【体温】



本作に一部特殊な性表現が含まれております。
閲覧の際はご注意ください。

 




 長年呪術師をしていたが、実際に惚れ薬を作るのは今回が初めてだった。
 理由は至って単純。
 薬の材料が、庶民はおろか並みの貴族でも手が出せないほどに高いからと、そして何より効き目が一ヶ月しかないからである。
 それに。大金を叩いてわざわざ惚れ薬を使うよりも、直接その金で心を買ったほうが手っ取り早いし実用的――、そう思う人の方が多いのだろうと思う。
 だからこそいままで、惚れ薬を作る依頼は一件もなかったのだが――。
 薬品独特の匂いに顔を歪めていた依頼人、陛下と直々に顔を合わせるのはこれで七度目だった。
 調合に集中している私には、今陛下がどこで何をしているかは分からなかったが、いつもなら庭の野草を観察でもしているはずだ。
 私のような呪術師が陛下をこうして身近に感じることができるのは、貴重な体験ではあるのだが。いかんせん私は人と話すのが苦手であったので正直少し気が重かった。
 それに依頼人の陛下は少々厄介なお人であった。
 さきほどから陛下陛下と言っているが、あの男。紛れもなく正真正銘の皇帝陛下その人だったりするのである。
 初め、陛下から惚れ薬を作って欲しいと依頼があったとき私は疑った。
 ――偽者だと、そう思ったのである。
 考えても見て欲しい、陛下にはわざわざ惚れ薬に頼る理由がなかったからだ。人徳も財力も。そして王族独特の気品と魅力的なその容姿も持っている陛下の誘いを。断る人間などそうそういない。
 そもそも帝国が支配するこの国で、陛下の命令に逆らえるものなどいないのだから陛下にこの薬は必要ないはずだった。
 だから今回の依頼は誰かが陛下の名を語り、この薬を悪用しようとしている――、そう思ってしまっても仕方ないことだと思う。
 だいたい護衛の一人も連れてこない王族を本物だと信じろと言う方が間違っている。
 だが実際、こうして目の前に現れたのは本物の陛下であり、私もこうして調合を続けている。
 たしかに、この国のトップである陛下にはこの惚れ薬を作るほどの財力もあるだろうが。
 ――些か興味はあった。
 これほどに恵まれた男が誰に惚れ薬を使おうとしているのか。
 さりとてそれは余計な好奇心だろう。
 いくら他人に白い目で見られる事の多い呪術師といえども、常識というものは持ち合わせていた。
 それに余計な詮索をし、もし陛下のご機嫌を損ねその場で処刑などという事態になってしまったら堪らない。ただでさえ王族から依頼は普段以上に気を使う必要があるのに、今回はよりにもよって国の最高責任者からの依頼なのだ。
 これ以上いらぬ問題は増やしたくなかったし、惚れ薬の製作を失敗するわけにはいかない。
 一つの失敗が反逆者の汚名に変わるのだから、正直今回の仕事は早々に切り上げたかった。
 そう思っていたものの、完成は予定よりも大分遅れている。
 保身のためにも言わせてもらえれば、別に調合に手間取っているわけではない。
「ほら見てみろ、外にはこんなに薬味が咲いていたぞ」
 薬の完成を遅らせる張本人。
 いつの間にか帰ってきたのか、陛下は腕一杯に鮮やか過ぎる色の野草を抱えて自慢げに私に見せ付けてくれた。
 無論、普通の薬味がそのような鮮やか過ぎる色を放つ事はない。
 植物がわざわざ目立つ色を放つ理由はただ二つ、一つは受粉のため虫に存在を知らせること。そしてもう一つは自らに毒があるというアピールなのである。
 あれほど勝手に外の野草を摘むなと忠告していたのだが、陛下はまるで覚えていないようであった。
「恐れながら陛下、それは毒草にございます」
「そうなのか、美味しそうな色をしているのだがな」
「絶対に口にしないでくださいね」
 もしやと思い振り返ると、やはりそこには野草を口にしようとしている陛下の姿が映った。
「少しくらい大丈夫ではないか?」
「駄目でございます!」
 調合の手を止め、陛下の腕から野草を回収する私に陛下は口を尖らせていた。
 陛下はいつもこうなのだ。
 気さくな方である事は確かなのだが、多少悪戯好きな所がある。
 恐れを言わず言ってしまえるのならスチャラカ男、その言葉が一番似合うだろうか。
 初めに出会った時こそ王族の尊厳を見せていたものの、二度目以降は陛下の本当の性格が垣間見えていた。
 完成間近だった惚れ薬を混ぜる鍋に、庭で拾ってきた鈴蘭を勝手に入れ、薬を駄目にしてしまったのは一週間程前の話。
 その前にも煎じてあったマンドレイクの雌しべと、そして何よりも貴重な龍の吐息を閉じ込めた瓶を駄目にしてしまったのも陛下だ。
 その時はたしか暇だからと言って、勝手に調合してしまったのだが。
 駄目だと言えば言うほどに面白がり、悪戯を繰り返す陛下。
 王族に抱いていた尊厳はもはや私の中では崩れ去ってしまっている。
 正直、予定よりも遥かに完成が遅れてしまったのも陛下のせいだと私はそう思っている。
 まあ、再び取り寄せた材料費は全て陛下の負担なので私に文句は無いのだが。
「どうか静かにしていてください」
「ふむ、仕方ないな」
 椅子に座る陛下を横目に、私は調合を再開する。
 混ぜること二時間ほど経っただろうか、
「陛下、完成したしました」
 凝縮された薬品を瓶に詰め、薬品管理の棚とそして陛下の待つテーブルに乗せる。
「陛下……?」
 そこには心地よさそうに眠る陛下の寝顔があった。
 待ちくたびれて転寝をしていたのだろう、陛下がもう一度呼びかけた私の声に反応するには少しの間があった。
 黙って寝ていればなかなかに魅力的な、地位や財力を加味すれば文句のつけ様がない男である。
 女であればその精悍な寝顔に、欲を擽られる者も多いだろうが、生憎私にはそういう趣味はなかった。
「ようやく――か。待ちくたびれて死にそうだったぞ」
 銀髪の髪を気だるそうに掻き毟り欠伸をしてみせる陛下に、私は申し訳ありませんと詫びる。
 確かに今日完成するとお伝えしたのだが、まさかあんなに早く訪ねて来てしまうとは思わなかったのだ。
 よほど完成を楽しみにしていたのだろう。
 だったら邪魔などしないで欲しかったのだが、まあそれももう過ぎた話。
 ようやく役目御免になるかと思うと、肩の荷が取れた思いだった。
 少し寂しい気もする。
 陛下が訪ねる様になってから、独りだったこの家も少し明るくなっていたからだ。
「お前には苦労をかけたな、褒めて遣わすぞ」
 まったくだ。とまさか言えるはずも無く、
「もったいないお言葉でございます」
 私は頭を下げた。
 傅く私の目の前で陛下は身体を伸ばし、肩を鳴らしていた。
 寝起きでまだ意識がはっきりしていないのだろうか、陛下は何度も身体を捻り慣らしているようだ。
 そして、
「喉が渇いたな――」
 そう呟いた声とほどんど同時だったと思う、
「あっーーーーーー……!」
 テーブルに置いた惚れ薬を陛下が飲み干してしまったのは。
 ………。
「どうしたのだ? そんなに大声を出して。……もしやこれはそなたの大切なモノだったのか。許せ、それはすまぬ事をした」
 陛下の行動に驚き、
 呆然としてしまった私を、陛下が心配そうに見つめていた。
「ところで惚れ薬はどこにあるのだ?」
「たった今、陛下が飲み干してしまわれました」
 空になった瓶を指差す私の指は震えていた。
 沈黙が部屋全体を包む。
「惚れ薬を余が?」
「はい」
「ふむ……、たしかに惚れ薬と書いてあるな」
 陛下は自分が飲み干した瓶を確認した後、ゆっくりと私を見直す。
 再び互いの間に生まれる沈黙。
 背中に感じる冷や汗。
 これは大変な事になってしまった。
 下手をしたら陛下に薬を盛ったと断定され、反逆罪の汚名を着せられ、処罰されるかもしれない。
 良くて国外追放、悪くて斬首といった所だろうか。
 流れ続ける沈黙が私の汗を更に煽る。
「なるほど、だからそなたを見ると心が熱くなるのだな」
「も、申し訳ございません陛下。まさかこんな事になるとは」
 これ以上にないほどに頭を下げる私の陳謝に、陛下がどのような顔をしているか、あまり想像はしたくなかった。
「良い良い、そう頭を下げるでない。余は怒ってなどおらん」
「ほ、本当でございますか? この場で斬首などと言う事は、ありませんよね?」
 顔を上げるとそこにはいつのまにか近寄ったのだろう、陛下が目の前に迫っていた。
「馬鹿を言うでない! なぜ愛しきそなたを余が処罰しなければならんのだ!」
「は……ぃ?」
 手を握られ、まっすぐに見つめられる。
「そなたを処刑しようなどと誰が思おう事か、そのような戯言は二度と口にするでないぞ」
「へ、陛下! お気を確かに!」
 惚れ薬が効いてきてしまったのだろう。
 陛下は逃げる私の手を自身へと引き寄せ、そして甲にキスをする。
 それは騎士が異性の主君に忠義を誓う契りだった。
 この事態はさきほどまで命の危機に瀕していた私には、ある意味幸運な事であったのだろうが、そうするとまた別の問題が起きてくる。
 正直、呪術の腕には自信があった。
 自惚れなどではなく、この国随一の呪術師だという自負があったのだ。
 だからこそ陛下も私に惚れ薬の依頼にきたのだが――。
「そなたに頼みがある」
「なんでございましょうか、陛下」
「余の后になってくれぬか?」
 今は自身の腕を嘆くしかなかった。
 完全に惚れ薬の呪いが陛下にかかってしまったようなのだ。
「き、きさきぃ! め、滅相もございません!」
「余に逆らうというのか? ではそなたを罰せねばならぬな、余に仇なした謀反者としてな」
「お、お許しを」
 そうなのである。
 このお方は皇帝陛下なのだ。
 逆らうことができないのは、大きな問題である。
「ふふふ、冗談である。そんなに怯えるでない」
 冗談交じりに苦笑しながら、しかし反抗は許さぬと、服従を迫るその強い眼光が私を捕らえた。
 さすがに皇帝陛下を務める男の眼光は鋭く、私は恐怖に包まれ動けなくなってしまう。
「そなたは余をどう思う?」
 言葉を捜し、
「敬愛しております。この広大な帝国を治める偉大なお方だと、そう思っております」
 私は逃げ口を探す。
 そう言う意味ではないのだがな、と。苦笑した陛下は私の腕をつかむ、その陛下の体温に私は眉を顰めた。
 どうしても私を放さぬつもりなのだろうか。
「余と寝てみたいとは思わぬか?」
「――恐れながら私は、男の方とそのような……」
 どう逃げようかと、そう思案しているうちに。陛下はますます私を追い込んでいく。
 普段ならば護身用に痺れ薬を用意してあるのだが、まさか陛下にそのような手段を使うわけにもいかない。
「ほほう、それではそなた。まだ男の味を知らぬということか」
 それは楽しみだ、と。
 陛下は私の腕をつかんだままに笑う。
「そうです、いま直ぐに解毒剤を調合いたしますので」
 そうである、私は天才とまで謳われた呪術師なのだ。惚れ薬の解毒剤ぐらい開発するにはそう時間もかからないはずだ。
 原理としては惚れ薬を作るときと同じ材料で――、残った素材だけでもなんとか作ることは可能だろう。
 愛を囁き続ける陛下をなんとかやり過ごし、私は急いですり鉢を働かせた。
「さあ、陛下これをお飲み下さい」
「これは?」
 薄紙に包んだ粉末を聖水と共に瓶に移し、陛下にお渡しする。
「惚れ薬の効果を抑える薬にございます」
「苦いのか?」
 緑と紫色の塊が沈殿する液体を眺め、陛下は眉を顰めながら問う。
「はいおそらく、さきほどの惚れ薬とは違い即興に作ったものですので……味の方までは」
 陛下は瓶を受け取り、しばらく――。
「ていっ!」
 床に投げつけ割ってしまった。
「だぁぁぁーーーーーー! 陛下、なんて事をなさるんですか! もう材料はありませんし、新しく解毒剤を作るのに半年はかかりますよ!」
「余は苦いのは嫌いだ」
「どうするんですか! これじゃあ本当に陛下は私に惚れてしまいますよ!」
「それをなんとかするのがそなたの仕事であろう」
 他に代用きる薬剤はないかと思案する私に、
「ふむ……ところでそなた。惚れ薬はもう無いのか?」
 陛下はそう自然に訊ねてきた。
「は? え? 陛下のご注文通り二本作りましたので、あともう一本がそちらの棚に」
「そうか、あそこの棚に――な」
 無論、私はこの時気が付いていなかったのだ。
 惚れ薬を飲まされた者がもし自分自身も惚れ薬を手に入れてしまったら。一体その薬を誰に飲ませようと思うだろうか。
 解毒剤のことばかりを考えていた私には、それを考える余裕がなかったのである。
「そなた喉が渇いておるだろう?」
「へ?……」
 これが今回の騒動の始まりだった。
 


 初めて足を踏み入れた宮殿だったが、それを観察している余裕などはなかった。
 陛下に半ば拉致されるように連れられた宮殿、エントランスを抜けた謁見の間で痛いほどの視線が私を突き刺す。本来ならば陛下の帰還を祝う管楽器が出迎えるのだろうが、あまりの異変にそれらが音を奏でることはなかった。
「陛下! どうか降ろしてください!」
「もうすぐだから我慢をしろ」
 なんとも怖ろしいことに陛下は私を肩に抱きあげながら帰還したのだ。
 さすがに成人の私を肩に担ぎ歩くのは麦袋を運ぶのとは訳が違う。
 穴があったら入りたいとは、まさに今の心境だろう。
 やっと肩から下ろしてもらった時には、私の顔は羞恥で真っ赤にそまっていたと思う。
 陛下は狼狽する私の腕を取り、そして怖ろしいことに私の前に跪いてしまう。
 呪術用の目深のローブを羽織っていなかったら小心者の私には耐えられなかっただろう。
「愛しきものよ、ここで少し待っていておくれ。余はそなたの滞在の手続きをしてこなければならないのでな」
 そう言いながら私の手の甲にキスをする陛下の姿に、周囲の空気がざわめく。
 それは無理も無いことだ。
 天下の皇帝陛下が明らかに呪術師と分かる私に膝を着き、手の甲にキスをしているのだから、それはとても異様な光景に映るだろう。
「へ、陛下! お戯れはおやめ下さい」
「安心しろ、余がそなたに最高のもてなしをしようぞ」
 なかなかに噛み合わぬ会話。
 もし私がこの宮殿に仕える臣下だとしたらこう思うだろう。
 陛下は野心者に薬を盛られ、正気を失っておいでなのだと。
 まあ野心云々はともかく、実際に陛下は惚れ薬で正気を失っているのは確かなのだが。
「大臣! 大臣はおるか!」
「へ、陛下! なんですかその汚らしい呪術師は!」
 陛下に呼ばれ、兵士と共に口を開けてこちらをみていた初老の男がこちらに駆けて来た。
「口を慎めジイ。この者は私の大切な客人だ」
「陛下、公共の場では大臣と呼んでくだされといつも申しておりましょう――それにワタシはまだジイと呼ばれるほどの歳ではないといつも」
「そんな事は忘れた。ジイよ、客人をもてなす宴の準備を急げ」
「お待ち下さい陛下! 事情を説明していただかなければ!」
 吠える大臣を置いたまま、女中を連れ、奥の部屋へと入っていく陛下。
 残された私、疑念の目を向ける兵士達。
 そして何よりも事情を説明しろと言わんばかりの大臣の顔が目の前にあった。
「どういうことか説明いただけますな、呪術師殿?」
「えーっと――ですね……」
 私は自身でも顔が引き攣るのを感じつつ、事情を説明しはじめた。
 陛下が惚れ薬の依頼をしに来たこと。
 完成したが陛下が誤ってそれを飲み干してしまったこと。
 そして解毒剤は半年経たなくては作れないこと。
 説明が進むたびに大臣の顔は茹でた蛸の様に赤く染まっていき、
「なんということをしてくれたんだ! 貴様自分が何をしでかしたか分かっておるのか!!」
 事情を説明する前から大目玉を食らうのはわかっていたが、実際に怒られるとなるとやはり恐怖が頭を襲う。
「大臣殿、落ち着いてください! この方は客人でいらっしゃいますよ!」
「ええーい、これが落ち着いてなどいられるかい! 陛下に惚れ薬を盛っただと? よりにもよって貴様のような陰気で最悪な呪術師などに我らの陛下が! 陛下が!」
 宥める騎士を振り払い、大臣は私を睨みつける。
「最近どうも陛下が浮かれ気分で忍びの旅に出ていると思ったら、貴様に薬を盛られておったとは!」
 私の首をつかみ、大臣はその肩を怒りで震わせている。
「呪術師殿の話ではたった一月で元に戻るそうではないですか、なれば事を荒立てる必要もないかと思いますが」
 横から割り込んできた白い鎧を着た騎士と怒りに肩を震わせる大臣。
 この二人はあまり仲が良くないのか、険悪な雰囲気が辺りに漂い始める。
「一ヶ月がたっただと! 笑わせるな、一ヶ月もあれば邪心に溢れたこの者が陛下を利用し、我が国を陥れるには十分ではないか」
「ワタクシにはこの方に邪心は感じませぬが……それに何かを企んでいるのであれば姿を隠しているはずではないでしょうか」
 白い鎧に身を包んで騎士が私の目を覗きこみながら訴えてくれる。
 そうだ、もっと言ってやれ!
 とはさすがに言葉には出せない。
「邪心の無いものが呪術師など怪しい職業に就くものか!!」
 それは偏見だと反論したいものの、実際に呪術師という職業を考えると何も言えず。私はただ激昂する大臣に頭を下げるしかなかった。
「もう良い! いまこの場で貴様を始末してまえば全ては解決だ」
「うわ……っ!」
「……っお待ち下さい大臣殿!」
 剣を抜く音に私は思わず身を引いた。
 だいたい私だって被害者みたいなものなのだ。陛下のうっかりによって殺されてしまったらたまらない。
 まあ陛下の手によって命を絶たれるのであれば、この私は本望であるのだが……。
 そう思ってしまった自分に、私は驚いていた。
 惚れ薬の効果が少しずつ現れているのだろう。
「いいや待たん、この者も卑しい呪術師といえどこの国の民。陛下に仕えるもの。この国のためを思い、いまここで――」
「っ――……!」
 最初の一太刀を避けた拍子に、自身のローブの裾を踏み倒れこんでしまう私。
 情けないとは思わないでほしい。
 たしかに私の運動能力が低いせいもあるが、それ以上にこのローブがやっかいであった。このローブは元から運動用にはできていない、薬品の侵入を防ぐ分厚い生地も呪詛を高めるために金糸で編み込んだ紋様も、この状況では重しになっているだけなのだ。
「そ――そんな事をしたら陛下にかかっている術は一生解けませんよ!」
「なんじゃと!」
 なんとか声を発することができた。その声は少し震えたものになってしまったが今は体面を気にしている場合ではなかった。
 少しは話を聞く気になったのか、大臣はその手を止める。
 今が好機と私は畳み掛ける。
「そもそも惚れ薬と言うのは呪術の一種なんです。通常ならその効果は一月で切れますが対象が死んでしまった場合術の効果が高まって一生解くことができなくなってしまう恐れがあり――」
「つまり貴様を殺してしまったら?」
「陛下は一生私に惚れたままでその生涯を終えるわけです」
 むろん、これは嘘である。
 国の重鎮に嘘をつく事はまあ罪にはなるのだろうが、私だってこんな所で死にたくはない。
 咄嗟の出まかせではあったが効果はてきめんだったようだ。
 あの惚れ薬を作れるのはこの国で私だけであろうから、この嘘がばれる恐れも少ないだろう。
「ふぬぬぬぬ、なんという事だ」
「呪術師殿のお話を聞いたでありましょう、大臣殿。陛下を思うのであればその剣をお納め下さい」
「いいやならん、例えそのような結果になったとしてもこの者を許すわけにはいかん!」
 再び騎士と大臣の間に生まれる険悪な視線の衝突。
 息を吐いた騎士が一瞬私を振り返り、そして再び大臣を睨み、
「ならば大臣殿、ワタクシは貴殿と剣を交えねばなりませぬ」
「ふん、若造が調子にのりおって」
 目線を騎士に移すと共に、その剣の切っ先も移る。
 返すように騎士も剣を抜き放った。
 周囲もこの二人の争いを諌めるほどの権限はないのか、ただ黙って様子を見守るだけであった。
「そもそも陛下に取り入る貴様は前から気に入らなかったのじゃ」
「それはワタクシとて同じこと」
 なるほど。なんとなく大臣がまだ私を咎める理由がなんとなく見えてきた。
 大臣は私の事はともかくとして、この騎士が気に入らないのであろう。
 だから騎士が私を庇っていることが気に入らない、そういった所なのだと思う。
「何をしておる、場を弁えよ!」
 この緊張をあっさりと打ち破ったのは陛下の一声。
 その怒声は陛下の圧倒的な存在感を示していた。
「余の前であるぞ、剣を収めよ」
 静かにもう一度静止する陛下にさすがに大臣も押し黙った。大臣も陛下の前で殺傷沙汰を起こすつもりはないのだろう。
 剣が納められる音が沈黙した空間に刺さる。
 騎士もまた、剣を納めていた。
「陛下、もう一度お考え下さい。呪術師殿をこの宮殿に置くことなど今は亡き先代の皇太后様がなんと嘆かれることか」
「ジイ発言を弁えよ。ここに母上は関係のない事だ」
 静かにもう一度嗜める陛下。
「ですが」
「――大臣よ、この者は余の大切な客人だ」
 再び口を開きかけた大臣に、陛下の一言が刺さる。
「……ッ!」
 わざわざ大臣と言い直した陛下に、大臣は汗を垂らしながら頭を下げる。
「三度目は言わぬぞ、皆の者もそう心得よ」
「……出過ぎた真似を致しまして申し訳ありませぬ」
 陛下の眼光に有無を言わせぬ強さがあったのだろう。
 部屋の空気は陛下の覇気によって完全に沈黙していた。
 いつもの気さくな陛下とはまるで違うその表情の深さと重みに、正直私は驚いた。
 陛下へのイメージは正直あまり凛々しい物ではなかったからだ。
 私の前での陛下は、野草と毒草を間違えたり、わざと薬に異物を混ぜ面白がったり勝手に人の夜食を平らげ、悪戯そうに笑う。
 そんな威厳とはかけ離れた印象しかなかったのだが――。
 王者の威厳と言う言葉が一番近しいだろうか。陛下には全てを従わせる絶対的な力があった。
 まあ正直、天下の皇帝陛下が惚れ薬で惚れた男のために、誰よりも鋭い眼光で臣下を黙らせることなど、後の笑い話にしかならないと思うのだが。
 いまこの空間でそれを口にする勇気などなかった。
 緊張した大臣の今一度唾を飲み込む音が、部屋の沈黙を再び証明する。
 王者の資質をありありと発揮する陛下のお姿はとても神々しく、さすが私の愛しい陛下と言ったところだろう。
 ……、
 やはり薬は確実に効いてきているようだ。
 こんなスチャラカな男に惚れてしまい始めている自分が情けなかった。
「皆のもの、余も客人は長旅で少々疲れておる。下がって宴の準備を致せ」
 それでもまだ言いたりないのだろう。大臣はなかなか退出しようとしないが、陛下の王命であるとの言葉に頭を下げ退室した。
 大臣に続き、他の兵や女中、そして争っていた騎士も皆この間から退室し始めた。

 残された私は陛下の顔をついつい覗いてしまうが、地面に尻をつけたまま私は動くことが出来なかった。
 理由は単純、大臣に剣を突き付けられた時に腰が抜けていたのである。
「さてと――」
「うわ!」
 身体が宙に浮き、私は思わず声を上げた。陛下が私を抱き上げたのである。
 そのまま奥の部屋へと運ばれる、ここはどうやら控えの間のようだった。
 身体が揺れ、震える。
 明らかに私の中で何か変化が起きていた。
 陛下の瞳から目が離せなくなってしまったのである。
「陛下――……」
 おそらく、薬の効果が本格的に効き始めてきてしまったのだろう。
 幸い、古くから薬品の実験をしていたせいか、常人よりは薬の効き目も薄いようではあるが。
 それでも、陛下の体温を感じるだけで心が震え続ける。
 それ以上に恐怖が身体を包む。
 背に感じる陛下の腕の力強さ。一筋垂れた銀髪の前髪。
 そして何より私を覗き込む陛下の視線が私を昂らせる。
 男が相手に惚れたのならば、それはすぐに欲情に移ってしまう。悔しいがそれは動物としての本能だろう。
 私は明らかに陛下に欲情していた。
「独り残してすまなかったな、恐ろしい思いをさせてしまったのは余の責だ」
「とんでもございませぬ。陛下にお救い頂き私は嬉しゅうございます」
「大臣も普段は温厚で優しい奴なのだがな、国の事となるとどうも熱くなってしまう悪い癖があってな」
 許せ、と。
 陛下は私に苦笑しながら語る。
「そのようなお言葉、もったいのうございます」
 言葉が震えてしまうのは、まださきほどの恐怖が抜けないからではない。
 怖かったのだ、この感情が。
 ――愛。
 そう呼ばれるこの感情だ。
 私には、呪術師にとってこの感情は何よりも怖ろしいのである。
 私はいままでに何人もの人間の愛憎を見てきた。
 時には自身の恋人を、時には自身の家族を。そして自分の子さえも呪ってしまう、それが人間なのだ、と。
 そう知っていた。
 だから、この私が誰かに好意を寄せるなど考えたくなかった。例えそれが惚れ薬のせいだとしても考えたくなかったのだ。
「怪我は無かったか、愛しき者よ」
 けれど。
 陛下が私を強く抱きしめ、その温もりが私を包む。吐息までも届く距離に陛下が私を引き寄せているのだ。
 私を愛しいと言ってくれるのだ。
 愛しい。
 恋しい。
 抱きしめられ嬉しいと。
 もっと優しく抱きしめ、愛して欲しい――と。
 そう思っただけで心臓が張り裂けそうだった。
「どうした何を震えておる」
「お許し下さい陛下、私は人に触れられるのが恐ろしいのでございます――」
 力強い人の温もりは私の恐怖を煽る。
「――仕方あるまい」
 本気で私が怯えている事を理解してくれたのか、陛下は私を床に降ろしてくれた。
 絨毯に足が着いても、慟哭は止まらなかった。陛下が私の頬に手を添え、まじまじと私の顔色を観察しているからだった。
 直視に耐えられなくなった私が少し身を引こうとしても尚、私の頬に触れる手を離してはくれない。
 むしろ逃げる獲物を楽しがるハンターの様に、逃げ腰の私を楽しんでいるようにも見える。
 陛下の指の質感に、触れられてもいない首筋までもが騒いでしまう。
 ローブで覆っていたはずの皮膚を直接触られるのは恐怖であったが、まさか陛下にそんな事をいえるはずもない。
 愛しい陛下を拒絶できるはずがない。
 離してください、と。そう唇を震わせるのが精一杯だった。
 強すぎる陛下の視線から目を逸らし、私は床を見つめた。
「まるで生娘の様な反応であるな、そなたは余を焦らし楽しんでおるのか?」
「そのような事……私などが陛下に触れていただく事が恐れ多いのでございます」
 言葉を選びながら、私はなんとか逃げ道を探す。
 いまならまだ、引き返せるとそう思ったのだ。
 陛下に欲情する浅ましい私から、そして陛下を愛する私自身からも。
「では余が許可しよう、そなたは余に触れられても良いのだ。恐れ多いと思うのであれば、その余を拒絶する心を戒めよ」
「あ……――」
 再び顎をつかまれ、陛下に顔を引き寄せられてしまった。まっすぐに見つめられると、身体の血液全てが騒ぎ始めてしまう。
 そのまま抱きしめ、愛を囁いて欲しかった。
 おそらく、私がそう欲すれば陛下は応えてくれるだろう。しかし、私はそれを望まなかった。
 その力強い視線に惹き込まれそうになる自身に、私は再び目を背けた。
 惚れ薬のせいだとは分かっている。
 愛しいと思うこの感情が薬のせいだとは分かっていた。
 理性が残っていなければ、いまでもその広く逞しい安住の地へと抱きつき、その檻の様な頑丈な腕の中に縋っていたかもしれない。
「そなたは余が嫌いか?」
「とんでもございません、陛下」
 陛下を嫌いなはずがない。
 こんなに素晴らしいお方を嫌う人間など世の中に存在しないはずだ。
「そうであろうな、そなたもあの薬を飲んだのだからな」
 満足そうに頷く陛下。
 厄介であった。
 惚れ薬を飲んだことは互いに知っている、それは逃げ場をほとんど断たれているのと一緒だ。
 どんなに拒絶しても、拒否しても。陛下は私が陛下を愛していることを知っているのだから。
 確実に効果をもたらしている惚れ薬だったが、正直、愛しい陛下に縋りつくよりも体温の呪いから逃げる事を選びたかった。
 それほどに私たち呪術師にとって色恋沙汰は禁忌なのである。
「では何に怯えておる。何に震え、心を閉ざしておるのだ? 嘘は許さぬ、申してみよ」
「それは――」
 言っても分からないだろう、と。
 そう思っていた。
 けれど敬愛する陛下に訊ねられたら応えぬわけにはいかなかった。
「私は恐ろしいのであります――」
 それから、と促す陛下に私は続ける。
「人の体温は呪いと一緒です」
「呪いと一緒?」
「はい、私たち呪術師は初めにそう教えられるのです。そして決して他人を愛す事をしてはならない、また愛されてもならない。
 それは自分自身をも呪う事になるのだから――と。そう教えられ、禁じられるのです。
 それを体温の呪いと、私たち呪術師は恐れているのであります」
「愛は呪いと同じか、まるで詩吟のようだな」
 名残惜しそうに頬から離れた陛下の指だったが、それは次に私の唇に触れた。
「それでも余はそなたを愛しておる。愛したものの体温を呪いと言うのならば、余はこれから何度もそなたに呪いをかけてしまうことになるな」
 その指は頬から上部へとなぞり、頭部を覆うローブを暴いていく。
「美しき髪の色だ。瞳の色から想像はできていたが、そなた東の血を引いているのだな」
「申し訳ございません、陛下」
「詫びることなどない、そなたは余好みの美しさと儚さを持っておる」
 陛下が私の髪を愛しそうに撫でてくれる、愛でてくれる。
 その心地よさに我を忘れ縋りたくなってしまう。
 どうしていいか分からなかった。
 本当なら振り払い逃げ出したかった。
 この恐ろしい感情に背を背けたかった。
「陛下……」
 けれどできなかった。
 陛下という肩書きに逆らうことができないからではない、私の心が陛下という一人の男の温もりから逃げることができなくなっていたのだ。
 惚れ薬の恐ろしさを自身で痛感し、私は改めて呪術の底の深さを知った気がする。
 一瞬、陛下に抱かれ恍惚とする自身の幻が脳裏を過ぎり、恐怖と、そしてそれを遥かに越える期待で身体が震えた。
「震える姿も愛らしいな」
「なりません、陛下。――陛下、どうかお聞きください」
 逞しい陛下に抱かれる幻想を抱く浅ましい自身を振り切り、抱き寄せる陛下の腕に抵抗した。
「申してみろ」
 抵抗する私を尚も追い詰めるように、陛下の――愛しい陛下の強健な指が再び私の背を撫でる。
 指の一筋一筋が私の心に深く突き刺さっていた。
「陛下は今呪われておいでです。惚れ薬に惑わされているのです」
「知っておる」
 悪戯な指は私の顎を浮かし、正面から陛下と対峙させられ、その麗しき眼孔に私の瞳は囚われてしまった。
「なれば、いまこうして私を思っていただける感情が偽物なのだと、
偽りの感情なのだとお分かりになっているはずです」
 ですから――と、そう繋ごうとした唇を暖かい何かで塞がれていた。
 軽く触れるような口付けであったが、安堵が私を蝕んでいた。
 こうしていても許されるのだと、そう教え込まされているような気がした。
 この方にならば全てを任せてしまえる。そう思い知らされたような気がするのだ。
「偽りの感情でも良いのだ、例え偽りだとしても、いまこうしてそなたを愛しいと思う感情は真実だ」
「ですが」
 それでも尚、私は温かすぎる陛下の体温を拒絶した。
 まだ間に合う。
 今ならまだ引き返せる。
「そなたも余を愛しているだろう?」
 それは――、と。
 口を紡ぐ私の言葉のその先を、陛下は強い視線で促す。
「……お慕い申しております」
 それから?――、と。
 そう耳元で囁かれ、私の心は跳ねた。
「敬愛しております――」
 王命である、と。そう強く命令され私の唇が震えながら動いた。
「陛下に触れられるだけで全身が熱くなっております――、生まれて初めて感じる感情でございます。
 想いが叶うのであればそのまま抱きしめて欲しゅうございます、その愛しい腕の中でいつまでも留まっていたいと、そう願っております。
 ――……ああ、陛下後生でございます、どうかもうこれ以上のお戯れはお止め下さい」
 心が壊れてしまいそうです、そう呟いた私に陛下は満足したようだ。
 私の言葉に納得してくれたのか、陛下は嬉しそうに私を見つめた後やっと解放してくれた。
 よほど嬉しかったのだろう、陛下は本当ににこやかに微笑んでいた。
 まるで子どもの様に無垢に笑んでいるのだ。
 惚れ薬に鈴蘭を混ぜ、悪戯そうに笑ったあの時の様に。
 陛下は笑っていた。
「とても嬉しいぞ、余は。とても喜ばしいのだ。――余はな、惚れ薬を使って真実の愛が欲しかったのだ」
「――真実の愛、でございますか?」
「ああそうだ。余を慕い、余を思い、余に平伏す者は山ほどにいる」
 一人一人、家臣の名を呼び。
 陛下は目を伏せた。
 そして再び瞳を開かせたその表情に、微かな憂いが広がっていた。
「そしてその中には余に愛を語りかける者もおった」
 普段は見せないその表情。
 過去形で語るその言葉の裏は、残念ながら私には読み取ることができなかった。
「けれど、その者達はみな余の王として地位に恋をしている者ばかりなのだ」
 そこで陛下は言葉を切り、私を抱きしめたままに壁に飾られていた肖像を睨むように見た。
 あれは陛下の母君の肖像だろう。
 逝去する際開かれた慰霊塔で見たことがある。
 美しく優雅で品があり、そして少し冷たい印象のある肖像。
「俺は、俺だけを愛してくれる者が。地位や名声や権力に関係なく俺を愛してくれる者が欲しかった」
 惚れ薬ならば、その願いを叶えるのに最適だったんだ、と。
 陛下は苦笑しながら語った。
 そう微笑む陛下の横顔は、どこか寂しげであった。
 それは陛下の偽りの無い本音だったのだろう。
 全てを持ち合わせていた皇帝の、決して得られることのない自由だったのだろう。
 何故だか、私はそう確信していた。
「――……陛下」
 おいたわしかった。
 私などが陛下を哀れに思うなど間違っているとも分かっていた。
 けれど、陛下が哀れなお方だと、そう思ってしまう。
 たしかに惚れ薬ならば地位や名誉、権力に関係なく愛を作る。
 それは肩書きに囚われず、紛れもなく陛下自身を愛すだろう。
 たとえ陛下が農民だったとしても悪魔だったとしても、――たとえ呪術師だったとしても変わらぬ愛を作るはずだ。
 けれど、やはりその愛も幻に過ぎない。
 陛下はそれを分かっているのだろうか?
 これは惚れ薬が生み出した愛の呪い。
呪いの効果が切れる一月が過ぎてしまえばその愛も色褪せてしまう。消えてしまう。いなくなってしまう。
 また私は置いていかれてしまう――。
 陛下にとっては一月の戯れを楽しめたとしても、私にとっては残酷な一月なのだと。
 陛下には分かっているのだろうか。
 呪いが解けたら呪術師の私など、陛下にとっては忌々しい存在になってしまうのだと。
 ――私には、それは分かっていた。
「余とそなたは今誰よりも何よりも純粋な絆で結ばれている、そうは思わないか?」
「陛下……私に分かることはただ一つ、陛下の体温はとても心地よいと言うことだけでございます」
 頂点に立つ者の侘しさも悲壮も、底辺にいる私には理解できなかった。
「争いあう血族の結束よりも、猜疑心溢れる忠誠よりも、偽りの愛を語る女よりも。そなたと私は揺るぎない愛で結ばれている。それが余は嬉しいのだ」
 それに――、
 そなたの体温はとても温かい、と。
 私を強く抱きしめ陛下は笑った。
 いまだけは純粋な絆で結ばれている。
 いまこうしていられる時間は確実に消耗されていく。
 陛下が私を愛してくれる時はたった一月しかないのだ。
「いまここでそなたを征服してしまいたくなる。震えるその身体を押さえつけ余の愛を教え込みたくなってしまうな――」
 目を閉じよと命令され、私は瞳を閉じた。
 つかまれた顎は上を向かされ、深い角度で陛下の口付けを受けいれていた。
 互いの粘膜が触れ合うこの行為は愛情を深める行為であったが、それ以上に湿った意味も含んでいるのだろう。
 もう、逆らうことはできなかった。
 体温の呪いを恐れていた呪術師の心も、もはや心地よい陛下の体温によって呪われてしまったのだ。
「歓迎の宴の後。今宵そなたを抱こう。嫌とは言わせぬぞ、そなたも余を愛していることは知っているのだからな」
 恐怖に震える体が勝手に頷いた。


 宴は盛大に行われた。
 初めて見る馳走の数々、女人の舞、余興。それら全てが私のために行われていると思うととても複雑な気分であった。
 立食の席で陛下は今、席を外している。どうやら何か取り寄せようと家臣に命令しているようであるが、内容までは聞き取れない。
 独り残された私は少し不安であった。
 それは着慣れぬ服を着ているという事もある。
 大臣の取り計らいで私は今、呪術師の格好ではなく貴族の服を着せられていたのだ。表向きは遠方の国から訪れた陛下の古くからの友人、と。そういう事になっているらしい。
 遠方の国と偽ったのには訳がある。
 私の髪が黒い東の国の毛質だったからだ。この国近辺の貴族はもちろん町人も含め皆、銀髪か金髪しかいないからである。
 正直、あまり居心地の良い場所ではなかった。
 私の素性を探る視線があちこちから突き刺すからではない、単純に煌びやかな場所が苦手であったのだ、私は。
 まあ周囲の好奇の目も気にならないといったら嘘にはなるのだが。
 この国では黒髪の人間は奇異に映る。幼い頃からこの髪で虐げられてきた私は物心ついた時からローブで覆い、隠し続けてきたのだ。
 さすがに陛下の客人である私に、直接何か言われることは無かったが、それでも周囲が何か私を噂する気配は感じる。
 呪術師である私にはある程度人の感情の闇を探る力があったので、それが悪意のある気配ではないとは分かるのであるが、やはり遠巻きから噂されるのはあまり良い気分ではない。
 だから嫌だったのだ。けれどフードを脱ぐことを嫌がった私に、陛下までもが私にこの服を着ることを強要したのだ。
 確かに、呪術師の私がこの宮殿に似つかわしくないのは分かっていたのだが。
 少し寂しい気分にさせられてしまう。
 惚れ薬が切れてしまったら、呪術師の私などやはり陛下に疎まれてしまうと、そう思ったからだ。
 愛しい陛下に疎まれてしまうのは嫌だった。
 愛した相手から拒絶されてしまう事は、
 ――耐えられなかった。
 少し外の空気を吸おうとテラスに向う私の目の前に誰かが立ち止まった。宴の席には似合わぬ白銀の鎧に身を包んだ騎士である。
 確か大臣と言い争っていた騎士だろう。
「さきほどはどうもありがとうございます」
 この騎士がいなければもしかしたら大臣に殺されていたかもしれない。そう思うと自然と笑みが零れていた。
「いえ、当然の事をしたまでです」
「あの、何か?」
 会釈して通り過ぎようとした私に再び立ちふさがる騎士に、私は問いかける。
「騎士団長のグエンでございます。陛下から貴方様をお守りするよう仰せ付かっております、以後お見知りおきを」
「よろしくお願いします」
「あの、失礼ですが今貴方様に恋人や伴侶などはいらっしゃいますでしょうか?」
 客人に対する質問ではないと思うのだが、騎士の思惑が読めず、私はただ、はぁ……、と呆けてしまうことしか出来なかった。
 騎士の感情を読み取ろうとしても、そこには何か気恥ずかしい何かとそして少しの欲情しか読み取れない。まさか初対面の男に欲情を起こすはずもなく、疲労のせいで私の感覚が鈍っているのだろう。
「どうなのですか?」
 まさか陛下の事を言い出すわけにもいかず、悩んでいると、
「残念だがこの者にはもう立派な恋人がおるぞ、グエンよ」
 唐突にかかる声に、私の心は赤く染まる。
 陛下が用事を終え、帰ってきたようなのだ。
 すかさず陛下に忠義を示し傅く騎士。
「客人は外の空気を吸いたいようだ、余が案内するからお前は下がっていてよいぞ」
 下がる騎士と再び目が合い。
 私は社交辞令として微笑み返した。
「ふふ、そなたは男を誑かすのがよほど上手なようだ」
 下がる騎士を興味深げに目で追いながら、陛下が笑う。
「どういう意味でございますか?」
「そなたはとても妖艶だからな。女にはない男の欲情をそそる魅力に溢れている。――雄としての欲望のままに捻じ伏せ、征服し、その整った顔を淫らに崩してやりたくなる、そんな性をそそる顔なのだ」
 余の伴侶を自慢したかったのだが失敗だったかもしれんな――と。
 陛下は複雑そうに苦笑した。
「そう仰って頂けるのは、陛下が惚れ薬をお飲みになられたからでございます」
 痘痕もえくぼとは良く言ったものだ。
「それだけではなかろう。そなた以前にもお前が悪いと言われ、男に迫られた事があるのではないか?」
 まるで見てきたかのように断定する陛下に、私は眉を顰めた。
 確かに以前の依頼人にそう叫ばれ、押し倒されたことがあった。その時は幸いローブの裾に潜り込ませていた痺れ薬で事無きを得たのだが。
 どうして陛下がその話を知っているのであろう。
「図星だったようだな。――ふふ、グエンはあれでも清廉潔白な若者なのにな、そなたに欲情しておった」
「お戯れを、陛下。陛下以外のお方が私に思いを寄せてくださることなどあるはずがありませぬ」
 それに私とて、陛下以外の男などに思いを寄せるはずがない。
 しかしそれを口にするには気恥ずかしく、私は代わりに陛下の側に更に一歩近づいた。
「哀れな事だ。余の手は今宵そなたを抱き、犯し、その美しき肌を手中に収めるというのに。グエンはそなたの痴情を思い、自らの手で自身を慰めるだけが精一杯なのだろうな」
 哀れなことだ、と、陛下は満足そうに笑んでいる。
 陛下は勘違いをしているようだったが、満足そうに笑んでいるのならわざわざ再び訂正することもないだろう。
「宴もそろそろお開きにしよう」
「まだ少々早いのではないですか?」
 そう呟き私の肩に手を乗せる陛下。
 いまだ盛り上がる会場。
 たしかに時間としては閉会にしても良い頃だろうとは思うが、まだ宴の興に酔い騒ぎたいと思う者も多いのではないだろうか。
 疑問に思い陛下の顔を覗くと、そこには愛しい陛下のなんとも悪戯そうな表情が潜んでいた。
「もう余は我慢できん。早くそなたを抱きたいのだ」
 夜はまだ始まったばかりであった。






「そなた、いま自分がどのような淫らな顔をしているか想像できるか?」
 あまりの羞恥に顔を隠そうと勝手に動く腕を、汗ばんだ陛下の指が退けてしまう。
 その濡れた掌が、陛下も興奮しているのだと分かり、ますます私を昂らせる。
 初めて他人を、雄を埋め込まれた腹に苦痛を感じないのは陰部と秘所に念入りに擦りこまれて軟膏のおかげだろう。
 正直、この軟膏の力を借りなければ私は泣き叫んでいたと、そう思う。
 陛下の男性器は形容などではなく、本当に男性の腕ほどの胸囲を保っていたからだ。王族はこちらまでも立派なのだと、冗談交じりの噂を聞いたことがあったのだが、まさか実際にこれほどまでとは思わなかった。破瓜でこのイチモツを受け入れられたのも、やはりこの媚薬のお蔭だと言えるのだが――。
 なまじ呪術の知識があるだけに私の身体がどのように変化するのか知ってしまい、羞恥はますます増していく。
 あの軟膏は淫魔の生血から作られた最高級品の媚薬だ。
「――……へぃ……かぁッ、もぉ、おゆるしを――ッ!」
 仰向けに転ばされた私の脚を担ぎ、陛下は容赦なく私を穿つ。
「許しはしないぞ、そなたは余を誑かしこんなにも熱くさせているのだからな」
 信じられないほどに太く聳え立つ陛下の性器が、限界まで広がった私の秘所を嬲るたび、そこからは淫猥な水音が零れていた。
 野牛すらも股を開き、熱を欲してしまうというこの媚薬の効果は私も以前見たことがあった。私自身が開発し、過去に作ったものであったのだ。
 その時は領主の依頼で研究し製作しもので、私もその使用の際に現場に立ち会った。
 正直、悪趣味な薬だと、そう思った。
 口を割らせるだけならば自白剤や傀儡の術を使えば簡単にできるからである。その点この薬は純粋に拷問を楽しむために作られたのだ。
 領主の屋敷に潜入していた間者に口を割らせるために使用されたのだが、その現場を思い出すだけで私は恐々としてしまう。
 どんな拷問にも口を開かなかった間者がこの薬を使われただけで泣いて縋り、野獣に犯されながらも射精し、聞かぬ事さえも語った後、気絶し泡を口から零しながらも尚、雄を欲し無意識に身体を蠢かせていたのだ。
 この軟膏の効果を解く方法はただ一つ。使用者が被験者に許しを与える、ただそれだけであった。
 だが唯一それしか被験者を救う術はない。たとえ洗い流したとしても、この疼きは消えず、淫魔が陰部を呪い続けるのだ。
 たった一言、許す――と。陛下がそう言って下されば私はこの苦痛のような快楽から解放されるのだが。
 陛下はまだまだ私を解放してくれそうにはなかった。
 つかまれた指を甘噛みされ、そのまま舌を這わされる。
 その舌の表面の襞の一つ一つに快感を感じ、私の身体は跳ねていた。跳ねるたびに陛下の熱を締め付け、その熱の凹凸が私の体内を刺激し、再び私は白濁した精を放出した。
 愛しい陛下の膝の上で浅ましく踊る自身の醜態に、涙が止め処なく流れ出る。
 こんな辱めを受けるなど、思ってもいなかったからだ。
 媚薬により酔わされた身体が、陛下の戯れの度に私を絶頂へと送り届ける。悪戯心を刺激された陛下が私の乳首の突起を捏ねるたびに、私は文字通り絶頂を迎え吐精してしまうのだ。
 どんなに絶頂を迎えても精を吐き出し続けることができるのは、淫魔の魔力のせいだ。淫魔の生血が精嚢に強制的に力を与え続け、止め処なく精子を作り続ける。
 その影響で通常よりもはるかに膨らんだ陰嚢を揉まれると、まるで牛の乳絞りの様に精液が搾りとられてしまう。何度も音を立て零れ、溢れ続ける欲の液。
 その光景が面白いのか、陛下は跳ねる私には容赦なく私の陰嚢を揉み扱くのだ。
「ぁ…、ぁぁ……ッ、ンン――ッ!! ――ッン!」」
 私の腹の上は私が吐き出した白濁で水びたしになっている。
「ひどい……です、ひどいです……へいか。愛してくださるのなら、なぜこんなひどいことを……」
「これは罰であると言ったであろう? そなたが自身の感情に素直にならず余の愛を拒絶していた事への罰だ」
 初めから愛らしく余を受け入れていたら、優しく抱いてやったのに――と。
 私を嬲る手を休めず、陛下は苦笑しながら語った。
「しかしそなた、処女だと言うのは嘘であろう。余の滾りをこんなにも美味しそうに頬張りおって、涎を垂らして喜んでおる」
「――ッ! 薬のせいで、ございます……」
「それだけではなかろう? 余を愛しておるから余計に滾るのではないか?」
「も……ゆるしてッ――さい。こんな、こんなのひどいです。あんまりでございます――……ッ」
 もっと違うモノだと思っていた。愛し合う行為はもっと伽話のようにゆっくりとして睦まじいモノだと思っていた。
 互いに指を這わせ、キスをし、愛を囁きながら行われるものだと、そう思っていたのだ。
 けれど実際に行われる契りは、欲に塗れた獣じみた交尾なのだと、私は今日初めて知ったのだ。
 陛下という力強い雄に犯され、翻弄され、征服される。契りは雄が相手を征服するための一つの儀式なのだと知った。
 そして雌として辱められ、陛下の雄に征服される事に喜んでいたのは私だ。媚薬のせいだけではない事はもう分かっていた。
 陛下に腹の奥深くまで穿たれ、子種を植え付けられるたびに、羞恥で動揺する理性とは裏腹に私の心は喜んでいる。もっと乱暴に扱われても、もっと屈辱的な格好で辱められても、相手が陛下ならば全て耐えられた、嬉しかった。
「やはりそなたの苦悩に歪む顔は魅力的であるな。余はな、愛しいそなたが余のために限界まで絶頂を迎え、余のために余を受け入れる姿が見てみたいのだ」
「いやです……そんなの……いやでございます」
「ふふ、駄目だと言ったであろう。これはそなたが余に惚れ薬を盛った事への罰であるぞ。本来ならば処刑に値する罪であると、そなたも分かっているのであろう?」
 こんな時にその話を持ち出す陛下の意地の悪さに、私は震えた。
「ならば……陛下も、私にほれくすりをお使いになられましたッ――」
 少し間を置き、
「はははは、かわいい事を言う。自分の立場を弁えぬそなたには、もっと可愛がってやらなければならぬな」
 陛下は嬉しそうに笑った。
「――ン!」
 陛下の猛った大きな塊が秘所から抜け出る音と衝撃に、私は再び達し、
脱力する。
 快感の余韻に動かぬ身体を持ち上げられ、犬の様に四つん這いに這わされてしまう。陛下の雄々しすぎる竿が抜けた私の蜜穴からは、陛下の残していった白濁が零れだし、私の脚に筋を描いていた。
 その白濁の滴りすらも、快楽として私の脳を犯す。
 何をされるか分からぬ恐怖に、身体は震えた。
「そなたも呪術師ならばあの軟膏は知っておろう?」
「…………」
「王命である、答えよ」
「はい、存じております。あれは一年前に私が作ったものです」
「ほう、そなたがアレを。それは因果な話よのう」
 興味深げに笑い、陛下は悪戯を再開する。
「ではこのまま余がそなたの陰嚢を縛り上げればどうなるか、知っておるか?」
「ッ――イヤです、やだ……おゆるしを!」
 股間に感じる冷たい感触。
「余を愛しておるのなら我慢いたせ」
 快楽に火照った身体に、睾丸の付け根に金糸が幾重にも巻かれ始めているのだ。
 快楽を与えられるたびに白濁を作り出す精嚢。その止め処なく作り出される器官を塞き止められたらどうなるか。
 考えたくもなかった。
 膨らんでいく陰嚢の重さに、私は涙した。
「タプタプに膨らんで、まるで水風船のようだ」
「ヤァァァーーー! ……っつ、ひぃぃぃ!!」
 無限に膨れ上がる欲望を放出できない陰嚢はますます膨らみ、陛下が指で弄ぶたびに音を立て震える。
 タプン……タプン――と。水袋のように滑稽な音を立てる袋はまだまだ膨らみ、這ったままの私にはその大きさは確認できないが、相当なモノになっているのではないだろうか。
 次第に重さを増していた陰嚢の中が石を抱いたような質感を作る。
 その違和感に、私は眉を顰める。
 戒めを解かれた袋を陛下の指が乱暴に揉み、握りしめ始めたのだ。
「――!」
 濃度の濃くなった精子は細い尿道の形に添い、ゼリー状のまま放出される。
 尋常ではないほどに長く困難な絶頂に、私の視界は真っ白になった。
 陰嚢の中で濃く、固くなってしまった精子は、力強く揉み込む陛下の指により出口へと追い込まれ絶頂に慣れぬ尿道を通り、長い長いゼリーを作り出している。
 私の性器の先端からは繋がったままの白いゼリーが止め処なく流れ続けいるのだろう。
 白いゼリーが流れ続けている最中、私は絶頂の頂点で踊らされ続けているのだ。
 やっと終わった長すぎる吐精だったが、私の嗚咽は止まることはなかった。
「余を愛しておるか?」
「……――ぁ」
 その言葉に掠れた声と共に頷いた。
 背後から再び圧し掛かってきた陛下の体温を感じ、強すぎる快感を覚悟し私は瞳を閉じた。
 まるで獣の交尾の様に犯される私は陛下の下で喘ぐことしか出来ない。再び陰嚢を揉まれ、私の鈴口からは粘膜の白がシトトとあふれ出していた。



 辛すぎる初夜を終え、私は陛下の腕の中で嗚咽を上げ続けていた。
「そんなに泣くでない。そなたのその顔を見ているとまた組み伏し、征服したくなってしまうぞ?」
 叫び続けた喉はもうろくに声を発することができなかった。
 散々に嬲られ、弄ばれた屈辱は陛下を憎らしく思えさせた。
 まさか初夜でこんなに濃厚な伽を強要されるとは思っていなかったから、悔しかったのだ。
 拗ねる私に、陛下は苦笑したまま詫び続ける。
「優しく抱いていただけるものだと、そう思っておりました」
「だから、いまこうして優しく抱いておるではないか」
 苦笑する陛下の愛しいその顔も、今はどこか憎らしげに思える。
「あんな拷問のように犯されるなど、信じられませぬ」
「だが、一生涯忘れられぬ初夜になったであろう?」
 反省などまるでしていないと、陛下は開き直ったように笑っていた。
「余はな、そなたに余の愛を刻み込もうと思うのだ。そなたの惚れ薬の効果が切れる一月が経っても、そなたが余を思い出し燃え上がるように。余の存在を刻み込んでやりたいのだ」
「陛下は残酷な人でございます」
 悔しくて噛んだ唇を、陛下が優しく制した。
 代わりに差し込まれた陛下の指を強く噛むわけにはいかず、私はその指を軽く噛む事しかできない。
「ほう、理由を申してみよ。あんなにそなたを愛してやったこの余が残酷だと思う理由をな」
 指にじゃれる私を、陛下は優しく慰めてくれた。
 その優しさがまた私の悔しさを募らせる。
 どうせ優しくしてくれるのならば、さきほどの伽の際に優しくして欲しかったのに、
「陛下は残酷でございます、酷いお人でございます。惚れ薬の効果が切れて嘆き悲しむのは私だけだと言うのに、そのような事をなさるなんて」
「そのような事?」
「あんなに記憶の鮮明に残るほど、媚薬を使って嬲った事でございます」
「媚薬に酔うそなたはなんとも愛らしく、美しかった」
 私の指をつかまえた陛下はそのまま口に寄せ、私の性を煽るように甘く噛み始める。
 刺さるような痛みが胸を貫く。
 この愛しい指で優しく抱いていただけたのなら、私は幸せを感じることが出来たのに。
 やはり悔しかった。せっかくの初夜をあんな手段で狂わされたことが許せなかった。
「この一月が過ぎたら、陛下は私など相手にしてくださらなくなる、目の端にも置いてくださらなくなる」
「それはそなたとて同じことであろう?」
 私は、陛下とは違う。
 もし陛下が私と会いたいと願っていただけたのならば、陛下は私にいつでも会いに来ることが出来る。
 しかし私は違う。
 卑しい呪術師の私では宮殿の門は開かないだろう。
 それが陛下と私の違いなのだ
「陛下をお慕いする私がどれほどに敬愛しても、愛していても。陛下は私を疎まれるでしょう、憎まれるでしょう」
 薬がなければこれほどの男が私に惚れてくださることなど、愛してくださることなどなかった。
「卑しい呪術師がよくも自身に惚れ薬を盛った、と。汚らわしい一月を過ごさせたと、私を罰するでしょう」
 陛下にとってきっと私は人生の汚点となってしまう。
 それが怖ろしかった。
 咎められることよりも何よりも、それが怖かった。
「それが私には恐いのです、怖ろしいのです。愛する陛下に拒絶され、後悔されることが何よりも恐いのであります」
 こんなに愛しい陛下に後悔をさせてしまうのは嫌だった。
 ――それは言い訳に過ぎないだろう。
 本当は捨てられるのが怖いのだ。
 異質な髪をした私を母が投げ捨てたように。憎悪を込められ母から名すらつけてもらえなかった私を、いつか陛下も捨てるのだろうと。
 怖かったのだ。
 そして何より、陛下に捨てられ、憎まれ。それでもなお陛下に縋りつくであろう愚かな私を想像すると――。
 捜し求め再会した時の、あの母の醜悪な顔は今でも私を苛む。
 それを再び繰り返したく、なかった。
 どれほどに陛下を愛していても、いや愛しているからこそ。あの母の影がいつまでも私の頭から剥がれなかった。
 この感情を浅ましく思った私は陛下に背を向ける。
「捨てないで下さい」
 小さく呟いた私の声に。陛下は少し声を漏らした。
「どうか私を捨てないで下さい。何があっても、どんな時でも、たとえ私が陛下を忘れてしまったとしても、それでも捨てないで下さい」
「それほどに余を愛しておるのか?」
「当たり前ではないですか、愛していなければあのような辱めなど受け入れようはずがありませぬ」
 では許してくれるのだな――?
 と、陛下は背後から私を抱き寄せてくれた。
「愛い奴め」
 頷く私の髪を何度も何度も撫で、陛下は嬉しそうに深く私を抱きしめる。
 背後から抱き寄せる陛下の吐息が私の耳を刺激していた。
「お願いがございます、陛下」
「ん? どうした、何なりと申してみよ」
「今一度抱いていただけないでしょうか。出来ることならば、望みが叶うのであれば恋人の様に優しく抱いていただけないでしょうか?」
「そなた疲れておるのではないか?」
「それでも、私は陛下に優しく抱いて欲しいのでございます。敬愛する陛下との初夜に優しく抱いていただいた記憶が欲しいのであります」
 それは私の本音だった。
 私の愚かな望みであった。
 私の我侭であった。
「そなたは本当に愛らしいな」
 覆いかぶさる陛下の体温の心地よさに、私は身を任せた。
 今度こそ陛下は優しく私を抱いてくださった。
 恋人の様に抱き合い、キスをし、睦言を交わし。
 私と陛下は愛し合った。
 私の望んだ初夜に陛下は付き合ってくれたのだ。
 抱き合いながら契りを交わした時、
 嬉しいのかと聞かれ、私は何度も頷いた。
 何度も何度も頷いたのだ。
 陛下も嬉しそうに夜が明けるまで私を愛してくれたのだった。






 宮殿に滞在してから一週間が経った。
 与えられた自室で、私は慣れぬ金属の帯に顔を顰めていた。
 陛下の独占欲の証が私を戒めていたのだ。
 まさかこの私が貞操具で閉められる日が来るなど考えたこともなかった。それでも拒みきれなかったのは、惚れ薬のせいだろう。
 昨夜の熱すぎる伽を思い出し、私の頬は染まる。
 精魂尽きるほどに搾り取られた身体は寝起きした今でも泥の様に重かった。吐精を強制し続けられていたのだから、疲れるのは無理はないが。
 それ以上にいまもなお私の体内を押し広げ続ける楔が、四六時中私を苛むからだろう。
 貞操帯に取り付けられている男性器を模った宝石。その巨大な楔は陛下が私にプレゼントしてくれたものだった。
 いつでも余を思い出し欲しがるように、と。陛下が唇を揺らし、その後囁いた言葉に私の身体は震えた。
『愛しいそなたにもっと余の愛を教え込み、淫らに調教してやろう』
 柔らかいシーツの上で、私の熱はますます込み上げていく。
 体内を蝕み続ける楔が幾度も幾度も私の欲を煽るせいだ。
 陛下によって暴かれた新しい性器は、その楔の質量を喜び、掻き毟りたくなるほどの疼きを与えている。
「……ッ――」
 しかし自身で慰める事ができないのはこの残酷な貞操帯のせいだ。
 どれくらいの時間をこうして耐えていただろうか。
 私は待ち侘びた。
 陛下が部屋の扉を開けてくれることを待ち続けていた。
 この戒めの帯の鍵を持っているのは陛下だけなのだ。
 陛下が来てくれなければ私はずっとこの疼きに耐えなくてはならない。
 まだ陛下は訪れてくれなかった。
 この楔を埋め込まれたのは朝方のこと、けれどもう今は正午の光が刺している頃なのに。
 私はとうとう我慢できずに、陛下を探しに部屋を出た。
 歩くたびに中の楔は角度を変え、私の体内の奥深くを容赦なく抉る。
 すれ違う人々に変に思われぬ様にするのは辛かった。
「ふふ、待っておったぞ愛しきものよ。意外に遅かったな」
「酷いです、陛下。陛下は私を試していらっしゃったのですね」
 その意地の悪い顔を見て、私は悟った。
 待っていても来ないはずだ。
 陛下は独り残された私がどれほど我慢ができるか試していたのだったようなのだ。
「そう怒るでない。余の機嫌を損ねたならそなたの戒めを解いてやる気がなくなるではないか」
「――お願いでございます、どうか鍵を」
 敬愛する陛下であったが、私をまるで性奴隷のように弄ぶ陛下に、私は少し苛立ちを感じていた。いつでも私は、優しく抱いて欲しいのだ。
 その心落ち着く腕の中で安らぎを得ながら、互いに接吻を交わし、静かに夜を過ごす。そう夢見ているのだが。
 現実の私は陛下の性奴隷と一緒だ。
 陛下はこの一週間、私を性に溺れさせようと楽しんでいる。ありとあらゆる体位で縛られ、洋の東西を区切らず様々な性具で私を嬲り、私が羞恥と快楽で顔を歪める様を実に心地よさそうに楽しんでいるのだ。
 それが全て私のためだと、陛下は全て私に責を押し付ける。
 惚れ薬が切れたその後に、私が陛下との痴情を思い出し、股を開いて宮殿を訪れるようにしたいのだ、と。
 陛下は真剣にそう語っていたのだが、正直私は呆れと少しの怒りを感じていたのだ。
 惚れ薬が切れてしまったら、陛下は卑しい呪術師の私など相手にしてくれないというのに。それなのにこの強烈過ぎる性と愛を思い出させるようにしたいなどと言うのだから。
 それは陛下の我侭だ。
 陛下の、残酷な戯れであった。
 そんな事よりも、私は少しでも陛下に優しく抱かれ、その温もりの記憶を刻みたいというのに。陛下は少しも私の気持ちを分かってくれていない。
 それが私には苛立ちとなっているのだ。
 その感情が少し漏れてしまったのだろう。陛下は私の表情を見てますます喜び、苦笑している。
 陛下の苦笑には二種類がある。
 一つは王者の悲壮に満ちた悟りの苦笑、そしてもう一つは今見せている悦びのソレだ。
 陛下は性に溺れかけまいと必死で泳ぐ私を鑑賞し、喜んでいるのだ。
「まあ、待て。余は食事中であるぞ、控えよ」
 やっと解放されるとそう思っていたのに。
 意地悪な陛下の戯れ。
 陛下は私を嬲るのが本当にお好きなようだ。
「やはりそなたは苦悩で顔を歪めるその様が一番そそるのう」
「お願いでございます……」
 ――ふむ、と。
 一言もったいぶって考えた後、
「服を脱げ」
 陛下は食事の手を止め、私に命を下す。
 陛下に命令され、私の身体は勝手に動く。
 陛下の淫らな手によって、どのような命令にも逆らえぬ身体に作り変えられていたのだ。
 例え羞恥が勝っても。例え理性が拒もうとも。
 もう陛下の甘い言葉に逆らう術がなかった。それはこの後に待っている優しい時間があるのを知っているせいもある。
 陛下は散々に私を汚しつくした後には必ず、私の望む恋人のような優しい伽を行ってくれるのだ。
 それは飴と鞭と似ていると思う。
「その椅子に乗り、脚を広げ余を誘ってみよ」
 陛下の望む痴態を演じるまでもなかった。
 陛下の愛を教え込まされ熱に浮かれた身体が、既に陛下を煽る様に動いていたからである。
 この一週間で私は、陛下の味を覚えこんでいた。
 早く陛下に抱いて欲しかったのだ。
 それは最後に待っている優しい伽の時間だけでなく、こうしたまるで調教のような時間でも同じだ。私に欲情してくださる陛下の欲の塊が、私の体内に入り込むと思うと嬉しいと感じてしまうからだ。
 陛下に抱かれていると愛されていると実感できる。こんな私でも愛されているのだと、強く実感できる。
 本当は優しく抱いて欲しかった。
 けれど陛下は私が狂うほどの快楽に喘ぐ姿が本当に好きな様で、その喜ぶ陛下の顔も私は好きだったのである。
 本当に、私はすっかり心の髄まで陛下の虜になっているのであろう。
 例え惚れ薬がなくても、きっと惚れてしまっていたのだろうと、いまなら分かる。
「私を――……っ、だきたいのではないですか?」
「ふふ、誘いおって。仕方のない奴だ」
 股を開き、陛下に問いかける淫らな私。
 いままで想像もした事もなかった雌となった私。
 全て陛下のためならば、私はどんな雌にも成り果てることができた。なぜなら私は陛下を愛しているからだ。
 貞操帯を着けられ、性具で蜜孔を濡らし欲望を滾らせながら男の前で脚を開くこの浅ましい私。まるで獣のようだと自分でも思う。
 けれど愛とはこうなのだと、私はそう思っていた。
 陛下もおそらく――、
 私が陛下のためにどれほどの恥辱に満ちた格好を我慢しているのか。
 陛下のためにその淫らな伽をどれほど受け入れられるのか。
 その私の陛下を愛する心を喜んでくれているのだと思う。
 私が陛下のために淫らな性に溺れていくほどに、陛下はその変貌を私の愛として享受しているのだと、私はそう思っている。
 陛下は愛をこうした手段で形にしたいのではないだろうか。
 なぜ陛下がこれほどまでに愛を形にして確認したいかは分からない、それにはどこか陛下の暗い一面を、私は感じていた。
 陛下も、どこか寂しいお方なのかもしれない。
 たまに見せる憂いや悲哀。皇帝という立場の重さ。
 陛下を誰よりも何よりも愛している私にも、それを支えてあげることはできないのだ。
 それが分かっているからこそ、私は陛下の信じられないほどに濃厚な伽に応えることができるのかもしれない。
 こうして陛下の望む愛に応えることが、陛下の救いになるのであれば――嬉しかった。
「抱いてください……」
「余が教えたとおりに言い直してみろ」
「――犯してください」
 言葉に満足したのか、
 後ろを遮る貞操帯を外してくれたのだが、陛下は前を包む貞操帯は外してくれなかった。
 帯に覆われた前部はいまも慎ましく貞操を守っているが、取り外された後ろは違う。
 抜け出た楔が床に落ち、私の穴からは熟した粘膜が零れ始めていた。
 散々に焦らされた粘膜は口を開き陛下を誘い、私もまた陛下を熱く見つめる。
「お願いします……へいか」
 一突きに最奥まで穿たれ。私の身体は喜びに震えた。
 脚を抱えられ、何度も何度も容赦なく犯されるこの衝撃。熟された秘所の中の粘膜は厭らしく陛下の滾りを喰らいこむ。
 粘膜が敏感になっているせいか、陛下の滾りの表面、筋の一つさえも感じることができた。
 先端の括れと尖り、そして興奮で筋立つ脈、臍を突かれてしまうほどに
長く成長した竿が。何度も、何度も私の恥ずかしく蠢く孔を蹂躙している。
 貞操を守る帯に守られ、私は射精することを禁じられている。
 けれど頭の中では陛下に貫かれるたびに絶頂を迎えていた。
「どうだ、そろそろ出したいのではないか?」
 陛下の言葉に私は首を横に振った。
「それよりももっと、もっと愛して欲しゅうございます」
「愛いやつめ……」
 体内を穿つ熱が小刻みに震え、私はまた喜びの絶頂を迎える。
 足先が痙攣し、股の筋肉もその振動に合わせて何度も揺れた。
 収縮を繰り返す熱い塊。
 陛下が、私の体内に子種をくれたのだ。
 私に愛を植え付けてくれる時、一瞬だけ眉を顰める陛下のその精悍な顔が私は好きだった。
 陛下も私で感じてくれているのだと、そう実感できるからだ。
 そう思い、陛下の顔を眺めていると陛下の顔が近づき、私にキスをして下さる。
「ん……っ、……」
 互いの舌の粘膜が交じり合い、糸を作る。
 音がするほど強く舌を吸われ、私もまた陛下の舌を味わう。
 その最中も、陛下が穿つ私の体内は熱く滾っていた。まだ衰えることの無い陛下の肉棒は私を愛してくれている。
 人との繋がりの薄かった私が、これほどに他人に愛されるとは思ってもいなかった。
 陛下の吐息を感じ、私は瞳を閉じた。
 触れ合う肩、繋がる粘膜の甘さ。
 他人と体温を重ねる快楽、そして愛。
 全てが現実なのだと思うと、私は嬉しかった。
 確かに愛は怖ろしいのだと知っていた。
 愛は全ての憎悪の始まりなのだとも知っていた。
 けれど、
 愛されるのが嬉しかったのだ。
 嬉しかったのだ。

 どれほどの時間が経っただろう。
 私はいつの間にか寝室に運ばれ、そこでまた陛下にやさしく抱かれていた、
 私が望む優しい夜。
 霞む意識の中、愛しい陛下の顔に私は安堵した。
「愛しているといってくれ」
「――……愛しております、陛下」
 互いの指を絡め、その指の硬さを実感し。私の心は夢うつつとなる。
 陛下との淫らな時間が長ければ長いほどに、伽が淫らであればあるほどに。この優しい時間は私の心を安堵させる。
 やはり私は愛されているのだと。
 陛下が私を愛してくれているのだと。
 安心できるのだ。
 願いが叶うのであれば、いつまでもこうしていたい。
 全てを忘れ互いに身体を寄せ合うこの時が、いつまでも続けばいいのにと、私は無知な子どもの戯言の様にそう思っていた。 
 けれど陛下はどこか不安そうに眉を顰めている。
「どこにも行かぬといっておくれ」
「私はいつまでも、へいかのモノでございます」
 体内に受けていた陛下の愛が嬉しかった。
 ただこうして繋がっているだけでも、こんなに愛を確認できるのだからわざわざあんな淫らな行為をしなくても良いと思うのだが。
 陛下がああしなくては愛を確認できないのだから仕方ない。
 あの淫らで濃厚な行為は、やはり陛下が愛を形として確認するための行為なのだと、私はそう確信していた。
 私がこうして優しい時間に愛を一番確認できるように、陛下もあの淫らな伽の時間が一番愛を確認できるのだろう。
「余を受け入れておくれ」
 陛下の声に、私は頷く。
「余を裏切らないでおくれ」
 陛下の願いに、私は頷く。
「どうか俺を捨てないでおくれ――」
 その願いは――。
 陛下の懇願はどこか弱々しく、幼げな匂いを残していた。
 私は強く頷く。
 何かに怯えるように、陛下は強く私を抱きしめていた。

 陛下も愛を恐れているのかもしれない――。
 


 あれからまた一週間が経った。
 薬の効果が消えるまで、あと二週しか残っていない。
 私は焦燥感に駆られていた。
 蜜月は瞬く間に過ぎていく。
 射精を禁じる薬を飲まされ、私は溜まりすぎた熱に浮かれながらも、陛下の上で踊っていた。
 腫れあがった私の性器には今、陛下の中指が埋め込まれている。
 徐々に徐々にと拡張された尿道に陛下が悪戯をしているのだ。
 陛下の指には麻酔作用のあるスライムの粘膜が纏わり付いており、私の性器の穴が傷つくことはなかった。
 むしろ痛みなどほとんど感じない。それよりも強く強制される射精の欲求と本来犯されるはずもない場所を犯されている背徳感で、私の身体は跳ね続ける。
 ただでさえ腕ほどもある陛下の性器で犯されているというのに、これはあまりに辛かった。痛みの辛さではない。強すぎる快感の辛さだ。
 それでも陛下に浅ましく跨り、腰を揺すり続けるのは陛下を愛しているからだった。
 陛下が愛してくださるなら、陛下が欲してくださるのなら、私は何をされも良かった。
 惚れ薬が切れた後も陛下が私を望んでくれるように、私は焦っていたのだ。
「こんなに蜜を溢れさせているのに射精できないとはな、ふふ。これで余との思い出が増えたであろう?」
 男性器を犯す中指を容赦なく回転させながら、陛下は私に問いかけた。
「余を愛しておるか?」
 私は陛下に愛されてる事が嬉しくて、何度も何度も頷く。
 陛下。
 愛しい陛下。
 陛下を失いたくなかった。この想いを忘れたくなかった。
 愛を知ってしまったら欲望はますます広がっていく。
 一度蝕まれた身体は、陛下の体温を求め欲を深めていく。
 もっともっと私を汚して欲しい、二度と忘れられないほどの恥辱を与えて欲しい。
 惚れ薬が切れた未来の私が、すぐに陛下を思い出すように。
 どれほど残酷な性交であっても、どれほど神に背く行いであっても。私と陛下の愛をもっと深めたかった。
 もっと、もっと。
 もっと、
 犯して欲しかった。
「どうか私を捨てないで下さい……」
 愛を知り、温もりを知り。
 私は思い出していた。
 愛が逃げ去ってしまう恐怖を、大切な人が私を置いていってしまう恐怖を。
 いつまでも愛し母を待ち続けた滑稽な私を。
 陛下は母とは違う、それは分かっていた。
 薬が切れても、再び私を愛してくれると信じていた。
 けれど、
 どうかもっと犯して欲しかった。
 私が陛下との愛を思い出せるように。
「どうか犯してください」
 そして、
 陛下が私を思い出してくれるように――。
 
 また一週間が経ってしまった。
 残された時間はもう僅かしかない。
 なのに、時はどんどん加速していく。
 幸せであればあるほどに、時間は悪戯に針を進めるのだ。
 私と陛下はほんの少しの時間さえもあれば互いを求めた。
 変化が起こったのは最近の事だ。
 いつも与えられていた優しい時間。その静かな伽の最中に、私の身体は熱を感じるようになってしまったのだ。
 もっと激しく愛して欲しかった。
 陛下の愛を確認できるように、淫らで濃厚な伽を欲していたのだ。
 逆に陛下は、優しい伽の時間を欲していた。
 愛を繋げたままに、静かに愛を囁きあうその時間を陛下は強く欲していたのだ。
「愛している、そなたを心から愛しておる」
「私も同じ気持ちでございます――」
 指を紡ぎ、手を繋ぎ。
 陛下と身を合わせる優しい伽。
 互いに抱き合いながら、陛下は嬉しそうに私の肌を撫でた。
「そなたの腹に余を納めると、とても安心するのだ。いつまでもこうして愛し合っていたいものだな」
 そう苦笑する陛下に、私もまた苦笑した。
「余を抱きしめてくれぬか?」
「こう、でございますか?」
 陛下の願いに応え、愛が繋がったままの私は陛下の背に両腕を回し、強く抱きしめた。
 すると陛下は私の胸に顔を押し付け、瞳を閉じ始めている。
 息を吐き、
「そなたの心の音が聞こえると、安心するのだ」
 そう幸せそうに囁いた。
 陛下の体温と体重、そして鼓動が聞こえ。
 私も安心した。
 まるで母に縋る子の様に、陛下は私の胸の上で心地よさそうに安堵している。
 思わず心を惹かれ、私は陛下の髪を撫でていた。
 愛しいと、そう思えたのだ。
「余の母上は――」
 陛下が瞳を閉じたままに呟いた。
「余の母上は、余を抱きしめてはくれなかった」
 私の体温を確かめるように、陛下は強く顔を押し付ける。
「そなたはとても、温かいな」
 
 時は、瞬く間に過ぎていった。


 今日は最後の日だった。
 時はますます加速していた。
 愛の喪失を恐れる私を嘲笑うかのように、時はすぐに陽を落とし夜を明けさせていたのだ。
 陛下は私のために全ての公務を中断し、今日だけは陛下は私だけのモノになった。
 陛下と私は城下へ出向いていた。
 宮殿以外の場所で過ごしたい、と。陛下が願ったのであった。
 一歩、宮殿から出てしまった陛下はあの時の、初めて出会った頃のスチャラカ男に戻ってしまっていた。
 それほどに宮殿は窮屈なのだろう。
 この一月、陛下と共に生きてそれを深く実感していた。
 宮殿にはいつでも憎悪と欲望が取り巻いていたからだ。
 いつでも、陛下は肩を張っていた。
 哀れなほどに偉大な王を演じ、臣下を従える陛下の凛とした姿。
 その背に見せる微かな憂いに、私はいつも心を痛めていた。
 悪戯そうな顔で淫らな性を望んだあの陛下が、悪戯に私の調合の邪魔をしていた陛下がおそらく。
 虚勢を捨てた陛下本来の姿であったのではないかと、私はそう思っていた。
「長いことこの国を治めているが、こうして城下を歩くのは初めてだ」
「私も初めてでございます」
 今は二人とも町人の格好をし、市場の活気を楽しんでいる。
 何か面白そうなモノを見つけては私の手を取り、走り出す陛下。
 たとえばそれは隣国からの渡来品の飴細工であったり、丸ごとの豚焼きであったり。陛下はとても楽しそうに市場を満喫している。
 私も、楽しかった。
 しばらくそのまま楽しく幸せを満喫し。
 突然。
 私の瞳から涙が零れた。
 本当に突然に前触れもなく。
 笑っていた私の瞳から、涙が零れていた。
 もう陽が暮れ始めていたのだ。
 楽しいときは一瞬で過ぎ去ってしまう。
 それはこの一月で嫌というほどに味わっていた。
 今日でこの愛が終わってしまうかもと思うと、涙は次々と零れ始める。
 ついさきほどまでは朝だったのに。
 ついさきほどまでは昨日だったのに。
 ついさきほどまでは――……。
「……やです」
 小さく、私は呟いた。
「嫌です、陛下と離れたくありません」
 泣く私の肩を、陛下が優しく抱いてくれた。
 明日になったら私は陛下を失ってしまうかもしれない。
 明日になったら、陛下は私を忘れてしまうかもしれない。
 そう思うと恐れが私を包んだ。
 他人を愛する事への重さが私を蝕むのだ。
「いっそ私が女であったなら良かったのです」
「何故そう思うのだ?」
「女であれば子を宿し、例え薬が切れたとしても私は陛下との繋がりがもてました」
 それは叶わぬ願い。
 明日から私と陛下は他人になってしまう、それが悲しかった。
「余は――そなたが男で良かったのだと思っている。余とそなたの愛しい子を政争の具に巻き込みたくはない」
 おそらくそれは私への慰めだったのだろう。
 私を気遣い、慰めの言葉をくれたのだと分かっていた。
 けれど――、
 その言葉の重みは陛下の瞳に映る憂いが証明していた。
 政争の具にされてきたのは一体誰であったのか。絶対的な権力を持っていた陛下の母君。若くして逝ってしまった先代の皇帝――陛下の父君。
 そして生まれたばかりの皇帝陛下。
 愛憎と政に絡められ、陛下の周りには数々の争いが生まれていたのだろうと、容易に想像ができた。
「それでも私は、陛下との命が欲しかったのです」
 苦笑する私に待っていろと言い残し、陛下は花屋の戸を叩いて何かを購入していた。
 その手に握られていたのは小さな子袋であった。
「ならば共にこの種を植えよう」
 何故種を。そう疑問に思う私に陛下は続けた。
「たとえ子を宿せないとしても余とそなたの愛は永遠だ。しかしそなたが子を出来ぬことが侘しいと思うのであらば、この種を余とそなたの子にしようではないか」
 真剣に語る陛下。
 その顔が真剣であればあるほどに、可笑しく思えてしまう。
 意外にもロマンティストな陛下に思わず私は笑ってしまった。
 それはどこか子供同士の他愛もない約束のようにも思えた。
「どのような花が咲くのでありますか?」
「さあな、それを共に楽しむというのも一興であろう」
 食べれる花だといいな、と。
 陛下は笑う。
 私も笑った。
 私と陛下は暮れる陽の丘を登り、種を植えた。
 共に穴を掘り、手を汚し。
 私と陛下はこの丘に命を植えつけた。
「お願いがあります、陛下」
 ますます落ちていく陽を恨み、私は丘に座り込んだ。
 共に座った陛下の肩に頭を預け、愛しい陛下の温もりを感じながら。
 私は願いを口にした。
「もし惚れ薬が切れたとしても、私を愛してくださっていたならば。この丘に来てくださいませんか」
「この丘に?」
「はい、そうです。今日共に植えたこの命の下へ、どうか来て欲しいのでございます」
「約束しよう、愛しきものよ。余は必ずそなたを迎えに行く」
 陽が沈む最後の時まで、
 私は陛下の温もりに縋り続けていた。
 薬が切れたとしても、私はきっと。いや、絶対に陛下への愛を思い出す。そう信じて。
 私と陛下は、共に帰るべき場所へと戻った。
 愛を再び思い出すことを強く信じて――……。

 ――日は沈み、薬の効果は切れてしまった。



 私は待ち続けた。
 薬の効果が切れても尚、私は陛下を愛していたのだ。
 愛していたのだ。
 あの鮮明に刻まれた愛の夜が、陛下への愛を私に思い出させたのだろう。
 きっと陛下も今頃私への愛を思い出してくれているのだろうと。
 待ち続けた。
 約束の丘で、私は待ち続けた。
 陛下の姿はまだ見えなかった。
 信じていた。
 きっと陛下は来てくれると、そう信じていたのだ。
 あれほどに愛してくれたのだ。あれほどに互いに愛を誓ったのだ。
 陛下は約束どおり必ずこの場所にきてくれると。
 そう信じていた。
 陛下は母とは違う。
 投げ捨てられた崖底で、いつまでも母の助けを待ち続けたかつての私とも今の私は違う。
 私がいまもなおこうして陛下を愛しているように、必ず陛下も私を愛し、思い出してくれていると。
 信じていた。
 私は種に水をやった。

 一日経った。
 私は待ち続けた。
 陛下はまだ来ない。
 私は信じていた、陛下との約束を。
 絶対に捨てぬと約束してくれた陛下を信じていた。
 陛下が私を思い出してくれると――信じていた。
 おそらく放置していた公務が忙しいのであろう。全ての仕事を放棄して最後の日を過ごしていたのだから仕方ない。
 あの大臣の事だから今頃陛下を叱っているだろうか。
 苦笑し、
 私は種に水をやった。

 三日経った。
 陛下はまだ来てくださらなかった。
 私は待ち続けた。
 共に再会を誓ったこの丘で。
 待ち続けた。
 きっと陛下は来てくださると信じて。
 なぜなら薬が切れても私はこんなに陛下を愛している。薬が効いていた時よりも深く、重く。
 きっと陛下もそうであろうと、私はそう信じていた。
 私は陛下に焦がれていた、愛していた。
 陛下に会いたかった。
 陛下に触れたかった。
 陛下に――。
 陛下に。
 ――……。
 私は双葉に水をやった。

 七日経った。
 私は待ち続けた。
 陛下が私との約束を思い出し、この場所へ来てくれると信じていた。
 信じていた。
 信じていた。
 ――信じていた。
 蕾に水をやった。

 十日経った。
 丘には銀色に輝く花が一輪、その命を実らせていた。
 まるで陛下の様に逞しい花であった。
 早く陛下にも見せてあげたかった。
 共に手を汚し、共に命を与えたこの花を、陛下にも――見て欲しかったのだ。
 今日こそ。
 花開いた命が咲く今日こそは陛下が来てくれるのではないかと、私は待ち続けた。
 待ち続けた。
 待ち続けて、待ち続けて。
 待ち続けて、待ち続けたのだ。
 目を瞑ると、今でもあの初夜を思い出す。
 初めて優しく抱かれたあの優しい時間ではなく、あの拷問のような淫らな初夜だ。
 結局、私の思いとは違い、陛下の言ったとおり思い出すのはあの陛下が望んだ初夜だったのだ。
 どれほどの時間が経っただろう。
 目を開けるのが怖かった。
 そこに、陛下がいないからだ。
 恐る恐る瞳を開けると、そこには揺れ霞む銀色の花しかいなかった。
 やはりそこには、
 陛下はいなかったのだ。
 陽が沈みかけ、丘を暗闇が包む。
 長い長い今日も、もう終わってしまった。
 私は花に水をやらなかった。
 顔を覆う指の隙間から、
 幾重も幾重も水が零れ続けていたからだ。

 十四日経った。
 ――花はとうとう枯れてしまった。































 何事もないような平穏に戻り、一月が過ぎていた。
 長い一月だった。
 陛下はもう私との記憶を思い出すことはなかったのであろう。待ち続けた私が家に帰った時、そこには宮殿からの金塊が届いていた。陛下からの贈り物ではなく、これは大臣の計らいだったようだ。
 領地一つを買い占めてしまえるほどのコレは、手切れ金、口止め料といった所だろう。
 大臣に悪気はない事は分かっている。
 大臣はあれでも陛下が一番に信頼している部下だった。大臣と騎士団長のグエンだけは信頼しても良い、と。
 陛下は私にそう言い付けていた。
 あやつら自身の仲は悪いがな、と。
 そう苦笑した陛下の顔を思い出し、私は眉を顰めた。
 惚れ薬が切れても陛下が私を愛してくれると自惚れていた私は、なんとも愚かであったのだろう。
 本当に愚かであったと。
 今になって苦笑する。
 母を追いかけたあの時の私はもういない。
 私は陛下を追わなかった。
 宮殿に訪ねようとは思わなかった。
 ……。
 ――いや、本当は宮殿を訪ねる事ができなかったのである。
 訪ねようとしなかったのではない、
 訊ねることが――できなかったのだ……。
 怖かった。
 怖かったのだ、捨てられるのが。
 怖かったのだ。
 陛下に会ってしまい、直接拒絶されることに耐えられなかったのだ。
 あの日、人とも思えぬ形相で私との再会を拒絶した母のように。陛下に拒絶されることは耐えられなかった。
 これで良かったのだと思う。
 私も溜め続けた仕事で忙しくなった。
 一生遊んで暮らしていけるほどの金塊はあったが、私は仕事に没頭する事にした。
 忙しい間だけ、私は全てを忘れることができたからだ。
 辛かったのはふと夜になると思い出す陛下との同衾。あの信じられぬほど淫らだった性の夜が今頃になって私を苛むのだ。
 体温の呪いとはよく言ったものだ。
 私はすっかり陛下に呪われていた。どれほどに忘れようとしても、どのように振り切ろうとしても。
 呪いはいかなる時でも私を蝕む。
 私を惑わし翻弄する。
 陛下の肌の温もりだけは忘れることができなかったのである。
 私は全てを忘れる事を止め、愛しい陛下の記憶を留めて置くことにした。
 あの約束の花を部屋に飾った。
 銀色に輝く美しく、優しげな花だ。
 枯れてしまったその花から落ちた数粒の種。
 私と陛下が愛し合ったという確かな証拠。
 思い出。
 悲しい思い出であったが、あの時、陛下を愛した愚かで滑稽な私には大切な思い出だったのだ。
 例え陛下が私を忘れてしまったとしても、私は陛下が残していった呪いを――体温だけでも覚えておこうと。
 私はそう誓った。
 滑稽な淡い心だとしても、確かにあれは私の心だったのだ。
 陛下を愛した愚かな私の、大切な愛だったのだ。
 銀色に輝く花を見るたび、私の心は揺れた。
 あの夜の一時を思い出したまに泣くこともある。
「……お会いしとうございます、陛下」
 いや、たまにではない。
 陛下の体温を思い出し、泣いてばかりだった。
 陛下の言ったとおり、私は陛下との愛した記憶を思い出し、毎日震えている。怯えている。
 陛下が残してくれた初夜の伽。
 初めて感じた他人の体温。汗の滴り、滾り。
 幸せ。
 愛した幸せを忘れることなど、できるはずがなかった。
 今でも瞳を閉じれば陛下の体温を、吐息を。全てを思い出せる。思い出してしまう。
 それでも私は陛下を訪ねることはできなかった。
 できなかったのだ。
 捨てられることが、怖かったのである。
 やはり陛下は残酷な方であった。
 あの初夜の思い出を鮮明に残していった陛下は、
 とても残酷な方であったのだ。

 更に一月、
 長い一月が過ぎていった。
 懐かしい来客があった。
 それはあの宮殿の騎士団長グエンであった。
 微かに宮殿の面影を思い出し、私は苦笑した。
 グエンは度々私を訪ねてくるようになった。
 いつも他愛もない話をし、グエンの宮殿の仲間に頼まれたのだという薬の依頼を私は引き受けていた。
 それは病の薬であったり、弓術に用いる毒であったり。中には宮殿内にある神を祭る祭壇の蝋であったり。
 正直、神聖な祭壇の蝋を呪術師に依頼するのもどうかとも思うのだが。
 様々な依頼だった。
 私は少し、自然に笑えるようになった。
 グエンが話し上手だったからだ。
 いつも私を和ませ、笑わせてくれるのだ。
 ある日グエンが飾ってあった花について訊ねてきた。
 陛下と私の約束の花。
 私が陛下を愛した、陛下が私を愛してくれた最後の残り香。
 どうしていつもこの花だけを飾っているのか、と。
 私は苦笑し、本当の理由を話した。
 愛する人との約束を。愛する人を待ち続けた記憶を。
 陛下の名は伏せていたが、私が初めて宮殿に訪れた時の騒動の最中にいたグエンには分かりきっているだろう。
 グエンは少し悲しい顔をし、
「きっと近いうちに、想い人は貴方を訪ねて来ましょう」
 と、そう言葉で慰めてくれた。
 陛下が信頼してもいいと言った数少ない臣下。グエンはとても優しい青年だからそう慰めの言葉をくれるのだろう。
「――もしも、その方以外に。貴方を愛する人がいたとして」
 突然グエンは呟いた。
「もし貴方に愛を告白したとしたら、貴方はどうしますか?」
 質問の意図が分からず、私は眉を顰めるがグエンがあまりに真剣な表情をしていたので私も真剣に考えることにした。
「私は、きっと逢瀬を拒むのだとそう思います。私の心はもうあの方以外に囚われる事がないでしょうから」
 グエンはしばらく考えた後。
 私の顎をつかみ触れるようなキスをしてきた。
 あまりに突然だったので唖然としていると、グエンは詫びた後にこういった。
「最後にこれぐらいはどうか許してください」
 その声はどこか震えていた様な気がした。
 背を向けたままのグエン。
「ワタクシは貴方に謝らなくてはなりません。ワタクシは貴方を騙していた」
 一体何を騙していたと言うのだろう。
 私は何も騙されてなどいなかったはずだ。
「待っていてください、その方はきっと貴方を―――……」
 掠れた声の最後は言葉になっていなかった。
 その震える背に声をかける前に、グエンは何も言わずに帰ってしまった

 逃げるように走り去ってしまったグエン。
 しばらく、グエンは姿を現さなかった。
 私は少し、寂しくなった。
 一度知ってしまった他人との温かな空気は、独りの時間をますますに遅らせる。
 そんな折に届いたのが惚れ薬の製作依頼を記した手紙だった。
 その言葉を聞いた時、私の胸に淡い思い出が蘇った。
 依頼主の名は書かれていないが、送られてきた素材は確かに惚れ薬の材料であった。
 グエンが訊ねてこなくなってしまってから時間を持て余すようになっていた私だが、すぐに惚れ薬の製作に移ることができなかった。
 この薬には色々と思い出がありすぎた。
 それでも、依頼されたからには作らなければならない。
 私は重い腰を起こし、調合を開始した。
 惚れ薬を混ぜ合わせながら思い出すのは陛下との出会いである。
 初めてあった時の王族の顔。
 そして二度目にあった時のあの悪戯そうな顔。
 なにより三度目以降の出会いに見せたスチャラカな陛下。
 本当は初めの出会いから惹かれていたのだと思う。
 惚れ薬はきっかけに過ぎなかったのだと、私はそう思っている。
 人々から距離を置かれていた私に、何の隔たりも持たずに話しかけてくれた初めての人間が。
 陛下だったのだ。
 呪術師である私を恐れることもなく、蔑むこともなく接してくれた陛下。
 私に悪戯ばかりしてきた陛下。
 私にワガママばかりだった陛下。
 惚れ薬を飲む前の記憶を思い出せば思い出すほどに、あの時から既に私は陛下に淡い心を持っていたのだと、分かってしまった。
 苦笑は重いものではなかった。
 時間が、あの愛しい記憶を思い出に変え始めていたのだ。
 調合は順調に進んでいった。
 依頼人からは今日の正午に来ると連絡があった。
 ドアを叩く音、
 依頼人が来たのであろう。
 名も素性も明かさない依頼人だったが、呪術師の私を訪れる者にはそのような人間が多かった。
 だから私は、
 何の心構えもせずにこの扉を開けてしまったのだ。
 眩しい朝日の逆光が、依頼人の顔を隠す。
 しかし、その気配だけで私は誰か分かってしまった。
 依頼人が誰だか、分かってしまったのだ。
「陛下だったのですか」
 そこにいたのは幻でもなく、陛下だったのだ。
 鼓動が、張り裂けそうだった。
「邪魔するぞ」
 なるほど、今度は本当に使いたかった相手に惚れ薬を使うのだろう。
 惚れ薬を作れるのは、この国で私しかいないのだから。
 だから陛下は、この私を訪ねて来たのだ。
 あの時の様に――。
 私を、迎えに来てくれたわけではないのだ。
「綺麗な花だな」
 風に揺れる花を眺め、陛下は呟いた。
 陛下はもう忘れてしまったのだろう、あの種を。あの約束を。
 二人再会を誓ったこの花を。
「……はい、ありがとうございます」
 呟く声が震えぬように、私はなんとか声を絞った。
「そこにお掛けになってお待ち下さい」
 混ぜ続ける間、私はあの優しい時間を思い出していた。
 指を絡め、体温の温かさを確認し、愛を囁きあったあの時間。
 私の幸せだったその時間。
 薬を混ぜながらも、陛下の気配に私の心は震えていた。
 思い出だけならばまだ自制できた。
 体温の残り香だけならば、まだ耐えることもできた。
 けれどこうして、あの日あの時この場所で。あの幸せを過ごした時を再現することは耐えられなかった。
 背を向けたままに、私は混ぜ続ける。
「最近グエンがそなたを訪ねてきていると聞いたが、本当か?」
 探るようなその声に、私は混ぜる手を止めた。
「はい、とても優しくしていただいております」
 もはや忘却された私と陛下の関係。
「グエンとはどういう関係なのだ」
「とういう意味でございますか?」
 まさか陛下が嫉妬をしてくれている。
 そんなはずはないと分かっていても、どこかで未だに陛下を求める自身を私は戒めた。
「いや、なんでもない。忘れてくれ」
 もう、終わったのだ。全て。
 終わってしまったのだ。
 この惚れ薬と共にあの愛は消えてしまったのだから。
 沈黙が再び生まれる。
 私はただ混ぜ続けた。
 何か言おうとしても、何も言えなかった。
「完成いたしました」
「そうか、ご苦労であった」
 あの日のように、テーブルに薬を置いた私。
 これで、陛下との出会いも最後なのだと思うと、心は沈んでいった。
 本来ならば、敬愛をこめて顔を合わせないといけないのであろうが。
 私は陛下に背を向け、道具の整理を始めていた。
 震える心が、陛下の最後の対面から逃げたのである。
 陛下と、顔を合わせるのが怖かったのだ。
 動かす必要もない蝋をずらし、本を探り。
 汚れてもいない瓶を拭く。
 早く帰って欲しい、けれど帰らないで欲しい。
 私は――。
 私は……。
 私はいまも陛下を愛していた。
 陛下の呼ぶ声が、意識を遠く置く私の耳に届く。
 けれど私は振り向けなかった。
「王命であるこちらを向くが良い」
 陛下の凛とした声が私の心を貫く。
 覚悟を決め、ゆっくりと振り向いたその先に、
 私には衝撃が待っていた。
 薬を手に取り、
「――!」
 陛下は私の顎をつかみ惚れ薬を口元へとつき付けたのだ。
 驚き、口を開いた私に惚れ薬が注がれる。
「お願いだ、どうか全て飲み込んでおくれ」
 陛下の言葉に従い、私はその甘い液を飲み干した。 
「どうだ、惚れ薬は効いてきたか?」
 弱弱しく、不安そうな陛下その顔。
 苦いのが嫌いな陛下のために、甘く調合した惚れ薬。
 すべてのきっかけを与えてくれた惚れ薬。
 しかし、
 惚れ薬が私を蝕むことはなかった。
「――知らないのでありますか、陛下。惚れ薬は同じ相手に二度は効かぬのです」
 沈黙が部屋を包む。
「――そうか、そうであったのか」
 身体を震わせ、陛下は私の視線から逃れるように背を向けてしまう。
 なぜ陛下は再び私を訪れたのだろう。
 なぜ陛下は不安そうな顔をしているのだろう。
 なぜ陛下は私に惚れ薬を飲ませたのだろう。
 なぜ陛下は――。
 その答えは分かりきっていた。
「すまなかった――」
 肩を落とし、帰ろうとする陛下の背に私は縋りついた。
「――――……っ!」
 最後の勇気を振り絞り、私は陛下を追ったのだ。
「どうか帰らないで下さい。どうか……」
 陛下の温かな体温を感じ、私はその懐かしさと心地よさに瞳を湿らせる。
 恐る恐る、
「そなたどうして?」
 陛下が言葉を発するにはかなりの間があった。
 震えるその声とその瞳は揺れていた。
「惚れ薬は二度は効かぬのではなかったのか?」
「惚れ薬など必要ありませぬ……っ!」
 答えるように、二度と離さぬように。陛下のその背に私は抱きつき、泣きついていた。
 私が愛した男、体温。
 その確かな感触が今ここにあるのだと思うと心は震え続ける。
「ずっとお待ちしておりましたのに」
 言葉が勝手に唇を震わせた。
「ずっとずっとお待ちしておりましたのに」
 恨み言を述べる口とは裏腹に。
 その体温の呪いを確認するように、私は何度も顔をその背に押し付けた。
 零れた滴は陛下の背を濡らしていく。
「陛下は酷いおかたでございます……ッ、……」
 しばらくし、
「――愛しているといっておくれ」
 陛下が呟いた。
「愛しております……っ、ずっとずっとお慕いしております」
 背に押し付けた顔をそのままに、私は囁く。
「余を忘れていなかったと、そう言っておくれ」
「忘れられるはずがありませぬ!」
 背に押し付けた顔をそのままに、私は叫んだ。
「忘れられるはずが――ありませぬ。いつまでも一緒だと、そう誓ったではありませんか」
 振り返り、陛下は私を正面から抱いた。
 私の体温を確かめるように、陛下は震えるその手でその指で、私を強く強く抱きしめていた。
「迎えに行けず、すまなかった――」
 ただ抱き合うだけのこの時間は、長く続いた。
 ずっとずっと欲しかった体温。
 ずっとずっと。
 ずっとずっと欲しかったのだ、この体温が。
 恨み言を述べるよりも。
 辛みを訴えるよりも。
 こうして陛下の体温を確認したかった。
 愛されているのだと、確認したかった。
「余は悩んでおったのだ」
 しばらくして、陛下が小さく呟いた。
「牢獄のようなあの宮殿で、政に全てを縛り付けられている余で、そなたを幸せにできるのだろうかと」
 そんな事、あるはずがない。
 私の幸せは陛下の下にしかないのに。
「いや――これは言い訳にしか過ぎないであろうな。
 何よりも余は、惚れ薬の切れたそなたが余を拒絶するのではないかと、怖かったのだ」
 唇を震わせる陛下の顔は弱弱しかった。
 いつもの自信に溢れたその精悍な顔を崩し、陛下の瞳はますます揺れていく。
「薬が切れても余はそなたを愛していた。
 けれど会いに行くことができなかった――」
 怖かったのだ、と。
 陛下は唇を震わせた。
「もし愛しきそなたに拒絶されてしまうかと、そう思うと、余はあの場に行くことが出来なかった。恐怖が足を竦ませたのだ。
 どんな戦場にも、死線にも恐怖を感じなかった余が動けなかったのだ。
 余は恐れた、この愛を。この感情を、そなたの体温を。もし拒絶されてしまったら、もう余は生きてはいられなかった――」
 骨が潰れてしまいそうなほど強く、強く。
 陛下は私を抱きしめた。
 私の首筋に、陛下の瞳から零れた一筋が落ちる。
 怖かったのだ、と。
 もう一度小さく唇を震わせる陛下の瞳からは、幾重も幾重も筋が零れ落ちていた。
「そなただけには裏切られたくなかったのだ……」
 その言葉は何よりも重く、鋭く私の心を貫いた。
 やはり私だけではなかったのだ。
 愛を、体温を恐れていたのは私だけではなかったのだ。
 呪術師であった私が、母から捨てられた私が幸せすぎる体温を恐れたように。皇帝という立場が、利権の道具として心を踏みにじられ続けてきた陛下の傷ついた心が、陛下を愛から恐れさせていたのだろう。
 陛下もおそらく、何度も何度も私などが想像もできぬほどの裏切りを受けてきたのだと。
 今になれば分かる。
 私が抱いていた恐れを、陛下も抱いていたのだろうと。
 嗚咽を漏らし私を抱き続ける陛下。
 睨むように見つめた母の肖像、利権を争いあう家臣、陛下が愛した私の知らぬ過去の女。
 私が知らぬ陛下の黒い影、哀れな過去。
 皇帝にまで上り詰めた陛下の人生の暗部は、誰よりも陛下を臆病にしたことだろう。私には想像もできないほどの人の闇が溢れていたのだろう。
 初め、惚れ薬に頼り真実の愛を欲した陛下。
 陛下が何よりも欲しがり、そして何よりも恐れていた愛。
 だから、愛する私に裏切られることを何よりも恐れたのだろうと、そう私は確信していた。
 陛下は私よりも、誰よりも臆病であったのだ。
 惚れ薬に頼らなくては人を信頼できぬほどに、臆病な心の持ち主だったのだろう。
 陛下は私を愛してくれている。
 惚れ薬が切れてもなお、いやそれ以上に。陛下は私を愛してくれているのだ。
 それだけで全てが報われた。嬉しかった。
 震える陛下を慰めて上げたかった。
 この私にそれができるのであれば、陛下の傷ついた心を癒してあげたかった。
「惚れ薬ならば――」
 震える声で、陛下は続ける。
「惚れ薬ならば、もう一度あの薬に頼れば。
 確実にそなたの愛を得られるとそう思ったのだ。例えそなたの心を操る事になっても、そなたの意思など蹂躙しても、そなたが余を今一度愛してくれるように」
 そなたが欲しかったのだ、と。
 陛下は私を温かく包んだ。
「――許しておくれ」
「もう泣かないで下さい陛下」
「臆病であった余を許しておくれ」
 抱きしめ返す私に、陛下の腕はますます私を抱き寄せる。
 私もおそらく、陛下を包んでいるのだろうか。
 泣き続ける陛下を包んであげられているのではないだろうか。
「余を――裏切らないでおくれ」
「私は陛下を裏切ったりは致しませぬ。私の心にはいつも陛下しかいないのでありますから」
 部屋に咲く銀色の花。
 その意味をきっと。
 陛下にも分かったのであろう。
 私が陛下をどれだけ愛しているかを。どれだけ欲していたかを。
 すまなかった、と。
 陛下は何度も私に詫びる。
「余を――愛しているといっておくれ」
 愛しています。
 敬愛しています。
 何よりも、誰よりも、私の命よりも。
 陛下が大事であった、欲しかった。愛していた。愛している。
 私の言葉の一つ一つに、陛下は頷いた。
「余が――必要だといっておくれ」
 誰よりも、何よりも。
 陛下が必要なのだと、私は陛下に応えた。
 陛下は頷き、私を抱きしめる。
「余を――忘れないといっておくれ」
 いかなる時でも、私は陛下の体温を覚えている。
 いつでも私は、陛下に焦がれている。
 応える私に、陛下は頷いた。
「どうか余を、
 ――俺を、捨てないといっておくれ」
 応える私の言葉に、陛下は何度も頷いた。

 ――それは陛下と私の新たな約束となった。















 泣きつかれた陛下はまるで幼子の様に私の膝に頭を寄せ、幸せそうに眠っている。
 私もまた幸せであった。
 陛下の体温はとても温かく、心が落ち着く。
 ふと開けてあった窓から来客があった。
 銀色に輝く花びらに一匹の蜂が蜜に誘われやってきたのだ。
 蜂は隣の花へと移り変わり、その命を運ぶ。
 来年の春にはまたその凛々しい銀色の花を咲かせるだろうか。
 今度はおそらく、共に花咲く瞬間を見れるのではないかと。
 ――私はそう思うのだ





 ――吹き込んだ風に、
花はいつもより幸せそうに揺れていた。








【終】
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