【知らない言葉】






 この獣人の国では、
 獣人と人間との愛は禁じられている。
 しかし誰もがこの規則を鼻で笑っていた。
 人間に恋する獣人など、獣人に恋する人間など。
 いるはずがないのだから。


 
 貿易商の朝は早い。
 今朝、船で運ばれてきたばかりの品が次々と船着場に並ぶ。
 果物が詰められた木箱。
 新鮮な魚介類。生糸。工芸品。
 鮮度を保つため、特に食料品は速やかにそれぞれの作業場に運ばれる。
 いつもと変わらぬ忙しい朝なのだが、少しだけ変わったことがあった。
 貿易商の主である主人が珍しく朝早くから仕事場に現れたことだ。
 同僚は皆、主人の監視に緊張している。
 ――なぜ主人が珍しく現場にでているのか。
 皆はそう頭を悩ませているようだが、私には原因が分かっていた。
 それは主人と私との間に昨夜あった事故のせいだ。
 事故といっても、私が何か過失を犯したわけではない。
 むしろ被害者であると言っても過言ではない。
 発情期と酒の熱に浮かされた主人が昨夜、人間である私を抱いてしまったのだ。
 人間である私には、発情期と呼ばれる現象を理解できなかったが、主人は獣人。
 獣から進化していった獣人達には春と秋の二度ほど、先祖の残した本能に支配され、理性と欲望を抑えられなくなる時期があるそうなのだ。
 それこそ、下等な種族である人間を抱いてしまうほどに暴走してしまうらしい。
 普段から疎んでいた人間種相手に交尾してしまうぐらいなのだから、相当なモノなのだろう。
 少しだけ。
 ほんの少しだけ。優越感があった。
 普段から私は主人に辛くあたられているからである。
 生塵とまでは言われないが、馬車馬ほどの扱いしか受けてこなかった私を抱いてしまった主人。
 自尊心の塊であるあの主人が一度だけとはいえ、こんな私と契ってしまったのだ。
 主人の心中を察すると、少しだけ気が晴れた。
 主人の後悔が大きければ大きいほどに、私の内心では妙な達成感が生まれていたのだ。
 けれどその達成感とは裏腹に。昨夜の事故のおかげで、私は朝から気分が悪い。
 身体が辛いのである。
 獣人に、雄に犯されたことの衝撃はとても大きな痛みを身体に残しているのだ。
 よくよく思えば、あれほどに大きく熱い塊を無理やりに体内に押し込められたのだ。
 身体が辛くて当然だ。
 目を瞑ればあの時の光景が浮かんでしまう。
 貿易商と言っても人間種である私に任されるのは単純な肉体労働なのだから、この疲れと身体の辛さは正直少し堪えた。
 荷を運びながら、ふと主人の視線を感じ。
 昨夜の恐怖を思い出し、私の身体は少し震えた。
 強がっては見たものの、昨夜は本当に怖かったのだ。
 考えてもみてほしい。
 人間よりも体格の大きい獣人に、しかも息も荒く正気を失った雄の獣人に襲われ。
 どんなに抗っても泣いて叫んでも許されることなく犯されたのだ。
 怯えるなというほうが無理である。
 何度も牙を立てられ首筋についた傷が、港独特の潮風に晒され痺れを感じる。
 秋の寒さと共にやってくる身体の火照りに負けてしまったのだ――と。
 そして、忘れろ――と、主人は尻尾を垂れ下げながら項垂れ、呟いていたのを覚えている。
 その時は腹に注がれた子種に吐き気がして嘔吐してしまい、慰めようとする主人の手を振り払い逃げるように主人の部屋から抜け出したのだが。
 今となって思えば、金銭や賃上げの一つでも願っていればよかったかもしれない。
 まあ実際は恐怖でそれどころではなかったのだが。
 主人と一晩だけとはいえ契ってしまった事に、私は改めてその恐怖に震えた。
 ありえない事だったのだ。
 獣人と人間が交尾してしまうなど、ありえない事だったのだ。
 獣の性質が近しい犬や猫ならまだしも、人間と獣人が契ることは許されることではない。
 それは私が人間でありこの獣人の国では異質な存在――つまり嫌われ者なのだから当然ではあるのだが。
 主人が、獣人が私を抱いてしまったなどあってはならない事なのだ。
 査問審議会にかけられるべき事例である。
 ようするに私が公の機関に訴え出れば、主人は罪に問われ商権剥奪、しばらくは冷たいご飯を食う生活送らなくてはいけないのだが。
 これには一つ大きな問題がある。
 訴え出れば私も捕まり、人間である私も処分されてしまうからだ。
 獣人の中でも名の高い主人ならともかく、人間の私は処刑されてしまう可能性もある。
 だから。
 少し考えれば私が事実を風潮するはずがない事に気付くはずなのだが――、
 今の主人にはよほど余裕がないのだろう。
 今も落ち着かない様子で私の様子を伺いながら周囲をうろついている。
 苛立ちが抑えられないのか、主人の形相は必要以上に鋭い。
 送られてきた荷を解き、所定の場所に運ぶ作業を続ける中、主人は今もなお私の後をついて回ってきている。
 私が各所に荷を担ぎ運ぶせいで、同僚達には主人が作業場全てを苛立ちながら監視している、そう思われているようだ。
 それを証拠に同僚はみな、主人に必要以上の接触を避けているようである。
 商品に匂いが移らない様に、職場で禁煙している事も主人の苛立ちに一役買っているようだが。
 蜜柑箱を作業場に運び移す最中に、
「誰にも言うなよ」
 機嫌悪そうに尻尾を左右に振りながら主人は私にだけ聞こえるように呟いた。
 主人は機嫌が悪くなるとすぐに尻尾にその心を表す。
 主人の尻尾が積荷にぶつかり、大きな音を立て崩れてしまう。
 せっかく運んだ積荷を崩され、私は主人を咎めるように見てしまう。
 目と目が合い。
 昨夜の記憶が私を蝕む。
 怖くて、すぐに目線を逸らしてしまった。
 すまない、と。
 主人の口から初めて私に謝罪の言葉が零れた。
 これに驚いたのは同僚の獣人達だ。
 普段主人が私にかける言葉は罵声か怒声か、はたまた蔑みの声しかないのだから同僚が不思議がるのも無理はない。
 これは主人の性格が悪いからではなく、この国での人間の立場は家畜と同じ程度しかないからだ。
 崩した積荷を主人自らの手で積み直していく。
 私も慌てて主人を手伝うのだが、主人はそれを制した。
 おそらく、昨日の詫びが含まれているのだろう。
 昨夜。事が終わり、痛みと恐怖で震える私を気遣っていたからだ。
 だからといって、やはり昨夜の事は許せなかった。
「誰にも言ってないだろうな」
 積荷を戻し終え、主人は落ちた商品の状態を確かめながら私に問う。
 今朝はまだ手入れをしていないのか、いつもは完璧に整えていた主人の耳と尻尾の毛が乱れている。
 その普段とは違う姿は新鮮だったが、主人が近くにいると思うと身体は少し震えた。
 怖かったのだ、私は。
 牙を立てられた首筋は未だ痛みを訴えているし、犯された腹の鈍痛はしばらくたっても消えることは無い。
「何をですか?」
 なんとか声を絞り出し、私は主人の顔を覗く。
 昨夜欲望を剥き出しにし、噛み付いてきた主人の顔。
 怖ろしく、獰猛な主人の顔。
 冷たい顔のその裏の獣の一面が、今は怖い。
「まさか忘れたと言うのか!」
 忘れろと言われたとおり、私は昨日の事はなかった事にしようと勤めていたのに。
 叱責され、思わず荷を落としてしまう。
 叱られるのは慣れていたが、今日はいつもと違う恐怖が生まれていた。
 昨夜の酔いが冷め、事態の深刻さに素面になった主人は慌てているのだろう。
 私にきつくあたる主人であったが、叱責はしても叫ぶような大声を上げることはいままでなかった。
 珍しく大声を上げる主人に他の使用人も何事かとこちらを伺う。
 なんでもない、と露払いをする主人に従いそれぞれの仕事に戻る使用人達。
「――貴方が忘れろとおっしゃったんじゃないですか」
 やはり私も主人にだけ聞こえるように答え、配送されてきた蜜柑の木箱の検品をする。
 人間である私にはこの仕事は最適であった。
 獣人である主人や他の使用人には蜜柑の香りは苦手らしいが、鼻の効かない私には何も苦痛ではない。
 痛みがないか一つ一つ探りながらも表面の皮が傷つかないように丁寧に検品済みの箱に移し続ける。
 恐怖を誤魔化すために、私は仕事に専念する。
「それに」
 いつまでも離れない主人に耐え切れず、
「誰にも言えるわけないですよ」
 少しだけ手を止め、私は作業台に向かって呟く。
 作業台の木目を見つめ、気を逸らしながら。なんとか昨夜の恐怖に震える身体を抑える。
「私だって人間の仲間にそんな事が知られてしまったら――困ります」
「――そうだな」
 私の言葉に、主人は安心したように息をついた。
 主人はやはり、私が昨夜の事故を周囲に風潮される事を恐れていたようだ。
 けれど私としてもそれは同じだ、まさか人間と獣人が交尾してしまったのだと言えるはずはない。
 それがどれだけ重い事実になるか、考えたくもなかった。
 処罰されてしまう事も確かに怖ろしいが、何よりも怖ろしいのは仲間に事実を知られてしまうことだ。
 仲間と言っても私を疎んでいる同僚の獣人たちではない。
 この国にも少数は存在する人間の仲間達だ。
 その仲間達に知られてしまったら、私は人間の仲間からも疎まれてしまうだろう。
 獣人に疎まれることには慣れていたが、数少ない同胞に疎まれるのはさすがに避けたい。
 私が人間の仲間に知られるのを恐れ、真実を口にするはずがないと余裕の無い主人でも気付いたのだろう。
「なんでこんな貧相な人間なんかに盛ってしまったのだか」
 人生の終わりだと続け、主人は更に髪を掻き乱し蜜柑の箱に座り込む。
「抱き心地も悪いし、喉を鳴らすこともできないし、良いにおいもしない」
 安心したと同時に余裕がでてきたのだろう、主人は散々に私に言葉を浴びせる。
「穴は狭くてキツイだけだったし、震えるだけで奉仕もできない、終いには泣いて叫んで逃げようとする」
 主人は昨夜の事故を人生最大の失敗だと嘆きながら私を罵倒し続ける。
 あんまりだった。
 無理やりに犯され、逃げようとすると牙で噛まれ連れ戻され。
 恐怖に怯えながら何度も何度も泣き、耐え続けた地獄の時間。
 私の意志で抱かれたわけでも頼んだわけでもないのに、こんなに罵倒されるなんて悔しかった。
「何が望みだ」
 一通り、言いたい事を言い切ったのだろうか。
 それとも罵詈雑言に反応しない私に飽きたのか。
 主人は小さな声で私に問う。
「好きなものをなんでも買ってやる、だから絶対に。誰にも言うな」
 腕を組み、横を向き。尻尾を何度も左右に振り、主人は続けた。
 一つ思いついた事があった。
 私がこの貿易商の主人に仕える大きな理由の一つである。
 人間の国へ帰りたかったのだ。
 但しそれは――ありえない願いなのだ。
 この獣人の国は人間の国と冷戦状態にあり、国交は皆無と言ってもいい。それに加え人間の国は、幾つもの海峡を越えられる船舶でなければたどり着けないほど遠い地。
 もし人間の国に行くならば数少ない王室が取り扱う貿易船か、正式な手続きを行わない密航船のどちらかしかない。
 いつか主人の下に人間の国との貿易話が来たその時に、私は密航するつもりなのである。
 密航するつもりなのだから、もしここで乗船券の話をしてしまったら警戒されてしまうかもしれない。
 主人はたしかに大きな貿易商であったが、王室の貿易船を扱っているかどうかは私には分からなかった。
 だから事は慎重に進めたかった。
 乗船券が無理ならば、何を願おうか。
 金。服。休暇。
 色々と考えたが考えがまとまらない。
「考えたいので、少し時間を下さい」
 本当に私の考えがまとまらないと、主人は気付いたのだろう。
 分かった、と。
 離れていく主人。
 その後に響く床を引っかく爪の音。
「また何かしでかしたのか?」
 声をかけてきたのは四足の獣、ネロであった。
 爪の音の主のネロはこの獣人の国で唯一の私の友達である。
「お前じゃないんだ、またじゃない」
 ネロは獣人とは違い純粋な獣であり、主人や他の使用人のように二足歩行をしたりはしない。
 ネロは主人の飼い犬なのだ。
 主人に甘やかされているネロは生意気と評判であったが、なぜか私とは仲が良かった。
 ネロもこの獣人の国では珍しい四足歩行の獣だったからだろう。
 妙な仲間意識があり、私はネロのおかげでここにいる事ができてもいる。
 そもそも私がここで働く事になったきっかけはネロなのだ。
「でも主人と何か問題があったのはたしかなんだろ?」
「何も問題はないさ」
 否定したものの、犬であるネロには漂う空気の異変が手に取るように分かっているのだろう。それに私といる時以外は主人に付き添い続けているネロが、この微妙な変化に気付かないはずもない。
「面白そうだし聞かせろって」
「だから何にもないって」
 あくまでしらを切りとおす私にネロも飽きたのか、表面が傷つき商品にはならない蜜柑を咥え主人の下へと帰っていく。
 ネロはいつものように主人に頭を撫でてもらっていた。
 主人は傲慢でプライドが高くて、人使いが荒くて性格も悪いが、ネロには優しかった。
 ネロは本当に幸せな犬だ。
 この国では獣人以外の生物は虐げれている。
 ネロがもし、今の主人に拾われていなかったら、そして愛されていなかったら。
 今の私の様に、人間の様に惨めな生活を送っていたはずなのだから。
 もし私がネロのように主人に気に入られていたのなら、今とは違った暮らしができるかもしれない。
 主人に気に入られ、頭を撫でられている自分を想像し私は眉を顰めた。
 昨夜事故があったからといって、馬鹿な想像をしてしまった。
 それに私だって、あんな主人に頭を撫でられたとしてもまったく嬉しくない。
 止まっていた作業を再開し、私は仕事に意識を集中する。
 貧相な尻尾なしのくせに――と。
 主人も去り、ネロも去った作業場で。
 同僚が私をそう嘲笑う。
 彼ら獣人に言わせれば人間は立派な耳も無ければ尻尾も無い、不完全な生き物なのだそうだ。
 同僚は私に厳しくあたるが、暴力を受けないのでまだ良かった。
 主人の愛犬であるネロと私の仲が良いので、あまり責めることができないようなのだ。
 主人もネロの我侭を聞き入れ私を雇ってくれている。
 ネロがいなかったら私はどうなっていたのだろうか。
 そしてふと再び、昨夜の恐怖が襲い掛かる。
 しかしそれは襲い掛かってきた主人への恐怖とは違う。
 もしネロと私の仲が良くなかったら、私は主人に殺されていたのだろうと、そう思ったからだ。
 私の口を封じる一番手っ取り早い方法が処分することだからである。
 人間である私は獣人達にとって家畜と同列の扱いなのだから、主人は私を殺すことを厭わないはずだ。
 働けなくなった馬車馬を処分するように、彼ら獣人は私達人間を処分するだろう。
 この国のどこに行ってもそれは変わらない。
 けれど彼ら獣人だけを責めることはできない。それはかつて私が住んでいたであろう人間の国では獣人が虐げられているらしいからだ。
 人間の国から追放されこの地にたどり着いた老人が、苦笑しながら教えてくれた人間の国。
 聞けば聞くほどにこの獣人の国と良く似ている。
 ただ違うのは、人間と獣人の立場が逆転している事。
 国が違うだけで人間と獣人との関係にこれほどの差があるのだから、世界は広い。
 老人は様々な国を訪れた事があるらしいが、獣人と人間が仲良く暮らす国は一つもなかったそうだ。
 決して相容れることはない存在。
 だからこそ、
 主人は私としてしまった行為を隠し通そうとしているのだ。 
 私も、早く忘れようと思っている。
 昨夜の熱を思い出し、ふと、心にカサブタのような違和感を覚えた。
 恐怖の中にあった一筋の温かさ。
 考えてみれば、誰かに抱きしめられるのが生まれて初めてであったのだ。
 例えそれが発情期と酒の熱に浮かされた過ちだったとしても、私にはあの抱擁が初めてだったのだ。
 その不要なカサブタはしばらく私の胸を擽っていた。

 草木も寝静まった深夜。
 何かが戸を削る音にふと目を覚ます。
 住み込みで働く私は主人の豪邸の使用人室に寝泊りしている。
 本来ならば他の獣人の使用人と共に、複数人の部屋を割り当てられるはずだったのだが、人間の私と同じ部屋で寝たがる獣人がいなかったために私には一人部屋を与えられていたのだ。
 この音はネロの爪音であった。
 ネロは自由に戸を開けられないので、こうして私に来訪を知らすのだが。
 こんな夜更けに何の用だろうか。
 私は上着を肩にかけ、執拗に合図されている戸を開けた。
 やはり、そこにいたのはネロであった。
「どうしたんだネロ、こんな時間に」
「やばいんだよ、助けが欲しいんだ」
 部屋にも入らず私の脚を引っ張り、ネロは玄関へと足を向ける。
 私も部屋を出るとネロは大急ぎで駆け始めてしまう。
「何をやらかしたんだ?」
 慌てて追いかけながらネロに問いかけた。
 本来ならば真っ先に主人にモノを頼むはずのネロ、そのネロが私を訪ねて来たという事は何か主人に内緒で失敗を犯したのだろう。
 お調子者のネロは何かと悪戯をするのだ。
「実は――」
 理由を聞き、私は呆れてしまった。
 ネロが言うには、酒造庫の酒をほんのちょびっとだけ味見しようと酒樽の栓を開け、偶然持っていた干し肉と一緒に味わったらしいのだが。
 その酒樽の栓が壊れしめられず、驚いた拍子に酒樽を倒し、酒が止められなくなってしまったそうなのだ。
 屋敷を出て、暗闇が辺りに広がる。
 主人の屋敷から仕事場まではすぐ近くにある。
 作業効率を上げるために主人はわざわざ仕事場の近くに屋敷を立てたそうだ。
「栓が壊れるなんて、まったく管理がなってないよ」
「自業自得じゃないか」
 自分の失敗を棚に上げ、栓のせいにするネロに私は呆れながら返した。
「オレだって不味いとは思ったんだ」
 被害が大きくならない内に解決しようと現場に駆けつけると、そこにはやはり栓が開き止め処なく零れ出るマタタビ酒の酒樽が目に入った。
 辺りには大分豪勢に一人宴でも行っていたのか、干し肉や蜜柑など様々な食料が散乱している。
 ネロに代わり新たな栓を取り付け、栓を締める。
 新たな栓は都合よく嵌り、なんとか酒がこれ以上零れることを防ぐことができた。
 ただ栓をする時に飛び散った酒は私の上着を濡らしてしまう。
 甘ったるい酒の匂いが私に染み付き、肌寒い夜には少し染みた。
「水で薄めればばれないかな?」
「馬鹿、そんな事したらますます主人に怒られる」
 商品の品質に関して主人はかなり厳しい。
 水で薄めるなどもってのほかだった。
「零れた量も少量だし、お前が素直に謝れば許してくれるさ」
 珍しく耳を垂らし落ち込むネロに私は助け舟を出してやる。
「本当か!」
 主人はネロにとても甘い。
 前にも検品済みのパイナップルを平らげてしまったり、来客用のカステラを平らげてしまったり、震災用の保存食を平らげてしまったり……。
 とにかく食い意地がはったネロの悪さを笑って許していた主人。
 私にはほんの少しの失敗で何時間も叱責するのに、ネロには本当に甘い。
 その優しさのほんの一部でも私にくれれば良いのに。
 まあ、あの主人が私を甘やかす様など気持ち悪いだけかもしれないが。
 主人のネロを甘やかす幸せそうな顔を思い出し。
 胸を小針が刺したように、少し痛かった。
「しかし、ネロ。お前のせいで私はマタタビ塗れになったじゃないか」
 事態が軽く済んだのは良かった。
 けれどせっかく洗ったばかりの防寒着を濡らされた私は堪らない。
「悪かったよ、秘蔵の最上級黒毛牛の骨を譲るから簡便しろよ、な?」
 それはネロにとっては最大の譲歩だったようだが、
「……――遠慮する」
「遠慮するなよ、滅多に市場にでない上物だぞ?」
 人間である私に骨でどうしろと言うのか。
 それでもなお骨を薦めてくるネロ。
 もしかして、
「お前、まだ私に何か用があるのか」
 大好きな骨をこれほどまでに進めてくるのだ、まだ何か私に要求があるのだろう。
 私は呆れながら問いかけた。
「今から一緒に謝りに来てくれるよな?」
 尻尾を嬉しそうに振り、私を見上げる友人。
 実は言いにくいが私も、ネロのお願いには弱いのだった。

「夜分に大変申し訳ありません、起きていらっしゃいますでしょうか?」
 使用人室からだいぶ離れた主人の寝室。
 昨夜、ここで私は貪られたのだと思うと少し怖かった。
 今日はネロも一緒だ、まだ発情期が続いていたとしても襲われることはないだろう。
 獅子を模したドアノブがこちらを睨み、私は一つ息を吐く。
 結局、初めに戸を叩いたのは私であった。
 ネロはまだ主人の叱責を恐れているようなのだ。
「今宵は疲れている明日にしろ」
 部屋から聞こえる主人の返事に、私はネロの顔を覗いた。
「明日にしろってさ」
「ご主人様! ネロです、どうか開けてください」
 重い扉はすぐに開いた。
 酒でも嗜んでいたのだろうか、主人は未だ起きていたようだ。
 私の時は即答で断ったくせに、ネロだと即その門扉を開く主人。
 ネロは涙目で主人に抱きつき、一生懸命事情を説明していた。
 まあだいぶ事実と説明している状況が違う気はするが、主人にはそれはお見通しなのかもしれない。
 ネロのこういう点を含めて主人は気に入っているのだろう。
 主人の顔は穏やかであった。
「なるほど、元気なのは良いがあまり悪戯ばかりするなよ」
「ごめんなさい」
 主人は泣き鳴くネロの頭を優しく撫で、その謝罪を受け入れていた。
 許しを得て主人の膝でご機嫌に甘えるネロ。
 無条件に甘えられる相手のいるネロが少しだけ、羨ましかった。
 もし人間の国に戻ることができたのなら、私にもそういう相手が待っているのだろうか。無条件に甘えられる誰かが、待っているのだろうか。
 それは分からなかった。
 けれど、少なくともこの獣人の国ではその誰かに会えることはないだろう。
 未だ見ぬ故郷への思慕は日に日に強くなっていた。
 この獣人の国で虐げられ、疎まれ、他人の幸せに嫉妬し続けるなど嫌だ。
 私は絶対に人間の国に戻り、幸せを手に入れる。
 そう願わなければ、今を生きていくのは辛かった。
 ネロはいまだに主人の膝で嬉しそうに吠えている。
 その姿に苦笑し、私は礼をし黙って退出しようとしたときだ。
「マタタビ酒の状況を聞きたいお前は残れ」
「え――?」
 主人の鋭い言葉が私を貫いた。
 残れと言う言葉に有無を言わせぬ強さを感じ、私の身体は固まった。
 ネロを降ろし、一人で寝れるなと声を掛ける主人。
「うん、お前も遅くにありがとうな」
 ネロは頷き、私にも声をかけ嬉しそうに自分の部屋へと戻っていった。
 ネロがいなくなった主人の寝室で、私は酒造庫の状況を説明した。
 状況を説明する最中、主人は何杯も酒を飲み続ける。
 空気は次第に変わっていく。
 鋭い眼光が――、
 私を捕らえていた。
「ネロがお前と仲良くなかったら」
 いきなり口を開いた主人。
「お前がネロと仲良くなかったら即処分していただろうにな」
 不意に腕を捕まれ、革張りの椅子で寛ぐ主人の脚の間へと顔を引き寄せられる。 
「口で処理しろ」
 驚いて主人の顔を探ると、そこには野生の目をした主人の怖ろしい顔があった。
 昨夜私を散々に扱った獣の顔だ。
 恐怖で身体は竦む。
「正気ですか!? 私は――……人間ですよ!」
 なんとか声を絞りだし、主人の自制を促す。
 逃げようと顔を背けるが、強い力で再び引き寄せられ奉仕を命じられてしまう。
「今からでも誰か獣人の方を呼ばれるのが――」
 それでも私は歯向かった。
 こんな事をして、後で両者とも後悔するだろうと思ったのだ。
「カリナちゃんには他の雄の匂いがしたのだ」
 主人は小さく呟いた。
「アマンダちゃんにも他の雄の匂いがしたのだ」
 その呟きには濃い酒の匂いがした。
「ワタシは他の雄の匂いのついた女など抱きたくない」
 ようするに狙っていた雌を先に他の雄にとられてしまったらしい。
「お前から良いにおいがする」
 それはさきほど浴びてしまったマタタビ酒の匂いだろう。
 しまった。
 主人の発情期が触発されたのはこの酒の匂いのせいもあるだろう。
 マタタビ酒は一部の獣人にとっては媚薬の一種にもなるらしいからだ。
「昨夜あれほど――後悔したのを忘れたのですか?」
「だから口でしろと言っているだろ、早くしろ」
 苛立つ主人の尻尾が私の背を急かすように叩いた。
「でも――」
「頼む」
 発情期の熱は相当なモノなのだろうか。
 あの主人が私に願うなど、想像したことがなかった。
 疎んでいる人間に処理を頼むぐらいなのだ、よほど溜まっているのだろうか。
 しばし考え、
 昨夜のように乱暴に交尾されるよりかは口で処理するほうがまだいい。
 そう考え私は覚悟を決めた。
 跪き主人の前を寛がせる。
 主人の雄はもうすでにはちきれそうなほどに育っていた。
 改めてその大きさに恐怖し、私は少し怯んでしまう。
 こんな大きく怖ろしい凶器が、昨夜私を何度も嬲ったのだ。
「早くしろ」
 主人の言葉に促され、
 その雄々しくそそり立つ陰部を慰める。
 先端を舐め、指で竿を愛撫し。
 主人が早く満足するように私は努力した。
 獣人の熱棒は人間とは比べ物にならないほどに存在を主張する。
「もっと口を開け」
「――……ッ!」
 堪えきれなくなったのだろうか、主人が私の頭部を押さえその腕を内へと引き寄せたのだ。
 これには私は堪らない。
 人間の倍以上も誇る陰茎が口一杯に、いや喉の奥までも犯すのだ。
 息苦しさを通り越し、もはや生きるために鼻で呼吸をするのが精一杯だった。
 呼吸の限界を感じ歯を立てて抗議しても無駄だった。獣人の陰部は人よりも何倍も固く、人間が歯を立てたところで痛みさえ感じないようなのだ。
 むしろその刺激が主人には快楽として受け入れられるのだろう。私が歯を起て抗うほどに主人の肉棒は熱を発し更に強固に熟していった。
 つかまれた頭部は固定され、どんなに抗っても強い力で押さえつけられてしまう。
 苦しかった。
「人間のくせに、口の中だけは具合がいいな」
 息を吐く主人の声。
 主人の雄の塊は私の喉の粘膜の凹凸を楽しむように、何度も何度も先端を擦り付ける。
 その度に私は咽る。
 興奮した主人にはその咽る息遣いさえも快楽として得られるらしい。
 涙と嗚咽と吐き気と、酸欠。
 主人が満足するまでどれくらいの時間がかかったのだろう。
 呼吸困難で意識が飛びかける直前に、主人は私の喉の奥へと飛沫を放った。
 直接食道へと放たれた雄の粘膜に私は咽てしまう。
 まして呼吸を遮られていた喉にはこの粘膜は酷だった。
 吐き出そうと何度も咳き込むが濃厚な子種は喉にしがみ付き、永く私を蝕む。 
 あまりの息苦しさに、絨毯が主人の白濁と私の唾液に汚れてしまうことなど構わず吐き出そうとしてしまう私。
「――――ついでだ、我慢しろよ」
 床で苦しさに呻く私に、主人が呟いた。
 その瞳には昨夜の雄が色濃く映っている。
 腕を掴まれ無理やりに寝具の上へと引き上げられ、
「やだ! 嫌です!」
 履いていた衣服を引き裂かれ――。
 主人の意図に気付いて、私は悲鳴を上げた。
 息を荒くし、私に覆いかぶさる主人。
 こんなの酷かった。
 いくら私が人間だとしてもこんな扱いを受けるのは嫌だった。
「――ヤァ…………ッ――……ッ!」
 一息に突かれ、背には主人の重い体がのしかかっていた。
 あんなに大きな塊だったが、昨夜も散々に犯されたせいだろう。主人の巨大な欲望は根元まで私に侵入してしまった。
 痛くて、気持ち悪くて私は叫び続けた。
 泣きじゃくる私の顎を背後からつかみ、押さえつける主人。
「うるさい、静かにしろ!」
 一方的に叱責され、背後から首筋をきつく噛まれる。
 鋭い痛みと共に、首筋から熱い感触を覚える。
 それが噛まれてできた血だと気付くと、ますます私は辛かった。
 息を殺し、己を殺し。
 主人が満足するまで痛みに耐えるしかなかった。
 恐怖に震え。悲鳴を上げるたびに様々な箇所を噛まれ、貫かれる痛みと噛まれる痛みに私は静かに嗚咽を漏らし続けた。

 行為が終わり、冷めた部屋の空気に私は目を覚ます。
 どうやら主人が私の傷の手当てをしてくれたのだろう。
 体の至る所に包帯が巻かれていた。
 けれど、礼をいう気にはなれない。
 主人のした事はいくら私が人間だとしても酷かった。
 悲鳴を上げるたびに、嗚咽が零れるたびに体を爪で裂かれ牙で噛まれ続けたのだ。
 全身が痛かった。
 特に強く噛まれ続けた首筋はいまだに違和感が強い。
 確かめようと触ると、うっすらと血が滲んでいた。
 悔しくて嗚咽が止まらなかった。
「泣くな、鬱陶しい」
 二日続けて体を酷使されたからだろう。
 起き上がろうとすると体が悲鳴を上げた。
「誰にも言うなよ」
 煙草を吸いながら、主人は耳と尻尾をこれまで以上に垂れ下げ呟いた。
 頭を掻き、更に尻尾を苛立たせ主人は出て行けと私に命じる。
 私も早く出て行きたかったのだが、すぐにはその命に従えなかった。
 主人の部屋に私の望んだモノがあったのだ。
 机の上に散乱する資料と共に無造作に置かされた一枚の紙切れ。
 そこには王室の印が刻まれた貿易船の設計図が描かれていた。
「あの約束は」
 恐怖を振り払い、私は呟く。
「あの約束はまだ有効でしょうか?」
「何のことだ」
 煙草の火を止め、主人は窓の外を眺めながら返した。
 その窓には私の姿が反射している。
 主人に乱暴され惨めに震える私。
「願いがあります。一つ主人に願いを聞き入れていただけたらと」
「言ってみろ」
 促され、
「船の乗船券が欲しいのです」
 私は答える。
 望み続けた希望を、夢を。
「人間の国に行ってみたいのです」
 もしかしたら主人は叶えてくれるかもしれない。
 しばし考え、主人は笑みを作り新たな煙草に火をつける。
 煙草を口に銜えたまま、船の設計図に大きな赤丸を書き入れていた。
「いいだろう、だが、その船の完成はまだ先の話だ」
 主人の話だと来年の冬の終わり頃には完成するらしい。
 まだ先の話ではあったが、私はこの願いを何年も待ったのだ。
 完成の期間を待つ事など、乗船の希望のなかったいままでに比べれば楽なものだ。
「ありがとうございます」
 私の言葉に主人の手が止まった。
「勘違いするな、その方がワタシにも都合が良いからな」
 主人はしばらく、茫然とした顔を見せたものの。
 再び口の端を上げ笑みを作り、主人は渡来品のグラスに酒を注ぎ飲み干した。
 なるほど。たしかにその方が主人にとっても都合がいい。
 ネロのせいで私は殺せないが、私が私の意志でこの国を離れるのならば、それは一番の口封じになる。
 主人と私の希望が一致する、互いに都合の良い約束なのだ。
 約束を取り付け、私は痛みに耐え部屋を後にしようとする。
 獅子のドアノブに手をかけ、
「――待て」
 しかしどうした事だろうか、主人が私を引きとめたのだ。
「お前、もしかして昨夜が初めてだったのか?」
 何の事かわからず、私は眉を顰めた。
 そしてそれが交尾の話だと分かり、私は震えながら頷く。
「ではネロとは、そういう関係ではなかったのか」
 主人は驚いたように呟く。
「当り前じゃないですか、ネロは大事な友達です」
 主人はどうやら私とネロがそういう関係だと勘違いをしていたようなのだ。
 獣人である主人にしてみれば、獣人以外の種族は皆似たような種族に思えるのかもしれない。
 しかし種族が違うネロと私がそういう関係になるはずがないのに。
 そんな当たり前の事を、主人は疑っていたというのだろうか。
 私を、大事な飼い犬を誘惑する悪い虫とでも思っていたのだろうか。
 主人はよほどネロの事が大切なのだろう。
 こんなにも大切にされているネロが羨ましい。
 しかしそれと同時に、私とは違い大切にされている友人が微笑ましかった。
 私とは違い、ネロにはこの地にも幸せがあるのだから、私のように主人から酷い扱いを受けることもないだろう。
 純粋に友として、ネロの幸せはうれしいと感じる。
 大切な人には、傷ついてほしくなったから。
「そうか」
 主人は小さく舌打ちをし、沈黙が部屋に響く。
 まだほとんど吸っていない煙草を揉み消し、主人は立ちあがった。
 血で汚れたシーツを剥がし、新たに白いシーツを取り付け、
「身体も辛いだろう、今日はここで寝ていけ」
 主人は尻尾を立たせながら強く言った。
 戸惑う私に、主人は立ち上がり私がいる扉の近くまで歩いてきていた。
 どうしたものか。
 確かに主人の言うとおり身体は辛かったが、正直主人の部屋で寝ることなど嫌だった。
 怖かったのである。
「命令だ、ここで寝ていけ」
 抗う暇などなかった。
 主人が私を軽々と肩に担ぎあげたのだ。
 下ろされたのは今整えたばかりの寝具の上。
 取り替えられたばかりの清潔なシーツは再び私の血で汚れてしまう。 
 それにも構わず主人は横たわる私の隣に入り込み、明りを消した。
 沈黙は続く。
 まだ陽は昇っていないが、少し寝たら明けてしまうだろう。
 明日はまた早くから荷を運ばなければならないのだ、何も考えずに早く寝る事にした。
「明日は――、傷が癒えるまではしばらく休め。命令だ」
 まるで心を読んでいたかのように主人は呟いた。
「乱暴に抱いて悪かった」
 聞き間違えたのだろう。
 主人が私に詫びるはずなどないと思ったのだ。 
 思わず振り返ろうとするが強い力で憚られ、私は主人に背を向けたままに目をつむる。
 疲れと痛みでなかなか眠れないと思っていたが。
 思いの外に温かい主人の横で、私は――寝息を立てていた。
 


 あれから数日が経った。
 傷が完治するまでの間、私は自室で休むことになったのだが。
 深く二度も交尾の傷をつけられたせいで傷は未だに治りきっていない。
 あまり休みすぎるのも嫌だったので仕事に復帰しようとしたのが、やはり主人にきつく止められてしまったのだ。
 しかたなく、私は独りで自室で休むしかなかったのだが、
 不意に戸を削る音が部屋に響く。
 ネロが遊びに来てくれたのだろう。 
「知らなかった、お前主人のメスだったんだな」
「はぁ!?」
 戸を開け部屋に入ってきたそうそう、ネロが興味深々に吠えた。
 幸い誰にも聞かれていない。
 急いで戸をしめ、
「一体なんの話だ?」
 私はネロに問い詰めた。
「だってお前、主人と交尾したんだろ?」
「――お前、なんで知ってるんだ」
「なるほどなるほど、やっぱりそうだったのか」
 驚いて茶を零してしまう私に、ネロは勝ち誇ったような笑みを作り続けた。
 そのネロの笑みの意味に気付き、私はため息を吐く。
 ネロにひっかけられたのだ。
「そうかそうか、オレに内緒で仲良く子作りとは恐れ入った」
 まあ、雄同士じゃ子供はできないかと自分で突っ込みながら、ネロは爆笑している。
 しかし、私が複雑な顔をしている事に気付いたのか。
 ネロはその笑いを少しずつ止めていった。
「茶化して悪かったよ」
 謝るネロに、私は事情を説明した。
 主人の発情期や、ネロのしでかしたマタタビ酒のせいで主人に襲われたことを。
「誰にも言うなよ」
 主人と同じように、私はネロに口止めをした。
「なんで?」
 しかしネロは眉を顰めて言葉を返す。
「獣人が異種族と、まして人間なんかと交尾したって知れ渡ったら――分かるだろ?」
 私だけではなくお前も殺されてしまうかもと脅すと、ネロは珍しく従順に従った。
 主人には可愛がられているとはいえネロもこの国では珍しい四足の獣。
 口にこそ出さないものの主人に拾われるまでは、やはり苦労も多かったのだろう。
「なあなあ、一つだけ聞いても良いか?」
「なんだよ」
「交尾って気持ちいいのか?」
「知るか、そんなの」
 それでもしつこく聞いてくるネロは純粋に行為に興味があるのだろう。
 ネロの年齢は知らないが、ネロもそろそろそういう事に興味がある歳なのかもしれない。
「いいから教えろよー、教えてくれないとオレの口が軽くなっちゃうかもしれないぜ?」
 本当に誰かに漏らすことはないのだろうが、これ以上しつこくされても仕方ない。
「怖いし。痛いだけで全然気持ちよくないし最悪さ」
 言いながら先日の恐怖を思い出し、私は少しだけ震えた。
「最悪なのか?」
「最悪以上に最悪――かな」
 肩を竦めながら苦笑しため息をつく私に、ネロは驚いたように返した。
「主人に怒られる時より、最悪?」
「ああ、だいたい人間と獣人はそういう事をする身体になってないんだ。私は壊れてしまうよ」
 ネロにとって主人に叱られるのはこの世で一番最悪なのかもしれない。
 そう考えるとネロがいかに主人の事が大事なのか良く分かる。
「そっかー、なんだ面白くないな」
 器用に顔を傾がせ、
「でもおかしいな」
 ネロは不思議そうに呟いた。
「何がだ?」
「主人に抱かれた女達はみんな虜になっちゃうんだよ」
 思わず怪訝な顔をしてしまったのは私のせいではないと思う。
 たしかに同じ獣人であれば、あれほど大きい主人の塊も受け入れられるのかもしれないが。
 私は人間であり、男なのだ。
 主人に抱かれて気持ち良くなるはずがない。
「今日だって、せっかく隣町からやってきた美人さんをあっさりと無視したんだから」
 ネロはまるで自身の自慢話をするかのように偉そうに吠えた。
 たしかに、あれほど散々に私を犯したのだ。
 今は少しは発情期も治まっているだろう。
「私は人間の雄なんだ、獣人の雌と比べられても困るよ」
「じゃあさ、もし主人との交尾でお前が気持ち良くなったらどうする?」
 気持ち悪いことを言うネロに、私はため息をついた。
 普段から好奇心の強いネロだが、今日はいつも以上にこの話を引っ張る。
 何か企んでいるのだろうか。
「どうするって、どうもしないさ。だいたい主人の発情期はもう終わるんだろ、もう交尾する事はないだろうさ」
「もしもの話だよ、もしもの」
 しばし考え、
「そうだな、そんな事は絶対にないけど。お前が欲しがってた最上級黒毛豚の骨を買ってきてやるよ」
 どうせ現実になることはないからと私はネロの欲しがっていた骨を提案する。
「約束だからな!」 
 部屋を飛び出したネロの尻尾は、いつもよりも大きく左右に振られていた。
 犬のネロは主人とは違い、喜んでいるときに尻尾を振る。
 逆に主人は、機嫌が悪いと尻尾を振る。
 主人の顔を思い浮かべ、私は眉をしかめた。
 一人残された部屋で、私は痛む首筋をさする。
 もう包帯は取っていたが、交尾のとき主人に噛まれた傷が未だに痛むのだ。
 あの日、主人の隣で眠ったあの日。
 あの日の温かさが私の胸を引掻いていて。
 私は何故か寂しくなった。


 主人に呼び出されたのはその日の夕食の時間であった。
 座れと促され、客用の椅子に座らされ。
 私の目の前にも馳走の数々が並ぶ。
 食卓の間に足を踏み入れたのは今日が初めてだった。
 しかし、なぜ私が招かれたのだろう。
 ネロの口添えか、それとも口封じの一環なのか。
 なにはともあれ、私は初めてみる御馳走に唾を飲み込んだ。
 初めにやってきたのはネロで、その次にやってきたのは主人。
「最悪だと言ったそうだな」
 食卓の間に入ってきて早々、主人は私の正面に座り唸った。
 尻尾を大きく左右に振り、苛立ちを隠さずこちらに牙を向けた主人。
「え、あの」
「ネロが言っていた、ワタシとの交尾は痛くて最悪で気持ち悪かったと。それは本当なのか!」
 すかさずネロを睨もうと探すが空気を察していたのか、すでにネロはこの部屋から逃げていた。
 もちろん自分の分の鳥の蒸し焼きは銜えて言ったようだが。
 主人にも今朝の話は内緒だとネロに言っておけばよかった。
「いままで女には喜ばれたことしかない」
 自尊心を傷付けられたのだろうか、主人はよほど腹を立てているようだ。
 口の端を引きつかせ、
「ワタシに抱かれた女はみな涎すら垂らして喜んでいる」
 肉厚なフィレ肉にフォークを突き刺し、主人は怒りを肉にまでぶつけて私を睨んでいる。
 楽しく仲良くお食事。などと言う雰囲気とは遠くかけ離れている風景だが。
 私にとって初めて目にする馳走の前には主人の怒りなど霞んでしまった。
 麦の粉で表面を覆った海老を油で揚げたという馳走。
 尻尾まで平らげたら主人に慌てて注意されてしまう。
 主人は何か自慢なのか私に対する叱責なのか、尻尾を立てて唸り続けている。
 私に胸を張り、いかに自分の交尾が優れているか説明をする主人に、少し違和感は感じた。
 自身が雄として優れているかを私に訴える様が、まるで雌を口説いているかのように思えたからだ。
 もちろん、私は雄で人間なのだ。
 主人が私を口説くことなどない。
 おそらく主人は最悪だと言われた事を訂正させたいのだろう。
 私が主人の交尾を少しでも褒めればこの話はここで終わるのかもしれないが。
 けれどやはり、初めて目にする御馳走の数々に私の気はそこまで回らない。
 食膳に出された御馳走もだいぶ減ってきた頃、
「――食べ終えたら、寝室にくるように」
 主人は一つ咳をした後に言った。
 一瞬、手が止まってしまう私。
 聞き間違えだろうか。
 主人が寝室に呼ぶのはネロかお手付きの雌ぐらいしかいない。
 聞き間違えだと判断し、私が次の皿へと手を伸ばしたとき、
「聞いているのか? 食べ終えたら必ず寝室にくるのだぞ」
 主人が再び私に命令した。
 豚と羊の肉を手で混ぜ、成形したじっくり低温で焼いた成形肉。
 俵型に焼けたその御馳走の皿を私から取り上げ、主人は尻尾を苛立たせながら私を睨んだ。
「なぜでしょうか?」
 聞き間違えではなかったのなら。
 何の用だろうか。
 まさか、また交尾するなんて事はないはずなので、おそらく私が願った帰郷の事だろうか。
「お前と交尾するためだ」
 不機嫌そうに唸り、主人は私に皿を返してくれた。
 けれどその返してくれた皿に手をつけることなく、私は恐る恐る主人の顔を探った。
 どうみても、好んで私を抱こうという顔ではない。
 あの日あの時、私を殺す勢いで襲いかかってきた獣の表情ではないのだ。
 どう見ても発情期は終わっているように思える。
「正気ですか――?」
「ネロに頼まれたのだ、お前を気持ちよくしてやれと」
 本当に嫌そうに、主人はため息をついた。
「お前にも気持ち良い思いをさせてやらないと、ワタシを嫌いになると言われてしまった」
 ネロが言うには、主人だけが気持ちよくなって私が気持ち悪いのは不公平だと言うのだ。
 ネロのやつ。
 骨っころ欲しさにこんな計画を立てていたとは呆れてしまう。
 だいたい骨が欲しいならば、主人に直接願えば国中の骨さえ集めてしまいそうなほどに大事にされているのに。
 おそらくネロはそこまで頭が働かなかったのだろう。
 ネロの呆れた計画は主人にとっても、私にとっても良い事は何一つない。
「ネロには私からも言っておきますから、止めませんか?」
 視線を逸らす主人と同じように、私も視線を逸らしながら提案した。
「そうだな、ワタシもその方が良い」
 一つ咳をし、主人も同意した。
 いくら主人とて、発情期と酒との熱に浮かされていなければ私を抱くことなどできないだろう。
 主人に同意をしてもらい、私は安心した。
 もうあんな怖くて気持ち悪くて、痛い思いはしたくなかったのだ。
「発情期と酒にさえ惑わされなかったら、お前と交尾する気になどとてもなれん」
「そうですよね、だって気持ちよくなるはずなんてないでしょうし。無理ですよ」
 良かった。
 やはり主人も同じ気持ちだったのだろう。
 話がまとまり、獅子のドアノブを回そうとした時だ。
 不意に、私の身体は引かれる。
 強い獣の視線を感じ、私は息を呑んだ。
「気持ちよくなるはずないとはどういう意味だ」
 明らかに怒りを孕んだ口調で主人は私の腕を掴んだ。
「だって……」
 なぜ主人が怒っているかわからず、私は慌てて返す。
「だって、仕方ないじゃないですか。あんなに大きいのを入れられて気持ち良くなるわけ――……」
 ないです――、と言うつもりだったのだが。
 急に恐怖と、羞恥が芽生え言葉は最後まで紡げなかった。
 しかし主人はどうしたことだろうか。
 怒りの表情は消えうせ、そこには口の端を上げ喜ぶ主人の顔があったのだ。
 喉を鳴らし、尻尾を立て小刻みに震わせ。
 主人が私の目を睨む。
「そんなに大きかったのか?」
 詳しく答えなければ許さぬ、と。
 そう強く唸られ。
「痛くて、お腹の中がパンパンに膨らんで――気持ち悪かったです」
 私はそう答えた後、唇を噛んだ。
 空気が変わる様子を察したのは、主人の目の色を覗いてしまったからだ。
 私の言葉に主人は尻尾を立てて頷いた。
「そうか。腹が膨れ上がるほどに大きかったか」
 なぜか嬉しそうに、主人は私の言葉を反芻していた。
 

 そのまま肩に担がれ、私は主人の寝室に運ばれ。
 ネロの約束を果たそうと、主人が私を抱くつもりになってしまったのだ。
 なぜか私は、それを強く拒めなかった。
 怖い事に変わりはないが、何故か拒めなかった。
 動揺する私を置いて、主人は手慣れた手つきで私の肌を暴いていく。
 革張りの立派な椅子に座る主人の膝の上に乗せられ、私は思わず声を漏らした。
 主人の指に塗りたくられた油で昨夜も散々に犯された孔を解されているのだ。
 濡れた指の感触が腹に届き、気持ち悪かった。
 何度も何度も孔を解され、私に芽生える尿意。
 まさか主人の膝の上で尿を漏らすわけにもいかない。
「どうだ少しは気持ち良いか?」
 私は首を横に振り、尿意を訴えた。
「お前は本当に無知だな。それを感じると言うのだ」
「ぁ……――!」
 どれくらい解され、孔を愛撫され続けたのだろうか。
 目の前が揺れ、全身からは汗が零れ。
 やっと孔から主人の濡れた指が抜けでた時には、私の意識は飛びそうなほどに揺れていた。
 急に埋められていた指が抜け出たせいで、熱く火照る孔は物寂しく痙攣してしまう。
 腹の内側が寂しくて、私は主人の荒い息を聞くたびに震えてしまう。
 しかし、この震えはいつもとは違った。
 息を吐け、と。
 主人が私の耳元で囁き、
「ぁ――ッ……」
 私の孔には大きすぎる主人の性器が入り込んできた。
 太く、固い肉の棒が徐々に私の中へと進入してくる。
 主人の指で丹念に解された肉壁は、主人の雄の侵入を甘んじて受け入れ始める。
 静かに着実に入り込んでくるその甘く固い粘膜。
 腹に納まり蓋をしていくその塊の感触が、気持ちよかった。
「全部入ったが、痛くは無いだろう?」
 発情期による行為ではないせいか。
 主人には余裕があったのだろう。
 しかし私にとってそれは堪らなかった。
 よほど慎重に解されたのだろうか、あの主人の大きな塊を全部飲み込まされても痛みがなかったのだ。
 腹の中の違和感に、私は眉を顰める。
 腰の骨に響く痺れと、頭の隅を過ぎる息苦しさ。
 何よりも主人に埋め込まれた固く熱い塊が腹を押す度、私に込み上げてくる尿意。
「変です――なん……か、ココが疼きます」
 屹立し始める自身の股間。
 それに気を良くしたのか、主人は喉を鳴らし始めた。
「これが交尾の気持ちよさだ、覚えておけ」
 勃起した私の物を大きな手で掴み、主人は愛撫し始めてしまう。
「やぁ……ッ! 待っ……――ぃん!!」
「ワタシを下手だと思っていた罰だ、今日は後悔するほど交尾の良さを教えてやらなくてはな」    
 首筋を甘く噛まれ、私の背は跳ねる。
「お前の腹に入っているモノはどうだ? 痛くて気持ち悪いだけか?」
 答えられずに唇を噛む私に、主人は何度も意地悪くそう問いかける。
「大きくて――……」
 それから? と。続きを促され、 
「……でも、気持ちいいです」
 そうだろう、と。
 主人は満足そうに笑い、喉を鳴らし私を愛撫し続ける。
 主人の熱く固い熱が私の腹の中で暴れ始めた。
 しかし先日までの行為とは違い、今日は前戯を施されたお陰か。主人が腰を打ちつける度に私の視界は真っ白に染まる。
 その白い視界の中で、私は初めて感じる強すぎる快楽に足掻いていた。
 小さく水滴が零れ、絨毯を汚していく音を聞き、初めて自身が射精している事に気が付き。
 羞恥と快楽の熱さに私は嗚咽を漏らした。
「……っ、――……ぁぁ!!」
 主人の膝の上で脚を開き。主人に背後から腿を担がれ。
 何度も何度もその怒張の上に落とされ続け。
 結合部で混じり合った粘膜が恥じらいなく音を立て部屋を反響している。
 この日は本当に後悔してしまいそうなほどに、交尾の良さを思い知らされた。
 最後には主人の子種を腹一杯に注がれて。
 腹の中で弾ける主人の熱い飛沫に、私の意識も飛んでいた。
 気持ちよくて、優しくて。
 主人との交尾で初めて、私は交尾の快感を知ってしまったのだ。

 やっと交尾が終わり、主人の部屋で私は疲れた体を横たえた。
 寝具までは主人が運んでくれて、私の汚れを拭ってくれたのも主人だった。
 私に触れるその指の固さがなぜか心地よかった。
「人間の国へ行ってみたいと言っていたが」
 行為の後の気だるさを残したままに主人は呟いた。
「人間の国へ行ってどうするつもりなのだ?」
 主人の言っている意味がわからず、私は主人に意味を問う。
「例え人間の国がお前の故郷だとしても、その国の人間がお前を受け入れるとは限らない。お前も現実の辛さは知っているだろうがな」
 確かに、その通りであった。
 たとえ私が人間の国に帰ってもその国の人々が私を受け入れる事は難しいだろう。
 それでも――。
「それでも私は人の住む国へ帰りたいのです」
 未だ見ぬ故郷へと、帰りたかったのだ。
 なるほどな、と。
 主人は寝具を抜け出し、
「今年の冬の終わりに人間の商人と取引を行う予定だ、その船にお前を乗せる約束を取り付けた」
 吸っていた煙草を灰皿に押し付け、主人は机の上に置かれていた書類を私に手渡す。
 船の完成を待つより早く、主人は私を追い出したいらしい。
 無論、それは私にとっても好都合であった。
 早くこの獣人の国から出て行けるのなら、それに越したことはない。
 けれど、少しだけ心には何かが引っかかった。
「船に乗ってからはお前の好きにしろ、その後の事はワタシは知らん」
「ありがとうございます」
 本当に行けるのだ。
 本当に夢が叶うのだ。
 望み続けてきた願いが叶うのだ。
 ――……。
 心のしこりはおそらく人間の国への不安だろう。
 まだ見ぬ故郷への期待が、現実になろうとする夢が。
 私を不安にさせているだけだろう。
 けして、この獣人の国に想いを残しているわけではない。
 ふと主人の顔を覗くと、主人は不器用そうにこちらを睨んでいた。
「身体が辛いだろう、今日はここで寝ていけ」
 有無をいわさず。
 主人は再び私を寝具へと運び、シーツに沈め明りを消した。
 夜は冷えるからと私を背後から抱き、主人は私の隣で息を吐いた。
「さっきの交尾だが」
 主人は小さい声で、
「少しだけ、ワタシも気持ちよかったからな」
 そう呟いた。
 どんな顔をして主人はこの言葉を呟いたのだろう。
 それが知りたくて後ろを振り向こうとするが、主人に止められてしまった。
 少し様子の変わった主人の隣で。
 私はなんとか眠ろうと瞳を閉じる。
 主人は、一体どうしてしまったのだろう。
 もしかしたらネロが何かを言ったのだろうか。
 明日ネロに聞いてみよう。
 そういえばネロでさえ主人と一緒に寝れないのに、私が主人の横で寝てもいいのだろうか。
 やはり自室に戻ろうと身体を起こそうとするが。
 強く背後から抱き寄せられそれは叶わなかった。
 仕方なく、眠ることに集中する。
 少しは、私の事を嫌いではなくなってくれたのだろうか。
 たとえ好かれなくても、嫌いになられているよりは良いかもしれない、と。
 温かい寝具の中で、私はそう思っていた。
 主人はいまだに起きているようだ。
 私が眠るまで起きているつもりなのだろうか。
 主人が眠るのを待つ私は、
 もう一度静かに瞳を閉じた。

 誰かが頭を優しく撫でてくれた。





 帰郷の約束を取り付ける事ができた私は普段よりも上機嫌だった。
 機嫌がよければ仕事も捗る。
 主人も順調に進む仕事に満足しているようなので安心した。約束をしたとはいえ私は人間の身、何か粗相を起してしまったら約束を破棄されてしまうかもしれないからだ。
 いままで手を抜いていたわけではないが、各所の仕事も任されるようになっていた。
 出世とは違うが、主人に任される仕事も次第に増えていき私は少しだけ仕事の楽しさを知り始めた。
 仕事というのは生きるために仕方なくしていくモノだと思っていたのだが、それだけではない何かがあるのだ。
 仕事を、貿易学をもっと学びたくなった私は上司に、つまり主人に様々な事を尋ねた。
 初め主人は私の問いに面倒くさそうにしていたのだが、私が本気で仕事を知りたい事を察してくれたのか。主人は私に様々な知識を与えてくれた。
 本格的に仕事を覚え始める内に、私は生きる活力を得た。
 ここで学ぶことは人間の国に戻ったときにも役に立つだろうと、私はそう思ったのだ。
 しかし、それが他の獣人達には目障りだったのだろう。
 以前にも増して職場で働く他の同僚達の風当たりは強くなっていた。
 私が食休憩に出れば普段使っている椅子を切り裂かれたり、少し目を放した隙に私物もなくなっている事がある。
 虫けらと同じ扱いと感じていた人間に先を越されたことが屈辱だったのだろうか。
 ネロはそんな私を心配して、私の周囲にいる事が多くなったのだが。それもまた獣人達にとっては気に障ることだったらしい。
 ネロがいなくなると必ず嫌がらせを受けたが、それでも私は仕事を学ぶことを止めなかった。
 獣人達との摩擦が増していくほどに、得ていく知識は深く濃厚になっていく。
 ここで得られた知識で人間の国で生きていく。
 それが今の私の夢であり、希望であった。
 この国に未練など一つも残すものはない。
 あるとすればそれは、ネロへの心配ぐらいだろう。
「――……」
 ふと、ほんの少しだけあの主人の顔が浮かびあがり、拍子に記帳を落としてしまった。
 考え事をしながら歩いていたせいか、手にした記帳には何も記されていない。
 在庫を確認し、主人に報告しなければいけないのだが、こんなに遅くなってしまった。
 いつものように尻尾を左右に振り、機嫌悪そうに遅いと呟いている主人を想像し、思わず苦笑してしまう。
 これ以上主人を待たせるわけにもいかない、急いで続きを再開しようと棚に手をかけた。
 上から下へと渡来品の状況を確認する。
 これらは私が携わった商品だった。
 荷物運びしかできなかった過去には信じられないほど大きな仕事だ。
 主人が私を信頼してくれた証かもしれない。
 そしてふと、目に映る黒い影。
 私の知らない商品が一番下の棚の最奥に置かれている。
 不審に思い地に膝を着き――その時だ。
 棚がこちらに向かい倒れてきたのだ。
 逃げようとするよりも、手は商品を守ろうと向かい来る棚へと伸びる。
 理由は自分でもわからない。
 けれどこの商品が何よりも大切に思えたのだ。
 主人に教えてもらい、私が取り寄せたこの商品が。
 主人と私とのつながりに思えたのだ。
 商品を腕に抱え、襲い来る衝撃に目を瞑る。
 鈍い音と共に、激痛が走る――はずだったのだが。
 いつまでも痛みは襲ってこなかった。
 恐る恐る目を開けると、そこには棚を背に私に覆いかぶさる主人の姿が瞳に移っていた。
「怪我はないか?」
 心配そうに私を見つめる主人。
 おそらく、報告が遅い私の様子を見に来てくれた主人がとっさに行動してくれたのだろう。
 目が離せなかった。
 主人から、
 目が離せなくなった。
 主人が私を守ってくれたのだ。
 主人が私を、
 守ってくれたのだ。
 主人がこの私を――。
 もう一度大丈夫かと、心配そうに尋ねられ。
 何かが壊れた。
 いままで溜め込んできた何かが音をたてて弾けたのだ。
 私の瞳に滴は溜まる。
 故分からず泣く私に狼狽する主人。
 私も理由など分からなかった。
 けれど涙が止まらなかったのだ。
 そしてふと、思い出した。
 誰かに守られるのが生まれて初めてだったのだ。

 私は主人から目が離せなくなってしまった。

 発情期はもしかしたら人間にもあるのかもしれない。
 あの日以来、主人を思うと心と身体が熱くなるのだ。
 それは学を学ぶ時にも起こってしまい、今度は私は主人と目が合わせられなくなった。
「なんだお前、もしかして発情期なのか?」
 あまりの恥ずかしさに答えられずに、私は俯いた。
「まさかワタシに発情しているわけではないな?」
 それはほんの冗談のつもりで主人は言ったのだろう。
 けれど冗談ではすまなかったのはそれが事実だったからだ。
 ますます染まってしまう頬を感じ、私は様々な事を考えてしまう。
 気持ち悪がられているのだろうか。
 避けられてしまうのだろうか。
 私は何も言えずに俯いたまま。
「発情期ならば仕方ないな」
 そう主人は苦笑し、私を押し倒した。
 私の思考は弾けてしまいそうなほどに律動した。
 主人が肌に触れるその箇所は朱色に染まる。
 凛と立てた尻尾を小刻みに揺らし、喉を鳴らし。主人は私の衣服を素早い手つきで脱がしていく。
「人間のお前など誰にも相手をしてもらえないのだから、だから仕方なく私が相手をしてやるのだ。勘違いはするなよ」
 天がまだ高い昼の時間。私一人、丸裸にされ。さきほどまで貿易学の講義が行われていたその書斎の机で。
 仰向けに転がされている私。 
 人間の何倍もある主人の雄を、脚の間の秘所で根元深くまで貪欲に頬張る淫らな私がいた。
 恥ずかしさで頭がどうにかなりそうだった。
 慣れぬ身体を貫かれている鈍痛よりも、主人に支配される悦びに心は啼いた。
 これは全て発情期のせいだろう。
 あんなに痛くて辛かっただけの交尾が、今はこんなにも気持ちいいなんて。
 剥き出しの素足を担がれ、主人の下へと強く引き寄せられる。
 腹の中心より深く。深すぎるほどに根元まで犯され、腹の中でも主人の脈を感じられるほどに繋がり感じ。
 息を荒くした主人の顔。その先に見える天井の明るさ。
 羞恥と快楽に翻弄され、何も考えられなかった。
 真っ白に思考は弾け、気が付いたら私は吐精していた。
「コレがそんなに気持ちいいのか?」
 からかうように主人に問われ、私は素直に頷いた。
 腹を満たす、腹を犯す主人の肉棒が気持ちよかったのだ。
 主人が私を支配し、雌として子種を埋めるこの行為が嬉しかったのだ。
 主人は私の反応にますます喉を鳴らし、息を荒くし、汗を流す。
 その汗は粘り帯び、労働の汗よりも濃く、甘い。
 主人も私に興奮してくれているのだ。
 あれほど嫌だった首筋を噛まれる行為も、今は快楽として脳を犯す。
 深く噛まれると、その心地よさに私の射精は促される。

 主人の顔はますます私の思考の奥深くまで入り込んでしまった。

 私と主人は秘密を作った。
 私の発情期はまだ終わらなかったのだ。。
 いや、むしろ日が経つにつれますます酷く、深い発情期に飲まれているようなのだ。
 人間について詳しくない主人は、人間の発情期の長さに関心している。
 私はこの発情期が早く終わらないかと気が気ではない。
 盛ってしまう私に、主人も満足そうに私を貪っていた。
 相手の発情期に触発され、主人の発情期も再び訪れてしまったそうなのだ。
 主人も発情期になってしまったら仕方ない、私も主人の発情期の相手をすることになった。
 毎夜毎夜と、私は主人に抱かれ奉仕する。
 いや、奉仕されていたのはむしろ私のほうだった。
 主人に抱かれ、貫かれるだけで私の思考は飛んでしまいあまりの気持ちよさに翻弄されてしまうからだ。
 主人は私が感じ快楽に溺れていく様に気分を良くするようだ。
 それは初め私が主人との交尾を最悪だと言ったせいもあるだろう。
 主人は何よりも私を快楽の海に溺れさせることを優先し、喜ぶ。
 ついに主人は私にネロと同じ首輪を買ってくれた。
 私が主人の飼い犬、つまり所有物である証をつけてくれたのだ。
 私の頭を撫でてくれるようになったのは、その直ぐ後。
 私は嬉しかった。
 誰かの所有物になる事の安心感と、幸福。
 ネロも自室に戻り、いまこの寝室には私と主人の二人きり。
 主人の膝の上に座り、主人の胸に身体を預け目を瞑る。
 主人の尻尾を抱き寄せ、その柔らかく温かい感触を抱きながら目を瞑り続ける。 
 この獣人の国でも少しだけ。
 本当に少しだけ。
 幸せと呼ばれるものがあるのかもしれない、とそう思いはじめていた。
「お前に謝らないといけないことがある」
 主人が言い難そうに私にそう呟いたのは秋も終わりの頃。
「言いにくいことなのだが、お前を人間の国へと送る貿易商の話が破談になった」
 貿易船の完成までしばらく待て、と。
 主人は視線を逸らし、私に詫びた。
 なぜだろう。
 心に不思議な安堵が生まれた。
 おそらく未だ見ぬ故郷への不安が遠のいたことが、心を揺らしたのだろう。
 人間の国に戻ったとしても私が生きていけるかは分からない。
 その不安が遠のいたから、怯える私の心の天秤が止まったのだろう。
 他に理由など、ありはしないはずだ。
 居場所などないこの獣人の国に、在りたい理由などないはずだ。
 あれほどに未だ見ぬ故郷に焦がれていたのだ。
 あれほどに、帰りたいと願っていたはずなのに。
 けれど、思い浮かぶのは主人の顔。
 私を疎んでいた主人の顔。
 私を抱いてしまった主人の顔。
 私の発情期を喜んだ主人の顔。
 私を不器用に抱き寄せる主人の顔。
 主人の顔が、私の頭から離れる日はない。
 主人はもしも私がいなくなったら、少しは悲しんでくれるのだろうか。
「来い、詫びに慰めてやる」
 少し躊躇いながら抱き寄せられ、私は瞳を閉じた。
 ゆっくりと背に回される主人の手。
 温かい体温。
 獣人に、まして雄の獣人に抱きしめられ安心してしまう私はどうかしているのだろうか。
 今はここにいたかった。
 ここが私のいるべき場所ではないか。
 そう思えてしまうほどに私は主人の隣だと心安らいでいた。

 私が使っていた使用人室を倉庫に改装するからと、私の自室がなくなったのは翌週のことだった。
 生憎、他に空いている部屋がなかったのでこの屋敷で一番広い主人の部屋で私は生活をする事になったのだ。
 他に空いてる場所がないから仕方ない、と。
 主人は尻尾を不器用に揺らし私の荷を運んでくれた。
 一番の飼い犬であるオレですら主人の部屋で寝泊りできないのに、そうネロは口では悪態をついていた。
 だがその顔が微笑んでいるように見えたのは私の気のせいではないだろう。
 ネロは私が主人の隣にいる事を喜んでくれている。
 もしかしたら。
 ――主人と私の仲を取り持ってくれたのはネロではないか。
 そう思う事もあったが、ネロの頭がそこまで回るとは思えない。
 資産家だが無駄遣いを嫌う主人は、自身が使っている寝具は大きいからと夜は同じ寝具で寝るようになった。
 自然と主人と共に歩む時間が多くなった。
 周囲にはネロの我侭で私を秘書代わりに使っているのだと思われているようだが、正直それは幸いだった。
 もう人間の国に戻る事などすっかり忘れていたある日。
 本当に突然に運命は訪れた。
 
 久々に人間の仲間に出会ったのだ。
 仲間は私に最高の贈り物をくれた。
 私が望み続けた希望を、
 私が願い続けた展望を。
 仲間は持ってきてくれたのだ。
 それは私が望み続けてきた夢の実現が、叶う瞬間だったのだ。
 けれど私はそれを、どこか遠くで聞いていた。
 本当に人間の国に、私は帰りたいのだろうか。 


「冬儀式で人間の貿易商が来るのです」
 その日の深夜。
 使用人もネロも寝静まった深い夜に。
 私は口を開いた。
「けれどそれは人間の国への密航船で、仲間は皆人間の国に帰ります」
 今日聞いた喜ぶべき話を。
 今日聞いた待ち望んだ話を。
「――私も、仲間と共に行くつもりです」
 本当は獣人に知られてはいけないのに。
 私は主人に話してしまった。
「国に帰り、人間の国で商売の手伝いをしないかと誘われております」
 主人はしばらく唇を噛み、
「そうか。ワタシの手でお前を帰してやると言う約束。守れなくてすまないな」
 けれどそう言いながら私の顔を覗き微笑んでいた。
 まるでネロを見つめる時のような穏やかな顔で。
 主人は私を優しく見つめるだけであった。
 何かを抑えるように唇を噛み、私を祝福してくれる主人の顔。
 けれど、引き止めてはくれなかった。
 主人は、私がいなくても良いのだろうか。
 いなくっても平気なのだろうか。
 ――……。
 自惚れていたのだろう、私は。
 止めてくれるものだと思っていた。
 強く引きとめてくれるものだと思っていた。
 けれど主人はこうして微笑んだままで、私の帰郷を祝福してくれている。
「もう帰って来れないかもしれません」
 咎めるように、私は口を開いた。
 何も語らず私を覗く主人。
「もう、会えないかも知れません」
 訴えるように、私は口を開いた。
 何も語らず立ち上がる主人。
 何も語らず、主人は私を不器用そうに抱きしめた。
 そのまま抱き上げられ、そのままシーツに落とされて。
 私と主人は交尾した。
 何も語らない主人だったが、今夜の行為はとても執拗だった。
 何度も何度も腹の中に植えつけられた子種は、文字通り腹が膨れてしまうほどに注がれていた。
 獣の性は人間の何十倍もできるものらしい。
 人間である私にはせいぜい三度も達すれば疲れがでてしまうのだが、獣の主人は違う。
 それでも――今夜の主人はいつも以上に子種を植え続けていた。
 まるで印をつけるように。
 まるで所有権を誇示するかのように。
 私の各所を噛み、匂いをつけ子種を注ぎ続ける主人。
 もう数を数えることもできないほど深く何度も翻弄されている。
 私がどんなに悲鳴を上げても、堪えきれず涙を漏らしても、主人は私を犯すことを止めなかった。
 朝を迎えていると気がついたのは、使用人が主人を呼びに来たからだ。
 それでも主人は体調が悪いと追い返し、また私を穿つ。
 堪えきれずに腹に溜められた性が溢れ出ると、主人はその何倍もの性を再び私に注ぐ。
 主人と私は交尾し続けた。
 互いの匂いを擦り付けあい、互いを欲して。
 主人にもっと噛んで欲しかった。
 所有の証が欲しかった。
 私も、主人を噛み返した。
 主人は私の物なのだと、そう思ったのだ。
 主人の首を噛み、指を噛み、腕を噛み。
 主人と私は獣のように交尾した。
 交尾し続けた。








 私は書斎で本を探し続けた。
 発情期を直す方法だ。
 帰郷の日が近づくたびに、発情期のせいで思い浮かんでしまう主人の顔はより一層濃くなった。
 目を瞑るとそこに浮かんだ主人の顔、けれど今は目を瞑っていなくても主人の顔はそこにいる。
 主人の事を想う度に心は裂けるほどにいたかった。
 この痛みを抱えたまま、帰郷するのは嫌だった。
 何冊も何冊も、私は本を捲った。
 この獣人の国で人間の資料はほとんど見つからない。
 獣人の医学書には発情期は自然と去っていく、そう書いてあったが人間である私の発情期はまだ終わる事が無い。
「こんなに散らかして、お前は悪いヤツだな」
 苦笑しながら本を片付ける主人の声に、私は目を覚ました。
「すいません、人間の本を探しておりました」
「人間の本を――か。人間の国に戻れるのだから調べておくのは悪くないな」
「けれど、私が探しているモノは見つかりませんでした」
「一体何を探していたのだ?」
 博識な主人の事だ。もしかしたら知っているかもしれない。
「発情期を直す方法を探しているのです」
 この抑えられない発情期を、
「目を瞑ると、そこには主人の顔が浮かびます」
 この張り裂けそうな発情期を、
「夢を見ると、そこでは主人の顔が浮かびます」
 この生まれて初めて知った発情期を、
「そしてあれほど望んだ帰郷を想う度に、私の心は張り裂けそうに痛いのです」
 この発情期の意味を。
 私は知りたかった。
 この感情の意味を、私は知りたかった。
「貴方と離れたくない」
 主人に抱きつき、
「貴方と別れたくない」
 主人に甘え、
「この長い長い発情期を抱えたままでは、人間の国に帰ることなどできません」
 主人の腕の中で生きていたかった。
 私の言葉に、主人は震えていた。
 普段は不器用に理由をつけ抱きしめていた私を、今は。
 力強く抱きしめていた。
 そして唇に熱い何かが触れる。
 それが主人の唇だと分かると、私の病はますます音を立て腫れあがった。
 心の音は跳ね上がり、息は乱れ。
 何よりも心が割れるほどに痛い。
「これはキスというモノだ」
 目を瞑っていた主人が少しだけ目を開き、苦笑し。
「発情期を直す、まじないだ」
 お前も目を瞑れ、と。
 主人は言った。
 しばらく互いの粘膜を味わい、抱きしめあった。
 主人は言った。
 お前には故郷に帰って幸せになって欲しいと。
 お前にはこれ以上この国で悲しい思いをして欲しくないと。
 主人は言った。
 お前の発情期が直ったその時に、後悔させたくないと。
 主人は言った。
 不器用そうにこう言った。
 ネロと秋刀魚と、酒と煙草と金貨の次ぐらいにお前の事を気に入っていた――と。
 主人はもう一度私にまじないをかけた。
 私の発情期は直らなかった。


 私はどうしたらいい。どうしたらいい。
 主人の言っていることは正しいのだと、頭では理解していた。
 本来あるべき場所へと帰れるのなら、それが私にとっても幸せになる唯一の手段なのだと。
 あれほどに望んでいたことだ。
 物心ついた時から望み続けた希望だ。
 人間の国へと、新しい世界へと帰るのが私にある唯一の幸せなのだ。
 そんな事は分かっている。
 分かりすぎている。
 この獣人の国での私は邪魔者でしかないのだから。
 主人もきっと、私がいなくなる事を望んでいるのだろう、と。
 そう自分に言い聞かせ、荷支度を進める。
 主人が買ってくれた木彫りの船。
 主人が分けてくれた煙草。
 思えば一度も吸ったことがなかった。
 思い出の一つ一つをしまいながら、頭の中に広がるのは主人の顔ばかりであった。
 主人に優しくしてもらった期間はほんの一瞬に過ぎないのに。
 私には人生の全てに感じられたのだ。
 分かりすぎている。
 けれど。
 私が帰ってしまったら主人はどうなる。
 いや、それは言い訳だ。
 主人がいなくなったら、私はどうなってしまうだろう。
 一つ一つの短く長い思い出を辿っていたせいで、荷造りはなかなか終わりそうになかった。
 思い出はどこか遠くに飛ばそうとすればするほどに、私の中へと入り込んでいった。
 
 出航は間近に迫っていた。
 船の出航を祝う酒瓶が割れる音と共に、船は新たな世界へと凛々しく旅立っていく。
 船は青く美しい海を進み、水平線の彼方まで脚を早め駆けていく。
 粉々に砕けた瓶は深く暗い海へと沈んでいった。
 深く暗い海へと、沈んでいったのだ。
 誰一人、その酒瓶の行方を思うものなどいない。
 しばらく、独りで私は海を眺めていた。
 取り返しのつかないことをしてしまった。
 船に――乗らなかったのだ。
 今回の密航で、獣人の国では船舶の審査がきつくなるだろう。
 集団で人間がいなくなったのだ、密航を疑わぬ国家などない。
 だからこれが本当に、最後の機会だったのだ。
 私の望む帰郷への、文字通り最後の船だったのだ。
 もう、私が人間の国に帰れる機会はないだろう。
 もう二度と――。
 そして一生私は、この獣人の国で人間として生きなくてはいけないのだ。
 あれほど望んでいた希望を、一時の感情で自ら捨ててしまったのだ。
 私は自らの手で自身の未来を、可能性を切り捨ててしまったのだ。
 けれど――。
 もう引き返せなかったのだ。
 もう戻れなかった、もう心はあの獣人に囚われていたのだ。
 不器用に私を抱き寄せるあの獣人が、心から離れなかったのだ。
 仲間は皆、驚いていた。
 誰よりも人間の国への帰郷を夢見た私が、なぜこの土地に残ろうとしているか――と。
 なぜそれほどまでに、この獣人の国で想いを作ってしまったのかと。
 私にも、分からなかった。
 私を罵倒し、疎み、傷つけ続けてきた主人に想いを作ってしまうなんて。
 私にも理由は分からなかった。
 仲間を乗せた船が見えなくなり、陽は沈んでいった。
 しばらく、私は佇んでいた。
 二度と会えぬ仲間と、故郷に別れを告げ。
 港を出ようと振り返る。
 そこには主人がいた。
 まるで死者でも見る顔で。
 私の姿を凝視し、大きく目を見開き。
 そして次の瞬間には私は温かさに包まれていた。
 主人の腕の中に包まれていた。
 何を言おう。
 謝るべきか、泣きつくべきか。
 言葉は次々に浮かぶ。
 言いたいことも、言わなくてはならないことも沢山あった。
 けれど、何もいえなかった。
「……ッ」
 駆けた主人の息は乱れていた。
 全速力で駆けたのか、主人の完璧に整えていた髪も尻尾も上着も、全て乱れきっていた。
「何も言うな、何も言うでない」
 全てを忘れ、私は主人の腕の中で泣いた。
 これから起こる事の全てを忘れ。
 良かった――と。
 主人は呟いた。
 震えながら主人は呟いたのだった。

 私もまた、震えていた。

 荒々しく私を組み敷く獣人に抱かれ、私は喘いだ。
 全てを受け入れてしまえば、もう恥じも外面もない。
 強い雄に支配される喜びに、
 大切な相手に抱かれる喜びを。
 もう抑えることができなかった。
 最奥まで穿たれる熱に身体は喜び打ち震えている。
 目の前に差し出された主人の指を舐め、噛み、その男の肌の味を感じ更に喘ぐ。
 私にはもう何もない。
 帰郷への希望も、人間の国で商売をする展望も。
 何もかも捨ててしまった。
 ただ一つ、主人へのこの堪え切れない発情期だけしか残っていない。
 終わるどころか深まっていくこの感情しか、残っていなかった。
 主人の重さと体温を感じ、私は主人の雌となった。
 貪るように互いを求め。
 私と主人は交尾を続けた。
 雄同士では子など生まれないのだから、何の意味もない行為なのに。
 まして主人は獣人で、私は人間なのだ。
 こんな行為に何の意味もない。
 それでも――、
 それでも私たちは互いを貪り続けた。
 互いの絆を結び続けた。
 





 
 考えなくてはいけないことは山ほどある。
 獣人の国でのこれからの暮らし。
 一生隠し通さなければならない主人との関係。
 これがただの発情期ではないと分かってしまった。
 本当はずっと前から気付いていた。
 この発情期に――。
 この感情に、何か別の名があることに。
 この発情期の意味も名もまだ私には分からなかったが。
 主人はどうやら知っているようだ。
 言葉にするのが怖いのだ、と。
 主人は言った。
「――いつか」
 主人は言った。
 苦笑しながら、私を抱き寄せ。
「いつか、お前にもわかる時がくる」
 そう言って、主人は私を抱きしめる。 
 優しい主人の胸に顔を埋め、私は瞳を閉じた。
 主人の体温は温かくて、嬉しくて。
 ネロには少し悪いとは思いながら、私は主人の腕の中で安らいでいく。
 いつまでも、この温かさが続きますように――と。
 私は願った。 
 





 この獣人の国では、
 獣人と人間との愛は禁じられていた。
 しかし誰もがこの規則を鼻で笑っていた。
 人間を愛する獣人など、
 獣人を愛する人間など。

 いるはずがないのだから――。
























【終】
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