻弄され、
私は男の腕の中で二度三度と跳ね、
男の指を白く汚す。
男は満足そうに私の髪を撫でた。
本当に満足そうに、
私を抱きしめている。
少しだけ声が出るようになっているのか、
しかし私の耳はまだ治っていなかった。
だから自身がどのように喘いでいるのかなど、
分からなかった。
男はまだ優しいままで、
私は安堵した。
首にはしっかりと重い枷がついている。
雪はますます深く降り積もっていった。

男が誰かに呼ばれ部屋を出て行った日のことだ。
私は男の帰りを待ちわびていた。
しばらくして、
扉を開く音がする。
私は嬉しさのあまりに寝具を飛び出し扉へと向かうが、
そこで立ち止まる。
知らない誰かが目の前にいるのだ。
いや、どこかで見たことがある。
部屋の前でいつも番をしている見張りだった。
この部屋に、
あの男以外の人間が入ることなどない。
何事かと思い、
その顔を見つめる。
すると見張りはものすごい剣幕で何かをまくし立てると
私に襲い掛かってきた。
私は必死に抵抗するが、
見張りの力強い剣幕に怯え身体が満足に動かなかった。
あの時主人に犯されたときのように、
私には逃げることなど出来なかったのだ。
私の大切な枷を外そうと、
名も知らぬ見張りの指が私の肌に触れた。
嫌だった。
だけど恐怖でどうすることもできなかった。
声を上げて助けを求めようとしても、
私の咽はそれを許さない。
見張りが私を強引に連れ出そうと、
枷の鎖を寝具から引き剥がそうとしていた。
私は嫌だった。
この部屋から、
あの男から離れたくなかった。
暴れたつもりだった。
だがやはり、
身体は恐怖で動かなかった。
どこかに連れて行かれてしまうかもしれない。
絶望を感じたその時に、
見張りが私から離れた。
見張りは何かに警戒したのか、
扉の外へと慌てて戻っていった。
しばらくして、
あの優しい背の高い男が戻ってきた。
見張りはそれに気が付き急いで対処したのだろう。
私は男に抱きつき、
恐怖で怯えた身体をなんとか抑えた。
男は怯える私に不思議そうな顔をしていたが、
理由が分からないようだった。
私は必死で何が起こったのか伝えようとするが、
やはり咽はそれを許さなかった。
むなしく風だけを咽がかすかに振るわせるだけで、
音にはならなかったようだ。
見張りは、
私が声を出せないことを、耳が聞こえぬことを知っていて、
こんな非道を行ったのだろう。
やはり他人など私を苛める輩しかいない。
悔しさのあまりに私は泣いた。
泣いた私に男は慌てていたが、
やはり私の伝えたかったことは分からぬようだ。
泣き続ける私に、
男は様々な物を用意してご機嫌を取ろうとしてくれるが、
私が起きている内はとうとう事の顛末は伝わらなかった。
私は泣き続けた。
泣けばきっと、
この男が助けてくれるのだろうから。
男は困ったように、
そして悲しい顔をし。
私を強く抱きしめ続けてくれた。
私はその温もりに包まれながら、
泣きながら眠りについた。

あの見張りを見ることは二度となかった。

季節は春を迎えた。
この部屋にはあの男の他に一人だけ老婆が付くようになった。
男が席を外す午前中から昼過ぎにかけて、
私の守りを固めてくれるつもりなのだろうか。
女性は年老いていたが私にとても優しく、
暇を持て余す私にいろいろなことを教えてくれる。
私は幸せだった。
まるで家族のように、
老婆には温もりを感じたのだ。
外の景色はとても美しく私は春の匂いに浮かれた。
私の咽も耳もまだ回復していない。
もしかしたらもう二度と回復しないのかもしれない。
だが、それでも良かった。
この男に庇護してもらえるのならば、
私には声も耳もいらないだろう。
私はどうしてもしたい事があった。
それはあの川で春の魚を釣ることだった。
私はいままでこの部屋を出たことは無かったが、
ここで初めて男に願った。
身振り手振りでなんとか説明したら、
男は理解してくれたようだ。
老婆が焼いてくれたパンを薄くスライスし、
桐で編まれた箱に詰める。
特製のバターもおまけに入れ、
準備は出来た。
馬車を走らせる男と共に後ろで老婆に手を振り、
私達はあの川へと向かった。
枷の鎖をしっかりと男に握らせる。
男が私の枷を掴んでくれていれば安心できる。
魚はなかなか釣れなかったが、
あの記憶の懐かしさに心が和んだ。
男と魚を食べるために歩いたその時間。
私はいま、とても幸せなのだ。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、
夕刻を迎えていた。
少しはしゃぎ過ぎた私は馬車の中ですぐに眠ってしまった。
馬車を動かす者が他にやってきたのか、
私はゆるやかに動く馬車の中、
男の腕の中で寝ていた。
ふと外を見ると、
そこにはあまり嬉しくない景色が映っていた。
私は気分が悪くなった。
かつて主人だった、
私を穢し続けた男の住む屋敷に近い場所だったからだ。
この大きな一本杉のその先にあの屋敷が見えてくる。
そのはずだった。
だが何故だかその屋敷はかつての栄光を失い、
まるで戦争でもあったかのように朽ちていた。
屋敷の前には豪華な作りの立て札が飾られている。
立て札には城の中で普段見る黄金の獣王の印が彫られている。
硬貨にも刻まれているその力強い獣王の印。
王家の証なのだと、
この黄金に輝くタテガミが代々王家の証なのだと。
老婆は身振り手振りで教えてくれたが、
私にはよくわからなかった。
立て札の文字は、無論文字を知らない私には読むことはできなかった。
かつて主人が自慢していた屋敷の横の大樹には、
趣味の悪い首の無い人形が何体も杭に打ち付けられ並んでいた。
趣味の悪かったあの主人のことだ、
きっとまたどこかの国から取り寄せていたのだろう。
あの屋敷のことなど思い出したくもなかった。
私はこの優しい男に抱きつくとまた深い眠りに付くことにした。
優しい男は私を抱き寄せ、
自らの頭を寄せて何か呟いた。
愛しそうに私を守ってくれるこの男。
私はさらに強く抱きついた。
お互いの頬が触れ、
鼻が触れ、
唇が触れ。
そして、
――優しい男の黒く美しい髪が、
くすんだ私の黄色い髪を撫でた。

私の耳を直すため医者が呼ばれたのは、
先週のことだ。
医者の施した治療で、
私の聴力は少しだけ回復した。
耳に何かの器具を付けることによって、
私の聴力が完全に戻ったのはいまこの時だ。
「良かった、リオン。
オレの声が聞こえるのだな?」
私は頷くと共に疑問を目で訴えた。
リオンとは一体なんなのだろうか。
私の迷いに男は満面の笑みで答えた。
「リオンとはお前の名だ。
オレがつけたお前の名だ。
ルーザー=リオン。お前に相応しい名だろう?
気に入らないのなら他の名にするか?」
男の最後の問いに、私は首を何度も強く横に振り否定する。
リオン。
ルーザー=リオン。
それが私の名なのか。
初めて付けてもらえたその名に、
私は感涙した。
私は嬉しさのあまりに男に抱きつくと、
何回もその名を呼ぶように訴えた。
男は私が満足するまで何度も、
ルーザー=リオン、と。
そう私の名を呼んでくれた。

私の咽を直すために医者が呼ばれたのは次の日のことだ。
私の咽は少しだけ回復した。
私は何度も願っていたことをついに口にすることが出来た。
「あなたの、なまえ…おしえてほしいのです」
掠れた声だが、
たしかに私の咽から声が漏れた。
男は満面の笑みで答えた。
「オレはルドルフ。お前の主人の名だ」
「……ルドルフ」
その名を、私は心で反芻し、
笑みを作った。
私の声に感動したのか、男は私を殊更に強く抱きしめながら、
私に問う。
「リオンよ、そなた口が使えるようになったのならばオレに望むがいい。
愛しいそなたの願いならばどんなことでも叶えて見せよう」
私にこれ以上望むことなど無かった。
これほどまでの幸せを、
ルドルフは私にくれたのだから。
それにルドルフは決して私を見捨てたりはしないのだと、
もう理解していた。
ただ、
一つだけ。
私は意を決して口を開ける。
「母…に、もしどこかでいきているのなら。
母にあってみたいのです」
私の言葉にルドルフは小さく笑った。


後ろでは老婆があらんばかりの声を上げ泣き崩れていた。


































私がこの城に訪れてから幾月もたち、季節は再び冬を迎えていた。
老婆が――、
母が亡くなったのは私の咽が治った数日後の事だった。
生涯会えないかと思っていた母と二人きりの数日間の事は、
いまでも私の中で温かい思い出として生きている。
あの数日間、
私は母に出会えたことが嬉しすぎてべったりと甘えてしまっていた。
片時も離れることなく、
家族二人きりで。
ルドルフは苦笑しながら席を外してくれていたが、
今思えば、
少しルドルフに悪いことをしていたかもしれない。
あれほどルドルフの腕を掴み、指を掴み、
離れないで欲しいと願っていたくせに、いざ母が現れてしまうと、
私はルドルフの事など忘れ、母だけに甘えていたのだから。
都合の良いときばかりルドルフに甘えていた自分の醜さを、
私は恥じた。
母の葬儀を密やかに終わらせたその席で、
私は命の恩人であるルドルフを蔑ろにしていた自分の罪を詫びた。
ルドルフはやはり苦笑しながら、
そんな事で嫉妬したりするはずがないだろう、
と優しく私の頭を撫でた。

そして、
今日。
私はルドルフと共に生きるために大勢の家臣たちの前で、
ルドルフの前に跪いていた。
奴隷である私を囲っているルドルフに、
一部の家臣たちが不信感を抱いているのだという。
私がルドルフの寝首を掻くのではないかと、
そう危惧しているのだと、
ルドルフは語った。
だから私は、決してルドルフに逆らうことの無い事を証明するために、
今日ここに来たのだ。
黄金の玉座に座るルドルフ。
その傍らに跪く私。
そしてそれを試すかのように凝視している数十名以上の家臣。
ルドルフが私に指を舐めるように命令する。
私はルドルフの優しく隆々としたその力強い指を舐めた。
先端の爪先から間接を辿り、
指の腹の凹凸の隙間まで丹念に舐め続ける。
一本また一本と、
私は愛しいルドルフの指を舐めあげた。
ルドルフが私に靴を舐めろと命令した。
それが絶対服従を誓う証なのだと、
私とルドルフとの絆を信用しない家臣たちに見せ付ける儀式なのだと、
そうルドルフは優しく語った。
私はルドルフの靴を舐めた。
黄金の獣王――ライオンをなめしたその革の靴は、
とても立派で、黄金の獣王さえも踏みしめるルドルフの偉大さを物語っている。
靴の裏の刻みまで丹念に舐めとり、
ルドルフの靴が証明の明かりに反射し輝くようになるまで、
舌を使い磨き上げた。
ルドルフは私のくすんだ黄色い髪を撫で、
優しく褒めてくれた。
私は嬉しかった。
一部の家臣たちが騒がしく嘆いていたが、
そんな事私にはどうでも良いことだった。
ルドルフと一緒にいられるのならば、
他人の意見など、視線など、志しさえも関係ない。
ルドルフが私に口で奉仕をしろと命令した。
私はルドルフの両の脚の間に跪き、
口だけで金具を外し、ルドルフの前を肌蹴させた。
まだ芯の通っていない剛直だが、
その存在はルドルフの存在そのもののように立派だった。
私はその雄の証に喰らい付いた。
獣のように這い淫らに音を立て、
私はその剛直を丹念に舐めあげる。
雄々しいその剛直を咽の奥まで口に含むと、
雄の茂みが私の肌を刺激した。
愛しいルドルフの大事な急所を、
私だけが奉仕することができるのだ。
その事実は私をますます安心させる。
このままルドルフの精を飲み込もうと奉仕を続けるが、
ルドルフはそれを制止した。
そして私に命令した。
私はそれに従った。
家臣たちが見つめる中、
私はルドルフの前で衣服を脱ぎ捨てると、
ルドルフに陰部を向け脚を開いた。
「ルドルフ王よ、私は貴方の奴隷です。
惨めな奴隷の私をどうかその雄で慰めてください」
「リオンよ。ルーザー=リオンよ」
私の名に、一部の家臣が絶望の声を上げた。
ルーザー。
その言葉の意味を私は知らない。
ルドルフはその言葉は私に相応しく、
私がルドルフの永遠の奴隷である証なのだと。
そう私をあやしながら教えてくれたが、よく分からなかった。
ただ、愛しいルドルフの永遠の奴隷になるのならば、
それはとても素晴らしい意味の言葉なのだろう。
「お前は私の奴隷なのだ。
奴隷は奴隷らしく、自ら私を欲し、
自ら私に跨り腰を振り、踊るがいい」
ルドルフが私に強く命令した。
私は頷き、
玉座に悠々と座る凛々しい主に跨り、
その立派過ぎる雄を体内に飲み込んだ。
「……ぁ……、……ん!」
愛しいルドルフの剛直は私を熱く貫いた。
対面しながら腰を動かし、
ルドルフの雄を奥の奥まで味わうために、
私は必死に踊った。
ルドルフが私の喘ぐ唇に指を突き入れた。
「舐めろ」
私はルドルフの命に従い、
再びその隆々としたその指を舐めた。
指は私の咽の奥まで犯し、
私の口の端からは唾液が零れ落ちる。
流れた唾液がルドルフの黒金の鎧を汚した。
「綺麗に舐め取れ」
私はルドルフの命に従い、
その汚れを舐めとった。
私の口から離れたルドルフの指が、
私の陰部を扱き始めた。
喘ぎは抑えられずに広間全体に広がる。
ふと意識が飛びそうになると、
ルドルフが私の身体を反転させた。
私はルドルフに凭れ掛かる形で背面から犯されることになる。
ルドルフが私の両の脚を持ち上げ、
何度も何度も叩きつけるように上下させた。
私はその力強い動きに喘ぐことしかできなくなってしまう。
目の前ではルドルフの家臣たちがこの儀式を固唾を呑んでみている。
「射精しろ」
ルドルフの命に従って、
私は大勢の家臣たちが見守る中、床に向かって濃い白濁を吐き出した。
「良しいい子だ……。
お前は本当に可愛い、愛しい永遠の奴隷だ。
私だけの奴隷だ」
ルドルフの言葉に、
私は頷いた。
「はい、私はルドルフ王の奴隷です、
どうか一生、私を見捨てることなく永遠の奴隷として、
醜い私を飼い続けてください」
ルドルフは笑った。
満面の笑みで、
いままで一番の極上な笑みで。
全てを達成したかのような笑みで、
私の唇を奪った。
「私はまだ満足していないぞ?
さあもっと私を愉しませてみろ。
お前は私の奴隷なのだ、愛しい奴隷なのだ。
その素晴らしい事実をもっとこの家臣達に見せ付けてやろう」
私は頷き、
ルドルフが満足するまで、
ルドルフが許しを出すまで、
その雄を奉仕し続けた。

その日から、
貨幣に刻まれていた黄金の獣王の彫りは全て消され、
新しく黒髪の勇ましい王が刻まれることになった。
その事実を、私が知る必要はなかった。

共に夜を過ごす寝具の中で、
共に熱く猛ったその後で、
男は何故か複雑そうな顔で私に囁いた。
「――愛している。
本当に、愛しているのだ。
生涯生きてきて、他に感じたことのないほどの熱き感情を、
オレはお前に抱いている。
その事実に嘘偽りなどないんだ」
ルドルフが強く私を抱きしめた。
強く、
痛いほどに私を抱きしめているのだ。
何故男はこれほどまでに深い表情をしているのだろう。
心を痛めているのだろう。
私には分からなかった。
「私も貴方を愛しています、ルドルフ。
それでいいではないですか。
貴方はなぜそれほどまでに心を痛めているのですか?」
私の言葉に、
ルドルフは苦笑した。
「愛しいリオン。
無知で愚かな私の可愛い黄金の獣よ。
お前は何も知らないから、
そのように無垢な瞳でオレを見つめてくれるのだ」
何も知らぬ?
ルドルフは何を言っているのだろう。
私は知っている。
大事な事実をちゃんと知っている。
ルドルフは私の前でだけオレと自らを呼ぶことを、
私にだけ、その雄々しい美しい身体を奉仕させてくれることを。
そして――、
「私は知っています。
貴方が私を愛してくれていること、
そして私が貴方を愛しているということを。
知っています。
その事さえ知っていれば、
やはり他に何もいらないのではないでしょうか」
私の言葉に、
ルドルフの瞳は揺れた。
痛いほどに抱きしめていたその腕は殊更に強く、
私の身体を拘束した。
ルドルフの濡れた瞳は、
あの川の流れよりも美しかった。









【終】
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