【残された部屋】


(1)過ぎていく明日

無駄に広い部屋の中、
私と一匹が暮らしていた。
あれから幾月、幾年経っただろうか。
犬はやはり幼い頃と同じに、
成犬となった今も私の場所ばかり奪いたがる。
逃げても退いても、
この生意気な犬はあいかわらずに私を追ってきた。
重い犬の身体は身に堪えるが、
その暖かな毛のおかげで、私は秋のうす暗い寒さに震えることは無かった。
出かけの支度をする私に向かい、
玄関から待ちきれぬ生意気な犬が急かすように吠える。
玄関の硬い床と落ち着かぬ犬の爪が互いにぶつかり、
断続的な音を奏で家の中に響き渡った。
生意気なあの犬が早く散歩に行きたいと、
うずうずしているのだ。
変わらぬ日常。
あの男がいなくなってしまった広い家。
どうやらこの犬はいまだに私を主人と認めていないらしい、
まるで自身がボスであるかのように私の先を歩き、
私の言うことなどまるでききやしない。
むしろ私に命令するように吠えることが多かった。
察するに、
私はこの犬より地位が低いらしい。
苦笑交じりに私のほうが主人なのだと諭すが、
むろん言葉の分からぬ犬にはそれは理解できないようだ。
それほどに、
独りになってしまった私は頼りないのかもしれない。
急かす犬にリードをつけ、
私はあまり好きになれない外界に出た。
外気の冷たさに眉を顰めてしまう。
神経質なほどに除菌されたマンションの床の匂いが、
鼻を刺す。
犬はもうこの匂いに慣れたようだが、
私はいまにだに慣れていない。
人間社会にも、
私はまだ慣れていなかった。
あの男が生きていたときならばまだしも、
この生意気な犬しか味方がいない世界に、なれるはずなどなかった。
隣人とすれ違う、
軽く会釈をする。
隣人もまた軽く会釈をした。
互いの腹を探り合う会話。
疑心暗鬼に襲われる毎日。
恐ろしいのだ。
怖いのだ。
すれ違う見知らぬ人間の感情すらも怖かった。
かつてランプの精だったときには理解できぬことが、
人間になった今なら分かる。
人間を作った存在を私は知らないが、
私を作った神は私に与えなかった感情。
人間の醜さが私は怖かったのだ。
私の中にも日夜浮かぶ、
醜い感情が怖かった。
やはり人間になど、なりたくなかった。
そう男の遺影に呟いたことは、
一度や二度ではなかった。
いつもの散歩コースも、
季節の流れとともに変化していた。
紅葉を残す樹木の黄色。
近所の収集場には燃えないゴミの知らせが掲示されていた。
秋に変わり、
曜日が変わるのだという。
早く公園へと進みたがる犬のリードを引き、目を通す。
犬は散歩を中断させられたことに不満そうで、
先を急かすような瞳で私を見つめた。
犬の機嫌をとるために頭を撫でてやりながら、
私は想いにふけった。
男のコーヒーカップを、
そろそろ捨てようかと悩んでいるのだ。
男の匂いを残す品々は少しずつ処分しているのだが、
男が使っていたあのカップは何故かいまだに捨てられないのだ。
どうせ来客などないのだから、
私独りの分だけしか必要ないというのに。
明日に捨てようと、
来週に捨てよう。
やはり来月にしようか。
ああ、次の秋に捨てればいい。
と。
まだ私はカップを捨てられずにいたのだ。
来週は男の命日だ。
何か意味があるわけではないが、
その日の朝に捨てればいいか。
「お前がコーヒーでも飲めるのなら、良かったのにな」
散歩の続きを急かすように小さく吠える犬に、
私は冗談交じりに呟いた。
犬はバカにされたとでも思ったのか、
突然走り出してしまった。
私は慌てて犬の走りにあわせ、犬に続く。
生意気な犬はいつもの公園を目指し走り続ける。
いつまでも歩みの遅い私を先導し、
走り続けていた。

日課になっている男の墓参り。
今日は死んだ男の命日だ。
散歩とつまみ食いが大好きなこの生意気な犬と共に、
私は男の墓を訪れた。
やはり、
あのコーヒーカップはまだ捨てられなかった。
別に今日でなくてもいいだろうと、
捨てられなかったのだ。
人間の慣習に習い墓に花を添え、
天へと届くように線香に火を灯す。
横に強い秋風が、
天へと昇ろうとする煙を散らした。
煙は空へは届かなかった。
空は曇り、
秋風には湿り気が帯びていた。
雨が降りそうだ。
外はやはり、少しだけ寒い。
人間という生き物の不便さにまだ慣れていないのか、
私は四季というこの国の特徴が苦手であった。
時の流れを肉眼で確認させられるからだ。
何もない毎日に、
ただ季節の流れだけが変化を教える。
「お前が勝手に逝ってから何回目の季節だろうな」
男が眠る墓に話しかける私に、犬はやはり理解ができないようで、
自身が呼ばれたとでも思ったのか。
不思議そうにこちらに顔を傾けた。
「こいつも大分大きくなった、あいかわらず生意気で困る」
私は犬の頭を撫でながら、
墓に向かって話を続ける。
「生意気で、わがままで、毎日が大変だ。
散歩はしなくてはならないし、一緒に風呂に入らなければならない。
夜には人の布団を占領し我が物顔で身体を伸ばしているし。
毎日が大変なのだ」
思わず思い出すのは、
あの男の苦笑。
指の動き、口癖。
他人と過ごす空気は新鮮で、
あの時のぬくもりが忘れられなかった。
どんなに記憶から消そうとしても、
どんなに忘れようとしても、
あの温かい記憶は今の私を冷たく嘲笑う。
胸の奥でいつまでも、
あの記憶は残り続けている。
「毎日が大変で私はお前がいなくともちっとも寂しくなんかない。
気難しいお前に気を使う必要もないし、
煙草のにおいに煩わされることもない。
コーヒーだって一つだけを用意すればいいし、この犬の温かさも私独りで独占できる。
どうだ、素晴らしい環境だろう?
お前なんていなくとも、
私は独りではないのだ」
私の口の端がひとりでに浮かび、
眉が下がる。
あの男の苦笑する癖はいまではすっかり私のくせにもなっていた。
「……――」
どんなに忘れようと願っても、
あの日々の記憶はきえやしない。
残されたものの悲しみなど、
望んで逝ってしまったあの男にはわからないだろう。
神はきっとあの二人を天で会わせてやったのだろうから、
きっとあの男は私の事など忘れているに違いない。
いまさら俗世で私だけがあの男を思っているなど、
寂しいだけだ。
あの男も囚われていた死者への強い想い。
寂しさ、侘しさ。
死者へ思慕を重ねても、相手は勿論、
自身に対して何の救いにもならない。
それはかつて偽りの心しか持たなかった私が一番知っている事だ。
死とは割り切らなければならないものだと。
そう理性では理解していても、
人間という生き物には割り切れない感情があった。
人間と深く関わりあう感情。
嫉妬と憎悪。
人間になった私にはありとあらゆる醜い感情が生まれている。
男が私を置いていってしまったその時から、
私の心は醜い黒を描き続けている。
かつて私を作った神が知ったら、
どう思うだろうか。
毎日、醜い塊が生まれ続ける今の醜い私を。
それが、
人間と言う生き物なのだ。
深い感情に飲み込まれそうになった私だったが、
犬の一声で呼び起こされる。
「ん、帰るのか?」
私の問いに答えるように犬が私を急かすように走り出した。
犬は休むことも知らずに、
私を引っ張り帰路へと向かう。
まるでいつまでも歩みの遅い私を先導するように、
犬は私の先を走り続ける。
この生意気な犬は私が墓の前で想いにふけることが嫌いなようだった。
このヤンチャな犬は、
ただ待っていると言うことが嫌いなのだろう。
途中、
いつもの惣菜屋の前で犬が止まった。
生意気な犬が私に命令するようにワンと吠えた。
私は息を吐き苦笑する。
コロッケを一つだけ買うと、
犬が満足そうに口を開けた。
「半分は私のだからな」
犬は理解したのか、
半分だけを口にし、あとの半分は私が食べた。
温かかった。


(2)いつか捨てた過去

月日は過ぎ去っていく。
無駄に生きる私を連れ、
ただ淡々と過ぎ去っていく。
近所の大樹も枯葉に変わり、その葉を散らした。
冬の準備が始まっているのだろう。
男の命日からニ週間経った。
いまだに、
あのコーヒーカップは捨てられていない。
捨てることなどいつでもできる、
ならば来週でもいいだろう、と。
いまだに捨てられていないのだ。
いつものように犬の散歩を終え、
何も変わらぬ日常が続くと思っていた。
マンションの部屋の前に着いたときだ。
違和感を感じた。
部屋の前で一人の男が立っていたのだ。
初老と言うにはまだ早いが、決して若くはない男。
隣人ではないが、
見覚えがあった。
いや一方的に知っているという方が正しいか。
この男は、
あの勝手に逝ってしまった男の父親だ。
かつて男の記憶を追ったときに見たことがある。
男と、男の弟との悲しい記憶。
彼らの物語の中で登場した厳格な父親。
彼らの物語は悲話だったと言えるだろう、
死後で再会を望み、二人共に若くして逝ってしまった。
儚く美しい物語。
綺麗に逝ってしまった兄弟。
だが、
取り残された登場人物はどうしたらいいのだろう。
巻き込まれた私は、
どうしたらいいのだろうか。
彼らの旅は終わってしまったが、
私と、そしてここで佇む彼らの父親はいまだに生き続けているのだ。
「……」
虚しい考えはよそう。
いまさらにあの男を恨んだところで、
意味などないのだから。
私はもう一度この男を伺う。
もはや二度と会うことはない、と。
あの男が誓っていた父親という人間。
あの男と、この父親はあまり似ていなかった。
私の記憶が確かならば、絶縁していたはずの関係だ。
親子の関係は、
私には理解できなかったが、
あの男を訪ねてきたのだろうか。
あれほどに仲違いをしていた親子が、
何故だろうか。
分からなかった。
人間になった私にも理解できなかった。
立ち止まった私に、
犬は困っているようだ。
コンクリで固められたマンションの床を、
何度もその爪で叩いた。
早くドアを開けろと私を急かすように吠える。
「近所迷惑だからやめろって」
私はしばし悩んだが、
気付かぬフリをする事にした。
どうせこの男は私の事は知らないのだろうから。
気が付かぬフリをすればいい。
男の父親を無視し、
私は鍵を開ける。
犬は早く水でも飲みたいのか、
私が持つリードを強引に引っ張り私の手からすり抜けた。
リズムよく爪が床を打ち鳴らす音。
一人で勝手に家に入ってしまうと、
早くついて来いと大きな声で吠えた。
何か問いたげにこちらを伺うあの男の父親。
私は気付かぬ素振りで扉をしめようとするが、
それは叶わなかった。
あの男の父親がそれを足で制したのだ。
「失礼、ここに岡崎という男を探しているのだが。
何か知らないかい?ここに住んでいると思うのだが」
私は瞬間動揺してしまう。
岡崎。
あの男の姓だ。
だがその事に動揺したわけではない。
顔も目も口も似ていないこの親子、
なのにその声だけがとても似ていたのだ。
「……」
――似すぎていたのだ。
あの時あの日あの空間で、
共に過ごした日々が、
この男の声と共に蘇る。
何度も忘れようと願った、
幸せだといえた日々。
冷たい人形だった私に温もりを教えてくれた空間。
私に一方的に感情与え置いていってしまったあの男との生活。
初めて強く感じた体温。
沈黙が一時。
いつまでも入ってこない私を不信に思ったのか、
犬が駆け足で玄関に戻ってきた。
そして空気の異変に気が付いたのか、
犬がこの男の様子を伺っている。
『グルゥゥゥルルルルル!』
と、犬が前足を震わせ唸った。
犬はこの男を敵と見なしたのだろうか、
犬が低い声音で男に向かって唸り声を上げたのだ。
まるで私を守るかのように、
犬は男と私の間で唸り続けている。
この生意気な犬の怒声など、
ほとんど聞いたことがなかった。
「さあ、今は住んでいませんよ」
唸り続ける犬を押さえながら、
私は目線を逸らし呟いた。
嘘は言っていない。
あの男はもうここにいないのだから。
早くこの男から離れなかった。
焦燥感が胸をついた。
痛かった。
ますます懐かしさが襲ってきたのだ。
人間とは不便なものだ。
心では強がっていても、
魂が弱音を吐きそうなのだ。
あの時の幸せだった温もりが、
今になって私を冷めさせた。
幸せな記憶など、
過ぎ去ってしまえば枷にしかならない。
私が人間になって強く理解したことだ。
「そうか、では岡崎について何か知らないかい?」
私は首を横に振った。
彼は死んだ。
亡くなってしまった。
いなくなってしまった。
「嘘だろう、君は何か知っているはずだ」
私の肩を掴み、
断言するこの男。
その声はやはりあの男そのもので。
その懐かしい声で問われる事は、
身を引き裂かれるほどに痛かった。
触れる体温が嫌だった。
「すいません急いでますので」
不信に思われるのもかまわず、
私は男を突き飛ばしドアを閉めた。
動けなかった。
身体が震える。
咽が揺れた。
涙が、
頬を伝った。
「――……っ」
こんなに簡単に、
私は泣いてしまうのだ。
犬は不思議そうに私を見つめていた、
何が起こっているのか分からないのだろう。
ただその大きな瞳で私を見つめているだけだ。
本当に人間とは不便だ。
こんな感情など理解できなかった。
このまま慣れない感情に踊らされるぐらいならば、
いっそ心無いランプの精に戻りたかった。
力が入らなかった。
身体が重力を支えられずに崩れ落ちていく。
扉を背にし、私は地に半身を委ねた。
しばらくして、
温もりが私を包んだ。
犬は動かぬ私の膝に手をかけると、
私の顔を軽く舐めたのだ。
いつもはうざったいと顔を背けるのだが、
今はその温かさを拒否する気力が無かった。
温かくて、
温かすぎてますます涙が零れた。
独りで泣きたい気分だったのに、
犬は離れようとしない。
抵抗しない私に気を良くしたのか、
犬はますます調子に乗って私の顔を舐めまわしている。
私がこれほどに涙して、
昂る感情を抑えていると言うのに、
この犬は私の側から離れようとしないのだ。
結局、
犬は私が泣き止むまで私の顔に頬をすり寄せ、
何度も何度も私の顔をなめていた。
「お前がここにいたのでは、これ以上泣けないではないか」
きっといままで顔を背けてきた私への仕返しなのだろう。
本当に自分勝手でワガママな犬だった。
せめてその毛の温かさを味わってやろうと、
私は犬の身体を強く抱き寄せた。


今朝もまたこの生意気な犬が、私を散歩に誘おうと吠え立てる。
日が昇るのが遅くなっているというのに、
この犬の体内時計は正確なようで、
夏と同じ時間に私は毎朝起こされていた。
私はまだ起きたくないので、
犬を眠る布団の中に強引に誘うのだが、
散歩の誘惑に勝てないのだろうか、犬はどうしても私を起こすつもりのようだ。
この生意気な犬がいなければ、
きっと私は一日中何もせずに布団の中で過ごせていただろうに。
「分かった、今起きるからあまり髪を噛むな。ヨダレでベトベトになるだろ」
犬の重い身体をどかし、
私は身支度もそこそこに犬にリードをつけた。
犬はやはり私よりも先に玄関に向かい、
急かすように吠えている。
尻尾を嬉しそうに振り、
後から追ってきた私の瞳を覗いている。
今日もこの生意気な犬の先導する散歩が始まった。
変わらぬ日常。
ただ過ぎていくだけの時間。
人間になった私だが、
結局無駄に時を生きていたかつてと同じなのかもしれない。
ただ一つ違うことは、
人間になった私には醜い感情を持っているということだ。
私は恨んでいるのかもしれない、
勝手に私を人間にし、勝手に私を置いていったしまったあの男を。
あの男への想いはますます募る。
毎日、毎日。
私は焦がれていた。
一度知ってしまった人間の快楽にも。
私は焦がれているのだ。
忘れたくても忘れられない記憶の数々。
人間になってはじめて過ごした情事。
熱情。
人間は欲で塗れている、
その様々欲望を久遠ともいえる時の中満たしてきた私には、
その欲の深さを誰よりも知っていた。
欲望のために他人を殺す主人もいた。
欲望のために国を滅ぼした主人もいた。
他人のために願いを使う優しい主人もいた、
自身の正義感を満たす欲求にかられ。
もし私にランプの精だった時の力が残っているのなら、
迷わず自身の記憶を封印するだろうか。
分からなかった。
あの男は記憶を消すのを良しとしなかったが、
私はどうなのだろう。
あの男を忘れる事を望むのだろうか。
帰り道。
いつものように一つだけコロッケを買い、
半分づつ食べる。
少しだけコロッケが大きくなっている気がした。
よく見れば増量中と赤いステッカーが貼られていた。
冬になりかけたこの秋空に、
温かいコロッケは人気商品なのだろうか。
なんとなく得をした気分がして、
嬉しい。
食べ終え帰路を辿ると、
あの収集場の前を通る。
燃えないゴミの日を知らせ続ける掲示。
実はまだ、
あのコーヒーカップは捨てられずにいた。
冬になったら捨てればいい、と。
私はまた期限を延ばしたのだ。
どうせいつでも捨てれるのだから、
明日でもいい。
来週でもいい。
来月でもいい。
別に今日でもいいのだが、
いま捨てなくても良いではないかと。
いまだに捨てられないのだ。
人間の感情は奥深く、
私にはまだ理解できない部分が多すぎた。

(3)いつの日かふたりは

冬は間近に迫っていた。
だが、まだ秋だ。
まだ冬ではない。
いまだにコーヒーカップは捨てられなかった。
まだ秋だから。
まだ冬には時間があるからと、
そう思っていたのにもう冬は一寸先にまで迫っていた。
私は時の流れの速さに怯えた。
冬は寒いから苦手だ。
ふと隣を見ると生意気な犬が私の膝に手をかけ眠っていた。
本当に幸せそうに、眠っていた。
おそらくこの犬は何も悩みなど無いのだろうと、
そう思うと私は苦笑してしまう。
悩んでいても仕方が無いことかもしれない。
私は苦悩を断ち切るため、
私も一眠りしようと瞼を閉じたときだ。
無機質な機会音が部屋に響き渡る。
玄関のチャイム。
来客の証だ。
隣人だろうか?
眠る犬を起こさぬように静かに立ち上がり、
固い床の玄関へと向かう。
「やあ元気かね、先日は突然失礼した」
扉を開くとそこにはあの男の父親がいた。
私がドアを閉めるよりも先に男の父親は玄関の中に入ってしまった。
外見はどこも似ていないのに、
匂いが似ていた。
声が似ていた。
雰囲気が、
似ていたのだ。
嫌なぐらいに、懐かしかった。
しかし、私は知っていた。
別にこの男に焦がれているわけではない。
誰でも良かったのだ。
縋れるのなら、
誰でも。
哀愁を背負うこの男を利用して、
侘しさを慰めるためだけに話してしまいたくなる。
私はやはり卑しい人間なのだ。
「そう嫌な顔をしないでくれ、少し話が聞きたいだけなんだ」
「私は何も語るつもりはない」
避けたかった、
私自身の口からあの男が逝ってしまったことを誰かに口にする事を。
自身の中で彼の死をより濃く記憶してしまいそうで、
怖かったのだ。
「君は彼に口止めされているのだろう?
私は彼に酷いことをしてしまったからね……」
苦笑が、
完全にあの男の面影に重った。
私は気が付いてしまった。
あまりに似ていないこの親子の中に、
必死に面影を追い求めている私の存在を。
だから、
ますます嫌なのだ。
この男の存在が。
「……」
これ以上は危険だった。
私はきっと追い求めてしまうだろう、
あの男の面影を。
かつて弟と私を重ねたあの男、
ママゴトのように共に暮らしたあの日々。
偽りの関係を求めたあの男のように。
私はその虚しさを知っていた。
偽りの平穏に、人間は耐え切れないのだ、
あの男が私を捨てて置いていってしまった事実が、
何よりの証拠だ。
あの男は私を捨ててしまったのに、
私はいまだにあのカップを捨てられない。
それがどれほどに虚しいことか、
人間になった私にはイヤと言うほど身に染みていた。
この男を帰す方法は簡単だった。
真実を告げればいいのだ。
この男は私に用があるのではない、
今はいないあの男に用があるのだから。
「亡くなりました、彼は。病気で」
私の言葉に、
この男の瞳は揺らいだ。
瞳孔が縮まり、
周囲の時は止まった。
この男の中には様々な感情が浮かんでいるだろう。
「嘘だろう、あまり大人をからかってはいけないよ」
動揺を紛らわせるためだろうか、
男は煙草を咥え、ライターを手にした。
だが手が震えるのだろう、
何度も何度も擦るが火は付かない。
終いにはライターを落としてしまい、
固い床に反響が響いた。
その大きな音に気が付いたのか、
生意気な犬がものすごい勢いで走りこんできた。
犬は男の姿を確認するやいなや、
低い唸り声をたて威嚇した。
今にも男に飛び掛りそうなほどの怒声だ。
私は生意気な犬を大人しくさせようと首輪を引くが、
犬の興奮は治まりそうになかった。
「残念ですけど事実です。だから彼はここにもういない」
突然、
視界が揺らいだ。
何の前触れもなく、揺らいだのだ。
涙が一筋、
やはり堪えられなかった。
かつて感情が無かった私は、
人間の喜怒哀楽の重さに弱かったのだ。
人間と言うのは不便なもので、
一度泣いてしまうと心が切り刻まれるように痛くなるのだ。
噛んだ唇に、
血液が溜まっていく感覚。
人間の弱さが、
私は嫌いだった。
涙する私に、
犬は不安そうな声を上げた。
どれくらいの時間が経っただろう。
それはほんの一時だったのだろうか、
私には分からなかった。
「そうか、本当なのだね。
彼は逝ってしまったのか私よりも早く」
男は寂しそうに呟いた。
小さな声で、
呟いていた。
何度も何度も、
そうか、そうなのか、と。
この男の表情は読めなかった。
止め処なく込み上げてくる涙に震える心を抑えることで、
私は精一杯だったのだ。
「弔いをしたい、中に入れてもらえないか?」
男の言葉に私は小さく頷いた。
逆らうことなどできなかった、
私の本音は誰かに側にいて欲しかったのだと。
知っていたから。
犬はいまだに男を信用していないようだった。

興奮の治まらぬ犬を寝室に一時的に閉じ込め、
私はこの男と共にあの男の遺影を飾る仏壇の前で座っていた。
犬はもちろん逆らったが、
この男と静かに話すためには我慢してもらうしかない。
なぜこんなにも犬がこの男を嫌うのかは分からない。
おそらく、
自身がボスだと勘違いしているから、
この男はボスにとっては侵入者に見えたのだろう。
私にとっても、
この男は異邦人にしか過ぎない。
そう、
その程度にしか過ぎないのだ。
穏やかな風が、
カーテンを静かに揺らした。
あの男が選んだカーテンは、
いまは少しだけ色褪せてしまっていた。
とても綺麗な青だと笑ったあの男の顔を思い出し、
私は苦笑した。
今度洗濯しなければ。
「私と彼との関係はすでに壊れてしまっていたが、
こうして事実を確認するととても辛いね」
線香を供えながら、
あの男の父親があの男のように苦笑した。
あの時あの空間で笑ったあの男のように、
男は苦笑していた。
「彼と私は意見が合わなくてね、
次第に距離を置くようになったのはいつのころだっただろうか。
彼は覚えているかもしれないね」
遺影に向かい、
男は問う。
私はただ黙っていた。
黙ることしか出来なかった。
何を話したらいいか、
何をしたらいいか。
分からなかった。
「君は彼の恋人だったのだろう?」
「……」
恋人ではないだろう。
彼の想い人は常に他にあったのだから。
返答に困る私に、
男はまた苦笑した。
「すまない、失礼なことを聞いてしまって」
「…………」
どのように映っているのだろう。
私と彼との関係は、
他人には分からないだろうが、私にも分からなかった。
あの男は私を大事にしてくれたが、
愛されてはいなかったと思う。
あの男の気持ちはいつまでも私の後ろを覗いていたのだから。
「良かったら話を聞かせてもらえないだろうか、
彼の事を。
私の知らない彼の記憶を」
男の言葉に頷き、私は遺影の前から立ち上がった。
「コーヒー、先に入れましょうか」
先日掃除したばかりのキッチンに入ると、
私は小さく息を吐いた。
底が少しだけ変色しているヤカン。
まだ人間になったばかりの時、
水をいれずに湯を沸かそうとし、私が焦がしてしまったのだ。
いまではもう、
底を焦がすことはなかった。
湯が沸くまでの短い時間。
私はあの男との暮らしを巡っていた。
コトコトコトと。
少しくたびれたヤカンは揺れた。
何を話したらいいのか、
私には分からなかった。
思考を巡り、
考える。
走馬灯のように、
鮮明に。
男との暮らしが思い出される。
コトコトコトと、
湯が沸くまでの短い時間に。
何を話そうか。
考えがまとまらないうちに、
湯は沸いてしまった。
いつも使っている私のカップ、
そしていまだに捨てられなかったあのコーヒーカップに、
私は湯を注いだ。
ただ黙って遺影の前に座るこの男にカップを手渡し、
私は淡々と話した。
男の父親はあの男のようにコーヒーカップを手で揺らしていた。
落としたミルクの波紋を覗き込むように、
小さく手首を傾けて。
捨てられなかったコーヒーカップが役に立った。
捨てなくて、
良かったのだ――。
私は話した。
あの男が犬を拾ってきた事。
何事もなく平和だった日々のことを。
たわいもない会話、好きだったおかず、書物。
追憶の中にはあの男の苦笑が、
蘇り続けている。
病気だと分かったこと。
自らの死を望んでいたこと。
彼が逝くまでの穏やかなときを。
そして、
私は置いていかれてしまったのだと。
ランプの精だった過去は話さなかった。
どうせ信じてもらえないのだろうから、
この男を徒に混乱させる必要もないだろうと。
あの男の父親、
この男は泣くことはなかった。
ただ静かに苦笑するだけで、
瞳に留めた水分が頬を伝うことはなかった。
年を刻む眉を少しだけ歪め、
私には泣く権利がないのだと、
悲しそうに呟いた。
コーヒーカップはまだ温かそうに湯気を立てていた。
中身が冷えるのが嫌いな男が選んだ厚いカップ。
特注なのだ自慢していたコーヒーカップ。
このカップだからこそ、
このコーヒーはいまでに湯気を立てているのだ。
ほらどうだ、
やはり捨てなくて正解だっただろう、と。
心の中でそう思いながら、
私は話を続ける。
湯気はだんだんと薄くなっていった。
表現できない空気が、
男と遺影の前には流れていた。
血の絆を持つ関係の重さは、
肉親を持たない私には理解することはできなかったが、
それはとても大きなモノなのだろう。
私とあの男の絆よりも深く、根強く。
私は男との楽しかった時の記憶を語った。
あの男が逝ったその時を話している時間よりも、
あの男との何もない日々を語ったときのほうが、
何倍も辛かった。
悲しかった。
今でも手を伸ばせば触れてしまえそうなほどはっきりと、
私の意識の中では温かい思い出が蘇っている。
あの男の苦笑した顔の影が、
私の頭を軽く撫でた。
私は嫌がりながらもそれを受け止め抗議する。
晩の献立の是非を問い、
明日の献立を相談する。
この国の冬には美味しい魚が多いのだと語ったあの男。
氷の張った湖でそれを自ら釣り、その場で油で揚げ食べようかと、
今度一緒に行こうと約束したあの日の記憶。
その約束は果たされることはなく、
私もいまだに冬の魚を食べていない。
思い出せば思い出すほどに、
その温かい記憶はいまの私を冷たく刺し続ける。
故人との記憶を美化しすぎてしまうのは人間の悪い癖だ。
あの男の嫌いだった部分さえも、
いまとなっては良く見えてしまう。
利己的だったあの性格も、
傲慢だった行動さえも。
懐かしく、焦がれた。
人間とはやはり理解できない生き物だ。
「近くに彼が眠る墓があります、もし良かったらこれから――」
「いや、遠慮しておこう。
――私が行ったら彼は嫌がるだろうからね」
私の言葉を遮り、
男はライターを指の腹で弄びながら呟いた。
静かな部屋には金属を擦る単調な音だけが流れた。
陽は沈み、
明かりのついていない部屋は黄昏で染まる。
綺麗な夕日だった。
私はただ何も言えなくて、
黄昏の流れを眺めていた。
夕暮れを注ぐ窓から手を繋ぐ親子が見える。
会話の内容は分からなかったが、
幸せそうな家族だった。
忘れていたコーヒーに手をつける、
もうすでに冷えてしまっていて美味しくなかった。
私に続き、
男もカップに手をつけた。
しばらくして、
男は帰ると言い出した。
私は男を引き止めなかった。
あの男の面影は、
私を苦しめるだけだと分かっていたから。
玄関まで見送り、
固い床の上に響く男の靴の音を聞いた。
男は立ち止まり、
振り返った。
「独りで寂しくないのかい?」
確信をつかれ、
私は言葉を失った。
何も言えなかった。
この男も寂しいのだろう。
男の声音のどこか片隅に、
私は男の本音を嗅ぎ取っていた。
男は私を誘っているのだ、
互いを憐憫で慰めあう関係へと。
「変なことを聞いてすまなかった、忘れておくれ」
去ろうとする男の背の重さに、
私は不安を抱いた。
この男は過去に囚われたままに、
後悔を抱え生き続けてしまうのだろうか。
幾人の主人との別れを悔い続けている、
私のように。
そう思うと、
私の口が勝手に動いていた。
男の背に向かい私は叫んだ。
次から次へと、
私の口から嘘の真実が零れる。
男を救うための嘘だ。
彼は父を恨んではいなかったのだと。
嘘をついた。
男はそれを背中で聞き入れた。
ただ立ったままで、
聞いていた。
私の言葉が終わると、
男は小さく声を漏らした。
今度あの子の墓に案内してくれと、
あの男の父親は願った。
震えた声で願った。

男が去った後、
うるさく吠えたたいていた生意気な犬を部屋から出してやる。
「悪かった閉じ込めて、だけどお前があんまり吠えるから――」
犬はたいそうご立腹なようで、
私の目を恨みがましそうに睨んだ。
拗ねるように小さく吠え、
私を押し倒す勢いで飛び掛ってきた。
生意気な犬は私をいさめるかのように、
私の上に乗り顔を舐めた。
言葉も分からぬ犬に向かい私は話す。
「馬鹿なものだな私も」
震えた声で。
「本当はあの男の父親を引き止めたかったのだ」
偽りでも良かったのだ。
いまこの侘しさが拭われるのなら。
あの男の面影に縋りつきたかった。
偽りの真実を語り、
男を救うよりも。
互いの憐憫に身を任せていた方が私は救われていたはずなのに。
私がした事は自らが望んだこととは別のことだ。
人間とは複雑で、
私にはいまだに自身の感情と心が理解できなかった。
犬の頭を撫でてやりながら、
私は苦笑した。
犬は私から一歩も離れまいと、
身を寄せた。
犬はいつもより何倍も私に体重をかけていた。
その重さの心地よさに、
私は目を閉じた。
夢の中では男との温かくて残酷な記憶が巡っていた。
取り残された私の心など無視して、
夢の中で二人は楽しく談笑する。
男が置いていってしまうことなど知らずに、
夢の中で過去の私が男に身を委ねていた。
何も知らずに、
初めて感じる温もりに溺れ。
過去の私は幸せそうに微笑んでいた。

あの男の父親を連れ墓参りをしたのは翌週のことだ。
長らく続いていた確執が解けたのか、
あの男の父親には少しだけ笑顔が浮かんでいた。
私の付いた嘘を信じたのだろう。
かつて私には許されていなかった嘘を使えるということは、
私が醜い人間になった何よりの証だった。
この男は、
過去の呪縛を完全に解いたのだ。
私だけがまた残された。
その清々しい表情に、
私は少しだけ嫉妬していた。
男と別れる間際、食事に誘われたのだが、
私は犬がいるという理由で断った。
無論、
あの男の面影とこれ以上行動を共にして、
ますます黒い感情を作り出すのが恐ろしかったのだ。
もし自身の過去を消せることが出来るなら。
私はどうするのだろうか。
「……」
ふと、
私はかつてランプの精だった時の記憶を追った。
私が神に作られ、
人間の願いを叶え続けていたように、
この世には神の与えた奇跡がいくつも残されているはずだと。
そして、
記憶の中にあった伝説を思い出す。
あまたな秘宝の数々には、
私のように願いを叶えることの出来る何かがあるはずではないか。
思案は一瞬だった。
私はかつての記憶を頼りに、
過去を忘れることの出来る、願いを叶える伝説を探すことにした。
かつて私を捜し求めたあの男のように、
私は伝説に縋ることとなった。

(4)置いてきた場所

魔人の壺。
妖精の小瓶。
ダイヤモンドタブレット。
神授のネックレス。
鬼に伝わる打ち出の小槌。
悪夢の秘薬。
無垢な魂の涙。
そして、神に作られた精霊が眠る魔法のランプ。
私が知りうる願いを叶えることができると言うアイテムだ。
私は毎日それを探すために出歩いた。
地方の博物館を巡り、
遺跡を巡り。
いまだに発見されていない財宝の埋まる大地を掘りに。
犬は毎日家を開ける私に不満を抱いているようだが、
しばらくの辛抱だからと、
犬をこの広い家に置いたまま日々は過ぎていく。
犬には悪いと重いながらも、
私は必死で秘宝に縋ったのだ。
過去を消すために、
私は探し続けた。
もしやのためと、
隣人に犬の世話を頼み。
いつもよりも高価な食事を用意し、
犬がボタンを押すと自動で食事が落ちてくる装置も購入した。
栄養バランスも考え、
数種類用意した。
ベランダには犬専用の扉を作り、
外の空気を吸えるようにもした。
リビングの家具を捨て、
犬が走れる大きなスペースも作った。
犬が生活していくには十分すぎる環境を用意した。
だが、
この犬はやはり不満な様子で久々に帰った私を見ては、
泣きつくように飛びついてくる。
独りが寂しいのだろう。
久々に帰ると、
私は必ずこの犬を散歩に連れて行く。
犬は久々の散歩がとても嬉しいのか、
いつまでもいつまでも、散歩は続く。
いつもの散歩コースを一周り、二周り。
犬はやはりそれだけでは満足できないのだろうか、
いつまでも歩みを止めなかった。
何周散歩道を回っただろうか。
さすがに夜も更け、
朝日は間近に迫っていた。
私はリードを引き、
犬に散歩の終わりを告げた。
賢いこの犬は、
すぐに理解したようだ。
理解はしているが、
散歩の終わりが嫌なのだろう。
尻尾を下げ、
落胆していた。
元気だけが取り柄のこの犬の落ち込む姿に、
私の心は揺れ動く。
「ごめんな、探し物が見つかったら、
お前に寂しい思いをさせなくてもすむから」
犬は訴えるような瞳で私を見つめた。
あと少し、あともう少しだけ。
まるでそう言葉で訴えているような瞳だった。
私はその願いを聞き入れ、
もう一周散歩コースを回った。
犬は遅い歩みで道を進む。
あともう一周進んだら、
この散歩が終わることを知っているのだろう。
いつもはあんなにはしゃいでいる犬の歩みは、
最後の余韻を噛み締めるようにゆっくりと進む。
夜が明け、朝日が差した。
犬が小さく吠えた。
何度も何度も訴えるように、
私に向かい吠え続けていた。

幾月たっただろうか、
秘宝はいくつか見つかった。
宛も無く探す旅ではない、
かつての記憶を辿れば容易いことだった。
以前の主人の命令で調べた秘法の情報、
それは私の記憶の中に宝の地図が書いてるのと同じことなのだから。
おそらく、人が一生を費やして見つけることも出来ぬはずの秘宝の隠し場所を、
私は知っていたのだ。
だが、
その秘宝はすでに力を失っているものばかりで、
何一つ、私の役にはたたない。
かつて神が残した遺産は、
もはや人間の歴史の中で風化してしまっていたのだ。
時の流れの中、
私のように何らかの原因で力を失ってしまったのだろう。
私は自身の記憶を消すために私は旅を続ける。
今日はこの国の伝承にあった小槌を発見することが出来たが、
やはりもうすでに願いを叶えはたし力を失っていた。
小槌は色褪せ、
所々に黒い血痕を残している。
血生臭い記憶が、
この秘宝にも込められているのだろう。
秘宝を追い求めれば追い求めるほど、
人間の醜さを身に染みて感じた。
秘宝に頼ろうとした人間の末路は、
どれも皆哀れな最後を迎えていたからだ。
神が何故このような秘宝を用意したのか分からないが、
この秘宝のおかげで幸せになれた人間など、
誰一人としていないのではないだろうか。
あと残す秘宝は二つ。
無垢な魂の涙と魔法のランプ。
無垢な魂であれば善悪を厭わず願いを叶えることができると言う秘宝。
それがどれほどに悪しき願いであっても、
純粋な願いであれば叶ってしまうと言われている。
たとえそれが神にもできぬ、
失われた生命を呼び戻すことだとしても。
これはありえなかった。
かつて私の主人に、私自身が語った事がある。
無垢な魂もつ人間など、
この世には存在しないのだと。
この秘宝は神が創った最大の皮肉なのだ、と。
この口で淡々と語ったのだ。
主人は悔しそうに私の話を聞いていた。
そして魔法のランプはもうすでに力を失っている。
今日も落胆したままの帰宅を迎える。
落胆したせいか、
どうも身体が重かった。
最近、
目がかすみ意識が遠のく瞬間がある。
疲れが、たまっているのだろう。
人間の疲労という感覚が、
これほどに重いものだとは想像していなかった。
犬は私の帰りを待ちわびていたのだろうか、
文字通り飛ぶような速さで私を出迎えた。
犬にはすまないと思いつつも、
まだ私を覚えている犬の様子に安心した。
犬はリードを咥え、
尻尾を何度も何度も大きく振り、私の周りを走り回っていた。
固い床を爪ではじく音が響き渡る。
大きな声で吠え、
その表情は歓喜で満ちている。
それほどまでに、
私の帰りが嬉しいのだろうか。
そうだ、今日はまだ時間がある、
あの店のコロッケでも買ってやろう。
きっとこの犬も喜ぶだろう、と。
「……――!」
犬に急かされ、
立ち上がろうとしたときだ。
自身の違和感に、
私は動揺した。
身体が言うことを効かなかったのだ。
重力に負け、
私の身体は床に叩きつけられた。
急に倒れた私に、
犬が驚いたようにかけつけてきた。
目の前が暗転し、
視界が揺らぐ。

倒れた私に隣人が呼んでくれた医者は眉を顰めた。
この犬が倒れた私を助けるために隣人を呼んだようなのだ。
隣人は医者を呼び、
すぐに帰っていった。
病がうつるの事を避けたいのだろう。
最近世界各国で病が流行っているのだと知っていたが、
どうやら私の病はそれではないようだ。
医者には、
私の病の原因が分からないのだと言う。
検査を薦める医者も紹介状を残し、
すぐに帰ってしまった。
今はとても忙しいらしい。
私は秘宝を探すことに意識を集中しすぎて、
自身の異変を感じることが出来なかったのだ。
私は人間だ。
人間には病がある。
人間になったばかりの私は、それに気が付くことが出来なかった。
生意気な犬は私の異変に動揺しているようだった。
心配そうに私を見つめるその瞳。
弱った身体は声がろくにでなかった。
心配するな、
とそう呟いたつもりだったのだが、
上手く言葉にならなかったようだ。
私は苦笑した。
苦笑することしか出来なかった。
私は自身の病の原因をなんとなく理解していた。
人間になった私は免疫力が足りなかったのだ。
人類は数多くの病魔との歴史を遺伝子に刻み続けているが、
私にはそれがなかったのだろう。
この狭い空間だけで生活していた時は平気だったはずだが、
私は秘宝を追い求めるために、無防備に各地を彷徨いすぎたのだ。
咳と共に、
赤黒い塊が零れた。
私が人間になった証の赤い血。
犬は小さな声で鳴き続けた。
その声の悲痛さに、
私は胸を痛めた。
私は自分の死期を悟った。
かつて病で死んだ主人がそうであったように、
あの男がそうであったように、
あと数日もすれば、私も病に負け朽ち果てるのだろう。
この生意気な犬を独り残して。
「……」
私もまた置いていってしまうのだろうか。
かつて私を置いていった主人のように、
かつて私を置いていったあの男のように。
思えば、
この無駄に広い家の中で犬だけを残した私に、
神が罰を与えたのかもしれない。
私は酷い存在だった。
醜い、人間だった。
私を置いていってしまったあの男を責めたくせに、
私は身勝手にこの犬を置いていってしまうのだ。
いつも生意気でわがままなこの犬。
その心配そうにみつめる顔を撫でてやる。
その毛はやわらかく、
心が和んだ。
あの男に置いていかれた私を支え続けてくれた優しい犬だ。
私の死期を悟ったのだろうか、
あいかわらず賢い犬だ。
せめて犬を開放してやろうと、
私は痛む身体を動かし受話器をとった。
この犬には生きる権利があるはずだ。
本来老人が飼いきれなくなった愛犬を預ける場所に、
私は電話をかけた。
電話はなかなか繋がらない。
時間が遅いからだろうか。
このまま繋がらないで欲しい、と。
私の寂しい心が呟いた。
病に蝕まれる体を誰かに看取って欲しい、と。
それが人間としての私の本音であった。
このまま電話が繋がらなければ、
この犬は私の最後を看取ってくれるだろう、と。
しばらくして、
電話は繋がった。
私は苦笑した。

犬を引き取りにやってきたのは翌日だった。
犬は不信な来客に吠え続けていたが、
ゲージにいれられ運ばれる準備が進む。
『クゥクゥ』
と縋るように鳴く声が私の胸をついた。
私は犬の顔を直視できなかった。
犬の搬送の準備を終えた業者が私の元にやってきた。
犬は何百キロも離れた施設で大切に育てられるらしい。
もはや金など意味のない私は、
この犬のために残る貯金をほとんど使ってしまった。
金さえあればなんとでもなってしまうこの国は、
思えば便利なものだろう。
だが、
私にはあわなかった。
はじめから無理があったのだ、
偽りの心しかない私が人間になってしまったことは。
犬の悲痛の声だけが響く部屋で、
私はただ黙って時が過ぎるのを待った。
「こちらのワンちゃんは大切にお預かりいたします、
それであの子のお名前は?」
名前。
そうか、
あの生意気な犬に名前を与えていなかった。
私は犬に名を与えた。
私の初めての主人だった男の名だ。
生意気な犬に向かい何度も何度も、
名前を教え込んだ。
「長生きしろよ」
そう囁いた。
私は苦笑した。
何が長生きをしろだ。
あの犬を残して勝手に逝ってしまうのは私なのだ。
独りの寂しさを知っていながら、
よくもそんな事を口にできる。
それが、
人間の業なのだろう。
少しだけ、
私を置いていったあの男の気持ちが理解できる。
連れて行かれる犬は何度も何度も吠え続けた。
自分がどこか遠くに連れて行かれることを理解しているのだろう。
私に止めるよう命令するように、
強い口調で吠え続けていた。
ボスとしての命令なのだろう。
あの犬は私がもう独りでは生きていけないことを知っているのだから。
だから吠え続けているのだろう。
あいかわらず賢い犬だった。
優しい犬だった。
寝室を抜け、
廊下を抜け、
玄関を抜け。
犬の遠吠えは次第に小さくなっていく。
やはり最後まで、
目を合わせることができなかった私は、
最後まで酷い主人であっただろう。
もちろん、
あの犬は自分の事がボスだと勘違いしたままだったが――。
エンジンがかかる音が響き、
数刻すぎ、
あの犬の遠吠えはついに聞こえなくなってしまった。
顔色の悪い私に、
業者は医者にかかるよう勧めた。
紹介状を持っていると告げると、
業者は納得して帰っていった。
だけど私は決めていたのだ。
ここで最後を迎えたい。
あの男のように、
ここで天へと帰ろうと。
広い家の中の広いソファーを、
私は独りで悠々と使うことが出来た。
もはやあの犬に邪魔されることなく、
また上に乗られることもなく。
私は独りでこの家の広さを感じていた。
私の胸の奥では、
犬の縋るような声がいつまでも消えることなく、
何度も何度も蘇っていた。

日に日に衰弱する身体に、
私は身を任せ時を過ごす。
もういらないだろうと、
私は家を整理した。
数々の思い出を捨て、
家具を捨て、
あの男の衣類も処分してしまった。
こんなに簡単に捨ててしまえるのに、
私の記憶からはあの男が消えることはなかった。
結局、
最後まで捨てられなかったのはあのコーヒーカップだけだ。
苦笑が、口を伝った。
あの犬は元気に暮らしているだろうか。
本当に独りになってしまったこの部屋は、
とても冷たく無機質だった。
もはや思いい残すこともない、
そう思っていた。
この電話が鳴るまでは。


(5)涙

あの犬が施設から抜け出したと聞いて、
私は蒼白となった。
私はいてもたってもいられずに、
滅びゆく動かぬ身体を叱咤し立ち上がった。
何故犬が施設から脱走したか。
そんな事は分かりきっている。
あの賢い犬のことだろう、
死期が迫っている私をなんとか救おうと向かっているのだ。
何の力もないあの犬に、
私を救うことなどできやしないのに。
あの犬は群れを守るボスだから、
弱った私を探しているのだろう。
バカな犬だ。
本当にバカな犬だ。
だいいちあの施設からここは離れすぎている。
無論、犬の速さで走り続けていればそのうちここにも辿りつけよう。
だが、
故も分からぬ法律が支配するこの国で、
野を走る犬が生きていけるはずはない。
ここにたどり着くより先に、野犬として囚われてしまうのは明らかだ。
このまま私が滅びてしまったら、
あの犬は保健所と呼ばれる施設に囚われ殺されてしまうだろう。
そんな事はさせない。
せめて私が死ぬまえに、
あの犬を施設に戻さなくてはならない。
私は施設との間にある保健所を調べ、
くまなく電話して回った。
だがあの犬は捕獲されてはいなかった。
私は焦った。
あの犬が見つかるまで、
私は死ぬわけには行かない。

一日経った。
まだ私は生きている。
あの犬はまだ見つかっていない。
私は待ち続けた。
もしかしたらこの家にあの犬が帰ってくるのではないかと。
二日経った。
まだ私は生きている。
あの犬はまだ見つかっていない。
私は待ち続けた。
静かで寂しい部屋の中で待ち続けた。
三日経った。
もう私は死んでしまった。
事切れるという感覚を何度も遭遇してきたが、
いざ自分が亡くなる時というものは不思議な感覚だった。
私の亡骸はまるで眠るように止まっていた。
私は天井からそれを見ている。
いまの私の感覚はランプの精だった時の感覚と似ていた。
いや、むしろランプの精そのものの感覚だ。
不思議に思っていると、
天から懐かしい声が届いた。
私を作った神の声だ。
神は私の疑問に答えてくれた。
あの男の願いを果たし人間になった私。
だが人間になった私は死んでしまったその瞬間、
あの男の願いは終わり、私は再びランプの精に戻ったのだ、と。
なるほど、
それもそうなのかもしれない。
あの男の願いは私を人間にすることだった。
私は永遠に主人の願いを叶え続ける魂なのだ、
人間としての私の一生が終わったその時、
私が再びランプの精に戻ったとしても不思議はないだろう。
次の主人が見つかるまでは、
私は再びランプに戻らなければならない。
しかし。
私は神の命に背き、ランプには戻らなかった。
あの犬を待ち続けなければならない。
それが人間になった私の最後の務めだと判断したからだ。
どれほどの時が過ぎたのだろうか。
しばらくして、
玄関からあの優しい犬の声が響いた。
あの遠い距離をこの犬は誰にも捕まらずに走り続けてきたのだ。
吠えれば私があけてくれるだろうと思っているのだろうか。
犬は何度も何度も外で吠え続けている。
事切れた私の存在を知らずに、
吠え続けている。
しばらく吠え続けて、
犬は玄関を開けて入ってきた。
鍵の閉まっていない扉を、
犬は器用にあけたのだ。
その様を私はただ黙ってみていた。
犬は久々の家に嬉しさを感じているのだろうか、
固い床の玄関を音を奏で走り、
私の眠る寝室へと尻尾を振り回して一直線に向かった。
この犬にとって、
私はどのような存在だったのか。
深く考えたことはなかった。
だが、それはとても大事な存在だったのではないかと、
ランプの精に戻った冷たい私は感じていた。
固い床の玄関を抜け、
長い廊下を抜け、
いつもくつろぐリビングを抜けて、
そして――、
もはや息を吐かぬ私が眠る姿を寝室へと犬は辿りついた。
犬にはまだ私の死が理解できないのだろうか、
いつものように私の上に飛びつくように乗っていた。
そして長旅で汚れた泥土もそのままに、
動かぬ私に何度も甘えるようにその身体を擦り付けていた。
汚れるから離れろ!
と、私に叱られるのをどこかで望んでいるのだろう。
本当に、
私の元へ帰ってきたかったのだろう。
この生意気な犬は全身全霊をかけて私に甘え縋りついていた。
どれくらいの時間がたっただろうか。
刹那だったか、
長かったか。
それは私には分からない。
やがて、動かぬ私が息をしていないのにこの犬が気が付いた時、
この部屋の音は死んだ。
さきほどまであんなに嬉しそうに揺らしていた尻尾も、
何度も甘え擦り付けていた四肢も、
そしてその優しく大きな瞳が悲痛な様へと変貌していた。
動かぬ私に犬は何度も何度も吠え続ける。
賢いこの犬は、
私がもはや事切れていることを悟ったのだろう。
だが、
それを受け入れることはできないのだろうか。
私に向かい吠え続ける。
私がいつも顔を背け嫌がっていたから、
顔を舐めれば動き出すとでも思ったのか。
犬は私の頬を力強く舐めていた。
何度も何度も。
縋るように。
むろん、
冷たくなった私は二度と動くことはなかった。
何度も何度も犬は吠え続けた。
私はただ黙ってそれを見ることしか出来ない。
ランプの精に戻ってしまった私には、
この犬を救ってやることは出来ないのだ。
心のないランプの精の私だったが、
いまその瞳には温かい水分が視界を遮っていた。
私は神に願った。
せめてこの犬を救ってやってはくれないか、と。
ランプの精の私が願いを乞うことなど、
許されるものではないと分かっていた。
けれど、もはや人間としての心を失い、
偽りの心しかない私にもこの感情は理解できた。
悲しみ、痛み、侘しさ。
後悔、懺悔、憎しみ、愛。
神は何も応えなかった。
犬は吠え続ける。
虚しく大きな声で吠え続けている。
もはや動かぬ私の亡骸抱え、
悲痛な声で吠え続けている。
広い広いこの家の中で、
思い出のつまった部屋の中で、
独り寂しく吠え続けていた。
その哀れな姿に、
心ない私の瞳からは涙が零れた。
そしてこの優しい犬の目にも水分が光っていた。
とても美しく純粋な涙だった。
永遠とも言える偽りの命の流れで始めて見るほどに、
美しく無垢な魂の涙だった。

(6)人間だから

目を覚ますと、
そこにはいつも俺の介護をしてくれる男が立っていた。
心地よい夏の日差しが起きたばかりの私の目には眩しかった。
思わず目を窄めると、
男が笑った。
長身の男はいつも生意気そうな顔で私を見つめる。
いつから介護されているのか、
よく思い出せない。
「アンタ身体弱いんだから、まだ寝てろよ
いま、遅い朝飯でも用意してやるからさ」
生意気な男が私に命令した。
偉そうに、自分がこの家の主人だと人を見下しているくせに、
どうもこの男は私から離れようとしない。
いつから一緒に暮らしていただろうか、
やはり良く思い出せない。
最近、私の記憶が曖昧なのだ。
おそらく病のせいなのだろうが、
いつも付き添いで介護してくるこの男のおかげで、
それを深く考えることもなかった。
男は用意したパンにバターを塗りながら、
私の顔を満足そうに見つめている。
「なんだよ、あんまりジロジロみるなって」
しつこいぐらいに人を見つめている男に、
私は苦笑しながら抗議した。
「別にいいだろ、減るもんじゃないし」
「いや、超減るし。マジ減りまくりだから」
口を尖らせる私に、
この男は笑った。
「だって監視してないと、すぐアンタどっかいきそうになるしさ」
「なんだよ、信用ないな」
私の頭をポンポンと叩きながら、
男は再び微笑んだ。
私の前には男が用意してくれた、
バターたっぷりのパンと焼きすぎて少し焦げたウィンナーが並んでいる。
バターが好物だというこの男は、どうもパンにソレを塗りすぎるくせがあるし、
いつものように火が通り過ぎたウィンナーは少し固かったが、
温かくて美味しかった。
贅沢をいえばコーヒーでも欲しいところなのだが、
この男はコーヒーの淹れ方を知らないのだ。
この男、
何歳なのかは知らないが、いままでフライパンや火を使ったことがないらしい。
よっぽど家族に甘やかされて育ったのか、
はたまた外国の出身なのだろうか、
この男はかなり世間知らずなことがある。
始めの頃など、
服の着方さえ満足に覚えていなかったのだ。
まるで犬みたいだ、とからかった私に、
この男は複雑な顔で苦笑していたが。
この男はもうすでに食事は済んでいたのか、
私が食べる姿をやはり嬉しそうに見つめていた。
もはや見つめられることになれていたので、
それほど苦にはならないが、やはり恥ずかしい。
なんだかなー、
とよそ見をしながら食べていたせいで、
パンの端からたっぷりと塗られたバターが零れて、
私の頬から首にかけて汚してしまった。
「ったく、しょうがないヤツだな」
と、男は微笑みながら、
零れたバターをペロペロと舐め上げた。
零れたバターの味まで愉しむように、
男は嬉しそうに私の首筋を舐め続けている。
「なっ!ヤメロって恥ずかしいだろ!」
私は慌てて拒否した。
恥ずかしいだけではない。
この男はまったくその気はないようなのだが、
まるで前戯のように感じてしまうからだ。
顔を赤くする私を、
男は不思議そうに見つめていた。
私は自身の熱を誤魔化そうと、
男にテレビをつけるように促した。
男はいまだに不思議そうに私の顔を見つめたまま、
しかし私の願いを聞き入れたのか、
おもむろに立ち上がりテレビをつけてくれた。
テレビでは懐かしい童話の特集が行われていた。
男は帰り際にスナック菓子を持ってきて、
柔らかいシーツの上でうつ伏せに寝ながらテレビを見つめる私の横に座った。
男の重さにクッションが沈み、
私の横には他者の体温が落ち着いている。
さきほどの出来事があったから、
少し恥ずかしかったが他者の温かさは悪い気分はしない。
揚げた芋をスライスしたこのスナック菓子はこの男の好物だった。
この男はジャガイモが好きなようで、
コロッケは一番の好物らしい。
テレビをダラダラと見ながら、菓子をつまむ。
テレビの内容はかつての伝承にまつわるランプの精霊の話だった。
そんな魔法のランプなんかあるわけないが、
夢物語を夢想するのは自由だ。
物語は進む。
望まずに人間になってしまったランプの精の、
悲しい生涯を追った話だった。
「なあ、もし願いが叶うランプがあったら何を願う?」
何故か私も悲しい気分になり、
それをこの男に悟られたくなくて私は男に問う。
私の問いに、
男はしばらく沈黙してしまった。
「そんなこと聞いてどうするんだ?」
「いいじゃないか、ちょっと聞いてみただけだろ」
何か深く考え込んでしまった男に、
私は疑問を抱いたが、
この男の少し変わった性格を考えれば特に意味はないのだと思う。
「……、大事な人と対等な存在になる事。
大事な人が俺だけを見てくれるように他の相手との記憶を奪う事。
大事な人が俺を置いていかないように、
死なないけど生涯直らない病にしてしまう事。
大事な人が死なないようにいつまでも生き続けてくれる事」
ぐらいかな、と。
生意気な男が呟いた。
テレビをまっすぐに見たまま、
珍しく私から目線を逸らして。
「随分具体的だな、だいたいなんだよそれ、大事な人なのに病を願うのかよ!
本当にお前はワガママだな」
超ドンビキだし、と付け足すと、
男は困ったように笑った。
「だって置いていかれたら悲しいから、
置いていかれるくらいなら、俺はその人の脚をもぎ取ったってかまわないと思ってる」
憂いを帯びたその表情の艶に、
私はふと違和感を抱いた。
この生意気な男から漏れたその表情は、
普段の明るさからは想像も出来ないほど深かったからだ。
「まあそんなランプなんて存在しないんだからいいけどな」
これが本当に魔法のランプだったらな、
とランプの模型を目で見つめながら苦笑する私に、背後から男が近づいてきた。
「なあ、アンタさあ」
「ん?」
呼ばれ、振り返るよりも早く、
「もう二度と俺のこと置いていくなよな」
男は背後から私を温かく抱き寄せた。
時折こいつはとても甘えるように私を抱きしめる。
力強く、
何度も何度も抱きしめる。
「なんだよ、お前を置いていったことなんてないだろ?
だいたい私は満足に歩けないんだから、置いていけるわけないじゃないか」
「そうだな」
そうだよな、と。
この生意気な男は嬉しそうに呟いた。

広い広い家の中で、
私と男は暮らしていた。
いつまでも終わることなく、
穏やかに生きつづけていた。
世界が終わるその日まで、
静かに暮らし続けていた。

テレビの中では物語が終わりを迎えていた。
ありきたりなハッピーエンドだ。
この物語の登場人物達が本当に幸せになったのか、
それは誰にも分からなかった。
けれど、
彼ら自身がそう感じているのならば、
それはたしかに幸せには違いないのだろう、と。
生意気で優しい男の腕の中、
静かに私はそう感じ、
心地よい眠りへとその身を預けた。
いつまでもいつまでも。
広い広いこの家で、
二人穏やかにに生き続けていた。
静かに暮らし続けていた、
世界が終わるその日まで。








【終】
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