【かごめかごめ2】 |
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私は独りで生き続けた。 侮辱を繰り返す小動物を鋭い牙で脅し、 揶揄を繰り返す人間どもを尖った爪で慄かせ、 横暴を繰り返す鬼たちを憎悪の眼差しで委縮させ、 私は独りで生き続けた。 皆は私を恐れるようになった。 私は皆から悪魔と呼ばれるようになった。 私はますます独りになったが、もうそれでよかった。 独りは落ち着いた。 独りは気が楽だ。 だれかの機嫌を伺うこともない。 だれかの風評に傷つけられることもない。 独りは心地よかった。 だが、温かくはなかった。 人も動物も、鬼も滅多に顔を出さない朽ちた土地に、 私は独りで暮らしていた。 動物も人も、鬼すらも私を恐れ、 この土地には私以外に誰も訪れることはなかった。 ここにあるのは植物だけだ。 私は死んだ土地に草木を蒔いた。 月日が経ち、 私の蒔いた命が林を作った。 独りの私は植物の成長だけが楽しみになった。 死んだ土地を耕し、命を注ぎ、美しい木々が成長する。 何度も四季を繰り返し、 朽ちた土地は壮大な森になっていた。 その間、この土地を訪れた者など誰もいなかった。 私の放つ禍々しい瘴気が生き物を土地から遠ざけたのだ。 この森は悪魔の棲む森と呼ばれた。 この土地に棲み始め、もう何十と季節を重ねただろうか。 醜い鬼の私は姿かたちもそのままで生き続けた。 人の身の猟師はもう逝ってしまっただろう。 ふと思い出してしまった幻想を、 私は頭の中でかき消した。 忌わしい過去だ。 一時でも人間を信用してしまった悪しき過去だ。 どうしたというのだろうか。 なぜ今さらに猟師の事など思い出してしまったのだろうか。 それは虫のしらせに似ていたのか。 重い感情に苛立ちながら森の散策を続けていた時だ。 一人の人間が川の流れに押され溺れていたのだ。 私は警戒した。 早く追い出さなくては。 ここは私の棲み家なのだ。 誰にも汚されることのない、独り生き続けるための安息の地なのだ。 人間は必死でもがいていた。 首を掻き切ってやろうと腕を伸ばしたとき、 人間は私にすがりついた。 「どうか助けて下さい!どなたか存じませんが、お願いです!助けて下さい!」 久々に触れた人の体温に、私はしばし慄いてしまった。 だが、この体温は幻だ。 人間の身体は温かくとも、心は醜く冷ややかだ。 「人間よ、私は他者と関わるつもりはない。独りでそのまま死ぬがよい」 私は冷めた口調で、人間の助けを無視した。 そうだ、人間を助けてもロクな事になりはしない。 助かった人間は森を抜け、きっと私を揶揄するだろう。 森に棲む醜い鬼だ、と。 たとえそれが事実でも、私はもう他者に罵られるのは我慢できなかった。 捕まる腕を爪で刺し、男の腕を外そうとした。 「触るでない!汚らわしい人間よ!」 「どうか見捨てないでください、私は目が見えないのです…! あなたに見捨てられたらこのまま死ぬしかないのです!」 だが人間は、傷つける私に救いを求めた。 その姿がなんとも惨めで、哀れで、 かつて私が、開かぬ猟師の戸を叩いた時の姿が頭に浮かんだ。 私はあの時も必死で猟師に助けを求めた。 だが猟師は私を助けてはくれなかった、 それがどんなに辛かったか。 どんなに悲しかったか。 あの悲しみを、私が他者にしてしまうのだと思うと、 私は悩んだ。 だが、結局、 私は男を助けることにした。 その腕の温もりがいけなかった。 しがみついたまま気絶してしまった男を川から掬い、私は寝床へと連れ帰った。 川の水で冷えてしまったはずの人間だが、 その肌はやはり温かかった。 人間の傷は浅かった。 三日もすればこの土地から立ち去ることもできるだろう。 目が見えぬ、と言っていたが、 森を抜けるぐらいはできよう。 これ以上関わりを持つ前に、森から追い出してしまえばいい。 たとえ追い出さなくても、鬼の私に怯え、逃げ出してしまうだろう。 そうしたら私はまた独りに戻れる。 あの心安らぐ、冷たい独りに戻れる。 「………。」 独りに戻ってしまうのだ。 木々で作った寝床に寝かせ、目が覚めるのを待った。 だが、人間はなかなか起きなかった。 私は次第に不安になった。 もしやこのまま目を覚まさないのではないか。 表面の怪我が浅かったとしても、 森に入ってきた際に、この森独特の瘴気に蝕まれたのではないか。 大嫌いな人間とはいえ。せっかく拾った命を失ってしまうのは心が痛む。 私は育てた木々の果実で薬草を煎じた。 この森は私の邪気と瘴気に包まれ異形な成長を遂げている、 その木々は様々な秘薬を作り出す材料になった。 私は煎じた薬を人間に飲ませようとした。 だが意識を失い、衰弱しきった人間は薬を飲み下せないでいる。 私はしばらく悩んだが、 煎じた薬を口移しに飲ませる事にした。 租借した薬を含み、人間の口の端を押し広げ舌先で喉の奥へと流しいれた。 人間はなんとか飲み込んだようだ。 口を放し、男から離れると、私はしばし夢想した。 人間の口の中はどこか懐かしい味がした。 接吻とは意味合いは違ったが、 これは紛れもない人の温もりだった。 猟師との短夜が脳裏を掠め、胸を締め付けた。 人間の呼吸は静まり、安定した。 どうやら薬が効いてきたようだ。 人間の寝息が私の髪を揺らし、肌をくすぐる。 ああ、そうであった。 私がまだ猟師と夜を共にしていたあの夜。 眠る猟師を私は見続けていた。 他人と床を共にする喜びに、当時の私は酔っていたのだ。 その涼やかな寝顔はまるであの日を思い起こした。 あの忌まわしい過去は、私を今も傷つけた。 悲しさと、侘しさに釣られ、 私は人間が目覚めぬ前にと、もう一度接吻してしまった。 やはり人間は温かかった。 人間の温もりを確認してしまい、私の視界は大きくかすんだ。 人間など二度と信用するものか…。 人間が目を覚ましたのは二日後だった。 人間は開かぬ眼で私に感謝を述べた。 幸いなことに、 目が見えぬ人間は、醜い鬼の私に怯えることはなかった。 私は安堵した。 木々の恵みの果実を男に与え、 人間はどんどん元気になっていった。 目の見えぬ人間は私にいつも語りかけた。 「なあ俺は主を何と呼べばいいのだ?」 「私に名などない、どうしても呼びたくば鬼と呼べばよい」 私に名などない。 あるのは醜い鬼だという事実だけだ。 「なあ鬼よ、主はなぜこのような奥地で独り暮らしているのだ?」 「私は独りで在りたいのだ。私を蔑む他者など排除し、私は独りを獲得したのだ。 貴様も歩けるようになったら出ていくのだぞ」 これ以上この人間と関わりたくなかった。 これ以上この人間と暮らしてしまえば、 きっと私は同じ過ちを繰り返すだろう。 「なあ鬼よ、主はなぜ俺に優しくしてくれるのだ?」 この質問に私は答えられなかった。 しばし答えに迷っていると、目の見えぬ人間は続けた、 「なぜ主は俺に優しいのだ? 生まれつき目の見えぬ俺を、皆は嘲笑い罵倒する。 生まれつき目が見えぬ俺を、皆は苛め迫害する。 なのに何故主だけは俺に優しいのだ?」 開かぬ眼を振るわせる人間に、私は同じにおいを感じた。 ああ、この者も私と同じ迫害を受けていたのであろう。 ただ目が開かぬというその違いだけで、 他者から迫害されていたのだろう。 決してそう望んで生まれてきたわけではないのに。 適うならば他者と同じ環境に生まれたかったのに。 だが、こう生まれてしまったのは運命なのだ。 運命など、残酷なだけだ。 私の中に憐憫と、共感が生まれた。 「生まれつき目が開かぬとしても、それは貴様が悪いのではない。 悪いのは少しの優しさをも無くした人間どもだ。 貴様は…、 主は悪くないのだ」 私の言葉に、人間は大きく振り向いた。 開かぬ眼からは、大粒の涙が零れだしていた。 「泣くな人間よ。 どうか泣き止んでくれ。人の涙の眩しさは醜い鬼の私には明るすぎるのだ」 人間はなかなか泣き止まなかった。 この人間も他者から迫害されつづけた哀れな生き物なのだ。 だからおそらく、他者を私の憎悪で排除するこの森に入ることが出来たのだろう。 「泣くな人間よ。 どうか泣き止んでくれ。 冷たい世間が怖いのならば、主が望むのならばこの森で暮らしても良い。 他者を排出するこの森で、死ぬまで静かに暮らしても良い。 ここでは私の瘴気が他者を拒み、冷たい人間が入ることもできない。 だからどうか泣き止んでくれ」 目の見えぬ人間は、私の言葉に小さく感謝を述べた。 人間の涙が、凍てついた私の隙間に少しづつ染み込んだ。 目の開かぬ人間は優しかった。 私も人間には優しくした。 この人間は私と同じなのだ。 抗うことの出来ぬ生まれながらの性質を蔑まれ、 理不尽に傷つけられつづけた、惨めな存在なのだ。 私は人間と色々な話をした。 目の開かぬ人間は私の話を聞き入る。 木々の逞しい命。果てまで広がる空の青さ。赤く染めあがる黄昏。 私は人間に色々教えた。 人間は私の話す世界に身を乗り出して聞き入り、 見えぬ世界に思いを馳せた。 私は愉しかった。 嬉しかった。 こんなにも優しい気持ちになれたのは初めてだった。 穢れを知らぬこの人間と、私は永久に在りつづけたいと思った。 あの在りし日の姿のように。 あの猟師と共に過ごした日々のように。 結局私は、 独りの寒さが辛かったのだ。 しかし、そんなある日だった。 目の開かぬ人間が私を少しだけ避けるようになったのだ。 理由は分からなかったが、私は悲しかった。 私が人間に触れようとすると、顔を赤く染め私を払いのけるのだ。 私は悲しかった。 そんな哀しい日が続き、 ついに私は人間に問い掛けた。 「なあ、人間よ。なぜ急に私を避け始めたのだ。 やはり私が鬼だからか? 私が醜い鬼だから、お前も他の人間のように避けるのか?」 「違う!」 人間は跳ねるように飛び上がり、否定した。 「では何故なのだ。 私は悲しい。哀しくて哀しくて、胸が張り裂けそうなのだ。 やはり私が鬼だからか? 私が醜い鬼だから、お前も他の人間のように私を嫌うのか?」 動揺する人間に私は思わず縋りついた。 もう独りは嫌なのだ。 独りの寒さが怖いのだ。 何故今更に人間は私を避け始めたのだろう。 やはり私が醜い鬼だからだろうか。 色々な思いが巡り、私も動揺していた。 人間なんて信用してやるものか、と、 汚された身体で這いずり生き延びた日。 あの誓いに、偽りはない。 だが、 この人間だけは違ったはずなのだ。 私と同じ境遇の、私と同じ惨めな生き物なはずだった。 この人間が私を嫌うことなどないと思っていた。 私は馬鹿だ。 馬鹿で醜い愚かな鬼だ。 私の瞳にうっすらと輝きが募った。 嗚咽だけは出すまいと思ったが、 あまりの辛さに我慢ができなかった。 ついに泣き出してしまった私を、 人間は強く抱きしめた。 「違うんだ!違うんだ……、俺はそなたが鬼だから避けているのではない。 嫌いだから避けているのではない。 その逆なのだ!」 目の見えぬ人間が私を床に組み伏した。 開かぬ眼で私を見据え、人間は私に接吻をした。 「………ぁ…」 私は思わず声を上げた。 人間は思いのほか強い力で私を押えつける。 かつての記憶が私を襲う。 猟師に癒された温かい蜜夜。 人間達に汚された夜。 独り来ぬ助けを待った惨めさ、辛さ。 人と肌を重ねるのは深い意味を持ちすぎていた。 「俺はそなたを愛してしまった。 俺のような惨めな人間が、そなたを愛してしまったのだ」 その言葉に。懐かしさと悲しみと、嬉しさが同時に襲った。 猟師が私に誓ったその愛を、 いまこの人間は私に語りかけるのだ。 私は何度裏切られればいいのだろう。 何度愚かな選択をすればいいのだろう。 きっとこの人間もそのうちに、 私を疎み、蔑み、捨てるはずだとわかっているのに。 逆らえなかった。 その温もりは優しく、甘い。 身体にかかる体重は心地よい。 ああ、私は何度愚かな選択をすればいいのだろうか。 「そなたに触れると心が急くのだ。 この身体を押し開き、支配し、自分のモノにしたくなるのだ。 だから避けた。だから距離を置いた」 開かぬ眼を震わせ人間は私の首筋に噛み付いた。 小さく歯をたて、肌をなぞり、私の胸の突起を舐め上げる。 「だがもう遅い、俺は今宵そなたを抱く。 もうこの思いは止められん。 頼むからこの思いを受け止めて欲しいのだ」 人間はおぼつかない動きで私の下肢をまさぐり始める。 だがその後どうしたらいいか分からないのか、 人間は必死に肌の上に手を滑らせるが、それ以上は進まなかった。 きっとこの人間は初めてなのだろう。 人と肌を合わせる温もりを、知らないのであろう。 私は人間を押し退け、反対に男の上へと跨った。 「…人間よ、じっとしていろ」 私は人間を欲していた。 自らの秘所を解し、男の猛った怒張を飲み込む。 「ん………」 「あ………くっ、……」 人間は始めての挿入の快感に苦悩の表情を浮べていた。 私は恥じらいながらも、男の雄を内に咥え腰をくねらせた。 数十年ぶりのまぐわいは、私に長い鈍痛を与えるが、 その温かさに心は震えていた。 「どうだ、鬼の私の味は。後悔しているのではないか?」 私は人間にすがりつきながら訊ねた。 「そんな事は無い…、俺はそなたを愛しているのだ。 愛した者とまぐわうことに後悔などない」 人間は私の顔を探し、唇が空を切る。 抱かれながら私は人間の顔に近づき、長い接吻をした。 互いの唾液は口の端を零れ、 喉を伝い、胸へと淫靡に流れる。 流れた唾液を人間は掬い上げ、私の胸の突起をいやらしく捏ね回し始める。 その執拗な愛撫に、私は思わず快感の喘ぎを吐いてしまう。 私の喘ぎを聞き、人間はさらに腰を蠢かせながら舌先を吸い、尖りを帯びた乳首を抓り上げる。 堪えきれない喘ぎに口が離れ、私は達してしまう。 初心者の人間に追い上げられてしまった私は、唇を尖らせた。 「…人間よ、どこでこんな事を覚えたのだ?」 「いつも夢想していたのだ。 そなたを抱き、揉みしだき感じさせることを想像していたのだ。 俺はそなたを心の中で犯しつづけていた。 それが恥ずかしくてな、だから避けてしまったのだ」 言いながら、人間の猛った怒張は私の中を縦横無尽に暴れまわり、 自らの快楽を満たしている。 その若い雄の姿に私は少々苦笑した。 今宵は長く、 温かかった。 人間は私を抱くたびに私の肌をなぞるようになった。 人間は私の鼻をなぞり言った。 「ああ、そなたの顔が一度でいいから見てみたい。 このスラリと整った鼻筋、そなたはきっと美しいのだろう」 「それはなかろう、私は醜い鬼だ。 この異形な高さの鼻は、高い割に細く惨めで醜いのだ」 人間は私の唇をなぞり言った。 「ああ、そなたの顔が一度で言いから見てみたい。 この絹のように柔らかい唇、そなたはきっと美しいのだろう」 「それはなかろう、私は醜い鬼だ。 この柔らな唇の下の牙は、見るもの皆が震えるほどに醜いのだ」 人間は心底悲しそうに言った。 「ああ、何故俺は目が見えぬのだろう。 愛しきそなたが見えぬ。それだけが悔しいのだ」 私は応えに詰まった。 人間の目が開けば、おそらく私から離れてしまうだろう。 目が見えぬから、この人間は私と似た境遇なのだ。 私と同じ苦しみを味わい、人を嫌い、こうしてこの場所で愛を紡いでいるのだ。 人間の目など開かぬほうが良い。 人間の目が開いたならば、私はきっと捨てられてしまう。 私の異形な姿に震え、怯え、逃げてしまう。 私はこの人間に捨てられたら生きてはいけぬ。 だから、 人間の目など開かぬほうが良い。 そう思ってしまった私は、 やはり心までも醜い鬼なのだ。 人間の思いは日に日に強くなっていた。 「何故俺は目が見えぬのだろうか。 何故俺だけが見えぬのだろうか」 人間は私を抱きながら哀しそうに呟いた。 「一目だけでも良いのだ、 愛しいそなたを一目だけでも見てみたい」 私はその言葉を複雑な思いで聞いていた。 私の心の闇は次第に広がっていった。 ある日、人間は目を覚まさなかった。 正午を過ぎるまで寝ている人間に声を掛けてみたが、 やはり起きない。 この時はまだ大事だとは思っていなかった。 だが太陽が隠れてもなお起きぬ人間に、 私は不安になった。 何度も揺すり、 何度も声をかけたが反応は無い。 息はしている。 怪我も無い。 だが何故か起きないのだ。 私は不安で堪らなくなった。 人間はいつまでも起きなかった。 私は木々の秘薬を人間に飲ませた。 だが、人間はやはり起きなかった。 私は嫌だった。 愛した人間が死ぬなど、耐えられなかった。 人間が死ぬなど許せなかった。 私は森に呼びかけた。 「おい森の木々よ!教えておくれ、 どうして人間は目を覚まさぬのだ!」 森は静かに答えた。 「それは呪いだ。禍々しい呪いの力が人間の目覚めを妨げているのだ」 私は森に呼びかけた。 「誰だ!誰がこの人間に呪いをかけているというのだ! 私はそいつを殺しに行く!だから教えてくれ森の木々よ!」 森は静かに答えた。 「それはあなただ。鬼と人の合いの子よ。あなたの悲しみがその人間に呪いをかけたのだ」 私は唖然とした。 呪いなどかけてはおらん。 愛しいこの人間にそんな事をするはずがない。 森は続けた。 「私達はあなたに育てられて成長した。 だから教えよう。 私達はあなたの悲しみを見て成長してきた。 だから教えよう。 あなたの悲しみが、あなたの悲痛が、あなたの恨みが、 思いの強さが人間に呪いをかけているのだ」 「違う!私はこの人間に呪いをかけてなどいない!」 呪いなどかけようはずがない。 私を愛し、私が愛したこの弱気人間を。 呪うはずなどないはずだ。 「この人間ではない。 あなたはかつて愛した猟師に呪いをかけたのだ。 あなたの無念が、猟師の目を奪い。 その子孫であるこの人間の光を奪った」 私は言葉を失った。 この優しき人間が、あの猟師の子孫なのだと。 たしかに森はそう言ったのだ。 愕然とする私に、森は続けた。 「あなたの心はその猟師の子孫までをも恨んだ。 あなたの心はその猟師の子孫までをも妬んだ。 あなたの心はその猟師の子孫までをも愛した。 あなたの思いが鎖となり、 あなたの猟師への愛が、この人間を苦しめているのだ」 私はどうしたら良いのだ。 「だが、なぜ目を覚まさぬのだ。 目が見えぬようになったのが私のせいだとしても、 何故目を覚まさないのだ!」 森は静かに答えた。 「あなたが人間の目が開くことを拒んだからだ。 目が開いたら人間は去ってしまう、 そう思ったあなたの心が、人間を縛り寝かせつづけるのだ」 私はどうしたら良いのだ。 人間を失いたくない。 人間が目をさまさぬ事など絶えなれない。 もっと話し、 触れて、 愛を紡ぎ、 永久に二人で生き続けたい。 かつてそう望んだように。 かつてそう願い続けたように。 黙る私に森は続けた。 「かつて私が幼き頃、 あなたの手で植えられた頃。 猟師は何度もここを尋ねた」 私は驚きのあまり森を強く見据えた。 森は静かに続けた。 「猟師は何度もあなたに会おうと、私を横切った。 おそらくあなたに会いたかったのだろう。 あなたに謝りたかったのだろう。 あなたに許してほしかったのだろう。 長い旅を終え、猟師はここに訪れた。 だが猟師は奥に進むことができなかった。 あなたの悲しみが、 あなたの心が、 瘴気となり路を塞ぎ、猟師を拒み中にいれなかったのだ」 「……」 そうだ、私の心は他者を退け、 その恨みは瘴気となった。 その悲しみは他者を拒絶した。 人も鬼も動物も、二度と信用などするものか。 そう私の乾いた心が結界を作った。 この森を作った。 森は私の瘴気に包まれ他者を排除し続けた。 二度と言葉など交わすものか、と。 そう心が全てを拒絶したのだ。 「猟師は年老いてもなお、 あなたに会おうとここを訪れた。 妻子を持ち、光を失っても、 猟師はあなたを待ち続けた。 あなたの心が少しでも癒えれば、 きっと猟師もこの森に入れるだろう。 そう私たちは猟師に教えた。 だがあなたの乾いた心は猟師を通さなかった。 猟師は何度も泣いていた。 猟師はあなたの心が癒えるのを待ち続けていた。 何年も、何年も。 だがあなたの冷えた心は猟師を通さなかった。 これほどまでに深い悲しみで拒絶され、 あなたの悲しみを嫌というほど悟ったのだろう。 次第に猟師はその悲しみを植え付けた己自身を呪い始めた。 あなたの愛と猟師自身の呪いが複雑にからみあい、 猟師自身とその子孫から光を奪った。 猟師は成仏せぬまま逝ってしまった」 私はどうしたら良いのだ。 黙る私に森は続けた。 「猟師は在りし日の場所で、 あなたが許してくれることを待ちわびている。 魂になったその身体で、 幾年と待ちつづけている。 その呪縛が解けたとき、 おそらく目の開かぬ人間も起きるのではないだろうか。 猟師は在りし日の場所で、 あなたの許しを今でも待ち続けている」 森は静かに私の背を押した。 私は走った。 「私達は誰よりもあなたの悲しみを見ていた。 全てから裏切られ続けた悲しみを。 誰よりもあなたの恨みを見ていた。 全ての者を恨み続けたあなたの恨みを。 だからどうしても助けたかった、 あの哀れな猟師の面影を残す人間を、私達はどうしても拒絶することができなかったのだ」 森を言葉は私には届かなかった。 私は走る。 かつて暮らしたあの場所へ。 愛と悲しみがつまったあの場所へ。 私は走った。 猟師のことも、目の開かぬ人間のことも助けたかった。 幾年と年が過ぎたこの場所は変わり果てていた。 猟師が暮らした町は消え、 森は死に、 山は朽ちていた。 私は走った。 かつて愛を紡いだあの場所へ。 山に入ると、 懐かしい思いが巡る。 愛と悲しみと、憎悪と裏切り。 様々な感情だ。 愛し続けたいと思った時もあった。 だが、結局愛は消えてしまった。 殺してやりたいと思った時もあった。 だが、結局殺せなかった。 見下ろす景色は変わっていたが、 山の匂いは記憶の中のままだ。 猟師のくれた桃の香り、 猟師のくれた愛の飛沫。 全てが私の中を駆け巡った。 私は走った。 かつて愛を紡いだあの場所へ。 私は走った。 私が寝床にしていた洞窟の前に、 独りの人間が佇んでいた。 猟師だった。 猟師はおどろいたように私を振りかえり、 在りし日の記憶が私の鼻を刺した。 「おお、アカよ。 ついに来てくれたのだな」 猟師は不思議な表情をして私を出迎えた。 その脚は薄く透け、命の灯火は感じられなかった。 猟師はやはり魂だけの存在になっていた。 猟師の姿はあの頃と変わりなく。 私を温かい息吹で出迎えた。 かつて愛を紡いだその時のように、 猟師はここに在った。 「アカよ、俺を許しておくれ。 あの後、アカの涙を見てしまった後。 俺はアカを探して旅に出た、 謝りたかった。許して欲しかった。 出来る事ならば、 許してくれるのならば、 今度こそ永久に添い遂げようと思ったのだ」 猟師の魂が私に近づき、 揺れる私の瞳を覗き込んだ。 「アカが朽ちた土地にいると聞き、 俺は走った。 そしてついにアカの棲む土地へと足を踏み入れた」 猟師の温かかったはずの指が、 私の醜い鬼の目から零れる水を掬い取った。 「これで許してもらえるかもしれない。 たとえ許しを得られなくても、 懺悔の気持ちを伝えたかった。 そう決心し、俺はアカを探した。 …だが土地は私を拒絶した。 俺が土地に入ろうとすると、未熟な木々が俺を追い払うのだ。 木々は俺にアカの心を見せてくれた。 なんとも深い悲しみだった。 アカの私への憎しみが、 アカの私への悲しみが、 俺を拒絶し続け森の奥へは入れなかった」 猟師の言葉に、私は泣くことしか出来ない。 「何年も待ち続けた、森が教えてくれたように。 アカの恨みが少しでも消えたならば、 アカの悲しみが少しでも癒えたならば。 きっとアカは俺を森にいれてくれたのだろう」 猟師は口の端を悲痛に歪めた。 「だが、アカの思いは少しも癒えなかった。 何年も何年も、 俺のせいでアカは傷ついているのだ。 俺は自責の念に囚われた。 これほどまでの悲しみを生み出してしまった自身を呪った。 アカの許しを得るまでは、 どうしても死に切れなかった。 だから俺はこうして魂となって待ちつづけたのだ。 俺が森へと入れぬのならば、 いつかアカの心が癒えた時、 その時にはアカがこの土地に会いに来てくれると、そう思って待ちつづけたのだ」 私は猟師の胸のうちをきき、 ますます泣いた。 「そして今、アカはこうして私を訪ねてきてくれた」 泣くことしか出来なかった。 「どうか許して欲しい、アカよ。 すまなかった、 この愚かで弱い人間の俺を許してくれ。 どうか人間を嫌わないでくれ」 猟師の言葉に私は泣きながら頷いた。 「私こそ、すまなかった…。 何年も何年もこのような寂しい場所で待ち続けていたのだな。 それがどれほど寒く、辛いことだったか」 私の言葉に猟師は泣きながら頷いた。 「そうか、許してくれるか。 ありがとう、アカ。 すまなかった…。 これで俺も天に昇ることが出来る」 猟師の身体が薄くなり、 天へと光が刺した。 猟師が天へと昇ってしまう。 そんなのは嫌だった。 「待て!行くな!」 空に浮かぶ猟師を引きとめようと抱きつくが、 「……ぁ」 私の腕は猟師をすり抜け空を掻いた。 「アカよ、すまない。俺はもう死んでしまったのだ。 アカと一緒に生きることはできないのだ」 猟師は悲しみとも、諦めとも取れる表情で囁いた。 私は嫌だった。 せっかく巡り合えた猟師と、また別れてしまうなんて嫌だった。 ならば、いっそ私も! 「頼む!私も連れて行ってくれ! もうこの世は辛いのだ! あの目の開かぬ人間もきっと私を見捨てて消えてしまう。 たとえ、消えなくとも、 私のせいで目が見えぬのだと分かったら、 あの人間は私を憎み蔑むに違いない! もう愛した人間に裏切られるのは嫌なのだ! だから、一緒に…!」 再度猟師に捕まろうと、 私は必死に空を掻いた。 私の描く螺旋は空しくすり抜け、 その勢いで何度も何度も地面に叩きつけられた。 猟師は悲しい表情を浮べて私に説いた。 「アカよ、人間を信じてやってくれ。 俺のせいで人間が信用できなくなったのは、よく分かる。 あの森が教えてくれた。 アカの悲しみ、痛み、悔しさ。 だがもう少しだけでいい、人間を信じてやってくれ」 「嫌だ!私も連れて行ってくれ! もう独りは嫌なのだ!」 「大丈夫だ、アカは心の優しい鬼だ。 その優しき心に、人間も応えてくれる。 だからもう少しだけでいい、人間を、全てを信じてやってくれ」 そう言い残すと、猟師は私を残し成仏してしまった。 季節外れの蜻蛉(トンボ)が、 私の横を通り過ぎた。 森に戻った私に待っていたのは、 やはり人間の裏切りだった。 私と猟師の呪縛は解かれ、目の開かぬはずだった人間は光を得たのだろう。 私が戻った時、すでに人間はいなかった。 分っていたはずだ。 あの人間は目が見えぬから私のような醜い鬼を愛したのだ。 あの人間は目が見えぬから私のような醜い鬼を抱いたのだ。 ああ、やはり私も猟師の元へと向かおう。 心の醜いこの私が、 猟師のいる天国にいけるはずはなかったが。 このまま独り生きていくのは辛すぎた。 私はもう独りに疲れたのだ。 自らの喉元を掻き切ろうと手をかけた時、 「なんと美しい赤だ」 感嘆の声を漏らす、その先にはあの人間がいた。 手にいっぱいの果実を抱き、 私の顔をまじまじと眺めていた。 「どこにいっておったのだ! ほら見るがいい、俺の眼は開いたのだ! そなたの美しい姿が見れるのだぞ!」 「逃げたのではなかったのか? 目が見えるようになり、私を見捨てたのではなかったのか?」 「何を馬鹿な事をいっておる。 俺はそなたを愛しているのだ。見捨てる筈などない。 それより見てくれこの果実を」 「これは?」 「森の木々が教えてくれた。 この身を平らげれば…、 まあ見ておれ」 人間は腕いっぱいに集めた果実を全て頬張った。 するとどうしたことだろうか、 人間の口からは牙生え、二対の美しい青色の角を生やした。 身体には鬼独特の文様が刻まれ、 人間は青鬼と化したのだ。 「なんと愚かなことを! 人間よ!なぜ鬼になどなったのだ! 人の身で鬼になどなったら、鬼からも人からも動物からも疎んじられるというのに!」 私は人間の愚行を責めた。 なぜこんな愚かな事を。 目が開いた人間ならば、この先何も虐げられることなく生きていけるというのに。 だが人間は、 青鬼は笑いながらいった。 「これで俺も鬼だ。 そなたと永久に愛を誓えようぞ。 俺はそなたを愛しているのだ、これはその証だ」 「なんと馬鹿な事を…。 私はお前が人間でも、鬼でも、動物でも、どのような姿でも愛していたというのに」 「これで良いのだ。 だからもう泣くな、そなたの泣き顔は美しいが、 泣かれ続けたら俺がいじめているようにみえるではないか」 青鬼は私を抱きよせると、 最高の笑顔で私に言った、 「そなたの名は今日からアカじゃ! その美しい色の名のアカじゃ!」 青鬼はなんとも嬉しそうに私を抱き続けた。 私もまた嬉しさのあまりに泣き続けた。 ふと横を季節外れの蜻蛉(トンボ)が通り過ぎ、空へと舞った。 空はまるで微笑んでいるかのような青色だった。 |
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