【ランプの重さ2】 |
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私は駈けた。 あてもなく駆け続けた。 全身を巡る熱、初めて感じる焦燥感。 私は人間の感情に支配されていた。 走りつづけながら、 私はかつての主人達の死を思い出していた。 初めの主人は長寿を願ったが、最後にはあっけなく死んでしまった。 私は泣かなかった。 生ある存在がどんなに延命を願ったとしても、 それは儚い願いにしか過ぎないのを知っていたからだ。 次の主人は富を願ったが、最後にはあっけなく死んでしまった。 私は泣かなかった。 欲にまみれた人間に殺されたその主人は、強欲過ぎたのだ。 その次の主人は平和を願ったが、最後にはあっけなく死んでしまった。 所詮平和などその個人間の幻に過ぎなかったのだ。 私は泣かなかった。 何度も何度も主人の死を迎えたが、私は一度も泣くことがなかった。 そして初めて主人の死を哀しいと感じたあの日でさえ、 私は泣くことは無かった。 だが、今は違う。 醜い人間になってしまった私には複雑すぎる感情があった。 何度も何度も死を対面し、別れを告げられた人生が、 今になって私を責めるのだ。 主人が死ぬ時に、私は冷やかに死を見つめるだけだった。 私に別れを告げる主人に、主人への義務として答えただけだった。 私はなんて冷たい魂だったのだろう。 主人たちは皆、私を大事にしてくれたいたのに。 私はその主人たちに何一つ別れの言葉を残さなかった。 心があったように思っていた、 だがあんな冷たい感情は心とは言えなかった。 人となったせいで気が付いてしまった。 涙は次々に零れた。 なんて私は冷たい人形だったのだろう。 あんなにも哀しい別れを、 あんなにも辛い別れを、 何度も何度も体現していたというのに、 私はいままで何故泣かなかったのだろう。 死を思い出せば思い出すほどに、 私の心は悲鳴を上げた。 男もいた、女もいた、 主人はみんなみんな死んでしまった。 なのに私は涙を流せなかった。 それが許せなかった。 信じられなかった。 「…っ」 全ての悲しみが同時に私を襲い、 その醜さに私は嘔吐した。 気持ち悪かった。 一度感じてしまった不快な感情は、止まることは無かった。 場末の路上に倒れこみ、 私は何度も吐いた。 「……ぁ、…」 人間の心は繊細過ぎた。 微弱な心しか持っていなかった私に、 人間の感情は耐えられなかった。 感情が、制御できなかった。 気持ち悪い。 気持ち悪いのだ。 あの男はなぜ私を、 こんなに醜い人間にしたのだろうか。 私には分からなかった。 あの男を思うと、胸が痛む。 熱くなる。 苦しくなる。 切なくなる。 こんな感情は知らなかった。 目蓋を閉じると、 目の前にはあの男の寂しげな笑みばかりが浮かんだ。 あの男は一体私に何を願っていたのだろう。 何を願って、私をこんなに汚い人間にしたのだろう。 分からなかった。 雨が地面を強く叩きつけ、私から零れ出る音を掻き消す。 私の嗚咽は止まらなかった。 一度泣いてしまった私には、この涙を止める術を知らないのだ。 こんなに深い悲しみを、複雑な感情を、 いったいどうやって止めればいいというのだ。 何を考えなくても、 考えようとしなくても、 あらゆる感情が今も私を責め立て続ける。 怖かった。 恐ろしかった。 人間になってしまった私は、どうしたらいいのだろう。 いままではただ主人に仕え、 主人を思い、 主人のためだけに生きればよかったのに。 私には人間として生きる方法が分からなかった。 次第に、 感情が静まり、私は立ち上がった。 ここでこうしていても仕方なかった。 それぐらいの事はわかっていた。 だが、嘆く意外に何ができるというのだろう。 ランプの精としての力を失った私に、何ができるというのだろう。 私には何も無いのだ。 富も名声も力も長寿も家族も、 何もかもが無いのだ。 私は、この世界で独りなのだ。 雨の中立ち尽くす私はすでに冷え切っていた。 心も体も、もはや人間になってしまったのだ。 立ち尽くすことしかできなかった。 「…」 呆然とする私を呼ぶか細い声がした。 あの男だった。 私を人間にしたあの男だった。 男を見た途端、また涙が零れた。 感情が昂ぶった。 熱かった。 恐ろしかった。 許せなかった。 だがそれより何よりも、 会いたかったのだ。 昨夜の乱暴を責め立てたかった。 勝手に人間にしてしまったこの男を罵倒したかった。 そして、 なぜだか分からないがその胸の中で嘆きたかった。 私は男に近づき、その頬を叩いた。 『…―――!』 手加減などしなかった。 雨はその音を掻き消せなかった。 肌を打つ鈍い音があたりにこだまし、 主人を叩いた事実をよりいっそう実感できる。 掌は人を叩いた反動で、痛かった。 痛い、と強く感じたのだ。 私は、 人間になってしまったのだ…。 「なぜ私を人間にした、なぜ」 私は責めるように訊ねた。 「………寂しかったんだ」 男は小さく応えを返した。 「ならどうして!私に願わなかった! 寂しいのならば、その寂しさを消してくれと、どうして願わなかった! 私を人間にしたところで、その寂しさが、空しさが消えるわけではないのに!」 黙る男に私は続けた。 言いたい事は山ほどあった。 「私は人間になどなりたくなかった! こんな複雑な感情など欲しくはなかった! こんな、こんな醜い感情などいらない! 知りたくなかった!」 感情が次々に生まれる。 醜い感情だった。 これが人間になってしまった証なのだ。 「私はこれからどうしたらいい! 私は、人として生きる術を知らないのだ! そう私は知らないのだ、 あなたに、 お前に、縋ることでしか人として生きる術を知らないのに!」 責めつづける私に、 男は何も言わなかった。 黙って私を抱き寄せると、強く抱擁した。 温かかった。 私は、何も言えなくなった。 男を見つめ、 さらにその温かい腕の中へと包まれる。 男に抱きよせられると、安堵した。 不思議と心が安らいだ。 私は泣いた。 だが何故泣いているのか分からない。 人間の感情は複雑すぎて、 未熟な心しかもたない私には分からなかったのだ。 冷たい雨が降り注ぐ中、 私は一頻り泣き続けた。 男は黙って私を抱き続けた。 人間とは不便な生き物だった。 長い間雨に打たれていたせいか、 私は熱を出したのだ。 男は風邪薬を買いにいき、留守だった。 私は男の帰りを待ちわびた。 錠剤の薬を、私は巧く飲み下せなかったのだ。 男が買ってきた液状の薬は苦かった。 「…、不味い」 私の呟きに男は苦笑した。 そしてその時、私はあることに気がついた。 私にも味覚が生まれたのだ、と。 「コロッケだ。コロッケが食べたい」 男はキョトンとしていた。 私の突然な発言に驚いているようだ。 「あれは消化に悪いから、直ったらだな」 「嫌だ、私はいま食べたいのだ」 ダダをこねる私に、男はまた買い物に出かけた。 私は男の帰りをまだかまだかと待ちわびる。 早く食べてみたかった。 あれほどにおいしいといっていたのだ、 それがどんな味なのかいますぐに体感したかった。 男は直ぐに帰ってきた。 安っぽい袋に包まれたソレの匂いが、部屋一面に広がる。 「一個だけだぞ」 男は咎めるように言ったが、やはり苦笑していた。 私は男の手渡すコロッケを口一杯に頬張った。 それは温かく、口の中を巡り、 美味しかったが熱かった。 「…ぁつ」 「おい、馬鹿!一気に食べるからだ」 男が心配そうに私を覗き、私の火傷した舌を診る。 男の真剣な表情が、私には嬉しかった。 怪我をし、誰かに診てもらう事など初めてだったからだ。 不意に笑った私に、 男はまたキョトンとした表情をしていた。 何故かと訊ねると、 男は笑って誤魔化した。 「今になって思うのだ」 ある日私は男に言った、 男に聞いてほしかったのだ。 「今になって、死に逝くあの人になんて言えばよかったのだろうか。 そう思うのだ」 黙って聞き入る男に、私は続けた。 「あの人は私に初めて名前をつけてくれた主人だった。 煙草が好きな主人だった。 私は毎日主人のために世界各地の煙草を用意した。 あの人は私の用意する煙草を毎日毎日喜んだ。 あの人は不器用で煙草に火をつけるのはいつも私の役目だった」 あの人を思い出し、私は眼を閉じた。 今でもあの人の笑顔が蘇る。 「年老いたあの人は死に行く間際に、私に愛しているといった。 不器用だからいままで言えなかったのだ、とそう言っていた。 きっとあの人は私に何か答えてほしかったのだろうが、 私は何もいえなかった。 命令がなければ動けなかったからだ。 何も言わない私に、 お前らしいな、とあの人はそう言い残し天に昇った。 私は泣かなかった」 「………」 「私はあの時何と言えばよかったのだろう。 嘘でも愛しているといえば良かったのか。 それとも感謝を述べれば良かったのか。 私には分からない、 人となった今でも分からないのだ。 もしあの時私が、 今のように人間だったなら何と言ったのだろう。 そう思うと胸が裂けるほどに痛いのだ。 いっそあの人のことを忘れてしまいたいほどに、 痛いのだ、切ないのだ」 あの人の事を思うと、今でも涙が零れた。 なぜ私はあの時に泣けなかったのだろう。 なぜ一言だけでも別れの言葉を残さなかったのだろう。 後悔で涙は止まらなかった。 「なら、今その人を思っておもいきり泣けばいい。 人の死はそう簡単に忘れられるものじゃない。 それに、忘れてしまったらますます哀しくなるだけだ」 男は遠くを見つめ、私を慰めた。 泣き続ける私を、 男は黙って抱き寄せた。 私は男の腕の中で泣き続けた。 私は次の日も男に問いかけた。 かつて死んだ主人の話だ。 私はまた泣いた。 泣くたびに少しづつ心が軽くなる気がするのだ。 私は毎日男に問いかけた。 その度に私は泣き、 男は私を慰めた。 男は誰よりも優しかった。 そんなある日、いつもとは違い男が私に問いかけた。 意外なことだった。 男はあまり自身を話したがらない男だったからだ。 男はやはり悲しげな顔をしながら語り始めた。 寂しげな瞳だった。 男が語ったのは死んだ弟の事だった。 あの思い人の事だろう。 男は静かに煙草をふかし語った。 哀しい話だった。 以前男の記憶を辿った時に知っていたが、 私は男の話を涙ながらに聞き入った。 弟は男のために死んだのだ。 男は泣いていた。 私も泣いていた。 全てを語り尽くしたのか、 男は寂しげに天を仰いだ。 いつまでも忘れらないのだろう。 空は雨雲で、光を一条も通しはしない。 しばらく夢想し、 男は私を抱き寄せた。 だが、男は私を見てはいなかった。 男は私ではなく、私の中の弟の面影をみているに過ぎなかった。 私は嫉妬していた。 人間になってしまったからだ。 醜い嫉妬に気が付き、私は自らを恥じた。 私の嫉妬がますます増える事件が起こった。 人間が犬を拾ってきたのだ。 薄汚れた茶色の瞳の大きな犬だった。 最近は捨て犬など珍しいと、苦笑しながらいう男に私は喜びながら声を掛けた。 「おー、なんと美味そうな犬だな!どうやって食べるのだ?焼くか煮るか?」 「……、これは食べ物じゃない。愛玩動物だ、食ってもうまくない」 男の言葉に私は怪訝な顔をした。 「アジアの人間は犬を食べると聞いたのだが、日本は違うのだな。 しかし食べるのではないとしたら、こんなモノどうするのだ?」 「………、飼うんだよ、ここで」 つまりこの犬をこの家で飼うということなのか。 私は反対だった。 こんな犬ッコロに生活の邪魔をされたくなかったのだ。 「私は嫌だぞ、犬なんて。食べるのではないなら捨ててこい」 「わがまま言うなよ、可哀想だろ? それに俺はもう決めたんだからな、あきらめろ」 男は笑顔で犬を洗った。 私は気に入らなかった。 私の嫉妬は日を追うごとに募っていった。 以前までは私の定位置だった男の隣に、あの犬ッコロが我が物顔で座っているからだ。 男は犬を大切そうに可愛がり、毎日笑顔を振り撒いていた。 私は気に入らない。 「人間よ、犬など捨ててしまえ。 犬の声はきつくて敵わない、近所迷惑だ。それにここはマンションだろう。 ペットは禁止のはずだ!」 走り回りキャンキャン吠える犬を退け、私は男に張り付いた。 犬に負けたくなかったのだ。 「このマンションはペットも可だ、管理人にも許可を取った、 近所にも許可をもらった、問題ないだろ」 正論で切り崩せなかった私は、情に訴えかけることにした。 「私と犬と、どっちが大事なのだ?」 「はぁ?お前なに犬に妬いてるんだよ、みっともないぞ」 あからさまに呆れた声を上げる男に、私はヘソを曲げた。 嫉妬しても仕方ないではないか。 私は人間なのだ。 居場所を取られたら、嫉妬ぐらいする。 「そんなに犬が大事ならば、犬とだけ暮らせばいい!私は出て行くからな!」 「そーか、勝手に出て行けばいい」 男は冷たく言い放った。 それが冗談と気付かなかった私は、ショックを受けた。 目頭が熱くなった。 捨てられると思った。 「……んだよ、お前が私を勝手に人間に変えたくせに」 涙は堪えられなかった。 「お、おい!何泣いてるんだ?」 「お前が私を捨てるからだ!」 私は男から離れ、玄関へと走った。 犬は私達のやりとりから逃げるように姿を隠していた。 なんて狡賢い生き物なのだ。 「待てって!お前、まさか本気で犬に嫉妬してるのか?」 「そうだ、悪いか!」 出て行こうとする私を、男は必死に押えつけた。 だがその顔はあからさまに嬉しそうに笑っていた。 私が泣いているのに、 どうしてこの男は笑ってなどいられるのだろう。 「悪かった、悪かった。っくく、そうかそうかまさか本気で犬に嫉妬してたとはな」 ついに堪えきれなくなったのか、男は大声を出して笑い出した。 こんな大声で笑う男をいままで私は見たことがなかった。 私はいままでの嫉妬やショックより、 大声で笑いつづける男に唖然としてしまった。 しばらくして、馬鹿にされたと思った私は大声で怒鳴った。 「笑うな!」 「あー、すまんすまん。なぁ、そんなに嫉妬するぐらいなら俺とセックスでもするか?」 「ば、馬鹿者!何をくだらない事を言ってるんだ」 セックス。 そんな事いままで考えても見なかった。 そうか、私は人間になったのだから男とそういう関係にもなりえるということなのだ。 一度意識してしまうと胸が高鳴った。 男とはランプの精だった時に一度だけまぐわった事はあった、 だがあれはセックスと呼べるものではなかったが、 それでもあの時肌に感じた男の吐息を今でも覚えている。 男に抱かれる自身を思い出してしまい、私の全身は真っ赤に染まった。 「冗談だよ、冗談。お前本当反応が面白いな」 「なんだ冗談なのか」 なんだ、本気にしてしまった自分が馬鹿みたいではないか。 男にはいつも振り回されてばかりだ。 私は人間に成り立てだから、冗談や会話のやり取りが新鮮なのだ。 新鮮すぎて、どこまでが本気でどこまでがアヤなのか分からない。 「ん?それとも俺としてみたいのか?」 男は私を背後から抱き寄せからかった。 その手が悪戯に服の中へと伸び、淫猥に私の肌をくすぐった。 「…ぁ……」 男の固い指が私の胸をまさぐり、乳首の先を掠めるように引っ掻いた。 強い力で、片方の手で抱きしめながら、 男は私の反応を愉しんでいた。 「や………、っく……!」 男の指が私の熱をまさぐり、私は触れられただけで絶えられず達してしまった。 自分の荒い呼吸に、恥ずかしくなった。 男は意外にも困ったような顔をしていた。 「どうしたもんか、続きがしたくなったんだが。どうする?」 「私に、聞くな!」 「じゃあ、続けるけどいいのか?」 「だから、私に聞くなと……っく、……ん」 私の言葉を遮り、男が私にキスをした。 熱いやわらかな舌が私の舌を包み、揉みしだき始める。 男の唾液が私の中に侵入し、私は息の乱れに耐えながら男のキスを受けつづける。 そのまま床に押し倒されて、服を脱がされたが、 男は動きを止めた。 「寝室で続きだ、ここは床が固くてよくないからな」 急に羞恥が込み上げてきたのか、男は意外にも緊張しているようだった。 真っ赤に染まったその顔に、 私はおもわず笑った。 男の肌は気持ちが良かった。 肌と肌の触れるその感触は独特で、心地よい。 情事の終わった後、私は男の横で抱かれていた。 すると終わった気配を察したのか、 あの犬ッコロが堂々と私と男の真中に入り込んできた。 肌にささる犬の柔らかい毛の感触がくすぐったい。 私は犬ッコロに言った。 「どうだ犬ッコロ。お前ではこうやってコイツを喜ばせることはできなかろう」 私の勝ち誇ったような顔に、男は呆れていた。 犬も呆れたような顔をしていたが、眠いのか、 私の胸の上に顎を乗せクゥクゥーと寝てしまった。 「…お前、本当に犬に嫉妬してたんだな」 男の呟きに、私はうるさいと返した。 犬の重さが気になり、私は犬をどけようとするが、 犬はガンとして私の上から退こうとしなかった。 私は犬を退かす事を諦め、 せめてそのやわらかな毛をクッション代わりに使うことにした。 犬の毛は温かく、情事の疲れと併せて私はグッスリと寝てしまった。 男はそんな私を静かに眺めていた。 いつものように私が犬と場所の取り合いをし、 男の帰宅を待った。 犬は私が居る場所にわざわざやってきて、その場所、 つまり私の上に乗り、私の場所を取ろうとするのだ。 男が拾ってきた当初はまだ小さかった犬だが、 今はもはや子犬と呼べないほどに大きくなっていた。 その大きくなった犬に乗られると重いのだ。 どかしてどかしても上に乗ってくる犬に、私は困り果てた。 ここは人間としてのプライドで犬と本気の喧嘩はするまいと、 私が譲歩し場所を譲り、別の場所に座りなおすのだが。 犬は私の後を追いかけ、また私の場所を奪おうと、 私の上に嬉しそうに乗りかかるのだ。 そしてまた私が場所を移ると、犬はいつまでも追いかけてきた。 私は犬をどかすのに疲れ、 そのまま犬を乗せることにした。 犬は私の場所をのっとる事に成功して満足なのか、 なんともうれしそうにクゥクゥと小さな寝息を立て寝てしまった。 犬はどうやら私のいる場所を取るのが好きらしかった。 生意気な犬だったが、 その寝顔を見るとなんだか不思議な気持ちになった。 犬は生意気だが、柔らかで温かかった。 犬と共に男の帰りを待ったが、 男はなかなか帰ってこなかった。 なぜだかむな騒ぎがした。 電話が鳴り響き。 私は愕然とする。 病院からだった。 焦る私に犬は異常を察したらしく、小さく吠えた。 病院のベットに寝ていた男は、 私を見るとすまないと謝った。 男は病にかかっていた。 私がこの男に出会う以前から、 ずっとずっと前から分かっていたことらしい。 男はあと少ししか生きられないそうだ。 何故私がランプの精だった時に、病を治すように願わなかったのか。 私は男を責めた、 男は何も言わなかった。 男は訳を隠しているつもりなのだろう、 だが私は気付いていた。 男は弟に会いたかったのだ。 弟を蘇らせることができなかった、その時から決めていたのだろう。 その身の病に負けたとき、弟に会いに行く、と。 ならば何故、 はじめからそのつもりならば、 私を人間になどしてほしくなかった。 私を抱いてなど欲しくなかった。 だが人間になった私は気付いていた。 男はかつていったように寂しかっただけなのだ。 そんな事ははじめから、 分かっていた。 だがそんな男をこれ以上責めることができないのは、 私が人間になり、 複雑な感情を知っていったからだ。 馬鹿野郎、と私は言いながら泣いた。 男は言い訳をしなかった。 しばらく病院での生活が続き、 余生は男の部屋で過ごした。 最後は自宅で逝きたいと男は言ったのだ。 弟と暮らした、そして私と暮らしたその部屋で。 私は男を自宅で看病した。 力強かった腕は、か細く弱り、 瞳の光は薄くなった。 犬は衰弱した男に寄り添った。 私も寄り添った。 私は知っていた。 何度も何度もこの場面を体現していた。 これが人の死なのだ。 死に行く男に、私はなんと言葉をかければいいのだろう。 人になった今なら、きっと何か気の効いた一言を残せるはずだった。 だが今の私はどうだ。 かつて何度も主人の死を迎えたその時と同じように、 私は結局何も声をかけられないではないか。 ただ一つ違ったのは、私の目からは熱い涙が零れている、それだけだ。 それだけしかできなかった。 犬はきっと男の死を感じたのだろう。 犬は賢かった。 死に逝く男の頬を舐め、切なげに何度も何度も吠えている。 私は何もできなかった。 かつて主人の死をこうして見ていたように。 ただ泣くことしか出来なかった。 よっぽどこの犬のほうが正直で、 よっぽどこの犬のほうが私より人間らしかった。 男は優しく犬を撫で、 最後に私にすまない、と謝り、 逝ってしまった。 結局、人間になった私は、 最後の別れを言えなかったのだ。 冷たくなった唇に口を寄せ、私は男の名を呼んだ。 いままで気恥ずかしく呼べなかった名だ。 男はもちろん応えることなどなかったが、 その唇は少しだけ笑っているように思えた。 火葬した男の灰を、私はランプに詰めた。 弟の遺骨と共に、詰めた。 もはや力を失ったランプだが、 私を作った神はおそらく天で二人を合わせてくれるだろう、と。 私はランプに願った。 ランプが私の願いを叶えてくれたかどうかはわからない。 男の寂しかったんだ、と言ったあの言葉を、 今の私にはよく理解できた。 犬と墓参りをするのが私の日課になっていた。 生意気な犬ももう齢を重ね、立派な成犬になった。 私も少し歳を取った。 あいかわらずこの犬は私の場所を取りたがっていた。 本当に進歩の無い犬だと、私は笑った。 犬にはここが男の墓だと分からないのだろう、 私が男の墓の前で立ち止まると、 いつも不思議な顔をし、私の寂しげな表情を眺めていた。 おそらく男は私が寂しくならないようにと、 男はこの生意気な犬を拾ってきたのだろうが、 やはり寂しさは拭えなかった。 いつまでも立ち尽くす私に、犬は散歩の続きを促すように走った。 犬はまだまだ元気なようで、 歩みの遅い私は犬の走りについて行くのがやっとだった。 犬は惣菜屋の前で立ち止まり、犬に促され私は渋々コロッケを買う。 「一個だけだぞ」 そう言いながら犬に買ったばかりのコロッケを手渡し、 私は苦笑した。 苦笑した私に、犬は嬉しそうに吠えた。 終 |
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