【救世主】


再会は突然だった。
全てを捨てた過去の一部。
男がこの教会を訪れたのは、何の運命の悪戯だったのか。
何度も何度も会いたいと願った過去には会えず、
忘却の彼方に消え去った今ここで再会しようとは。
私は皮肉を呪った。
愚かな神を呪った。
やはりこの世に神などいなかったのだろう、
そう思わずにはいられない。
男は時の流れの中で、
私の顔を消し去ってしまったのか、
私が私とは気付かなかったようだ。
無表情のまま、神父である私の横で神に祈りを捧げていた。
記憶の片隅にあった男の面影はもはや見えない、
男がもう老いていたからだ。
礼拝堂の広さが静けさをより強調し、
虚しさが募る。
老いた男が教会に通うようになって一月ぐらいか、
最近この領地に配属された男は国直属の騎士団の一員だそうだ。
何故その事を知っているかは単純な答えだ、
噂好きのシスターが真っ先に教えてくれただけである。
どうやら敬虔な信者である男の祈りは長い。
神父である私よりも長く長く、
男は祈っている。
老いた男の祈りの内容は分からない。
さりとてそれを知りたいとも思わない。
早く、帰ってくれないか、と。
私の心が呟いた。
年老いた男の顔を見ることが、苦痛だった。
「父上!やはりここにいらっしゃいましたか!」
男の長い祈りに、
いい加減飽き飽きしていた頃、
教会の静かな空気を打ち壊したのは一人の若者の声だった。
「アルベルトよ、何度言ったら分かるのだ。
ここは神聖な教会だ、大声を出すでない」
長く退屈な男の祈りを終わらせてくれて正直嬉しかった。
やっと長い祈りが終わる、
そう思っていたのだが、再び祈り始めた老いた騎士。
アルベルトと呼ばれた青年は私とシスターに気が付くと頭を下げた。
彼はこの男の息子のアルベルト、
彼もまた騎士団の一員。
若いながらも数々の戦果を挙げているらしい。
私は彼が少し苦手だった。
まっすぐで若い彼が眩しかったのだ。
小さく、心が苦笑した。
息子か。
あの時から、
老いた男に息子が生まれるほど時は経っていたのだと思うと、
時の流れの速さに感心する。
無駄に広い礼拝堂を、
正午の強い光が照らす。
この太陽の陽が私は好きになれなかった、
聖母の像の影を強すぎる明かりで掻き消してしまうからだ。
シスターとアルベルトが楽しそうに談笑していた、
人当たりの良いシスターはこの街でも評判が良い。
私とは違い、アルベルトともすぐに馴染んだ様だ。
私はどうやらアルベルトに苦手意識を持たれているようなのだ。
二人の会話はこちらまでも届く。
シスター曰く、
アルベルトはいま一番の出世頭のようだ。
「アルベルト、
貴方も教会にいらしたのでしたらお祈りをしておゆきなさい」
私は神父としてアルベルトに声をかける。
私の誘いに老いた男も頷く。
「ワタシはその――、
遠慮しておきます、神様にする悩みもないですからね」
と、笑いながら語るアルベルトの表情は無垢だ。
「ありがとうございました、今日はこれにて失礼させていただきます」
聖書を読む私に、
老いた男が頭を下げた。
祈りが終わったのだろう。
息子のアルベルトは父である男に続き、
私に礼をする。
私は笑みを返した。
愛想笑いが上手くなったのは、神父になってからだった。
「あの騎士様は毎日毎日礼拝に来ておいでですが、
よほど敬虔な信者なのでしょうね」
そうシスターが感心した様子で囁く。
神父様とは正反対、
と付け足した言葉に私は苦笑した。
正午を過ぎた優しい陽が聖母の影を薄く伸ばしていた、
私はその影を見つめ、ため息をつく。
明日もあの老いた男の礼拝を見守らないといけないと思うと、
心が沈むのだ。
紅茶を淹れましょうと微笑むシスターは優しかったが、
その優しさが少し苦手だった。




「夜分遅くに申し訳ない、
礼拝堂に入る許可をいただきにまいりました。
どなたかいらっしゃいますか!」
人々が静まる夜の平穏、
私は夜が気に入っていた、夜は静かで穏やかだからだ。
そして今日も一人夜を満喫していたが、
それを打ち破ったのは大きな声と鐘の音。
夜の来客も珍しい、
私は煩わしさを感じながらも神父として対応することにした。
ここは教会なのだ、
たとえどんな時間だとしても、
誰であったとしても救いを求める者を無下にはできない。
先日油を足したばかりの扉は音を立てることなく開いた。
そこにいたのはアルベルトだった。
それも普段の明るい表情は影を潜めている。
正直、私は驚いていた。
彼は神を、この宗教を信じていなかったからである。
それでも礼拝にきた彼は、
おそらく悩みでもあるのだろう。
何があったのかは分からないが、
私は彼を礼拝堂へと通した。
祈りの時間は僅かだった、
祈りで心が救われる人間も多いが、彼は違う人種だったのだろう。
「何かあったのですか?」
尋ねる私に、
どうしてそう思うのです、と、
そう答えたアルベルトは驚いた様子を見せている。
こんな夜更けに信仰心もない彼が礼拝堂を訪ねたのだ、
何もないわけがない。
私は苦笑したが、
答えることはしなかった。
「いえ、何もなかったのならば良いのです、
夜も更けています外まで送りましょう」
私はアルベルトを出口まで案内した。
朝の日差しに恵まれた昼間とは裏腹に、夜の教会は意外にも暗く、
慣れない人間は迷ってしまうことがあるのだ。
けれどアルベルトは私よりも先を歩き始めてしまった。
幸い、道は覚えているようだったので、
私は何も言わず彼から少しだけ遅れ続く。
外の景色が見えてきた頃、
アルベルトは足を止めた。
本当は私に何かを相談しに来たのだろう。
私は経験からそれを気付いていたが、
気付かないフリをしている。
聖書の神は救いを求めてきた者を平等に救うが、
私は人間だ。
話を聞いて欲しいのか、それとも慰めの言葉が欲しいのか、
それは分からなかったが、
相談したいのならば自らがそれを訴えるべきである。
私はそう思っていた。
アルベルトは振り返り私と対峙する。
もしかしたら私から切り出してくれる事を願っているのかもしれない。
けれど私は何も答えなかった。
手を差し伸べなかった。
しばしの沈黙、
それを破ったのはアルベルトの方だった。
「神父様――、懺悔を聞いてくださいますか」
「ええ、では応接の間に参りましょうか」
私は快く頷いた。
少しの興味が湧いた。
本当は私も、
若くまっすぐな彼の悩みに興味を引かれていたのである。
応接の間は礼拝堂の横の一室。
私たちは再び礼拝堂に戻ることになる。
聖母の像は再び私達を歓迎した。
「今日私は人を殺めてしまいました」
椅子に座るか座らないかの一瞬の間に、
彼は口を開いた。
そういうことか。
少し拍子抜けしていた。
最近よく聞く悩みだったからである。
思わず零れそうな苦笑を、私は噛み殺した。
アルベルトの悩みは若者がなりやすい一種の心の傷。
いまこの国は戦争をしている。
戦乱の世が終わりそれほど年月も経っていないというのに、
人間はよほど戦争が好きなのだろう。
騎士団は王の名の下に先陣を切り、敵を排除する。
けれど彼はもう何度も戦果を上げている、
つまり何人もの敵を殺めてきたはずだ、
何をいまさら敵を殺めたことで悩んでいるのだろうか。
「確かに彼は敵だった」
アルベルトは語る。
それは極々ありきたりな内容だ。
「けれど彼は命乞いをした、
彼には戦う意思も力ももはや残っていなかった。
それなのに私は王の名に従い、
彼を斬ってしまった」
そして今日私の階級は上がった、と、
そう苦々しく吐いたアルベルト。
拳を握るその姿。
王宮騎士といっても、王のお抱え戦争人を聞こえを良くしただけの名だ。
王のため、国のためならば他国への侵攻も行う。
戦争が起これば人を殺める。
国のため、民のため、王のため。
罪のない命を摘むこともあるのだろう。
アルベルトはまだ人を殺めることになれていないのだろうか。
いままでも多くの騎士の悩みを聞いてきた私には、
やはりそれは新鮮味を欠く悩みであった。
「それが国のためならば貴方が悔やむことはない、
国のための殺生なら神は許してくださる、そう国王さまもおっしゃっておいでです。
貴方が死者の浄化を望むことはとても良いことです、けれど悔やむことではありません」
彼をなだめる様に私は優しく諭す。
そう、
この国、この宗教では国のための殺生は許されている。
聖書にそう書かれているのだ。
そう書き直されているのだ。
国の都合のよいように、直されている。
それを知っているのは一部の人間だけだ。
宗教ほど戦力を高める素材はない、
国王もそれを知っていて利用しないはずがない。
いま彼に与えた言葉は、
国王から強制されている言葉でもある。
もし兵や騎士が戦争での殺生を相談に来たときには、
こう答えを出してやれ、と。
そう、この教会もすでに国に統制されていたのだ。
私もそれで良いと思っていた、
たとえ偽りの聖書であっても、人の心が報われるのならば、
それで良いのではないかと。
「けれど私は納得がいかないのです!
この国のためならば無実の人を殺めても良いというのですか!」
声を荒らげるアルベルトは、
机を強く叩き感情を剥き出しにしている。
丈夫ではない机はその感情に大きく歪んだ。
普段の穏やかな彼からは想像できないほどの闘志、
戦場に行った心がまだ完全に街に帰ってきていないのだろう。
しばらくして、
アルベルトはすいませんと謝り座りなおす。
木と木が擦れ合う音。
木造りの椅子が軋んだのだろう、
そろそろこの椅子も作り直さなければならないか、
私は苦笑した。
「けれど、けれどけれど。
私は納得がいかないのです、国のやり方に」
そんな事をいっても仕方ないとわかっているのだろう。
自分でも内心どこかで理解しているのだろう。
けれど割り切れない感情を、
私に聞いて欲しいのだろう。
ここはそういう場所だ。
やりきれない、割り切れない感情は私にも理解できる、
初めて彼に共感をした。
彼に好感が持てたのだ。
「少し、私の話を聞いてくれませんか」
そう思っていたら、口が勝手に言葉を発した。
「神父様のお話をですか……?」
「ええ、私の友人の話です」
私は語ることにした。
なぜだろうか、わからないが、
誰にも話したことのない友人の話を語りたくなったのだ。
もしかしたらアルベルトの迷いに、
何らかの変化を与えられるかもしれないと、
そう思ったからだろうか。
私は目を瞑り、
記憶の片隅に置いてきた彼の記憶を辿る。
「彼は気の弱い盗賊でした。
気の弱い彼は盗賊だというのに、
普段盗みに入る事はほとんどせず、
腹が減ったときだけ盗みを働き生きていました」
「盗賊と友人なのですか」
アルベルトは怪訝そうな顔をして私を見る。
内緒にしておいてくださいと、
私は苦笑した。
「彼は子悪党でした。
大きな盗みは度胸が足りず、行うのは小さな盗みばかり。
そんな彼を街の住人はみな蔑んでいました。
街の嫌われ者、厄介者。
ある日空腹だった彼は寒空の下凍えていました、
盗みに失敗し何日も物を食べていなかったのです。
このままでは飢えと寒さで死んでしまう、
そう思った彼は道行く人に助けを求めます。
少しで良い、ほんの少しでいいから食べ物を恵んでくれないか、と。
けれど街の人はみな、
嫌われ者の彼を助けようとはしませんでした」
「では盗みなど止めて働けばよいのです、
働かないからその彼は空腹なんでしょう」
アルベルトはやや憮然とした表情で呟いた、
まっすぐな彼には盗みを働く彼の心境など理解できないのだろう。
もっともな意見に苦笑しつつ、
私は首を横に振った。
「働きたくとも彼は働けなかったのです。
流れ者の彼には住むところもなければ身の保障をする者も誰もいなかった、
そんな不審者を雇うほど優しい雇い人はいなかった」
「たしかに――、
それでも働く術はあったはず。受け入れる人もいたはずです、
そう、例えばこの教会の様にたとえ誰であろうと受け入れる場所があったはずです」
しばし考えた間の後、
アルベルトは返した。
それは紛れもない正論で、いかにも騎士の彼が出しそうな言葉だった。
そうですね、と、
私は苦笑した。
思えば彼も教会や寺院を探せばよかったのかもしれない。
「けれど彼は無知だった、世間を知らなかった」
言葉を一瞬止め、
私はアルベルトの目を正面から覗き込んだ。
「アルベルト、教会が誰もを受け入れてくれると、
寺院はさもしい旅人の止り木になってくれると誰に教わりましたか。
一人で考え、一人で知ったのですか?」
「神学校で習いました。
その盗賊の彼はまじめに学校には行っていなかったのですか」
やはり憮然とした表情のまま首を横に振り、
アルベルトは問いかえす。
「いいえ、彼は神学校には通っていなかった。
通う金も、通わせてくれる人もなかった。
そして流れ者の彼に生き方を教えてくれる人もいなかった。
少なくとも彼には、
彼の中では盗みをすることしか生きる術がなかったのです」
騎士の暮らししか知らない貴方には理解できないかもしれませんが、
と心の中でだけ苦笑する。
それを私は口にはしなかった。
けれど雰囲気でかすかに伝わったのか、
アルベルトは眉を顰めていた。
そこでまた、
私は苦笑してしまう。
「その盗賊が何故盗賊になったのか分かりますか?」
「いえ、それだけではワタシには分かりかねます。
たとえどんな理由があろうとも人の道を外そうとする理由など、
わかりませぬ」
腕を組み、
椅子に強くもたれかかったアルベルト。
椅子がまた強く軋んだ。
やはり明日椅子を新調しよう、
そうどこかで思いながら私は目を瞑る。
「彼は幼い頃に父に捨てられたのです。
教養も金も愛情も優しさも何も与えられないままに、
彼は父から捨てられた。
当時は戦乱の世。
幼い孤児を拾う者もなく、彼が生きていくには盗みを覚えるしかなかった」
それが理由です、と、
私は苦笑しながら語る。
アルベルトは少し決まりの悪そうな顔をし、
私の瞳をまっすぐ見つめていた。
「盗みは悪、これは事実です。
けれど彼には悪を行わなくては生きる術がなかった、これも事実です。
この場合彼が生きるために悪を行うべきか、
それとも悪を行わず死ぬべきか、どちらが人として正しかったのでしょうか?」
貴方ならどう答えを出しますか、と。
私は彼に問いかける。
アルベルトは悩んでいた。
「紅茶を淹れましょう」
私は彼に笑いかける。
紅茶を淹れる音が、私は好きだった。
静かにコトコトと、
カップを満たす紅茶を見ていると、
落ち着くのだ。
好きこそモノの誉れなれ、
自慢ではないが私の淹れる紅茶は少し味に自信があった。
しばらくして、
「神父様、答えはどちらなのですか」
アルベルトは悩みに悩んだ末、
答えを出せなかったようだ。
「私にも分かりません」
私は苦笑しながら答える。
アルベルトは明らかに気分を害したようだった。
そしてアルベルトが何かを言う前に、
こう繋ぐ。
「答えなんてないんですよ、
この世にはどれだけ悩んでも答えが出せない問いもあります、
もし貴方が敵を討たなければ貴方が殺されていたかもしれない。
あるいは家族がその敵に殺されていたかもしれない、無実な村人がその敵に殺されていたかもしれない。
いま貴方がその敵を殺めたことが正義か悪か、
その問いに正しい答えはありません」
紅茶の揺らぎが、
目に映る。
なんとも偽善的な私だ。
「けれど私は神父です。
答えを出すことは出来ませんが、貴方を救う言葉はあります。
人を殺めたならばその分他人を救いなさい。
もし貴方がその敵を哀れだと思うのならば、
その者の魂が神に救われることをお祈りなさい。
神は貴方を見ていらっしゃいます、貴方が国のため神のために心を清めれば、
きっと神も貴方の罪をお許しになるでしょう」
それが私の答えです、と。
そう苦笑しながら彼を諭す。
どうしようもない心を誤魔化すには神に祈ればいいのだという、
都合のよい言葉だ。
「なんだか悔しいです、
ずるいです。
今のは神父様にはぐらかされたような気がします」
そうですね、と。
私は再び苦笑した。
「もしまた割り切れない感情に襲われたならここを訪れなさい。
貴方の話を聞くぐらいはできますからね」
若い彼に説教はあまり意味もなかったかと、
そう思ったのは彼が納得いかない様子で部屋を後にした時。
アルベルトは淹れた紅茶に手をつけていなかった。
まっすぐに生きてきた彼には、まだ世の不条理を理解できないのかもしれない。
それとも私の説法がヘタなだけかもしれない、が。
私は再び苦笑する。
アルベルトが手をつけなかった紅茶を一口、
心地よい甘さだった。
やはり私に人を救う道は向いていないのかもしれない。
まっすぐな彼が、
少しだけ羨ましかった。


アルベルトは翌日もやってきた。
正直、
想像もしていなかった。
彼が再び教会を訪れるとは思っていなかったのだ。
今日は悩みを相談しに来たわけではなかったようだ。
私は再び彼を部屋に通し、
紅茶を淹れる。
聖母の像は何も言わずに彼を歓迎していた。
刺激物の入った紅茶は本来教会では禁止なのだが、
私の信仰心はそれほど厚いものではない。
「今日はどうしたのですか。
悩みがあるのならばお聞きしましょう、
神に救いを求めるのならば共に祈りましょう」
「違うのです神父様」
アルベルトはどう切り出したらいいか悩んでいるようだった。
しかしこうしていても仕方ないと思ったのか、
口を開き始める。
「その――、
盗賊の友人の話です」
「昨日の話ですね、あの問いはやはり納得行きませんでしたか」
確かに、
まっすぐな性格なアルベルトには意地の悪い質問だったか。
私はすいません、と苦笑しながら謝る。
「いえ、私が気になっているのは彼はその後どうなったのか」
その事なのです、と。
アルベルトは私の目を見つめ問う。
「気になりますか?」
何故彼があの盗賊の事を気にするかは分からなかった。
特に理由もないのだろうか。
おそらく、
国に仕えるために生じた辛い現実から、少しでも目を逸らしたいだけなのだろうか。
私はしばし悩み、
それで彼の気が紛れるならと椅子を強く引く。
今朝新調したこの椅子は、まだ私には馴染まず、
違和感が腰を打つ。
「そうですね、では彼のその後を話しましょう」
どうしたことか、
私はアルベルトに彼の話を続ける気になった。
彼のことを話したことはほとんどないのだ。
私は片隅に残る彼の記憶を頼りに、
眼を瞑る。
「毎日毎日盗みを働いていた彼も遂に捕まることになります。
悪はいつまでも続くことはありませんからね」
「やはり彼は悪だったのですか!」
急に声を上げたアルベルトに、
私は頭を悩ませる。
しばらくして、
彼は昨日の問いにまだ答えを出せていないのだと気が付く。
「そう彼は悪です。
少なくとも生きるために悪を働いていました、それは事実なのですから。
警備に捕まった彼は裁判にかけられることもなく投獄されました。
当時はまだ戦乱の時代、
街の復興が咎人の仕事になります」
「――咎人に街の復興をさせていたのですか?」
ええ、そうです、とやはり私は苦笑する。
きちんと神学校で習っているはずですよ、と付け足すと、
アルベルトは顔を赤くした。
あまり成績は良い方ではなかったらしい。
意外な事実に内心では笑みを浮かべていた、
まっすぐな彼はてっきり成績も優秀だと思っていたからだ。
もちろん本人の手前、それを顔に出すことはしないが。
「そこで彼に転機がやってきました。
彼はいままで生きるために悪を行ってきましたが、
法に捕まり、懲役である街の復興をしている内にはじめて労働の悦びを知ったのです」
そう、彼はそこで初めて喜びを知る。
小さな小さなあの街で。
あの優しく残酷な街で。
「彼は模範囚でした。
初めて体験する労働と粗末でもきちんと与えられた食事。
普通は過酷だと思われる投獄先の監獄も、夜空で寝ていた彼にとっては暖かいもので、
彼は誰よりも働き笑っていました」
「囚人なのに笑っていても良いのですか?」
そう不思議そうに首をかしげるアルベルトに、私は頷く。
今日のアルベルトは質問ばかりだ。
懲役というのは罪を懲らしめるだけのものではなく、
罪を犯したものを更生させる意味もあるのだと教える。
アルベルトは少々世間知らずな所もあるようだ、
おそらく父に少し甘やかされて育ったのではないだろうか。
そう思うと、
苦笑は自然と零れた。
アルベルトの父。
あの年老いた騎士は今日も祈りを捧げに来ていた、
あの男は何を祈っているのだろうか。
さりとてやはり、その祈りの内容を知りたいとも思わない。
「そんな彼に街の人々が心を許し始めたのはいつの頃か、
真剣に街の復興を行い、
懸命に生きる彼は街の人に感謝さえされるようになりました。
感謝された事で男の性格も変わります、彼は優しくなった。
老人にも子どもにも男にも女にも、誰隔てなく優しくなった」
彼が街の人に受け入れられたのはちょうど一月と三日。
彼はその日女性から焼き物のお菓子を貰ったのだ。
彼はその時、幸せだったのだろう。
その時の彼の気持ちを思うと、心に静かな波紋が生じる。
紅茶が揺れた。
アルベルトが身体を動かしたのだろうか。
そう、話を続けなくては。
「父に捨てられ、孤独に生きてきた彼には嬉しかったのでしょうね、
他人に認められることが、
存在を受け入れられることが、
嬉しかった。
他人に優しくすれば自分も優しくされるのだと、
初めて知ったのです。
彼にとって何もかもが新鮮だったのです」
「彼は幸せになったのですね」
アルベルトは安心したように声を上げた。
アルベルトは盗賊だった彼に感情移入でもしているのか、
まるで自分の事の様に喜んでいるかのように見える。
きっと私の話を童話を聞くように耳を澄ませているのだろう。
疎ましいくらいまっすぐな性格だ、と。
私は苦笑した。
これから語ることは彼にとっては残酷な事実かもしれないからだ。
紅茶を一口。
砂糖を入れすぎたせいか、紅茶は甘すぎた。
けれど彼は街の人々から裏切られました、と。
アルベルトの真剣なまなざしから目を逸らしながら語った時、
彼が息を呑むのが分かる。
「人と言う生き物は時として残酷です、
人気者になった彼を疎む者が現れました。
人気者の彼を強く慕う女性ができ、その女性を古くから慕っている男がいた。
男は彼が憎かった。
いっそ殺してしまいたいほどに憎んでいたのでしょう」
古くから伝わる皮肉。
たとえ神だとしても、その三人を皆平等に幸せにすることは出来ない関係。
「彼はある日呼び出されました、
暗い暗い街の外れです。
本来囚人にそんな自由はありませんでしたが、彼は模範囚で信頼もされていた」
思えばその自由がなければ彼に不幸は訪れなかったのかもしれない、
けれどそれは今ここで問うても意味のないことだ。
「そして、呼び出された先で彼はとても酷い扱いを受けました」
「酷い扱いですか」
そう酷い扱いだった。
何故だろうか、
私は直接それを言葉にするのを躊躇った。
まっすぐな性格なアルベルトには、
似合わない言葉だったからだ。
「彼は心を殺されたのです」
意味は分かりますね、
そう尋ねるとアルベルトはあからさまに嫌悪した表情で頷く。
「やっと人生の幸せを感じていた彼の心は傷つきました、
汚されました。
彼の心に小さな闇が生まれたのはその時だったのでしょう」
紅茶を一口、
少し甘すぎるか。
白湯を注ぎ、
やっとちょうど良い甘さになる。
淹れたての湯気が肌をくすぐった。
「彼は恨みました。
けれどまだ彼は人を信じていた、
自分を受け入れてくれた街の人々を信じていたのです。
街の人々に自分が受けた不幸を打ち明け助けを求めました。
きっと自分の仇を討ってくれると、
自分を汚した男を断罪してくれると」
けれど、何も変わらなかった。
誰も助けてくれなかった。
「彼の信頼が踏みにじられたのはすぐでした、
彼の言葉は嘘だと断言され、
彼は嘘吐き者だと街の噂になります」
何故嘘だと思われたのですか、と。
アルベルトは悔しそうに問う。
紅茶が波紋を作り、
姿勢すら変えずに話を聞きいるアルベルトを映し出す。
「不幸な事に彼の心を殺した男は表向きは人徳者でした、
街の人からも評判の良い好青年だったのです。
表向きは好青年の男と、人気ではあるが咎人の囚人、
街の人々が信じるのは前者でしょうね」
そう伝えると、
アルベルトは悲しそうに眉を顰めた。
次々と新しい表情を見せるアルベルト。
私はその度にアルベルトの内面を覗き込めた気がして、
不思議な気分になる。
「けれどまだ彼は信じていた。
自分の事を信じてくれる人がいるはずだと。
信じて信じて、
彼は生きていました。
嘘吐きと罵られ、街の人の好奇な眼差しにも耐え、
信じていた。
いつか誰かが信じてくれるだろうと」
信じることは美徳だったが、愚かだ。
アルベルトが動いたのだろうか、
紅茶が揺れ波紋を作った。
カップに手をつけ、
紅茶を一口。
少し甘さが足りなくなっていた。
白湯を足しすぎたせいか、砂糖を足してやっと落ち着く甘さになる。
姿勢も変えずに耳を傾けるアルベルトに、
話の続きを離さなければならない。
私は目を瞑り、
続けた。
「そんな彼が再び裏切られたのは一月した頃でした、
再び町外れに連れ込まれ心を殺されたのです。
犯人はあの女性を慕っていた男ではありませんでした、
人気者だった時の彼を疎んじていた同じ囚人の男。
囚人の男は彼だけが人気だった事が気に入らなかった、
妬ましかった。
ただそれだけの理由で男は彼を辱めた。
男の暴行に彼は抵抗しました、必死で抵抗しました。
死への恐怖が彼を襲ったのでしょう、
このままでは心だけなく身体までも殺されてしまう、と。
――そして、
彼は恐怖に勝てなかった。
初めて人を殺めてしまったのです」
抵抗の末の殺生でした、
今の世ならば不可抗力として罪に問われることはないでしょうがね、と。
私は繋ぐ。
アルベルトはやはり眉を下げたままだ。
「街の人々は彼を恐れました。
やはり咎人は咎人だったのだと。
殺さなくては殺されていた、
彼は何度も説明しました。
信じていたから、
街の人々は自分を信じてくれると、
信じていた。
けれど何度説明しても、失われた街の人々の信頼は帰ってきませんでした」
彼はついに街の人々を信じることを止めた。
人を信じる愚かさを、
そこで初めて知ったのだ。
「彼は人を殺めたことにより再び投獄され、
もっと過酷な土地へと送られていきました。
街の人々は皆喜びました、嘘吐きで恐ろしい殺人鬼が街からいなくなると。
檻にいれられ馬で運ばれる彼に、
街の人々は石すら投げて彼の追放を喜んだのです。
彼は泣きました。
声を荒らげて泣きました。
過酷な土地に送られた事が辛かったのではありません、
彼は信頼していた街の人々に裏切られたことが何よりも辛かったのです。
人を殺めてしまったことは勿論罪です、
けれど悪かったのは彼だけでしょうか、
彼はそのまま心を殺され続けていたならば正義だったのでしょうか。
私には分かりません」
貴方ならどう答えを出しますか、と。
私はアルベルトに意地の悪い問いを出した。
アルベルトは俯き、
目を閉じていた。
そこで初めて紅茶に口をつけ、
そして再び目を瞑り考えている。
横に添えられた砂糖も忘れて、
アルベルトは紅茶を飲みきってしまった。
「――もうこんなに遅くなってしまいましたか」
お父上も心配していることでしょう、今日はもうお帰りなさい、と。
そう優しく諭し、私は彼を部屋の外へと促す。
「もし彼の話の続きを聞きたいのならば、
またここを訊ねてきなさい。
もう聞きたくないのならばそれもまた良いでしょう。
けれどアルベルト、答えは自分で出しなさい。
誰かに決められた、教えられた答えはきっと貴方のためにはなりません」
分かりました、
そう苦笑する彼も分かったのだろうか。
この世には割り切れない、
正義か悪か答えの見つからない現実があるのだと。
そして神はそれを救うこともできないということを。
「明日はお茶菓子を持ってきます、
だから彼のその後を教えてもらっても良いでしょうか?」
アルベルトは彼の物語がどうしても気になるのだろう。
彼のことを語っても良いのか、
それとも私の記憶の片隅だけに彼を閉じ込めておくべきなのか。
私はしばし悩み繋ぐ、
「お茶菓子ですが、焼き菓子だけは止めてください」
「教会で焼き菓子は禁止なのですか?」
アルベルトは驚いたように声を漏らす。
いえ、焼き菓子は嫌いなんですよ、
と、そう苦笑しながら答えた私に、
アルベルトは拍子抜けしたのか、
狐に摘まれたかのような顔を浮かべていた。


聖母の像は何も言わず私たちを歓迎する。
「彼は再び心を閉ざし悪の道を進みました」
紅茶が揺らぎ、
小さく音を立てる。
アルベルトが身を乗り出したからだ。
「かつて模範囚だった姿はもはや無く、
彼は嫌われ者でした。
彼が誰も信用しようとせず、本当に嘘ばかりつく性格になってしまったからです。
誰も信用してくれないのならば、
真実など口にする必要もないと、
彼はそう思ったのでしょう」
淹れた紅茶を一口し、
その甘さを誤魔化すためアルベルトが持ってきた菓子に手を伸ばす。
貴族の料理人が発明したという芋を細く刻み揚げたこの菓子、
最近では街の中でも広がり一つのブームを起こしている。
確かに評判になる美味しさだと微笑んでしまう。
美味しいでしょうと満足そうに言われ、
私は苦笑した。
この歳で菓子の美味しさに笑みを浮かべてしまった事が恥ずかしかったのだ。
この菓子の礼もある、
彼に話の続きを聞かせて上げねばならない。
私は再び目を瞑り、
記憶の片隅に忘れてきた彼の記憶を追った。
「獄中の生活は地獄そのものでした。
反抗的だった彼はすぐに看守に仕置きされ独房で罰を受けます。
罰といっても労働の妨げにならないよう加減はされていましたが、
毎日毎日折檻の痕が増える彼の心はますます沈んでいきます。
嘘ばかりつく彼には同じ虜囚の中に仲間もできず、
一人ぼっち。
一人ぼっちの方が幸せだと、
彼は言っていました。
今思えばそれは彼の強がりだったのでしょう」
と、私はまた苦笑する。
彼の話をすると私は苦笑ばかりだ。
それほどに彼は若く無知だった。
そして私は再び紅茶を一口、
紅茶の甘さが何故か薄くなっていた。
おそらく芋の菓子が舌の甘さを軽減させたのだろう。
「そんなある日彼は一人の男と出会います。
男は看守の一人でした、男はこの監獄の中で悪い噂のあった男で、
ある意味でこの監獄で最悪の男と呼ばれていました」
「最悪な男ですか?」
そうある意味でですね、と私は苦笑する。
「看守は男を愛する同性愛者だったのです。
同性愛はもちろん罪ではありません、少なくともその国ではの話ですが。
けれど男は立場を悪用し他人を陵辱する事を好んでいた、
一種の性的錯誤者だったわけですね。
そして若かった彼が狙われた」
紅茶が波紋を揺らす。
アルベルトは強く私を見つめていた。
やはりそのまっすぐな視線は、
苦手だった。
「その日も反抗的な態度をとっていた彼は独房にいれられていました、
そして男がやってきます、歪んだ欲を満たそうと彼を辱めるために。
必死に抵抗する彼でしたが彼はその内抵抗をやめてしまいます、
何故だか分かりますか?」
しばし悩み、
アルベルトは口を開いた。
「その看守と、その――……、
同衾すれば監獄生活が有利になると思ったから」
でしょうか、と。
アルベルトが少し恥ずかしそうに答える。
その問いに私は首を横に振った。
「彼は誰でも良かったのです、
愛してくれるならば誰でも。
そう看守は彼に愛を囁いたのです。
いままで誰からも愛されたことの無かった彼には嬉しかったのですね」
その時の彼の心を思うと、
胸は静かに嘲笑した。
「男でも女でも、
子どもでも老人でも動物でもたとえそれが悪魔だとしても。
愛してくれるのならば誰だって、良かった。
優しくてしてくれるのならば誰だって、
嬉しかった。
その人の温もりが新鮮だった。
彼にとっては救世主だったのです」
聖書のメシアはいつでも万能だが、
現実は違う。
私はいつも思う。
聖書を読むたびにこの書の皮肉を。
この書は人類最大の救いの書だ、
いつまでも救われる事のない弱き浅はかな信者の心だけ救う、
救いの書なのだ。
現実に現れぬ救世主もこの書ならば簡単に出会うことが出来る。
だから、
信者は増え続けるのだろうか。
「彼が望むも望まぬも、
彼の獄中での生活は強い味方ができたおかげで安泰でした。
仲間からは相変わらず外されていましたが、
いえ――いままで以上に彼は除け者にされていた、蔑まれていましたが、
それでも良かった。
自分を必要としてくれる、
愛してくれる看守がいたならば、
それが彼の初めて手に入れた幸福でした」
アルベルトは黙って話を聞き続ける。
やはり紅茶に手をつけてはいない。
もしかして紅茶はあまり好きではないのだろうか。
そうぼんやりと思いつつ、
私は紅茶を継ぎ足し一口。
話をしていると口が渇くのか、いつもより喉が渇くのだ。
紅茶は甘く私の喉を潤した。
私は続ける。
「けれど看守は勿論彼を愛してなどいませんでした、
愛を囁けば素直に身体を許す彼を、
便利に使っていただけなのですから。
彼以外はみな気付いていました、知っていました。
それほどに愛を知らない彼は愚かだった。
彼だけが幻の優しさを盲信し、溺れた」
紅茶は再び甘くなくなった。
私は砂糖を二欠片。
「ある日自分を信じきっている彼を利用し、看守は彼を裏切ります。
僅かな代価で仲間の看守に彼を売ったのです。
彼は一年の月日で成長し、
看守の好みではなくなってしまったからです」
看守は少年愛の気もあったわけです、と。
苦い顔をし繋ぐ私にアルベルトはあからさまに眉を顰めた。
「彼は看守の仲間に再び心を殺されました。
限られた自由しかない監獄生活の中、
看守に抱かれていた彼は欲求を抑えていた男達の、性欲の捌け口には丁度良かったのでしょう。
けれど彼は抵抗した、看守の仲間は彼に愛を囁かなかったから。
抵抗を続ける彼は激しく暴行され、
そして捨てられました。
あまりに酷い暴行で彼が死んだと思われたのです、
獄中で人が死ぬのはよくあること、
そしてあそこはどこよりも過酷な監獄でした。
彼は虫の息のままに捨てられます、肉の塊の中に」
思えばその場で死んでいれば、
彼はまだ幸せだったかもしれない。
信じていたメシアの裏切りに気が付くことなく朽ちていくのだから。
「そこはホラアナとよばれる囚人の遺体の捨て場でした。
当時は道徳観も薄く、今の様に囚人の遺体は墓に眠ることが許されなかった。
廃棄場と共に深く掘られた墓穴です」
アルベルトには少し残酷な話かもしれない、
一瞬話をするのを止めようか、それとも嘘の事実を付け足すべきか、
悩んだが私は真実を伝える。
もうアルベルトも成人なのだ、
こうした現実を知ることも必要かもしれない。
「彼は待ちました、
事切れた囚人が数多く横たわる肉の海の中。
信用していた信頼していた看守は必ずやってきてくれると、
待ち続けていたのです」
「……――」
話の続きが気になるのかアルベルトは姿勢も変えず、
ただまっすぐ私を見つめる。
私は心までもまっすぐに覗かれたような気がして、
視線を落としてしまった。
それほどにアルベルトの視線はまっすぐ透き通っているのだ。
姿勢を変えないアルベルトとは裏腹に、
私は少し体勢を変える。
まだ新調したばかりの椅子が腰に合わない。
「彼は待ちました、待ち続けました。
静かで暗い穴の中で待ち続けたのです。
看守が自分を裏切るはずがないと、
自分を助けにやってきてくれると。
待ち続けることしかなかった、
待ち続けることしかできなかった。
一日、二日、
時間だけが過ぎていきました。
仲間が腐る匂いを感じ、彼は死の恐怖に怯えます。
声に出せない悲鳴を上げて。
彼は泣きました。
泣き続けました。
けれど深い深い穴の中では。
誰一人彼の泣き声を聞くものはいません」
看守はとうとう助けにはきませんでした。
「彼は死んでしまったのですか?」
アルベルトは悲しそうに、心配そうに問う。
「いいえ、彼は生きていました。
彼の胸に希望が生まれたからです」
「そんな状況で希望―ですか?」
アルベルトは怪訝そうに呟く。
「復讐という愚かな希望です。
彼はあの看守に復讐することだけを心根に生き永らえました。
少なくとも彼にとって復讐だけが希望になった。
生きる意味になったのです」
憎悪が時に希望になる。
それは皮肉であったが真実だった。
「けれどおかしいです、
そのような場所で生きていくことなどできるはずがない」
第一食料が無い、と口を開いたアルベルトは一つの答えを見つけ、
顔を大きくゆがめ呟いた。
人を、死肉を食べたのですね、と。
その呟きに私は小さく頷いた。
紅茶を一口し、
私は苦笑する。
「そう、彼の罪は大罪です、
聖書でも厳しく罰せられる許されざる大罪です。
けれど彼はソレを食べなければそこで息絶えていた。
復讐を果たすことも出来ず、亡くなっていた」
蒼白するアルベルトに、
私はしばし悩む。
やはりアルベルトには重い話だったかもしれない。
少し休みましょうかと提案する私に、
アルベルトは首を横に振った。
続きが気になるのだろう。
私は苦笑し、
続ける。
「結果から話しましょう、
彼は復讐を成し遂げられなかった」
「何故です!彼は人としての大罪を犯してまで生き抜いて、
看守に復讐したかったはずです!」
それなのに、何故!
そう叫ぶように声を上げた時、
初めてアルベルトは自分が立ち上がり声を荒らげた事に気が付いたのだろうか。
すいませんと、私に謝り再び椅子に座りなおす。
けれど、何故、
とアルベルトは心で何度も何度も反芻しているのだろうか、
小さく何かを呟いていた。
天を仰ぎ、
「彼が看守を愛していたからです」
私の渇いた喉から風が切った。
――あんな酷い仕打ちを受けても、
たとえ偽りだったとしても、
裏切られていたとしても。
初めて与えられた救いの手の温もりに、
その温かすぎた記憶に。
彼は負けたのです、と。
私はそう続けた。
私の答えに、
アルベルトは何も言わなかった。
何もいえなかったのか。
私には若き彼の心中を読むことはできなかった。
「彼が口にしたソレは大罪です、悪です。
それは揺ぎ無い事実。
けれど生きるためにソレを口にするしかなかった。
彼は悪でしょうか?
それとも復讐も果たせず、息絶えていくのが正義だったのでしょうか、
私には分かりません」
貴方ならどう答えをだしますか、と。
私はアルベルトに問う。
答えなど無い問いに、
彼が答えられるはずも無い。
けれど自分なりの答えを探さなくてはいけない、
それが生きることなのだろうと、
私はそう思っている。
少なくとも私はそう信じている。
「今日は少し重い話でしたね、
貴方も疲れたでしょう。
ゆっくり休みなさい」
席を立つ私に、
アルベルトは声を上げた。
待ってください、と。
「何でしょうか?」
私は彼の言葉を促す。
アルベルトはまっすぐに私を見つめながらも、
迷うように瞳を揺らしていた。
「もし仮に神父様が彼と同じ境遇だったとして、
もしその彼と同じ状況だったとして。
神父様だったらその看守に復讐を果たしたでしょうか?」
「そうですね、私は彼ではないので分かりませんが」
きっと泣いて縋ったのでしょう、
と、そう苦笑しながら答えた。
アルベルトは何も言わなかった。



聖母の像は今日も私たちを歓迎していた。
次第に寒さを強める季節に負け、
とうとうこの部屋の暖炉に頼ることになった。
枯れた枝が、
小さくはじけ頬を掠めた。
「死んだ扱いとなった彼が監獄を抜け出したのはすぐの事。
復讐を恐れたあの看守が彼を外に追い出したのです。
彼は自由を手に入れました。
何も持たずに、自由を手にいれました」
淹れ立ての紅茶が揺らぐ。
今日の紅茶はシスターが新しく購入した特級品。
毎日訪れるアルベルトのためにと、
シスターがサイフの紐を緩めたのだ。
値段ばかりが高いこの紅茶は、
少し苦い味がした。
私には合わなかった。
砂糖を二欠片、やっといつもの甘さに戻る。
その甘さに、私の心は落ち着いた。
「人を憎むようになった彼は街に出て天職を見つけました。
当時の世はまだまだ戦乱の時代。
彼がたどり着いた国では内乱の真っ最中でした。
どんな流れ者でも傭兵として雇われる時代、
彼はすぐに傭兵として戦果を発揮します」
ちょうど十年前ぐらいですね、
そう珍しく口を挟んだアルベルト。
あまり歴史に詳しくないアルベルトの口から、
そんな言葉が零れるとは思っていなかったので、
私は思わず笑ってしまう。
そう、あれは十二年前だったか。
「彼はいままでの不満や怒りを戦争にぶつける事で生きる事にしたのです。
その狂気すら孕んだ殺意は今でもその国では戦鬼として伝説になるほどで、
それほどに彼は人を殺しました。敵を殺しました」
いまこの国での戦争と彼の事が少しだけ重なるのか、
アルベルトはいつもは見せぬ憂いを覗かせた。
「彼は英雄になりました。
誰よりも敵を殺したからです」
紅茶を一口、
程よい甘さに心は落ち着く。
「戦神として祭り上げられた彼の一生は変わります。
敵を殺せば褒められる、
敵を殺せば他人に認められる。
敵を殺すことで彼に居場所が与えられる。
その現実に彼は喜びました。
彼は初めて与えられた自分の居場所が嬉しかったのです。
彼は彼が彼でいても良い場所が嬉しかった」
引いた椅子が軋み、
再び紅茶を揺らした。
「長い内乱は彼の手によって終わりを告げます、
それは彼が内乱の首謀者の一味を一人残らず手にかけたからです。
彼は英雄として本格的に国に受け入れられました。
けれど彼は知っていました。
人間の裏を汚れを、知りすぎていました。
彼は知っていたのです、すぐに彼が貶められることを。
彼は怯えました。
けれどどこかで覚悟もしていた」
アルベルトが動いたのだろうか、
紅茶が波紋を作っていた。
「内乱が終わった国で、
英雄だった彼は邪魔だった、
一つに戻った国に誰よりも命を奪った彼は邪魔だったのです。
彼は罪もない街人さえも殺めていたと咎められます、
それが国の命令であったとしても、
その罪は全て彼に押し付けられました。
彼は申し開きをしなかった、
何を言っても信用されないのだと知っていたから、
全ての罪を背負い彼は人殺しと罵られます」
彼はまた信頼していた人から裏切られたのです、と、
私は紅茶を見つめながら繋げた。
紅茶を一口、
何故かまだ少し苦い。
砂糖を一欠けら足し、
もう一口。
やっと落ち着く甘さになった。
「彼が英雄から戦鬼へと、
英雄から厄介者へと貶められ、その噂が街全体に広がったのはすぐのことです。
強すぎた、人を殺しすぎた彼を街の人たちは疎みます。
内乱で二つに分かれていた国とはいえ、
国民の中で彼に知り合いを殺された者も多かった。
友を、家族を、想い人を、
彼に殺されたものも多かった。
それほどに彼は敵を殺しすぎた。
内乱というどうしようもなかった現実を、
その憤りをぶつける相手を国民は探していた。
国に逆らえば殺されてしまうかもしれない、
けれど流れ者の彼を責めても誰一人咎めるものはいなかった。
彼を咎める者も初めは少数でした、
元をただせば国のせいで起こった内乱だと知っていたから。
けれど時が経つにつれ彼を虐げるものは増え続けます、
国民は一方的に虐げられる事のできる相手を求めていた。
そして、
とうとう国から追放された彼は着の身着のまま、
関所の外へと連行されます」
彼を助けるものは誰もいなかった。
彼を助けると、
自分が仲間外れにされると国民は知っていたのだから。
紅茶が揺れた、
大きく揺れていた。
「けれど彼はもう泣かなかった。
人間の汚れを知っていたから、もう泣かなかったのです。
裏切りの連鎖に絶望するほど、
彼はもう人を信じていなかった」
紅茶を一口、
砂糖を足してもう一口。
「彼は自分の居場所を探しに様々な国を訪れました。
訪れた国で戦争に参加し、彼は殺し続けた。
逆らうものも、縋るものも、罪もない人々も、
誰よりも殺し、誰よりも戦果を挙げた。
言われるままに、国のために全ての敵を殺し続け、
また英雄へと祭り上げられ、
そして厄介者として陥れられる。
何度も何度も繰り返し、
とうとう彼は誰も信じなくなった。
けれど彼はそれでも良かった、嬉しかった。
たとえ戦争の一時だけでも、
彼には居場所が認められた、存在を受け入れられた。
戦乱の間だけは国から街から仲間からも信頼されていた。
たとえ戦乱が終われば邪魔者として追い出されようとも、
ただ一時でも居場所があるのならば、
それでよかったのです」
彼の不幸は戦争で死ねなかったことでしょう、と。
私は呟いた。
アルベルトは瞳を閉じ、
複雑な顔を浮かべ私をまっすぐ見つめた。
そのまっすぐな視線も、前ほどには疎ましく思わなくなっていた。
「やがて戦乱の時代も終わりを告げます、
彼はとうとう居場所を失ってしまった。
彼は嘆きました、
戦いを求め、居場所を求め、
世界各地を彷徨いました。
けれどもはやどこからも戦争の火はあがっていなかったのです」
それでも国はまた戦争をはじめている。
この国もまた戦争を始めている。
彼はあれほど戦を求めていたのに――、
私は苦笑した。
「その後時代は彼に最大の皮肉を与えます。
戦乱が終わり次第に彼は世界から賞賛されました、
彼が世界各地で戦争を行い勝利していたことが噂になったのです。
戦乱が終わり廃れていた世界には救世主が求められていました、
そして彼が崇拝された。
世界各地で戦い続けた彼は彼の意思とは反し、
世界の戦争を終わらせた英雄として誰からも認められる存在になったのです。
皆が彼を救世主と称えます、
皆が彼を我先にと国に迎え入れようとします。
いままでの扱いを忘れてしまったかのように、
彼を称え彼の武勲を賞賛する国が次々と現れました。
けれど彼はもう誰一人として他人を信用していなかった、
彼が閉ざした心はもはや誰も開ける事は出来なかった。
人の醜さを避けるように、
彼自身もどこかに消えてしまった。
彼は世界の歴史から、人々の記憶からも忘れられていった」
皮肉だった。
彼は戦争によって親から捨てられ、
戦争によって労働を知り、
戦争によって幸せを知り、
戦争によって居場所を手に入れた。
そして戦争によって、
彼は居場所を失った。
思えば、
戦乱の時代に生まれなければ、
彼の不幸は始まらなかったのかもしれない。
けれどこれが、
どうしようもない現実なのだろうか、
人として生きるという事なのだろうか。
分からなかった。
紅茶が激しく揺れた。
アルベルトは姿勢を変えずに、
ただまっすぐに私を見つめていた。
「居場所を求めるために、罪もない人を殺し続けた彼は悪でしょうか、
それとも結果として戦争を終わらせた彼は救世主でしょうか。
私には分かりません。
――私には、
答えを見つけ出すことができなかった」
貴方ならどう答えをだしますか、と。
私は問う。
アルベルトはやはり何も答えなかった。
彼の視線はただ静かに、
私を見つめていた。
これが私の知っている彼の物語です、と。
私は椅子に深く座り直し苦笑した。
アルベルトはやはりまっすぐに私を見つめ、
静かに礼をした。
空間が止まってしまう。
時が休んでしまったかのように、
二人とも何も言わなかった。
何もいえなくて、
ただ黙って紅茶を飲んだ。
カップが揺れて、
もう一口。
紅茶を飲みきってしまい、
継ぎ足そうとしたが、
もう紅茶は入っていなかった。
これでアルベルトが私を尋ねてきてくれなくなるのだと思うと、
寂しかった。
なぜかそう思うのだ。
私は悩んでいた。
声をかけるのは簡単なはずだ。
普段の神父の仮面を被り、
もし良かったら明日も礼拝にきませんか?
そう苦笑しながら言うだけでいいはずなのに、
私は言えなかった。
怖くて、
言えなかったのだ。
だが決意して、
それを声に出そうとしたときだ。
「明日も紅茶を飲みにきても良いでしょうか?」
思ったらちゃんと味わったことがなかったので、と、
アルベルトは笑いながら私に願った。
私が口を開く前に、
アルベルトは私に救いの手を伸ばしたのだ。
私は快く頷いていた。

彼の物語を語り終わった後も、
アルベルトは毎日教会に訪れるようになった。
私は少々煩わしさを感じる事がある、
まっすぐな彼の性格が、あまり好きではなかったからだ。
「最近の神父様、毎日が楽しそうで羨ましいですわ」
シスターが芋を擂りながら笑った。
今日はマッシュポテトを作るのだと張り切る彼女。
そんなことはありません、
と私は苦笑しながら答えるがシスターは笑ったままだった。
街は聖なる夜を迎える準備を進み、活気だっていた。
私も少しだけ、
活気だっている。
今日はアルベルトと共に劇を見る約束をしているのだ。
夕刻に街の時計塔で会いましょうと、
まっすぐに私を見つめたアルベルト。
別に私は劇など見たいわけではなかったが、
アルベルトがどうしてもと誘うので、
私は仕方なく行くつもりだった。
劇を見ることが初めてだったので、
少し興味もあった。
待ちきれなかったわけではない、
けれど予定の時間よりもだいぶ早く時計塔についてしまった。
時間が経つのが遅く感じる。
時計を見てもまだ約束の時間までには程遠い。
また時計を見て、
苦笑して。
また時計を見て、
苦笑して。
時間にはまだ程遠いのに、
私は待っていた。
そろそろ来る頃だろうか、
私は時計を見た。
時計を見て、
苦笑して。
時計を見て、
また苦笑して。
待ち合わせの時間だ。
アルベルトはまだ来ない。
雪が降り積もってきた。
待ち合わせの時間になってもアルベルトは現れない。
何か用事でも出来たのだろうか。
騎士である彼に急用ができたとしても不思議ではない。
あと十分ほどしても来なかったら、
今日はもう帰ってしまおう。
アルベルトは今日を楽しみにしていたみたいだが、
私は別にそれほど楽しみにしていたわけではない。
十分経った。
もしかしたらもう少し遅れてくるかもしれない。
アルベルトがあんなに楽しみにしていたのだから、
私は仕方なく待った。
一時間経った。
陽はもう暮れ、雪はますます積もっている。
少し寒かった。
二時間経った。
あと少ししたら、
もしかしたら来るかも知れない。
どうしてだろうか、
私は何故か帰ることができなかった。
吹雪が辺りを瞬く間に白い海に変えていた。
怖くて、
もう時計は見れなかった。
きっと用事が出来たのだろう。
きっと仕方がなかったのだろう。
けれどもし私が先に帰ってしまい、
その後アルベルトがここにきたならば、
きっとアルベルトは寂しいだろうと。
だから私は待った。
いつまでも待っている自分の愚かさに、
いつもの苦笑は零れなかった。

「昨日はすいませんでした」
そう深々と頭を下げたアルベルトに私は苦笑を返した。
やはり昨日は王命で隣の街に派遣されていたらしい、
妙な安心感が私を満たす。
それに、
別に昨日はそれほどに楽しみにしていたわけではない。
「もしかしたらずっと待っていたのかと心配していたのですが――…」
「時間を過ぎても来なかったのですぐ帰りましたよ、
雪の中待っているのも阿呆らしいですからね」
「そうですか、良かった。
本当にすいません、せめてものお詫びに昼をご馳走させてください」
アルベルトは何度も頭を下げ、
私の前で手を合わせる。
負い目を感じているアルベルトの気を晴らさせてあげるため、
私は渋々その申し出に従った。
二人で出かけることが増えたせいか、
シスターは仕事が増えましたと笑いながら口を開いた。
シスターに留守を任せ、
私はアルベルトに連れられ街に出る。
街の中心の噴水を通り過ぎ、
アルベルトが馴染みにしているという店に入る。
初老の女性が腕を振るうこの店は見た目はともかく味はいいのだと、
アルベルトが小さな声で私に伝えた。
見た目も最高だよ、
とウィンクしながら店主が料理を並べた。
「どうやら聞こえていたみたいですね」
アルベルトを揶揄するように私は彼に向かい苦笑した。
たしかに見た目はともかく味のほうはしっかりしたものだった。
アルベルトが勘定を済まそうと店主を呼んだ時だ、
「あれアンタもしかして中通の教会の神父様じゃないかい?」
「はい、そうですか。何か」
「いやね、たいした用じゃないんですけど、
昨夜神父様が時計塔の前で、一晩中お祈りしていたって街で噂になってましてね、
あの吹雪の中で一晩中何を祈ってらしたのか聞けたらなんて」
「残念ですが、その方は私ではありませんね」
そう苦笑しながら答え、
私は店を出る。
自然と、
脚が駆けていた。
早足で追いかけてくるアルベルト。
「その――神父様」
「私じゃありませんから」
余計な心配はしないでくださいと、
まっすぐに私を見つめていであろうアルベルトに背を向け言い放つ。
ずっと待っていたなどと、
知られたくなかった。
「行きましょう」
もう一度強く、
行きましょう、と。
アルベルトは私の手を引き走り出した。
――生まれて初めて鑑賞した劇は、
とても面白かった。

その日以降、
アルベルトはますます私を誘うようになった。
何度も何度も私を誘うアルベルト。
私は彼がどうしてもというので仕方なく付き合った。
毎日あのまっすぐな笑顔で、
私を困らせた。
私は嫌だというのに、
どうしても私を誘いたいみたいだ。
私はアルベルトのワガママに付き合った、
付き合い続けた。
そして楽しい日々は瞬く間に過ぎていく。






城で聖誕祭が行われたのは神が生まれた日。
多くの国民も城に呼ばれ、
今夜は住人が楽しみにしている日なのだ。
戦争状態であったとしても、
いや戦争状態だからこそ、
こうした宴は盛大に行われていた。
私も城に招待されていたのだが、
それを断った。
人が集まる場所は苦手だったのだ。
シスターや他の聖職者達はみな喜び勇み城に出かけていったので、
いまこの教会には私一人しかいない。
老いた騎士、
アルベルトの父は今日も礼拝にやってきた。
私は苦笑した。
一体、この騎士は何を毎日祈っているのだろうか。
毎日欠かすこともなく、
何を祈っているのだろうか。
私は神を呪った。
愚かで残酷な神を呪ったのだ。
もし神がいたのならば何故今更にこの男に私を出会わせたのだろう。
何故気付かせたのだろう。
あの老いた背を見つめ、
私は何度も躊躇った。
いっそ憎しみに任せ剣を持ってしまおうと、
そう何度も思ってしまう。
気付かなければ私は静かに暮らしていた。
出会わなければ私は静かに生きていた。
自分が犯した罪の重ささえも忘れ家庭を作り、家族を作り、子を作り、
のうのうと生き抜いたきたあの男の人生を想像すると、
疎ましかった、憎かった。
何よりも、許せなかった。
幸せな家族を作っていたことが、許せなかったのだ。
けれど、
私は。
「……――。」
この男の息子に救われていた。
皮肉な現実だ、
運命だ。
それに私とて、
その罪の重さを責める権利はないだろう。
罪を犯した事のない者しか人を責める権利はないと、
そう記された聖書。
ならば、
神すらも他人を責めることは出来ないだろう、と。
私は神に向かい嘲笑した。
神は何も答えなかった。
やはり神などいなかったのだろう。
「ありがとうございました」
「いえ、貴方に神のご加護があらんことを」
深々と礼をする老いた騎士に私は苦笑する。
「いつもアルベルトが世話になっております」
そう初めて私に向かい口を開いた老いた男。
私は何も答えられなかった。
ただ静かに礼をし、聖書に目を通すフリをする。
教会を後にする老いた男の背を、
私は直視することができなかった。

荷物をまとめ、今晩のうちにここを出よう。
そう決めてからの私の行動は早い。
街から消えることはもう慣れていた。
決断したのならばすぐに決行する性質なのだ。
思えばこの街での暮らしは楽しかった。
私がいなくなってもあのシスターが上手くやってくれるだろうと、
私にもはや後悔はない。
「……――嘘だ」
小さく唇が動いた。
嘘だ、
嘘だった。
いつだって私は後悔だらけだ。
もしあの時ああしておけば、
もしあの時こうしていたとしたら。
今が変わっていたかもしれない――と。
過去を追ってばかりだ。
アルベルトの笑顔が恐ろしかった。
あの暖かい笑顔もいつか消えてしまう、
そうに決まっている。
私は何度も裏切られてきた、
また裏切られるのはイヤだった。
たとえ裏切られないとしても――、
その恐怖に怯え続けるのが怖かった。
だから逃げるのだ。
あの優しい温もりから、
アルベルトから。
最後に聖母の像を眺め、
この教会を後にしようとした時だ。
礼拝堂の扉が開かれた。
そこにいたのはアルベルトだ。
「こんな夜更けにどうしたのです?」
また何か悩みですか、と。
少し揶揄するように問う私。
しかしアルベルトはその揶揄にも反応しなかった。
ただ黙ったままに私に近づき、
私が手にする荷物に気付き、睨む。
そして駆けた。
「――……ッ」
私が抱きしめられていたのは、
一瞬の間だった。
「私ではダメですか、
私では貴方の心を受け止めることはできないでしょうか」
「何を言っているのです、
言っている意味が――」
「私の想い人は皮肉が好きな人でした」
アルベルトは語りだした。
私を強く抱いたまま。
「彼の説教は理不尽で作為的で私は初め彼が苦手だった。
全てを悟ったような図々しさも世を馬鹿にしたような態度も、
嫌いでした」
他人の体温は恐ろしかった。
けれどとても温かく心地よかった。
私の意志を逆らい、
身体がアルベルトの拘束を甘んじていた。
「ある日彼に私は悩みを打ち明けます。
その時の私は弱っていた、苦手だった彼に相談をしようとしてしまうほどに。
皮肉屋の彼にその悩みをバカにされることも分かっていた」
アルベルトは苦笑しながら続ける。
私の苦笑するくせが移ってしまったのだろうか、
アルベルトは最近苦笑する時が多い。
「やはり、私よりも長く生きていた彼にはその悩みはありきたりな悩みだったようで、
私の悩みは彼にとってつまらなかったようです。
そんな彼に悩みを相談した私が愚かであった、
そう想ったときです。
彼は意外にも私を救おうと話をしてくれたのです」
アルベルトの優しい苦笑が、
私の鼻を突いた。
胸を突いた。
「彼の友人の話でした。
どうしようもない現実に流された盗賊の話。
私は憤りを感じました。
その問いに答えなどなかったからです。
けれど彼の苦笑を見ていると、
何故か心が痛んだ。
彼の苦笑を見ていると、
心が騒いだのです」
温もりと、息遣い。
心臓の音。
全てが私の心を突き続ける。
「私は彼の苦笑が忘れられなくなりました。
どうしてそんな悲しい顔を見せるのか分からなかった。
憤りを感じていたはずなのに私は彼に会いたくなった」
震えは止まらなかった。
どうかこれ以上、
私の心を抱きしめないで欲しい。
「話のきっかけが欲しかった。
だから私は彼の友人の話を聞きました、
それはとても軽い気持ちでしかなかった。
彼はしばし悩み、深く目を閉じ友人の話を私にしてくれます。
友人の話なのにまるで自身の過去を話すかのように」
アルベルトに突かれた心が、
揺れる。
揺れてしまう。
「彼の話はとても悲しい話でした、
そしてどうしようもないこの世の中を悲観する話でした。
けれどその話の内容よりも私はもっと心が痛んだのです、
私は気付いてしまった。
彼の苦笑に秘められた重い感情に、
どうして彼がこの世を馬鹿にし、皮肉ばかり言うのか気付いてしまった」
ますます力強く抱きしめられ、
私は心地よい息苦しさに襲われる。
アルベルトが私の頭を優しく掴み、
引き寄せた。
「私はますます彼に惹かれました。
そして同時に悲しくなりました。
彼が人を嫌う理由を知ってしまったから、
彼が語る友の話の重さに私の心も泣きました。
私は抱きしめたかった。
彼を抱きしめてあげたかった。
彼自身は気付いていなかったようですが、
彼は泣いていたのです。
話をしながら泣いていたのです」
紅茶が途中から甘くなくなったのは、
零れた滴が混ざったからだろうか。
今思い出せば、
彼はたしかに滴を零していた。
「私は気付いてしまった。
それが彼自身の物語なのだと、
彼はずっと誰かに話を聞いて欲しかったのでしょう。
誰かに知って欲しかったのでしょう。
生きるために犯した罪を、
生きるために犯さなければならなかった罪を。
彼は身を乗り出して私の目をまっすぐに見つめ、
語り続けてくれました」
アルベルトだけが彼をまっすぐに見つめていたのではない、
彼もまたアルベルトをまっすぐ見つめていたのだ。
そうでなければ、
アルベルトがまっすぐに彼を見つめていたとは気付かなかったはずだ。
身を乗り出していたのは、
紅茶が揺れていたのは、
アルベルトが動いたからではない。
アルベルトは姿勢を変えずにずっと話を聞いていてくれたのだから、
紅茶を揺らすほどに震えていたのは、
――私自身だ。
「全てを話し終えてくれた彼は震えていました。
私をすがるような瞳で見つめていました。
その時私は思いました。
彼は私に救いを求めているのだと、
そう思ったのです。
私は嬉しかった、
きっと彼も私を必要としていると気付いたから、
嬉しかった」
それは自惚れだと苦笑してやりたかった。
でもできなかった。
それは錯覚だと皮肉を言ってやりたかった。
でも、
できなかった。
私も必要としていたから。
できなかった。
アルベルトが必要だったから。
「たとえ貴方が嫌がっても、
貴方が私を拒んでも。
このまま貴方を抱きしめ逃がしません、
貴方を私から離したりはしません。
絶対に嫌です、貴方を失うのは嫌だ。
それが貴方にとって安らぎでないとしても、
心安らぐ居場所でないとしても、
私はそれでも構わないと思っています」
私はワガママですからね、と、
アルベルトは苦笑しながら語る。
本当にワガママな若者だ。
私の意志を無視し、
私を束縛しようなど。
そんな事を私は望んでなどいないのに。
揺れる私を、
ますます強く拘束するアルベルト。
「教えてください神父様。
どうすれば彼の心を救えるでしょうか、
どうすれば未熟な私でも彼を救えるでしょうか?」
『もう十分に救われているでしょう』
と。
言おうとしたが声がでなかった、私の苦笑は零れなかった。
私はもはや声を上げることができなかったのだ。
喉が震え、
心が温かさに揺れた。
私は泣いた。
ただひたすらに泣いた。
この自分よりも一回りも離れた若者の胸を借り、
静かに泣き続けた。


























「毎日何を祈っているのですか?」
噂好きのシスターは老いた騎士に問いかけた。
とうとう彼女の好奇心が我慢できなくなったのだ。
老いた騎士はしばし迷い、
枯らした声で呟いた。
「息子に詫びているのです」
アルベルトさんにですか?
と、不思議そうに問うシスターに、
老いた騎士は静かに否定した。
「かつて自らが生き延びるために見捨ててしまった息子の無事を、
神に祈っているのです」
その声はとても弱弱しく、
だがはっきりと空気を切った。
「神の奇跡であの子と再会できたのなら、
私は詫びなくてはなりません。
許しを乞わなくてはなりません。
私が犯した罪を、あの子は一生許しはしないでしょう。
けれど、それでも一目だけ、
彼に会って全てを詫びる責が、私にはあるのです。
あの子にあって詫びるまで、
私には毎日祈る義務があるのです」
それが私の大罪です、と。
老いた騎士は震えながら天を煽った。
「きっとあの子はどこかで生きていてる、
自らを捨てた私を憎み、復讐という希望を胸に、
生きつづけている。
そう思うのです。
だから私は祈るのです、
あの子との再会を神に願っているのです」
――たとえ殺されることになったとしても、
それがあの子の救いになるならば――、
それが私の贖罪なのです――と、
そう言葉を漏らし、老いた騎士は天に向かい詫び続けた。
悪い事を聞いてしまったかしら、と。
シスターは珍しく苦い顔をして帰ってきた。
そして私の前で再び驚き声を漏らした。
「神父様どうして泣いていらっしゃるのですか?」
シスターは不思議そうに呟く。
けれどその声は私には遠く聞こえた。
だから知りたくなどなかったのだ、
あの老いた騎士の祈りの内容など、
知りたくなかったのだ。
泣いて詫び続ける老いた男の背を、
私は静かに見つめていた。
涙で揺れる視線に、老いた背はますます小さく映っていた。


その日彼は祈った。
盗賊だった彼は初めて祈った、
初めて神に祈ったのだ。
願わくば、
老いた男の罪を、
いつか彼が、許すことのできる日が、
来ますように――と。



正午の強い光に影を守られた聖母の像が、
まっすぐに私を見つめていた。









【終】
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