【魔王】

私は魔王様の命令でこの樹を守り続けてきた。
美しい樹なのだ、思い出の樹なのだ、とその憂いを帯びた目を細め、
魔王様は私にこの地を託して城に戻った。
勇者と呼ばれる悪魔が攻めてくるのだ。
私は魔王様の迎えを待ち続けている。
人間は恐ろしい。
我ら魔物を命だと思ってはいない。
魔王様はいつでも弱き我らの味方だった。
一度死んだ私の命を蘇らせてくれたのも、魔王様だった。
当時狼だった私は人間に殺されたのだ。
私の仲間もみな殺された。
狼が魔物に近しい存在だ、と大義名分をかざし、
実際には我らを獲物としたのだ。
人間は私たちを虐待し続け、結果私たちは全滅した。
母は戦士に引き裂かれ、父は魔道士に溶かされた。
オオカミの毛皮は高く売れると、
奴らの下卑た表情は悪魔そのものだった。
逃げる私を、人間は嘲笑いながら追った。
まだ毛皮として未熟だった私だけが見世物として捕えられ、
人間の街で酷く苛められた。
あの時の恐怖は魔物となった今でも私を苦しめる。
あまり思い出したくない。
満足にモノを食べれず芸を強制され、
私は死んだ。
死んだ意識の中、私は人間を強く恨んだ。
力が欲しかった。
人間どもに抵抗できるだけの力が、欲しかった。
仲間の恨みが、無念が許せなかった。
皆が無念のうちに天に昇る中、
ただ私だけが真の魔物となって生きながらえた。
私の恨みに応え、魔王様は私を人狼へと転生させてくれたのだ。
魔王様は私の全てだった。
魔物になった私だが、結局たいした力を持てなかった。
ただの人間よりはよほど力はある、
だが人間のエキスパートには遠く及ばなかった。
魔族や魔物の中でも最低レベルだろう。
力が絶対の権力をもつ魔族の世界では私など最底辺の下っ端だ。
これが現実だったが、私は満足していた。
私は力のある魔物に世話を尽くした。
武器を磨き、魔石を集め、食事を作った。
力ある彼らをサポートし、少しでも戦いがしやすくなるように、
私の弱き力では人間に復讐するにはこれしかなかったのだ。
必死に学を学び、書物を集め、私はサポートに徹した。
初めは力のない私を馬鹿にしていた同胞も、
次第に私の作る武器を魔術を兵器を認めてくれるようになった。
それからしばらくし、同胞は力の弱い私をも認めてくれるようになった。
私は嬉しかった。
誰かに認められることが、
私は嬉しかったのだ。

勇者との戦いが長引いているのか、
魔王様はなかなか私を迎えに来なかった。
あの優しい腕で撫でられたかった。
本来なら微力な私も戦いに参加したかったのだが、
私はこの土地から動けない。
魔王様の思い出の樹を、場所を守る役目があったからだ。
魔王様の命令は絶対だ。
それに、魔王様が負けるはずがない。
夜風の冷たさに眉を顰める。
最近、魔王様の結界が弱くなっている気がする。
かつては一年中この樹を花咲かせるために温度を保っていた土地に、
時折夜風が入り込むのだ。
少し寂しかった。
暖を取ろうと焚き火を始めた時だ、
不意に人間の気配を感じた。
「何者だ!」
誰何の声に、人間は反応した。
どこにでもいる青年か、いかにも弱そうな人間だった。
詩人だろうか。
その片手には年代を感じさせるギターがしっかりと握られている。
おそらく焚き火の光に釣られ、迷い込んだのだろう。
「人間よ、ここは魔物の土地だ。今立ち去れば命までは取りはしない、立ち去れ」
無駄に争うつもりはなかった。
弱い私は魔王様に戦いを禁じられていたからだ。
魔王様は弱き私をいつも心配していた。
「頼む、凍えそうなのだ。少しでいいから暖を取らせてほしいのだが」
人間は思いのほか強い口調で私に言う。
その覇気の強さに、少し戸惑う。
「断る、人間など勝手に凍え死ねば良い」
「おいおい、それはないだろう。
ここで暖を取らなければ俺は本当に死んでしまうぞ?」
人間は勝手に私の隣に座り込んだ。
冷えた手を火に当てる横暴な姿に私は警戒した。
ここは魔王様の場所なのだ。
私の隣にはいつも魔王様がいた。
魔王様は私の隣に他者を座らせないようにと私にいっていた。
魔王様は意外に嫉妬深かった。
私はその大人げない様子にいつも笑っていた。
魔王様の笑顔を思い出し、私は勇気を振り絞り爪を光らせる。
魔王様が迎えに来てくれる、
その時まで私はこの場所を守らなければならないのだ。
人間を隣に座らせるなんて許せるはずがなかった。
「…!」
私は驚愕で声が出せなかった。
喉元を切り裂こうと伸ばした腕が片手であっさり押さえつけられたのだ。
私が弱いからだけではない、この人間は意外にも強いのだ。
動揺する私を見て、人間は笑った。
「そんなにいきり立つなって。
ちょっと暖まったら帰るからよ、そう警戒するな」
私の腕の離し、男はこの場所に居座った。
私は緊張していた。
人間は苦手だった。
魔王様の力で魔物になった私だったが、
実は戦いを行ったことは一度も無かった。
それほどに私は無力だった。
人間は何をするわけでもなく、ただ本当に暖を取っていた。
しばらくして、人間はその古ぼけたギターで曲を奏でた。
静かな音色だった。
私は男を警戒し続けた。
ここは魔王様の場所なのだ、
もし何か問題が起こったら私は悲しい、魔王様も悲しむだろう。
男は結局何もしないで帰っていった。
ただその楽器で静かに音を奏でていた。
その音色はまるで鎮魂歌だ。
不思議な男だった。

次の夜も昨日の人間がやってきた。
昨日よりも冷えが酷かった。
魔王様の結界はますます弱くなっている気がする。
「貴様!こりもせずまた来たのか!」
私の威嚇も、何も意味はなさなかった。
男は今日もまた横暴だった。
「まあそういうなって、今日はイモを持ってきた。
焚き火代だ」
「そんなモノはいらない、早く立ち去れ!」
笑う人間に私は飛び掛った。
指先を硬化させ、爪全体に力を注ぐ。
私は本気だった。
魔王様との思い出の場所を守るのだ。
だが、実力の差は覆ることは無かった。
男の指先一つで、私は負けた。
「俺の勝ちだな。敗者は勝者に従え、とお前達魔族の掟だろ?」
そうだ、それは魔族の掟だ。
だがそれは魔族の中だけでの話だ、人間には適応しない。
男は警戒しつづける私に苦笑した。
「だいたい、何の用なのだ人間よ。暖を取りたいのなら自分の町ですれば良いだろうに」
私は疑問だった。
こんな寂れた、ただ一本の美しい樹があるだけの場所。
そんな所に何の用があるというのか。
私には分からなかった。
「あー…、なんだ。俺は嫌われ者だからな」
男は少しだけ気まずそうな顔を浮べたあと、苦い笑みを浮べた。
その言葉は本当だったのだろう。
男は人間の中でも異端の存在で、世間から弾かれたのだろうか。
私は思わず笑ってしまった。
「なら、仕方ないな。だが今日だけだ、明日はくるなよ」
男の持ってきたイモの焦げた味は、
少し苦かったが、
暖かかった。
男はしばらくして、また音色を奏でた。
昨日と同じ曲だ。
だが旋律が少しだけ違う。
おそらく何部にも分かれた鎮魂歌なのだろう。
その音色は哀しい響きを奏で続けた。

次の日も男はやってきた。
やはり食べ物を持参して、暖を取りたいと苦笑しながら言った。
私は魔王様の場所を守るべく戦うが、
結局私は負けてしまう。
勝負にもならなかった。
男は敗者は勝者に従えと、魔族のような事を言う。
私は悔しかったが、実力の差はどうしようもない。
それに人間は何をするわけでもなく、
ただ暖を取っているだけだ。
そしてしばらくして、また音色を奏でた。
昨日の続きだ。
曲は途切れ途切れ、泣いているかのような音を響かせる。
美しいが虚しい曲だった。
男は真剣な顔で、音を奏で続ける。
私は人間の真意が分からなかったが、
たぶん人間は本当に人の世界で居場所がないのではないかと思った。
それほどに、
この男はどこか世界を諦めたような哀愁が漂っている。
それは少しだけ魔王様に似ていた。
魔王様は人間どもや部下の魔族には恐れられていたが、
本当は優しい人だった。
魔王様はいつも苦しんでいた、
自分が殺した人間のことを思い出し、泣いていた。
魔王様は本当は人など殺したくなかったのだ。
ただ魔族が生きつづける場所を作ろうとしただけなのに、
人間は私達を排除しようとし続ける。
人間は醜い。
人間など早く滅んでしまえばいいのに。
魔王様があんな卑怯で汚い人間の死を弔う必要などないのだ。
そう言うと魔王様はいつも苦笑していた。
魔王様に会いたかった。
あって再び抱擁をしたかった。
魔王様を思い出すと心が焦がれた。
人間が奏でる曲は続いていたが、
そんな私の姿を男が複雑な表情で見ていたことを、
私は知らなかった。

男は毎晩のように現れるようになった。
いつも食糧を持参し、
その度に私は男に戦いを挑むが、
やはり勝てるはずもなかった。
そしてまた、鎮魂歌が流れる。
一体、何部曲なのだろう。
哀しい響きだ。
虚しい響きだ。
これほどまでに美しい曲なのに、
不思議なほどに寂しい曲だった。
そのうち男の存在も気にならなくなったある日だった、

「なんだ、嫌われ者の人間よ。今日もまた来たのか」
不意に後ろに気配を感じ、私は振り返る。
そこにはいつもの通り、人に嫌われた人間がいるはずだった。
だが、違った。
「!」
背中から斬り付けられ、私は地面に伏す。
「へへ、噂どおりだな。狼族の生き残りか、
こりゃ絶品のお宝だ」
下卑た人間の声。
私は弱かった、人間の気配にも気付かずあっさりと倒れてしまった。
これが力の無い私の現実だ。
だが、このまま沈むわけにはいかなかった。
ここは魔王様の場所なのだ。
人間に汚されるわけにはいかなかった。
「おっと、まだ息があったか。ま、今から殺すから関係ないけどね」
人間は血塗れた刀をまっすぐに私に向けた。
私の赤い血が、刀から滴っている。
血は地面の流れに従い、この土地を赤く染めた。
男に襲い掛かるが、私はやはり弱かった。
醜い人間に首を掴まれ、私の身体は宙に浮いた。
足が地面に届かず、首を圧迫される。
苦しさで、吐き気がした。
「へぇ…。けっこういい顔するじゃん」
醜い人間は私の苦痛に歪む顔を興奮気味に眺めていた。
空気が変わった。
私はそのまま地面に振り落とされ、その衝撃で斬り付けられた背中が焼けるように痛んだ。
最後まで戦おうと爪を伸ばす私を、醜い人間は嘲笑った。
身動き取れないほどに痛めつけられた私は泣いた。
痛いのが辛いのではない。
魔王様から託されたこの場所を守れなかった事が辛いのだ。
意識を飛ばしかけた私の頬に生暖かい粘膜を感じた。
「…っな!」
醜い人間が私を組み敷き、その汚い舌で私を舐め上げていたのだ。
そしてその腕が私の身体を弄っていた。
「殺す前に可愛がってやるよ」
醜い男は私を乱暴に扱った。
慣らしもしていない秘所にいきなり猛った怒張を押し込んできた。
「……っ……やめ…ろ!」
私は血塗れの身体で抵抗した。
人間に犯されるなど耐えられない。
だが力の無い私の抵抗など無意味だった。
「暴れるなって、どうせこのまま死ぬんだから最後に愉しんでみろよ」
男の怒張が私を完全に貫いた。
鮮血が一面に広がる。
背中の裂傷が、犯される痛みを誤魔化したのがせめてもの救いだった。
私はこのまま死ぬのだろうか。
そんなのは嫌だった。
このまま死んだら魔王様に合わせる顔が無い。
最後の抵抗をと伸ばした腕は、ただ空を切っただけだ。
「何をしてやがる!」
不意に響いた怒声に、周囲は揺れた。
物凄い覇気と怒気だった。
視線の先にいたのはあの嫌われ者の人間だった。
いつものように食糧を片手に、ギターを携え、
だがその様相はまるで鬼のようにすさまじい。
嫌われ者の男の覇気に、私を陵辱する人間は恐れをなしたのか、
私から離れた。
乱暴に引き抜かれた陰茎に、私は小さく声を漏らした。
私の声にならない悲鳴に、嫌われ者の男は素早く反応した。
私の目では追えなかった。
嫌われ者の男は確かな殺意で私を陵辱した人間を打ちのめした。
人間は大怪我を追いながら逃げていった。
嫌われ者の男は私が想像したよりも圧倒的な強さだった。
私はこの不思議な男に助けられたのだ。
「大丈夫か?…、すまん俺がもう少し早く来ていれば」
男は私に手をかざした。
暖かい光が私を包む。
「治療の魔術、か…」
「ああ、そうだ。少しだけ待っていろ。すぐに動けるようになる」
私にはできない魔術だ。
いや、私にできる魔術など一つも無かった。
私には武力もなければ魔力もなかった。
狼の私には本来強力な魔術があったとてしても良かったのだが、
私には才能がなかったのだ。
男の光は柔らかで、強力だった。
かつて一度魔王様にもこうやって傷を治してもらったことがあった。
あの時と同じ優しい光だ。
魔王様はどうしているのだろうか。
もうとっくに勇者を倒し、私を迎えに来てもいいはずなのに。
魔王様に会いたかった。

「借りが出来たな…」
傷が感知した私は嫌われ者の男に礼を言った。
男の治療の腕は確かなもので、いまはもう完全に身体の違和感は消えている。
「…なに、気にするな」
男は視線を静かに横に伏せた。
その視線はどことなく重い。
「そういうわけにもいくまい、
私は感謝している。あのまま死んでいたら魔王様から託されたこの樹を守れなかった。
そうだ私に出来る事なら一つだけ頼みをきいてやる、言ってみろ」
私の言葉から、しばらく。
男は重い口を開いた。
「一緒に曲を聞いて欲しい。俺以外の誰かに一緒に聞いて欲しいんだ」
「曲を共に聴く、それだけで良いのか?」
ああ、と男は自嘲気味に呟いた。
私は疑問に思った。それではいつもと変わらぬ事だ。
いつもと変わらぬ日々と違いは無い。
男は目を瞑り、夢想した。
そして奏でた曲はいつにもまして哀しい響きを奏でた。
私は約束どおり男の曲を聴きつづけた。
やはり鎮魂歌だ。
この男は誰に向けてこの曲を弾いているのだろうか。
私には分からなかったが、
この曲は深く重く、そして美しかった。

曲を響き終わり、男は口を開いた。
「俺はたくさんの命を奪ってきた」
普段の横暴で粗忽な様子を見せず、
男は憂いを帯びた悲しい表情のまま続けた。
「他者より少しだけ強かった私を、世間はみなはやし立てた、
世界を救える器だと、救世主だと、
皆が身勝手な言い分をし私に戦いを強制した。
私は周囲の期待に応え敵を殺しつづけた」
強く張った弦を一弾きし、男は続けた。
「だが、俺は他者を殺したくなどなかった」
「……」
魔王様に似ていた。
この男は魔王様の悲しみと同じ痛みを感じているのだ。
魔王様も私達魔族を救う為に、
人間達の横暴から守る為に他者を葬りつづけたのだ。
誰も他者を殺したりなどしたくない。
当たり前のことだった。
「この曲は俺の侘びなのだ。
たとえ罪があった命も、まして罪のなかった命であったならばなおさらに、
私は殺しつづけた魂を弔わなくてはならない。
これが俺が殺しつづけた魂への、せめてもの侘びなのだ」
そして男はまた曲を奏でた。
私はただ黙って曲を聴き続ける。
男は黙って曲を引き続ける。
男は泣いていた。
自らが殺した魂を思い、泣いていた。
魔王様と同じ涙だ。
魔王様はどうしているのだろうか。
日に日に弱まった結界に、私は一抹の不満を覚えた。

「お前はもし魔王が倒されたならどうするつもりだ?」
ある日男は訊ねた。
いつものように鎮魂歌を奏で終わり、
しばらくしてだった。
「魔王様が負けるはずが無い。
魔王様は強く美しく優しい方だ。あの魔王様が負けるはずないではないか」
私は胸中をそのまま語った。
何故男がこんな事を聞くのかは分からなかった。
魔王様が負けるはずが無いではないか。
そんなの考えたことも無かった。
「もしも。もしもの話だ。
もし魔王よりも強い者がいて、その魔王を殺したとしたら。
お前はいつまでもこの地を、この樹を守りつづけるつもりなのか?」
帽子のつばに隠れた男の表情は見えなかったが、
その声は意外にも真剣な声だった。
私は応えた。
「そんな事はありえない。
魔王様は絶対なのだ、負けることなど無い」
―ただ、もしも。
「ただ、もし。もしも魔王様が誰かに殺されたのなら、
私はそいつを許しはしない。絶対に。
例え負けると分かっていても、
私は命を尽くして復讐する、それだけだ。
あまりくだらない事を聞くな、魔王様が負けるわけは無いのだから」
「そうか…、変なこと聞いて悪かったな」
男の表情は影に隠れてやはり見えなかった。
男は無言のまま曲を再開した。
だがその曲はいつもにもまして深く沈んでいった。

私が異常に気が付いたのは今日の事だ。
魔王様の結界が完全に崩壊していたのだ。
結界が破れたせいで樹が寒さに負け、衰弱している。
いや、衰弱ではない。樹が息をしていないのだ。
私は動揺した。
私は嫌だった。
魔王様から託されたこの地を枯らす事などできるはずが無い。
この樹が、この土地が死んだら私は悲しい、魔王様も嘆くに違いない。
私と魔王様が始めて結ばれた地なのだ。
思い出の場所なのだ。
私は必死に治療の魔術を構成した。
本来、魔力の無い私には道具を介さない限り治療の魔術を使うことはできなかったが、
私は狼から人狼へと変化した際に魔王様から授かった魔力を使い、
樹に治療の魔術をかけ続けた。
私は魔王様の魔力で人狼の姿を維持している、
その魔力を使ってしまう事がどういう事なのか、分かっていた。
命が削られている気がした。
このまま魔力を放ちつづければ私は消えてしまうのだろうが、
この樹を枯らせるわけにはいかない。
だがどんなに必死に魔術を施しても、
どんなに願い懇願しても樹は蘇ることは無かった。
魔術の構成は完璧のはずだった。
魔王様から貰った魔力も万全のはずだった。
だがそれでも、樹は蘇らなかった。

意識が覚醒したとき、私はあの嫌われ者の男の腕の中にいた。
暖かい。
治療の魔術だ。
「頼む!私のことはいい。それよりもこの樹を!
魔王様の大事な樹を、どうか直してくれ!生き返らせてくれ!」
だが男は静かに首を横に振った。
それが何を意味をしているか、
私にも分かっていた。
だが、私には諦めきれなかった。
認めるわけにはいかなかった。
私を抱くその優しい腕を振り払い、
私は再び思い出の樹に治療の魔術をかけ始める。
だがやはり、
私の魔術は虚しく響くだけで、樹は蘇りはしない。
「もうやめろ。分かっているのだろう、お前にも。
この樹はもう死んだんだ。
これ以上魔力を使っても蘇りはしない、
それどころかお前も力を使いきり死んでしまう」
「そんなの分かるものか!
魔王様か託された大切な樹なのだ!
私と魔王様の絆なのだ!
魔王様が迎えにくるその時まで、私はこの土地を守りつづけるのだ!」
私の言葉に、
男は悲痛の顔を浮べ、
私を樹から引き剥がした。
「もうやめろ!」
「嫌だ!いやだ…っ!
この樹は魔王様との約束なのだ!」
「魔王はもう迎えには来ない!」
その衝撃の言葉に、
私の魔術は途絶えた。
「もう、いないのだ魔王は。
アイツはもう死んだ、死んだんだ」
何をいってるのだ。
この男は何を馬鹿げたことをいっているのだろう。
魔王様が死ぬはずがない。
「馬鹿なこと言うな!
いくらお前とて、魔王様を愚弄すれば許しはしない!」
掴みかかる私に、男は何も抵抗しなかった。
「なら、どうして魔王はお前を迎えに来ない」
男は辛そうに口を開いた。
「それは、勇者との戦いが長引いているだけだ、
だが魔王様が負けるはずがない。
きっとすぐにでも私を迎えに来てくれる」
そうだ、そうに決まっている。
いつものように笑顔で、私の頭を撫で、
この土地を守りつづけた事を誉めてくれ、そして優しく抱いてくれるはずだ。
私を愛してくれるはずだ。
「なら、どうしてお前が人間に犯されたとき、
どうしてお前を助けに来なかった。魔王ほどの力があれば、
お前の危機を察し、助けを出すなど容易のはずだ」
「それは、魔王様が戦いに集中していたからだ。
今はもうきっと勇者どもを倒し、私の元へと向かっているはずだ」
そうだ、魔王様はきっともうこちらに向かっている。
魔王様の優しい魔力でこの樹を蘇らせてくれるに違いない。
「なら、どうして。
この樹は枯れた。この土地の結界は破れた。
どうして、
…、
どうして、
お前を独り泣かせるのだ」
言われて、
やっと私は泣いていることに気が付いた。
「薄々、感じていたんだろう?
魔王の結界が弱まったことも、
いつまでも迎えに来ない理由も。
お前を第一に考えていた魔王がどうして、
お前を独りにしてしまったのかを」
「……そんな事は無い。
私は魔王様を信じている。
いつまでも信じている。
たとえこの樹が枯れたとしても、
私は魔王様の迎えを、ここでいつまでも信じつづける!」
「いい加減にしろ!」
男が私の頬をはった。
「魔王がそれを望んでいるとでも言うのか!
大事なお前に、そんな虚しい生涯を望んでいるとでも言うのか!
例え信じつづけたとしても、
魔王は蘇りはしない!
死んだ魔王を悲しませるだけだ!」
「死んでなどいない!
魔王様は死んでなどいない!」
「なら、自分の目で確かめてくるといい…。
この地が心配ならばお前が帰るまで俺が守っている」
男は辛そうに目を逸らし、
草臥れたギターを手にし、美しい音色を奏で始める。
鎮魂歌だ。
暗く哀しい鎮魂歌だ。
それが誰に向けられたものだったのか。
私は考えたことが無かった。
私は走った。
魔王様の下へと。
魔王様が死ぬはずが無い。
私を独り残して逝ってしまうはずがない。
全速力で走った。
姿を狼に戻し、
私は一晩中走りつづけた。
そしてついた魔王様の城は、
もうすでに存在しなかった。
そこにはただ沈んだ空気と、一面の荒野が広がっているだけだ。
魔王様の魔力が、命が消えるまでなくなることのない城が、
消えていた。
かつての匂いは何一つ残っていない。
仲間達はみなどこへ消えてしまったのだろう。
きっと隠れているだけなのだ。
私が城に向かっていることに気が付いて、
いつものように私をからかおうとしているだけなのだ。
きっとそうに違いない。
私は周囲を探し回った。
だがそこには誰もいやしない。
それどころかドス黒い血の匂いを放つだけだ。
かつての仲間の生気も感じられない。
本当に、何も残っていなかった。
私は吠え続けた。
魔力を込めて吠えつづけた。
私の声は狼の咆哮だ。
逃げた仲間が、魔王様が気付いてくれるに違いない。
独り泣きながら吠える私を、
魔王様がどこからか出てきて慰めてくれるはずだ。
優しく迎えてくれるはずだ。
魔力が続く限り吠えつづけた。
吠えて、
吠えて、
吠えつづけた。
喉から血が込み上げてくる。
私の弱い魔力では吠えつづけるのが限界だったのだ。
吠えた。
私は吠えつづけた。
だが、どんなに吠えつづけても。
魔王様は迎えには来なかった。

三日三晩吠えつづけた時、
私の声を聞き届いたのか、
仲間の一人が駆けつけてきた。
仲間は魔王様の右腕とまで呼ばれたケンタウロスだ。
「やはりお前だったのか…」
仲間は傷を負っていた。
その屈強だった四肢は弱り、見るもの皆を怯えさえた瞳は、
涙で揺らいでいた。
「魔王様は!魔王様はどうしたのだ!」
私の問いに、
仲間は悲痛に表情を歪め、首を横に振った。
「そんな…、嘘だ」
「魔王様は勇者に敗れたのだ」
その声は嗚咽を抑える声だった。
このケンタウロスが泣くことなどいままで見たことが無かった。
その事が、
本当に魔王様が死んだということを、私に確信させた。
魔王様は、
死んでしまったのだ。
「魔王様はおっしゃった。
死ぬ間際、勇者にお前を託した。
そして私達に復讐を考えずに逃げろと、そう最後に命令した」
「勇者に私を託す?どういうことだ」
「勇者は心優しき人間だった。
強い人間だった。
そして人間だったが、虐げられてきた我ら魔族を想うことが出きる人間だった。
魔王様は己が敗れたその時に、
独りになってしまうお前を勇者に頼んでいた。
ただ一人だけ愛したお前を独りにしないでやって欲しいと、
勇者はその願いを聞き入れ、魔王様の死を看取った。
復讐など捨てて、お前は最後まで生き続けろ、
それが魔王様がお前に残した最後のお言葉だ」
そんな事できるはずがない。
復讐を捨てる事などできやしない。
魔王様を殺した勇者を許せるはずが無い。
例え刺し違えてでも、勇者を殺す。
魔王様がいないこの世など、
生きていても何も意味はもたない。
魔王様の意思に逆らうことになってでも、
私は復讐を捨てる事などできるはずがない。
魔王様は生きろと言うが、
魔王様がいなければ、生きる意味など、
ない。
「勇者とは、
勇者とはどのような人間なのだ」
私の問いに、仲間は応えた。
その特徴は、
やはりあの嫌われ者の男だった。
いつまでも止むことの無い鎮魂歌を奏で続ける男。
あの男が魔王様を殺したのだ。
「ああ、そうなのだな」
あの深く哀しい鎮魂歌は、
そういう意味だったのか。
泣きつづける仲間を残し、
私は再び駆けた。
私は初めて魔王様の命令を破った。

男は枯れた樹の下でやはり鎮魂歌を奏でていた。
男の姿を確認すると、
私は小さく頭を下げた。
「魔王様への鎮魂歌、魔族の中から代表をして礼を言おう」
最後の力を振り絞り、
私は狼から人狼へと姿を変える。
男と、
魔王様を殺した勇者と戦う為に。
「だが、私はお前を許すわけにはいかない。
あの優しかった魔王様を殺したお前を、
私は許すわけにはいかないのだ」
勝てるはずが無い相手だった。
けれども、これで良いのだ。
魔王様と共に、
私は天に昇りたかった。
魔王様の命令に逆らったとしても、
死後の世界で魔王様に叱られたとしても。
魔王様のいないこの世に未練は無かったのだ。
魔王様が死んだいま、
私はそのうち魔力を失い元の狼へと戻る、
そして死から蘇らせてくれた魔王様の魔力を失い、
死んでしまう。
死ぬのならば魔王様と同じこの男の手で、
魔王様の死を手厚く弔いつづけるこの優しい男の手で。
男は無言のまま私と対峙した。
私は一撃にかけるしかなかった。
魔王様が残してくれた魔力。
私の命を留まらせ続ける魔力、
魔王様から貰った命を全て拳に集めた。
これが私の限界だった。
力の持たない私にはこれしかできない。
外すわけにはいかなかった。
たった一撃だけのチャンスなのだ。
この一撃を行えば、命をとどめる魔力を失い、私は死ぬ。
一足飛びに間合いを詰め、私は男の胸へと全てを叩き込む。
男は避けなかった。
その全てを無防備のまま受け止め、
そしてそのまま耐えた。
やはり男は無言のまま私を切なげに見つめた。
まったく歯が立たなかった。
直撃した私の一撃すらも、魔王様を倒せる力を持ったこの男には効かないのだ。
私は全ての魔力を失い地に伏しかける。
「何故避けなかった」
だが私が地面に身体を落とすことはなかった。
「何故避けなかった。
魔王様を倒したほどの男ならば。
あんな一太刀、軽く避けれたはずだ」
倒れ逝く私を男は無言のまま支えてくれたのだ。
魔王様のように力強い腕だった。
「魔王と俺は親友だった。
まだアイツが人間だった頃のな」
男が小さく呟いた。
魔王様とこの男にどんな因果があったかは分からない。
ただ、親友だったというのは本当なのだろう。
匂いが、空気が似ていたのだ。
「そうか、魔王様の…、
どうりで強いはずだ」
男は私を強く抱きしめた。
もう力は出なかった。
崩れていく魔力に、私の体は従った。
男は私の髪を軽くなでた。
私はまるで魔王様に慰められているようにさえ思えた。
「お前の最後の一太刀を避けなかったのは、俺の最後のケジメだった。
罪なき魔族を殺し続けた俺の、
そしてかつての親友を殺めたことへのケジメだった」
私は男にもたれ掛ったままに、
目を閉じた。
「こうするしかなかったのだ。
たとえ魔王様との約束を破ろうとも。
私にはこうすることしかできなかった」
「ああ、お前はこうなるだろうとアイツも言っていた」
男は泣いていた。
だが私は泣かなかった。
「魔王様が…、か。
はは、あの方は私の考えていることなどお見通しだったのだな」
「そして、その後も…」
男の言葉はもう聞き取れなかった。
命が消えていくのがわかった。
私はもう死ぬのだろう。
これで良かったのだ。
たとえこの男を殺したとしても、
私の心が報われるわけではないのだ。
これで私は魔王様の下へと向かえるのだ。
魔王様は心優しい人だったから、
きっと天国に向かっているのだろう。
花が好きな魔王様だった。
私もすぐに、あの方と同じ場所へ。

天で魔王様は私を出迎えた。
穏やかな表情で、
そしていつものように苦笑していた。
天は一面に花が咲き誇り、綺麗な場所だった。
魔王様に私は強く抱きついた。
焦がれていた私は魔王様に接吻をした。
懐かしい匂いがした。
私は魔王様に会えて嬉しかった。
きっと魔王様も私が共に天に昇ることを望んでいるのだろうと、
そう思っていた。
だが魔王様は私を軽く突き放した。
驚く私の口をまた塞ぎ、
離れ、最後にまた苦笑した。
その瞬間、魔王様のすべての記憶が私に流れ込んできた。
魔王様が歩んだ人生が、
私を包んだ。
最後に魔王様は私に伝えたかったのだろう。
私がどれだけ愛していたか、
人間をどれほど憎んでいたか、
勇者と呼ばれた親友の無念の勝利を。
魔王様はきっと人間共に伝えたいのだろう。
真実を、ありのままに。
私は魔王様の記憶を受け取り、
魔王様を振り返った。
天から降りようとする私に、
魔王様はまたいつものように苦笑し、
そして小さく口を開いた。
何と言っているかは聞き取れなかった。
だが、その口は確かに
生きろ、
と、そう言っている気がした。

私は暖かい光に包まれていた。
男は私に魔力を注ぎ続けていたのだろうか、
その額には汗が滲み出ていた。
私が目覚めたことに気がつくと、
男は小さく笑った。
まるで魔王様のように優しい笑みだった。
魔王様が私を蘇らせた時と同じように、
狼の私に魔力を込め蘇らせたのだろう。
私はその手を強く抱きよせた。
そして初めて、
大声を上げて吠えた。
魔王様を思い、吠え続けた。
すべての人間に、魔族の悲しみが届くように。
虐げられてきた魔族の王の死を、
吠えた。
勇者は私の遠吠えに魔力を乗せ、曲を奏で始める。
私の遠吠えは男の魔力を介し、世界に広がった。
魔王様との思い出を遠吠えに乗せ、
私は吠え続けた。
私が人間に殺された記憶を吠えた。
魔王様に助けられた記憶を吠えた。
魔王様の城での初めて感じた幸せを吠えた。
魔王様と勇者の関係を吠えた。
親友同士の悲しき戦いを吠えた。
すべての人間に、
すべての魔族に、
伝えたかった。
私は吠え続けた。
人間と魔族の悲しき関係を吠え続けた。
そして魔王様の死を弔う勇者の姿を吠え続けた。
吠え続ける私に合わせ、勇者は曲を奏で続けた。
世界には深く悲しい鎮魂歌が鳴り響いていた。


曲を奏で終わった男に、
酒場の客はみな拍手をし、男の帽子にわずかな銭を投げ込む。
私たちの当面の旅費だった。
「だから言っただろ、アイツは全部お見通しだったんだ」
そう言いながら酒を飲む男に、私は苦い顔をした。
そう、魔王様はすべてお見通しだったのだ。
死んだ魔王様の悲しみは全世界に広がり、
人間たちはみな一同に魔族に対する考えを改めたのだ。
私の遠吠えを聴くまでは、魔族に心があることを知らなかったのだろう。
魔王を失った魔族を迫害する人間はいなくなり、
今は共存の道へと世界は変わっていた。
人間の街に魔族が商売のために出入りすることさえも、珍しくない世界になっていた。
結果、
魔王様は自らが死んだことで、魔族を人間たちから救ったのだ。
世界は平和になったのだろうが、
私の心は複雑だった。
私は男と共に世界を巡り、
魔王様の記憶を歌い続けていた。
人間が魔王様の悲しみを忘れないように、
そして魔族が勇者の悲しみを忘れないように。
男は最近、私をすぐに撫でたがったが、
私はそれを拒絶した。
酔った勢いで一度だけでも夜を共にしてしまったのがいけなかった。
それ以来男は何かと言うと私を抱きたがった。
実は私もまんざらではなかったのだが、
それを表に出すつもりはなかった。
魔王様は嫉妬深かったから、
私と親友が仲睦まじくしている姿を、天から悔しそうに見ている気がしたのだ。
だから、
男と身体を合わせるのは月が隠れる新月の夜だけだった。
男はそれを不満に思っているようだったが、
私はそれを軽くあしらった。
この男との旅がいつまで続くか分からなかったが、
今の私は少しだけ幸せだった。
きっと魔王様も、私の笑顔を喜んでいる。
そう思いながら、
私は男の手を引き、
酒場を後にする。
夜空に浮かぶ満面の満月が、私と男を明るく照らしていた。




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