【ランプの重さ】

数十年と時が過ぎ、
私が再びランプから呼び出されたのは日本と呼ばれる島国だった。
私が最後に呼び出されてから人間の文明はだいぶ進んだのだろう。
私には理解できないモノの数々に、時代の流れを感じ、私は一つ前の主人の死を憂いた。
一つ前の主人は大層強欲だったが、その裏腹に優しかった。
革張りのソファーに座り、
意外にも落ち着いている男が、私を呼びだした人間だろう。
私を値踏みするように眺め、
小さくため息を漏らした。
「人間よ、願いを言うがよい。
盟約にしたがい、そなたが死ぬまでその願いをかなえ続けて見せよう」
義務的な言葉が私の口から独りでにこぼれる。
お決まりの言葉だ。
私が存在してから、何度目の言葉だろう。
これで何度目の主人だろう。
私の言葉に人間は私の目を見据えた。
鋭い目だった。
「その前に質問だ、お前はどんな願いでも叶えられるのか?」
男は静かに私に問う。
私は答えた。
「私にできる範囲ならな。富や名声、幸運、延命…そして人間の心。
すべてお前に授けよう。
さあ、選ぶがよい。欲深き人間よ」
私の言葉に、人間は眉を顰めた。
その様は渋く、冷たい。
「人を蘇らせたい…、だがお前にはそれが出来ないのだろう?」
男の、諦めともとれるその問いに、その表情に、
私は迷った。
人間を蘇らせることは違反なのだ。
いや、人間だけではない。どんな生物だろうと命を蘇らせる行為は出来ない。
輪廻に反する、神からの数少ない禁止事項だ。
私を手中にできるほどの男ならば、
そのことも知っていたはずだ。
私のランプにもそう刻まれている。
「申し訳ない、それは出来ないのだ。
いかなる命も、一度滅した魂を呼び起こすことはできん、例えそれが神の命令でもだ」
「そうか…、そうだな」
落胆する男は意外にも静かだった。
やはり始めから分かっていたのだろう。
その全てを達観したような哀愁に、かすかな憐憫が生まれる。
私は何度も人の死を垣間見てきた。
人の死は悲しいものだ。
この人間もおそらくその死を乗り越えられなかったのだろう。
だから私を求めたのだろうか。
思い人を蘇らせることができないせめてもの詫びに、
この人間の願いを満たしてやりたくなった。
私はこの男に仕え、この男の望むままに願いをかなえ続ける。
死が主人を襲うまで。
それが私の存在理由だ。
「人の命を蘇らせることはできない、
だが他の願いならなんなりと叶えよう。
たとえそれが醜い悪事だとしても、
世界を滅ぼしかねない所業だとしても。
私はあなたの願いをかなえてみせよう。
さあ、願いを…」
男は私を皮肉気に見つめた。
その瞳は揺らいでいた。
「願いはただ一つだけだった、
ただアイツを蘇らせたいだけだった。
だからランプの精だなんて夢みたいなモノまで探したのに、な」
男が言葉を切った。私はただ先を待つしかない。
しばらくして、
「もう用はないから帰ってくれ、一人にさせてくれ」
男は私から顔を逸らし、
項垂れた。
「………」
言葉を迷う私に、男が続けた。
「これから泣くんだ、一人にさせてくれ」
言って、数秒。
かすかな男の声が漏れ始める。
小さく零れるその悲しい嗚咽に、私は戸惑う。
きっとこの男は私に最後の望みをかけたのだろう。
もしかしたら思い人を取り戻せるかもしれないのだ、と。
だがその望みはしょせん幻想に過ぎなかった、
その虚しさが男には耐えられなかったか。
男は声を堪えて泣いた。
おそらく、私がランプに戻れば大きな声を上げて号泣するのだろうか。
それほどまでに人の死が忘れられないのだろう。
辛いのだろう。
その悲しみの深さはしょせん作り物の私にはわからなかった。
だが、慰めたいと、
そう思ってしまったのは私は人間にかすかな情を抱いたからだ。
かりそめの命にすぎない私にも、かすかな心があったのだ。
幾重にも渡る人の死を見つめてきた私は、次第に人間の感情を模倣した。
初めの主人が死んだときに、私はなんの感慨も受けなかった。
人はいつか死ぬものだとわかっていたからだ。
次の主人が死んだときにも、私はなんの感慨も受けなかった。
次の主人のときも、またその次の主人のときも、
私は何の感慨も受けなかった。
だがいつの時だろうか。
何度も何度も主人との死を迎えたある日、
私は初めて主人の死が悲しいと思ったのだ。
主人の死が辛いと思ったのだ。
私に名前を付けてくれた初めての主人だった。
その名も、時の流れと共に忘れてしまった。
別れがこんなに悲しいことだと初めて悟った日だった。
それを悟ったその時が、私が初めて感じた自己だった。
それはかすかな感情にしかすぎない。
それはまがい物の感情にしかすぎない。
けれども私には確かに自我がある、そう思うことにした。
この男を慰めたいと、そう思う心は私の心なのだ。
だが、一人にさせてくれ、
そう頼まれたら命令に従うだけの私には逆らうことなどできなかった。
ランプに戻った私は、
男の小さな嗚咽を独り暗い世界で聞いていた。

次に呼び出されたのは何日過ぎたことだろうか。
私を呼び出した男は、
あいかわらず物事をあきらめたような寂しい表情をしていた。
「人間よ、願いを言う気にはなったか?」
「俺の願いは、ただ一つだけだ…、お前にはできない」
私の言葉に、男はどこか責めるような静かな口調で答えた。
「たしかに私に人間の命を呼び起こすことはできない。
では何の用なのだ?
まさか嫌味を言うだけに呼び出したわけではなかろう?」
人の命を蘇らせることができないのは、私のせいではない。
そのことをいつまでも罵られても、
私にはどうすることもできないのだ。
答えを待つ私に、男はやはり寂しげな表情で答えた。
「―…寂しかった」
意外にも、弱い声だった。
「寂しかったんだ、これでは理由にならないのか?」
どう答えたらよいのだろう。
この男はいま、二度と会えない思い人に胸を馳せているのだろうか。
私に本当の心があったのなら、気の利いた台詞や優しさで、
男を慰めることもできたのだろうが。
しょせん偽りの心しか持たない私には、それは出来なかった。
答えに迷う私に初めて男が笑みを見せた。
「お前は死んだアイツに少しだけ似ているんだ」
悲しい笑みだった。
私を抱きしめ、
男は泣いた。

男は私に共に暮らすよう願った。
人間のように考え、自己で判断し、人として共に暮らしてくれ、と。
おそらく言葉通り、
男は寂しかったのだろう。
私はその願いに応え、人間として男の部屋で生活をしていた。
人のように衣服を着替え、
人のように就寝し、
人のように意見をし、
人のように笑った。
人間としての暮らしは正直慣れなかった。
所詮、かりそめの命に過ぎない私にはままごとのように思えたのだ。
私は、機械がデータに合わせて動くのと同じように、
かつて見てきた人間の感情を模倣している心ない空ろな人形にすぎない。
言うならばこの悲しい男は、
多少出来の良い人形とままごとしているのと同じ事なのだ。
その虚しさを私は男に何度も伝える。
「人間よ、このようなかりそめで満足なのか?
私に願えば、あなたはどんな人間の心さえ手に入れられるのだ。
かりそめの命にすぎない私には、
生あるあなたの癒しにはなりはしない。
寂しいのならば誰かほかの者と生を過ごすほうが良いと思うぞ」
私には人間の食事の味などわからなかったが、
人間は私と共に生活の糧を取りたいと静かに言った。
「それでもいいんだ。
誰かとこうして静かに…、それに人間はいつか死んでしまうからな」
私を見つめ苦笑する男。
だがその瞳は私を見ているのではない、
私に死人の面影を追っているのだ。
あまりにも悲しいこの男の傷を、真の心のない私は癒す術を知らない。
男はあまり多くを語らなかった。
人間の感情は重く、複雑だ。
命のない私には到底理解ができないほどに、深いのだ。
「ところで、前から言おうと思っていたんだが」
「なんだ?」
「箸の持ち方いいかげん覚えろよな」
人間は苦笑しながらも明るく笑った。
私の手を取り、箸の使い方を指導するその表情は、少しだけ和らいでいた。
「人間は…、いやこの国の人間は面倒なのだ。
かつて私がいた国は手で食べていた、こんな面妖な棒きれで食べる習慣はなかった」
「面妖な棒きれじゃなくて箸だ、ハシ」
男はこの国のモノを知らぬ私に甲斐甲斐しく教えた。
私は男にある願いを言うようにいった事があった。
『私にこの国の文化を完璧に覚えろ』
と、こう願いさえすれば私はその願いを叶え、
完璧にこの国に馴染み、箸も上手く使えるのだ。
その様に私は作られたのだ。
だが男はそれを望まなかった。
なぜかはわからない、私にこうして少しづつモノを教えることが楽しいのだろうか。
この滑稽なままごとに、男は何を求めているのか。
命のない私にはわからなかった。
だが一つだけ確かなのは、
この男は、私の中に、かつて生きた人間の面影を載せているにしか過ぎないのだ。
私を求めているわけではないのだ。
人間は複雑で、到底私には理解できなかった。

男は時折寂しげに笑った。
私の先に、思い人を重ねているのだろう。
男は時折独りで泣いていた。
人の死が忘れられないのだろう。
私にはどうすることもできなかった。
なんとかして男を癒す術を考えたが、
いつわりの心しか持たない私にはどうすることもできなかった。
ある日、男はコロッケが好きだと言った。
五感の無い私には味など分からなかったが、
きっとそれは温かく美味なのだろう。
私はかつての記憶をたどりコロッケを作ってみた。
普段ランプの精としての力に頼り、料理などしたことのない私にそれが上手くできるはずもなかった。
コロッケとは似ても似つかない焦げたじゃがいもを食べ、
男は苦笑した。
結局その後、総菜屋にコロッケを買いに行き、
帰り道二人でそれを頬張った。
コロッケはとても美味しいそうだ。
しょせん偽りの心しかない私にはコロッケの美味しさなど分からなかったが、
男の満足そうな顔が嬉しいと感じた。
帰宅した後、テーブルに残った焦げたじゃがいもに、
男は笑いながら私の作ったソレを馬鹿にした。
私は不快に感じ口を尖らせ文句の一つでも言おうとした、
だが、私の抗議の声が上がる前に、
男は静かにありがとうと言った。
男は意外にも幸せそうな笑みを浮かべていた。

このような生活が何ヶ月か続いたある日。
私は男の怒りをかった。
感情を知らない愚かな私の行為がきっかけだった。
男が私に思い人の面影を追っている事を知っていた私は、
哀れな男の、その悲しい記憶を辿り、人間の思い人を模倣したのだ。
姿、形、声。
外見を完全にその思い人の姿に模倣した。
男はこれを喜ぶと思ったのだ。
私に思い人の面影を載せるぐらいならば、私は私を捨てその思い人のコピーになればいい、
そう考えたのだ。
「おかえりなさい!」
男の思い人は、いつもこう言って男を出迎えた。
だから私はそれを模倣した。
男は驚愕の眼差しを私に向け、
しばし呆然としてていたが、すぐに私だと理解したのだろう。
男は、思い人そのものの姿になった私の頬を、何も言わずに叩いた。
「なんで?なんでぶつんだよ!兄さん」
口から言葉が勝手にこぼれ出る。
男の思い人を模倣した心が勝手に喋るのだ。
「ねえ、兄さん!今日はご機嫌斜めなのか?
なあ、なんか言えよ」
男と、男の思い人の関係は兄弟の粋を超えていた。
そう理解したのは男の記憶を辿った時だ。
私は記憶に従い、いつものように男の唇に接吻しようと抱きつく。
刹那、男は再度私の頬を強く叩いた。
「お前は!
お前は…!人の心を何も理解していない。
命令だ。その馬鹿な変装を解いて元の姿に戻れ」
男の命令に、私は従った。
黄褐色の肌は褐色に戻り、日本人の持つ美しい黒髪が元の緑へと戻る。
「なぜこんな、こんな馬鹿な茶番をした?」
男は怒りに震える瞳で私を睨み、問う。
「あなたが喜ぶと思ったのだ」
私は命を持たぬランプの精だ。男の質問に逆らうことはできない。
「こんな人の心を弄ぶような事をしてなぜ喜ぶと思った!
アイツはもう帰ってこないんだ、それなのに、お前は…!」
唇を噛みしめ、男は泣いた。
眼を押さえ、嗚咽を上げる男に私は言った。
「人間よ、すまなかった。
その胸の痛みを消しさろう、さあ願え。
いまこの時間を忘れ忘却してしまえばいい。
いっそその思い人の記憶も忘却してしまえばいい。
そう願えば、あなたの悲しみも無くなるだろう」
「…っ!」
今度こそ本気で、男は私を殴りつけた。
その衝撃に私の体は地面に強く叩きつけられる。
だが痛覚を、五感を持たない私にはそれは何の衝撃も与えない。
何がいけなかったのか、偽りの心しか持たない私には分からなかった。
男が激しく激怒しているのは理解できる。
だが、その先に映る怒りの意味を、
まがい物の私の心では知る術がなかった。
「すまなかった、人間よ。
私の未熟な自我では人間の感情を理解できないのだ。
また同じ事を繰り返さないように、さあ願え。
私の自我を消しさるように願えばいい。
そうすれば、
あなたを悲しませる愚かな言葉を二度と口にしなくなる」
再度男は私を叩こうとした、
だがその手は私の頬を悔しげに撫でるだけだった。
私には理解できなかった。
「もういい…、ランプに戻れ」
男の命令に私は従うしかなかった。
何がいけなかったのか。
何がこれほどまでに男の怒りをかったのか。
なぜ人間は涙を流すのか。
しょせん偽りの心しかない私には理解できなかった。
男はその日一日、私を呼び出すことはなかった。
久しぶりのランプの中は暗く、寂しい世界だった。

次の晩、私は夜中に呼び出された。
男はひどく酔ったようで、あたりには無数のアルコールが散乱している。
私は知っていた。
今日は男の思い人が逝った日なのだ、と。
その悲しみに耐えられず、人間は酒に救いを求めたのだろう。
「人間よ、何か用か?」
私の姿を確認した男は酔った眼で私を見つめていた。
その眼は少し虚ろで、だいぶ泥酔に近い状態だった。
酔った男は無表情のまま、答えを待つ私の顔を掴むと、
その股間へと乱暴に押し付けた。
「…っ」
「命令だ、舐めろ」
命令に逆らうことはできなかった。
男の命令に従い、私は男の陰茎を舐め始めた。
泥酔に近い男のソコはなかなか熱を帯びなかったが、
命令に従い私はしゃぶり続けた。
次第に茎に心が通り、私の口の中で大きく暴れ始める。
男は荒い息をたてて私の顔を揺さぶった。
「これからお前をレイプする、服を脱いで這いつくばれ」
命令に従い、私は四つん這いになる。
男が私を犯し始めた。
人間と同じ構造をしている私の体を、男は乱暴に抽挿を続ける。
「なぜ叫ばない?」
「私には痛覚がないからだ」
「では命令だ、お前に痛覚を与える」
私は男の言葉に従い、自らの体に痛覚を与えた。
「………っ!」
生まれて初めて感じる激しい痛みに、私は苦悶の表情を浮かべた。
後ろを男の雄に大きく穿たれる痛みは、
初めて痛覚を体感する私には辛すぎた。
痛い。
辛い。
これが痛みなのだと初めて知った。
必死に痛みに耐える私に男は問う。
「なぜ泣かない?」
「私には…、涙が無いからだ…」
「では命令だ、お前に涙を与える」
私は男の言葉に従い、自らの体に涙腺を与えた。
「ぁ……、……ぅぅ」
初めて感じる熱に、これが涙なのだと悟る。
痛みに従い涙がどんどん溢れ出た。
涙が溜まると、頭が割れるほどに痛かった。
男に乱暴に揺すられ、犯され、辱められる。
これが私の初めて体感した感覚だ。
「声を堪えずもっと叫べ」
「あぁぁぁぁ…ー!っく、ぐぅぅ…ん!」
男の命令に従い、私は声を堪えるのを止めた。
すると自然に口から悲鳴が零れ、
さらに私の頭をきつく締め付ける。
「俺に犯されてどんな気分だ?」
「頭が、痛い」
男の問いに私は答えた。
人間の感覚は私には強すぎた。
あまりにも感覚が鋭すぎて、頭が割れそうに痛いのだ。
人間の五感は鋭く、私は恐怖した。
男は私を犯しながら笑った。
その荒い息からは濃いアルコールの匂いが漂う。
痛覚を与えられた時に、同時に嗅覚も得たのだろうか、
今はこのアルコールの匂いがきつく苦しく感じる。
「お前をレイプする俺をどう思う?」
「怖い…、恐ろしい」
正直に語る私の言葉に、男は苦悶の表情を浮かべながらいった。
「はは、ランプの精のお前が怖いだと?
笑わせるな!人間の感情を理解もできない人形のくせに!」
さらに乱暴に腰を叩きつけられ、私は悲鳴と涙を上げ続ける。
しばらく犯され、意識が遠のいてきた私に男はまた問う。
「どうだ人間の痛みを少しは理解できたか?
アイツが出迎えたと思った一瞬、俺がどれほど辛かったか。
お前の滑稽な茶番でどれほど俺が傷ついたか、少しは分ったか?」
男の問いに私は答えた。
「いいえ…、しょせん偽りの心にすぎない私には理解できない。
理解したくとも、できないのだ」
「なら、そんな心は無いのと同じだ!
そんな自我!お前にはいらない!失くしてしまえ!」
命令に従い、私は自我を消した。
感覚だけを残し自我を失くした私は、
男のレイプにただ悲鳴を上げつづける人形となった。

冷たい床だった。
自我を失った私は男の行為からやっと解放され、
犯されたそのまま体で床に沈んでいた。
自我が失った私は自分の意志で考える能力が無くなったのだ。
泥酔した男が私から離れ、一人温かいベットで眠る中。
冷えた床で、私は独りだ。
命令がなければ動けないのだ。
どれほどの時がたったかは分からない。
男に与えられた感覚だけが思考を支配した。
何もかもが冷たいのだ。
せっかく与えられた涙も、自我がなければ機能しなかった。
そして再び、男の命令で目覚めた時、
私の目の前では顔面を蒼白とさせた男が私を見つめていた。

男は何があったのか覚えていないようだった。
泥酔していた中の出来事なので仕方がない。
男は私に問う。
「どうしたんだ!こんな酷い格好で!」
男の問いに自我のない私が答えた。
「昨夜私はあなたの命令に従いあなたに犯されたのだ」
男が眼を泳がせ、悲痛な表情を浮かべた。
「なに!……、っ。
すまなかった、昨日は…、よく、覚えていないんだ。
どうして、俺は…!」
男は動揺していた。
どうして、とうわ言のように繰り返す男に、
私は昨夜の映像を男の記憶に与えた。
男は昨夜の光景を客観的にみる形となる。
男は目を見開き、血の気が引いていた。
「もういい!もう分かったから、これ以上見せないでくれ!」
乾いた唇で、男は叫んだ。
私は命令に従い男に記憶を送ることを止めた。
「俺はなんてことを…、くそ!」
悔やむ男を、自我のない私はただ見るだけだった。
その哀れな姿を慰めたい、と。そうかつては思ったのだろうが、
今の私にそれを考える力はなかった。
ただ命令に従う人形に戻ったのだ。
「…その、怒っているだろう?」
「いいえ」
私を窺うように訊ねるその問に、
私は答えた。
義務的に返した私の言葉に、男は黙った。
しばらく沈黙が続いた。
おそらく私が何か続きをしゃべると思っているのだろう。
たしかにかつての私なら文句の一つでも言ったかもしれない、
だが今の私には自我がないのだ。
「レイプされたんだろう?なぜ怒らない…、
卑怯なやり方でお前を傷つけた俺を怒鳴ってもいいんだ。
何か言ってくれ!」
「あなたは私の主人です、怒ろうはずがありません」
私の中の違和感に、男は気がついたようだった。
「なぜ、そんな義務的な口調なんだ?」
「私がランプの精だからです」
「そうじゃない!なぜそんなに冷たい声をしているんだ!
前も淡々と話してはいたが、たしかにその中に心があったはずだ、
今のお前はまるで人形だ!」
「それは昨夜あなたが私の自我を消すように命令したからです。
私はあなたの命令に従い自我を殺した」
「…!」
男が息を飲んだ。
そしてしばらく、戸惑い、私を揺さぶった。
「許してくれ…、俺は…!」
「許すも何もありません。私には感情などないのです。
あなたの命令に従いそれをかなえ続ける人形なのだから」
「頼む、自我を…、心を取り戻してくれ!
俺はこんなことを望んではいない!」
男の悲鳴にも近い懇願に、
自我のない私はしばし答えを迷った。
沈黙が再びこの場を支配する。
男はまた涙していた。
人間の感情は複雑で、混沌としている。
心のない私には到底理解できなかった。
私に激怒し、私を犯し、私の自我を殺したのはたしかに男の意思だった、
だがいま今朝になってみれば、
男は消沈し、後悔し、涙ながらに私の自我を蘇らせようとしている。
私には、人間の心が分からなかった。
「それが命令ならば、
私は自我を取り戻します。
私は命令に逆らうことなどできないのだから。
けれど人形の私の心など、しょせん人間の心の模倣にすぎません。
自我を取り戻した私は、
複雑な人間の心を理解できずに、きっとまたあなたの怒りを買うでしょう。
しょせん偽りの感情、偽りの心にしか過ぎないのです。
あなたは昨夜ひどく私に怒りを覚えていた、
私の自我判断し、行った愚行があなたは許せなかったのでしょう。
また再び自我を取り戻したとしても、同じことを繰り返すだけです」
人形のはずの私の口から出た意見に、
男は喰いかかった。
「それでもいい!お願いだから心を取り戻してくれ…、
俺はお前が憎かったわけではないんだ。
お前が…」
男が自我のない私を強く抱き締めた。
自我のない私は、その腕の強さの意味を理解できなかった。
「…そうだ、お前が人間になればいいんだ」
強く抱きしめられた体に、さらに強く力がこもる。
「お前の心がいつわりの心と言うのなら、
いっそお前が人間になってしまえばいいんだ。
人間のような心を取り戻すのではなく、
いっそ本当の人間になってくれ…」
「それは私は賛同できません。
たしかにあなたが私に願えば、私はその願いを叶え、
私は人間になることができる、人の心を持つことができる。
けれど、人間はしょせん人間だ。
私はランプの精としての力を失い、もう二度とあなたの願いを叶えることができなくなる」
「それでいい…、それでもいいから。
お願いだから俺を見てくれ、
俺を捨てていかないでくれ!」
男の願いを叶え、私は人間になった。
失った心が、今未熟な心として蘇ったのだ。

自我が覚醒した瞬間、私は恐怖で震えた。
昨夜初めて覚えた五感が、
私を抱く男を恐怖の対象として認識したのだ。
ガクガクと震える体は所々痛み、
泣き喚いたせいで頭は割れるほどに痛かった。
こんな事は初めてだった。
「ぁ……」
男が抱き寄せるその体温が、
昨夜の痛みを呼び、恐怖を煽る。
自我の戻った私を、男が濡れた目で見つめている。
何かがおかしかった。
全身に血の滾りを感じるのだ。
それだけではない、
男に抱かれるその心臓は早鐘のように鳴り響いている。
心臓?
いやランプの精と私にそんなものはないはずだ。
身体が、心がおかしかった。
「良かった、ちゃんと心が戻ったんだな」
男は泣きながら喜んでいた。
だが私は自分の中を駆け巡る変化に、動揺するばかりだった。
恐怖で、体が竦んだ。
「!」
私の頬を撫でるその熱い体温に驚き、私はその手を振り払った。
「許してくれ、昨日は俺が悪かった…、
もうあんな酷い抱き方はしない…だからどうか許してくれ」
「は、放せ!私に触るな!」
昨夜の恐怖が再び私を襲う。
男の大きさが、体温が、息遣いが、すべてが怖かった。
私は男に逆らい、その熱い抱擁から逃れる。
男がハッと私を窺い、瞳を揺らす。
変だ、おかしい。
どうしたのだ。
身体が熱い。
心が急く。
吐き気がする。
こんな感情は知らない。
こんな、
こんな醜い感情など知らない。
これはなんだ。
男を見ると心が騒ぐ。
恐怖。
畏怖。
憐憫。
そして何よりも心が熱くなった。
「私は…、私はどうしたというのだ」
分からなかった。
まるで世界が変わってしまったようだった。
それほどまでに、いままでの何もかもが違ったのだ。
自分に何があったのか力を使い記憶を辿ろうとするが、
何一つ記憶を辿れなかった。
それでけではない。
疲れを知らないはずだった私の体は、
いま憔悴しきっている。
恐怖で唇が乾き、吐く息は荒い。
全身には濡れた感触が張り付く。
汗だ。
汗なんて、命の無い私にあるはずなかった。
おかしい、
すべてが変わってしまった。
「私は…、いったい…」
「お前は人間になったんだ」
頭を抱える私に、人間は静かに言った。
「にんげんになった、だと?」
「そうだ、お前は俺の最後の願いに応え、お前自身を人間へと生まれ変わらせた」
嘘だ。
嘘だ。
私が人間になど、なるはずがない。
私はランプの精なのだ。
死ぬことを知らず、心もない、ただ主人に仕えるだけの人形のはずだ。
人間になんてなれるはずがない!
「そんなのウソだ」
「嘘じゃない、俺が願ったんだ。
お前に心を、人間として一緒に生きてほしいとそう願ったんだ。
だからこれからは、俺と人間として、一緒に…っ!」
「止めろ!私は人間なんかじゃない!」
縋る男を振り払い、私は逃げ出した。
重い戸を開き、日の暮れたマンションを駆け出す。
宛てもなく走り続け、全身を冷や汗が纏う。
息を乱し、辺りを窺う。
ここは知らない場所だった。
外気は冷たく、寂しかった。
男から逃げ出してしまった、とそう自覚し、
私は確信した。
主人の願いに逆らうことができた、
それこそが私が人間になった確かな証拠なのだ、と。
信じられなかった。
怖かった。
想像したことすらなかった。
私があんな複雑な心を持つ人間に、
なってしまうなんて。
私は錯乱した。
人間に、
この私が人間に。
そんなのウソだ、
嘘だ!


続く
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