【悶える蛇は絡み合う】 |
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『カルテ1 真くん――偏食障害(かぐや病)』 許されない願いを叶えてしまった事がある。 大事な人を殺してしまったのだ。 こんな疲れたサラリーマンが酒も飲まずに何をそんな戯れ言を――そう思われてしまうかもしれないが私は昔、ヤクザだった。 いまから十年ほど前の話。まだ二十歳だった頃の思い出話。 今日はその話をしようと思う。 当時の私は、藤堂保と言う闇金上がりのヤクザに拾われ極道暮らしを送っていたチンケでグズな下っ端構成員だった。 昔から鈍間だったせいか、藤堂からは毎日毎日酷い扱いを受けていた。灰皿を投げ付けられ、タバコの火を押し付けられるは日常茶飯事。怯む私を見て藤堂は仲間と共に愉快そうに嘲る。部下と言うよりは奴隷と言った方が近しかったのだろう。 それでも私はそこで働くしかなかった。 拾ってくれたのが、手を差し伸べてくれたのが、あの男――藤堂しかいなかったのだ。 だからどんな暴力も甘んじて受けるしかなかった。それを知っていたからこそ、藤堂は仲間たちと共に私をサンドバッグにし遊んでいたのだ。 しかし私は男の本性を知っていた。 藤堂は相貌失認と呼ばれる人の顔を認識できない、人の顔を覚えられない病を患っていたのである。だから、あの男は私を暴力で作られた恐怖の檻に囲った。 とある病を患っていた私は藤堂にとって――絶対に必要な存在だったのだ。 私は私を殴る藤堂の腕、そして肩口から手の甲にまで描かれた蛇のタトゥーにいつも怯えた。あの蛇がこちらを眺め鎌首を擡げると、私は暴力の渦に引き込まれる。 けれど、それは誰かがいる時だけの話。 『なあ、アレだ。さっきのはアレだ、建前ってかメンツってか、分かるだろう?』 と、他の部下が見ていないその瞬間だけ、あの男は、怯えて泣く私を抱きしめ――悪かったと詫びる。そして、DV夫が耐える妻にするように必死に取り繕い、同情を誘うように幼かった頃の悲惨な記憶を淡々と語り、タバコの香りと共に甘い息を吐くのだ。 実際、少々狂っていたのだろう。 それでも私が泣き止まないと。 『生意気な面しやがって。はん、お前がどうしようとアレだ。てめぇは一生、オレのもんだ。ちゃんとたっぷり、今からきちんと教え込んでやる』 そう吠えて、男は震える私の衣を剥ぎ、私の背に刻まれた蛇のタトゥーをじっとりとねめつけながら、女の役割を強制した。 交尾する蛇のように絡み合う様は、男色家でなければ嫌悪しか抱かないだろうが――歪んだ性格とは裏腹に藤堂の顔は凛々しく、男としての性的魅力だけは持ち合わせていた。 私の不幸は僅かな素養があった事だろう、酷な被虐の中に情を感じてしまったのである。 それを男は喜んだ。 怒張に貫かれ怯える私の表情ひとつひとつを記憶する代わりに、男は私の顔を写真におさめた。何枚も何枚も、男は私の顔だけを撮り続ける――そして私に体内刺激だけの絶頂を促し奉仕のように甘く腰を揺すった後、必ず、唇をギュっと噛みしめ長い微笑を零す。 慄きながら精を吐き捨てる私の痙攣と身震いを、愛情からくる歓喜の震えと勘違いしていたのだ。気でも違っていたのだと思う。 いっそ、本当に恋仲にでもなってしまえば暴力も消え失せるかもしれない。そう思い、私は男の顔に枝垂れかかる様に縋りキスをした。自分でも呆れてしまうほどにあからさまに、怠惰な誘い顔をしていたのだと思う。 けれど藤堂は半狂乱になるほど喜んで、何度も何度も私の頬を抱き寄せ熱いキスを返した。その時、私の中にも温かい感情が生まれた。ただの打算だったが――本当に、結ばれたら心地良いかもしれない。熱い抱擁が、私の中にそんな迷いを生じさせていたのである。 しかし、タイミングが悪い事に、そこに藤堂の部下が現れて――私はそのまま痕が付くほどに酷く殴られ地に伏せた。 あまりの凄惨な暴力に藤堂の部下が肝を冷やして逃げて行った後、ふと、藤堂は我に返り私を抱きしめたが、私の心は既に冷やりと醒めていて、なんで一瞬でもこんな男に惹かれてしまったのかと自己分析を始めていた。 そうして私は藤堂の部下であり続ける事をやめようと決意した。 それからしばらくしたある日、私は彼に出逢った。 ボスの息子、来栖真くんだ。 彼はボスの愛人である母親から捨てられ組に厄介払いされてきた、十歳だというのにどこか大人びた、蠱惑的な印象の少年だった。 日本人としてのシュっと整った顔立ち、異国の血を感じさせるブロンドの髪、青く透き通った瞳。まるで全てが完璧な人間味の薄い容貌は、貴族のような高潔な威圧感さえある。 けれど彼はどこかが浮いた存在だった。重度の弱点があり、いつも周囲を困らせていた。 病的な偏食だったのだ。 人や動物の形を模ったモノは駄目。黄身が崩れた卵では話にもならない。こだわりから外れたモノは全てゴミと一緒なのだろうか。私だってゴミは食べたくない、だから彼の気持ちが少しだけ理解できた。 藤堂の玩具にすぎない私は暇を持て余していて、いつも彼を遠くから眺めていた。 『これじゃない』 と、太陽がまぶしい中庭のランチタイム、その日も彼はおにぎりを床に叩きつけていた。 使用人から差し出されたおにぎりを拒み、『そんなゴミには興味ない』とばかりに無視をし、手鞠をついて遊んでいた。 世話係の使用人は、彼がシャケおにぎりにまぶしてある黒ゴマが嫌いな事を失念しているのだろう。彼はおにぎりの黒ゴマは好きでも、シャケおにぎりの黒ゴマは嫌い。けれどそんな黒ゴマシャケおにぎりも海苔を巻けば大好物になる。しかしその場合は俵型に握らないと、駄目。それが少年のこだわりであり、歪んだ嗜好、病的な偏食なのだろう。 しかし残念ながら使用人には彼のこだわりが伝わらない。 使用人はあからさまにため息をついた。自らのミスを棚に上げて、大事な彼のこだわりを馬鹿にしたのである。 そうして、使用人はエプロンを泥水に叩きつけ真くんの傍から離れていった。掴みどころのない真くんの性格と偏食についていけず辞めてしまったのは、これで何人目だろうか。 真くんは、去っていく使用人の背を眺め――唇をぶるりと震わせた。本当は、構って欲しかったのだろう。 そんな日々が続くうち、真くんの世話係に立候補するものは誰もいなくなってしまった。 居場所がない者同士。憐憫が浮かんだ。 『こっちにおいで――』 と、私は彼に向かって手を差し伸べていた。 けれど彼は私の手を振り払い、侮蔑すらこもった一瞥と共に背を向けた。 『君の好物、焦がしたキャラメル状の砂糖が乗った抹茶プリン、フキノトウのてんぷら、塩は岩塩から削った一ミリ正方形』 私は彼の背に彼のこだわりを暗唱して見せた。彼は背を向けたまま試すように言った。 『ヤキトリ』 『鶏のつくね、けれど骨がすり潰してあるのは駄目。岩塩じゃなくて醤油ダレ』 彼はようやく首だけで振り返り私を眺めたが――差し伸べた手には無反応だった。 私は野性動物を刺激しない声音で言った。 『私は生田勇吾、君は来栖真くんだよね?』 『僕の苗字は来栖なんかじゃない、西城だよ。あんなパパ、パパじゃないんだ』 真くんはまだ母に未練があるのだろう、そう言った後はただ無言のまま、私を睨んだ。 それは不思議な眼光だった。訴えるとも違う、責めるとも違う、媚びる瞳には程遠い。ただ黒々とした眼差しを当て続けていたのだ。 『友達になってくれないかな?』 『どうして?』 『今だけ、今日だけ君の世話係になってあげようと思ったんだけど――どうかな、私なら君のこだわりを絶対に忘れないよ』 『言い訳だね、藤堂に苛められすぎて気でも変になっちゃった?』 こんな子供にまで惨めな私は伝わっていた。 余計なお世話だったのかもしれない、そう思ったら急に恥ずかしくなってきた。後悔が詰まった日記帳をビリビリに引き裂いてしまいたくなるような酸っぱい虚しさが浮かんだ。こんな哀れな子ならきっと友達になってくれる、そんな打算を見透かされたと感じたのだ。 『引きとめて悪かったね、それじゃあ』 息を吐き、逃げるようにその場を去ろうとした、その瞬間だった――冷たい感触が手の平に伝い、私の足を楔のように戒めた。 恐ろしく冷たいナニか。その正体は首を傾げにんまりとこちらを眺める真くんの手だ。いつのまにか私の手を強く握っていたのだ。 『本当に僕と一生、友達になってくれる?』 『一生とはオーバーだね』 『一生いっしょにいてくれるなら。僕のごはんを一生作らせてあげてもいいよ?』 その時は子供の戯れ言だと思っていた。 だから私は頷いてしまった。 『いいよ、一生、君の世話をしてあげるよ。一生、君と居てあげる、それでいいかな?』 少年は手鞠を踏みつぶし、代わりとばかりに私の手にぎゅっと縋りついた。 『真くん……玩具は大切にしないと駄目だろ』 『いいんだ、もう要らないもんソレ』 手鞠には、少年の母の名が刻まれていた。 その晩、私は使用人に代わり料理を作った。 まるで彼の中にある何かに取り憑かれたように、どうしても作ってあげたくなったのだ。 彼は自分なりのこだわりを一時間にわたり説明した、子供とは思えないほどの執着を感じさせるほどの偏食。それはまるで月のかぐやを彷彿とさせる無理難題だった。しかし彼の偏食の理由を察してしまった私は、それを叶えてあげたいと思ってしまった――彼は無理難題を叶えて貰う事によって自分の価値を確認したかったのだろう。 自分が大事な存在だと認められたかったのだ。その時すでに憐憫は共感に代わっていた。 私も誰かに大切にされたかったから。 少年は零れるほどの頬笑みを浮かべ、むしゃむしゃと口いっぱいに頬張り喜んでくれた。 よほど嬉しかったのか、その後、彼は子供とは思えないほどの怪腕で私の手をぎしりと握った。そして私に胡坐をかかせると、ちょこんと真ん中に座り――掴んだ私の手をまごの手とばかりに頭を撫でさせ笑んでいた。 私も嬉しかった。 けれどそれは少年のためではなく、もっと利己的な理由だった。その日は真くんの世話をしていたから、藤堂の暴行から正当な理由をもって逃げる事が出来たからである。 そんな私の打算に気付かず、彼は心汚い私に身を預けて安堵している。不意に、彼が愛おしく思えてきた。私が得られなかった幼少時代の優しい思い出を作って上げたい、そう思ってしまったのだ。思わずぎゅっと抱き寄せてしまうと、彼もまんざらではなかったらしく私の膝の上で無垢な笑顔を作ってくれた。 少しだけ、情が湧いた。 そしてふと考えてしまった。このまま本当に少年の世話係に選ばれれば、苦痛から解放されるのではないかと願ってしまったのだ。 真くんのスカイブルーの瞳が、そんな打算と情に揺れる私をじっと眺めていた。 あくる日、願いは成就された。 私を指差した彼が、ボスである父の腕を引き、『これが欲しい』と呟いたのだ。 毎日男女問わず酒池肉林を体現していたボスは、真くんへの愛情が枯れていると後ろめたさがあったのだろうか、真くんの願いを聞き入れ、私を世話係に任命してくれた。 新しい愛人を抱きながら、真くんと同じ青の瞳を輝かせ――私に少年を預けたのだ。 私は浮かれた。ボスの勅命にはさすがの藤堂も口を出せない。 ついに藤堂の歪んだ愛憎から解放された、もう毎日おびえる必要もない。 私は真くんのこだわりを完全に再現し提供する代わりに、ただくだらない世間話をすればいいだけの生活に浸った。 それからしばらくして。 私は、彼が同世代の子供とは比べ物にならないほど、いや異常な程に賢いと気が付いた。 それは不思議な空間だった。まだ十歳の彼がまるで狡猾な老人の様に巧みに話題を操作するのである、それも、私の自尊心を満たし渇いた心を潤してくれるかのような心地良い会話ばかりを流しこんでくるのだ。 私が笑むと彼もいつも嬉しそうにまるで恋人を見守る男の顔で、にこやかに笑んでいた。 誤解を恐れずに言うならば、当時の私は彼に家族以上の情を注いだ。思慕や愛情、恋慕と言っても過言ではないほどに、溺愛した。 次第に、彼の横が私の居場所になっていた。 それをずっと遠巻きに眺めていた藤堂は快く思わなかったのか、ある日私は人の目の届かぬ所で酷い暴行を受けた。それは人としての尊厳を辱める悪しき蹂躙だった。 大勢の仲間の嘲笑と侮蔑の中で、藤堂にみせしめのように犯されたのだ。 男は私を裏切り者と罵り、三日三晩と苛立ちをぶつけた。拷問用の拘束具で戒められた私は、まるでダッチワイフのように粗雑に扱われ、恥辱の限りを受けた。そして、顔を覚えられない藤堂は私の苦悶する顔をいつものように一枚一枚写真におさめ、ようやく安堵したように深く笑んだ。 あのガキが成長して消えたら、お前はオレの下に戻ってこい――と、泣き噎せる私を抱き寄せそう囁いたのだ。 その病的なまでの妄執は、真くんの食へのこだわりに少し似ていたのかもしれない。 私は悔しかった。 ただただ悔しくて鮮血が飛び出るほどに胸を掻きむしった。そもそも先に裏切ったのはオマエの方だ! そんな憎悪で溢れていた。 けれど藤堂は幹部の中でも強い発言権を持っていた、ボスからの寵愛を受けていたのだ。事件すらなかった事にされてしまったが、負け犬精神が身についていた私もまた――次第にいつもの暮らしに戻っていた。 しかし聡い真くんは私の顔を覗き言った。 『生田さん、何かあったの?』 『なにも、なんでもないよ。ちょっと身体が痛いだけ。どうしてそう思うんだい?』 『生田さんの顔に書いてあるよ、僕を捨てた時の母さんと同じ顔してた』 『どんな顔?』 『逃げたい、辛い、もう嫌だ――それで、死にたいって顔』 その時が初めてだっただろうか、背筋にうすらとした畏怖にも似た悪寒が走ったのは。 なぜか分からない。けれど真くんの眼差しに黒い何かを感じてしまったのだ。 子供が見せた一時の迷い顔だろう、そう納得することで私はその場を誤魔化した。 『カルテ2 真くん――読心術(好かれたい病)』 二年と数カ月が経ち、誕生日を終えた真くんは十三歳。私は二十三歳。 私と彼はすっかりと家族同然、本当の兄弟のように過ごしていたと思う。 成長と共に彼も大人の仲間入りをしようとしていたのか、それとも自己価値を認識できるようになったのか――重度の偏食も直り始めていた。 中学生になった真くんはぐんぐんと背を伸ばし、顔立ちもよりシャープな色男へと成長させていた。まるで弟に追い抜かされた、そんな感傷もあったが私は彼の成長を喜んだ。 そして、将来有望の彼にほんの少し嫉妬していた。 分を弁えない恥ずべき嫉妬だったが、それが人間の本性だったのだろうか。 用済みになった私は捨てられる、遠くない未来そうなるだろう、と思ってしまったのだ。 聡い彼はそれをすぐに見抜いた。 『心配しなくても、僕は大人になってもあなたを捨てたりなんてしませんよ。だから、そんなに悲しそうな顔をしないでください』 私は肝までも滲むような冷たい汗を感じた。 大人になっていく彼はまるで人の心が読めるかのように、日に日に、人間離れした聡さを見せるようになっていたからである。 美貌と謎めいた聡さ。それは他の大人からも魅力として映るらしく、彼の世話係である私のポジションを奪おうとする者は多かった。 けれど、真くんは私を優先してくれた。 恩返しをしたいと、彼はそう言ってくれた。 身勝手な優越感が私を満たしてくれた。しかしそれと同時に、秘めておきたいその黒い心さえも彼に覗かれていた。 たとえば彼と一緒にテレビを見ていたある日。私がスーツのCMをぼんやりと眺めていると、彼は私の好みをぴたりと当てて微笑む。 そしてあくる日の朝、私の枕元には新品のスーツが置かれていた。 『いつもお世話になっていますから、どうか貰ってやってください』 と、笑う彼は本当に幸せそうだった。値段を知り私は驚愕した。 慌てて返品しようとしたが、彼はそれすら見抜き先回りをし、 『どうか受け取って下さい。大好きな人にプレゼントをしたい、それはとても人間的で自然な行動ではないでしょうか?』 と、中学生らしくない艶を帯びた微笑を作る。 本来、物欲に溢れた中学の子供が他人のために躊躇せずに金を使う行為。それは執着にも似た異常さを孕んでいたが――臆病な私は何も言えなくなってしまった。それほどに鋭い眼光が、彼の涼やかなブルーから放たれていたのである。 それから少し、彼が怖くなった。 彼は彼が買い与えてくれたスーツを着る私を眺め、毎日嬉しそうに微笑む。そしてスーツの生地の感触が好きだからと、謝りながら触れるのだ。 『生田さんと一生、一緒に居られるなんて、僕は幸せモノですね』 そう囀る彼のだんだんと大人びていく長く筋張った指が、私にはなぜだか淫靡に映っていた。そして心の片隅には、この異質な少年に対する違和感が浮かび始めていた。 気が付くと、いつも彼がいた。 そして私の願いをなんでも叶えてくれた。口にすら出せない浅ましい願いを、なんでも勝手に叶えてしまうのだ。 例えば時計。例えば電子機器。頭に欲しいと思い浮かべただけで、あくる日までには私の枕元にぽんと置かれているのである。そして一夜の女性さえまでも。 欲望に負けた私は、彼が眺めていると知っていながら女性を抱いた。 その代わりに――私は気の休まる瞬間を失った。休日も風呂の時も、眠る時さえも彼の視線を感じていた。ズンと重い、執着のこもった色を感じさせる視線だった。 違和感はますます強くなった。 あまりジロジロと見ないで欲しい、そう口にせずに心中唸った筈だったのに――彼はすみませんと苦笑をし、けれど決して視線を外そうとはせず、褒美を欲する愛犬の顔でギョロリと強い視線を絡めてきた。 願いを勝手に叶える度にますます懐く彼、盲目的に私に身を預け安堵する彼。 私は、その視線と彼自身の重さを恐ろしく思うようにさえなっていた。 彼の存在が、まるでおとぎ話にでてくるような、皮肉な教訓を詰め込んだ恐ろしい生き物のようにさえ思えていたのだ。 けれど、本当になんでも願いを叶えてくれるのなら。そんな欲も浮かんでいた。 私の人生にはどうしても忘れられない人がいて――母と私を捨てて消えてしまった父を連れ戻して欲しい、自分勝手にそう願ってしまったのである。 しかしそれはほんの気まぐれ、冗談に似た軽い気持ちだった。いくら彼でもそんな事はできない、いや彼なら連れて来てくれる。まるで宝くじを買ったような気楽な気分だった。 けれど――こんな事をしなければよかったとすぐに後悔した。 あくる日、願いは成就した。 ――枕元には骨壷がぽんと置かれていた。 刻まれた日付は数年前、既に亡くなっていたのだ。 そして枕元にはもう一つ。 『おはようございます、生田さん』 と、彼は私に褒めて欲しいとばかりに満面の笑みで、ひきつった私の嗚咽を覗いていた。 私は怖くなった。 この少年は違う。なにかが常人と違う。そんな形の見えない恐怖が私の脳裏を支配した。 はたして恐怖は現実となった。 ソプラノだった彼の声がバリトンに変わり始めたある日、私は藤堂の部下達に因縁をつけられ、あの日と同じ辱めを受けた。藤堂の目さえも盗んでの襲撃だった。 私は嗜虐思考の持ち主に好かれてしまう、損な性分をもっていたのだろうか。 あの時、藤堂に犯されあんなに美味しそうに泣いていた、だったら男が欲しいんだろう――と、男達は笑いながら私を辱めたのだ。 そのレイプには、藤堂にはあった不器用な感情はなく、ただ欲望を叩きつけるだけの暴力しかなかった。 私は男達を殺してやりたいと願った。 頭の中で彼等が醜く崩れていく姿を想像し、心の中でだけ彼等に復讐した。 ハサミや錐でズタズタに皮膚の正面を引き裂いて、バットで肉をにじり、肺に穴を開ける――いつか見た、そんな陰惨な拷問現場が頭の中でミュージカルのように踊っていた。 しばらく想像の中の惨殺を愉しんだ後――私はアレを見てしまった。 本当に人を殺しかねない狂気じみた男の顔。 窓ガラスに映る狂った男の相貌には、醜悪で下劣な仮面が張り付いていた。それが自分自身の顔だと自覚してしまった私のひしゃげた唇からは、渇いた笑みがこぼれていた。 しばらくヒキガエルのような擦れた笑いを吐き続けていたら、涙が溢れだしてきた。 次第に侘しさが胸を包んでいき――私は自らの醜い心を恥じた。 醜さを流すように私は何度も顔を洗った。生爪が顔の皮膚を裂くぐらいに、拭った。 そうして――こんな恐ろしい顔を真くんに見られなくて良かったと、安堵した。 あくる日。 枕元には人間の塊が転がっていた。 一人、二人、三人。ありとあらゆる関節をバットでたたき壊され外されて、まるでタコのように転がっていたのである。 頭に浮かんだのはあの少年。もしも彼が私のあの醜い顔を眺めていたとしたら……。 寝汗ではない粘り気の強い汗が、私の背とシャツをじんわりとはり付けていた。 男を土に埋め証拠を消すか、いや、まだ助かるかもしれない病院に連れていく。 顔を覆い悩む私の枕元には、私の顔をまばたきせずに深々と覗く真くんがいた。 鮮やかな朝陽の逆光を背に、彼は言った。 ご褒美に一度だけ抱かせて欲しい――と。 褒美を求める、黒々とした微笑。無垢な微笑。彼は自分が何をしたのか、何をしてしまったのか、まるで分かっていないようだった。 生理的な恐怖が、私の心臓を叩いていた。 『こ、っ……子供とは出来ない』 そう拒絶した私は悪魔から逃れるように布団をかぶりガタガタと震えたが。歯を鳴らし怯える私の背を、大人びた彼の筋張った長い指が優しく撫でていた。 『分かりました、大きくなるまで待ちます』 と、無機質に吐いた少年の声音は鋭かった。 そして、悪漢達に犯されていた私の嗚咽がとても可愛かったと、大人になるのが待ち遠しいと微笑んだ。私の辱められる様をどこかで、見ていたのだ。助けようともせずに、眺めていたのだ。そう思うと吐き気がした。彼の価値観が私には理解できなかった。 その時私はようやく気が付いた。彼は生まれながらのモンスターだったのだ、と。 その日、私は生まれて初めて人間を土に埋め、生まれて初めて上司に嘘をついた。 ボスには自分がやったと報告したのだ。 思えば私は彼を叱った事がなかった、だから彼は善悪を覚えず成長してしまったのかもしれない。そんな自責の念に苛まれていた。 しかし、ボスは伊達に極道のトップに君臨していたわけではなかったのだろう、鈍間でグズな私にそんな手際よくできる筈がないと私の顎を掴み、青い瞳を尖らせた。 嘘は許さない、そんな厳しい瞳で私に言葉を促した。 私は黙秘を貫いたが――ボスには初めから誰がやったのか分かっていたのだと思う。 幹部が集まる大広間に呼ばれた真くんは、父であるボスに単刀直入に問われた。 真くんは形の整った人間味の薄い唇だけを動かし、肯定した。 『ええ』 周囲の幹部は狼狽を零したが、ボスは覚悟をしていたのか淡々と尋問を続けた。 真くんは、青の瞳だけを蠢かし、うっとりと私を見つめながら答えた。 『好かれたかったから、嫌われたくなかったから。あの人の願いを叶えてあげたかったんです。それってそんなに悪い事ですか?』 ボスは有能な極道の誕生に大変満足したらしく、豪快に笑った。 藤堂は当然怒り狂ったが、ボスはそんな彼の頭を撫で、反論を殺すようにキスをしていた。ボスが藤堂へ贈っていた寵愛には、そういう意味も含まれていたのだろう。私の知らない所で、彼等は彼等の、同性同士の歪んだ世界を持っていたのかもしれない。 真くんはまるで何かに気付いたかのように、親から学ぶように――実の父が男の唇を無理やりに奪い屈服する様を眺めていた。 藤堂を諌めたボスは、真くんのとった行動を正当な仇討と認めた。 しかし罪は罪。藤堂の部下が行っていた非道は仲間を裏切る最低な行為であったため破門こそ免れたが――ボスは仲間殺しの罰として彼から私を取り上げた。 私が破門されたのである。 名目上は管理不行き届き。しかしそれは裏切りではなく、いままで彼を世話した私への礼だったのだと思う。私が彼から離れる明確な理由、免罪符を作ってくれたのだろう。 私はようやく、安堵した。 全身の毛から汗が飛び出るほどに、安堵した。 けれど、心のどこかには侘しさが浮かんでいた。 思ってしまったのだ。あの心壊れた少年を一人にしてしまう、それはとても残酷な事ではないだろうか――と。 次の瞬間。 いつのまにか私の指先に冷たい何かが触れていた。それが何かと気付く前に、がしりと冷たい手の平が私の指を掴んでいた。 振り返ると、彼がいた。 『僕が大人になったら、二十歳になったらすぐに迎えに行きます。だから、ちゃんと良い子で待っていてくださいね』 怯える私に真くんはそう言った。 私の願いを何でも叶えてくれる真くん。私をなによりも大好きでいてくれる真くん。弟の様にかわいいけれど、少し怖い真くん。そんな彼に対し、私はこんな願望を抱いていた。 私のあさましい心の闇を覗く君から、逃げたい――と。 歯を剥き出しにした少年は氷よりも冷たい声で唸りを上げた。 『それだけは、駄目です』 骨壷を抱えた私は、見送りを望む彼から逃げだした。 その日は秋だと言うのに雷と共に横殴りの雨がゴゥゴゥゴォゴォと降り注いでいた。鞄一つに詰め込んだ荷物を手に、当てもなく走る私は、ドヤ街の雑居ビルの隙間に引きずり込まれ――レイプされた。 相手はもちろん、彼、真くんだった。 中学生の子供に押し倒され抵抗できなかったのは私が非力だったからではない、彼が異常な怪力の持ち主だったのだ。彼はそのレイプを『おまじない』なのだと言っていた。 地面に漂う饐えた土の匂いが鼻孔を擽ったが、何よりも頭に残り続けるのは淡白そうなストイックなあの顔だった。彼の呼吸、彼の息遣い、初めて性を堪能する少年の劣情を帯びた涼やかな表情が、私の脳を支配していた。 雷雨に悲鳴を掻き消され泥水に塗れたアスファルトを掻きむしる私の腰を掴み、悠々と欲望を叩きつける彼は綺麗だった。悪魔にも似た暗い引力を持ち合わせていた。ぞくりとするほどの卑しいカリスマを孕んでいた。 全身がこむら返りを起こしてしまいそうな程の快楽の中で、私の身ははしたなく揺れた。 暴力よりも残酷な巧みな強姦の中で、生まれて初めて絶頂を知ったのだ。女性との行為でも感じた事のない高み、藤堂達から与えられた屈辱の中でもあり得なかった疼くような腰の奥の甘い鈍痛。年端もいかない彼の性に翻弄され、溺れてしまっていたのだと思う。 それほどに強い快楽だった。 行為が終わった後、痙攣を押さえるように二の腕を掴んだ私はしばらく呆然としていた。 落ちた革靴、剥ぎ取られたネクタイの色。泥水に浮かぶ私自身が吐き出した白濁の残り香を目にした時、ぼろぼろと泣きだしてしまった。 そして肌蹴たシャツをそのままに、異常な少年から逃れるように身を縮めた。 全てが終わった後、真黒な傘を私に差し出した彼は、痕が付くほどに強く――ぎしりと私の腕を掴み、囁いた。 『どうかそんなに怯えないでください。僕はあなたを敬愛しています。僕を理解してくれた、あなたが好きです。いつまでも一生、ずっと最後まで、死ぬまであなたの事だけを慕い続けますから』 それは淡々とした言葉であったが、どこかネジの壊れた機械を彷彿とさせる無機質な声音であった。 『だからどうかあなたの一番に、いつまでも僕を置いておいてください。だからこれはそのためのおまじない。お願いです。雨を見る度に、どうか今日の事を思い出して下さい。この雨粒のひとつひとつが僕の指、僕の熱さだと思って眺めてください。感じてください、揺れてください。僕に抱かれた自分がどれほど可愛く啼いたのか、どれほど悶えて吐精したのか、あなたが誰のものなのか――忘れないでください』 それは呪いの言葉にさえ思えた。少年の言葉に、私は何も答えなかった。 鉛のように重い腕を振り払い、恐怖からくる得も言われぬ嘔吐感を抑える事しかできなかった。彼は青褪めた私の唇を唇で温め、まるで恋人の様に深く長いキスをした。タバコの味すら知らない彼の舌は柔らかく、そこだけが年相応の無垢さを感じさせた。 舌と唇が離れた時、彼の舌とは粘膜の糸で繋がっていて――私は彼の舌の甘さを意図せずに追っていた自身を恥じた。 心が揺れていた。身体も揺れていた。 もう一度、あの甘さが欲しいと無意識に開いた脚も娼婦の様に揺れていたのだ。 痴態を冷静に眺めた彼は淫らな願いを勝手に引きずり出し、もう一度淡々と作業的に私を犯した。洞察する眼光は濃く、黒かった。 未成年に情愛を抱こうとしている自分。上司の息子に、それも教え子のように可愛がっていた子に犯され女性の様に喘いでいる。背徳の快楽と嫌悪が同時に喉を込み上げた。 もっと獣の様に愛されたい、そう思ってしまった瞬間。 私はもう一つ、利己的な恨みを頭に描いてしまった。 ――こんな醜い私は、私が知っている私じゃない。全部君が悪い。君なんか消えればいい、どうかいなくなって欲しい、二度と会いたくない。君なんか……大嫌いだ、いっそ。 死んでくれればいい――と。 私の願いをなんでも叶えてしまう真くんの目の前で、そう願ってしまったのである。 思ってしまった後。ハッとした。願ってしまった後、私は震えた。 『違う……』 いいですよ、と。彼は微笑んだ。 『違うんだっ』 『愛しています』 と、笑顔で去ろうとする彼だったが――その顔は虚勢で強張っていた。 傷付けてしまった、この少年が私に抱いていた感情だけは怪奇じみたモンスターではなく本物の心だったのだ、と。そう気付いた私は必死に手を伸ばした、願いを取り消そうとした。 しかし彼はまるで霧のように私の腕からすり抜け、闇へと消えた。 車の群れへと飛び込んだのだ。 私の手には真黒な傘だけが残され――そして、車道ではクラクションの音が劈いた。 彼は私の願いを叶えてくれたのだろう。 私が殺したも同然だった。後悔しても遅かった。鼻の粘膜が擦り切れるほどに泣いた。 ……けれど心のどこかで安堵していた。やっと彼から解放されたのだ――と。 私はその時自らが最低な人間なのだと知った。悟った。思い知らされた。その場を逃げ出したのだ。 だから彼が本当に死んだのかどうか、それは私にも分からない。けれど、彼はなんでも願いを叶えてくれる真くんだ、きっと、死んでしまったのだろう。 その日以来、私は願望を抱く事を恐れるようになった。 それが彼と私との暗い雨の思い出だった。 あれから七年が経っていた。 極道を止めた私は普通の人間としてサラリーマン生活を送っていたが、彼の黒い眼差しがいつもどこかで睨んでいる気がしてならなかった。 今年で三十。窓ガラスには草臥れた男の顔が映っている。 まるでマネキン人形のような死んだ表情、動かなければ本当にマネキンに勘違いされる時さえある無個性なスーツ姿。 清潔感だけは保っているが、きっと魅力の薄いつまらない男に見られているだろう。 あまりにも彼とのセックスが気持ち良かったせいか、現実を失った非現実の世界で圧倒的な快楽を一方的に与え続けられたせいか――あれ以来、私はすっかりと気の抜けた人間になっていた。 身も心も枯れてしまったのだ。 身体だけが、彼を探していた。またあの日の、熱が欲しい――と。 秋雨はまだ終わらない。 雨が降る度に、私の夜は疼いて震えた。 あの少年に再び会いたい、そう願わずにはいられなかった。 けれど彼は私の願いを叶えて消えてしまった。だからこの願いは一生叶わない、私は二度と彼と再会できない。 生きていたら、今年で彼も二十歳。 今日もまた、静かなオフィスの窓から映る枯れ木の枝に、モズが大きな獲物を突き刺し鳴いた。 『カルテ3 生田勇吾――心的外傷(トラウマ)』 休憩所を兼ねた社員食堂は展望も良く、緑豊かな木々が目の前に広がっている。 オフィスの窓と同じく、ここからでも雨とともにアレは見える。 モズのはやにえ、枯れ木に刺さった蛇は今日もまだ生きていた。 びくりびくりと痙攣するように揺れているのか、それともただ単純に枯れ木が雨風に揺られているのだろうか。私には分からなかった。 雨曝しに串刺しにされた彼はどんな気分で生きているのだろうか、虚ろな瞳と目が合ったような気がした――どうせもう助からない、私は静かに視線を逸らした。 そして、嫌な人物と目が合ってしまった。 すぐに視線を逸らしたがどうやら遅かったらしく、私を見るなり、獲物を見つけたハイエナの顔で彼はやって来る。 コネだけで出世した、事務係を束ねる小早川係長だ。 「生田くん、いま休憩中?」 「ええ、まあ」 定食に箸を伸ばしているのだから一目瞭然だろう。 「そうかせっかくの時間なのに悪いね。んで、悪いついでで悪いんだけどさ、これ、明日までに纏めておいてくれないかな?」 ディスクとUSBメモリを目視し、思い当たりが合った私は箸を置き答えた。 「一課が製作中の新都心の世帯層と需要傾向のレポートですか。構いませんが――たしかこれは新垣さんが掛け持ちで担当していたと記憶していますが?」 「いや、あれなんだよ、うん。新垣さんはね、君と違って忙しいから今夜明るい店でお得意さんと接待なんだよ、そう、接待」 「会計士が接待ですか、私と違ってみなさんはお忙しいんですね」 会計士である新垣さんと係長が不倫関係であると知っていた私は、思わず余計なひと言を呟いてしまったようだ。 係長はタコのような顔を火照らせ、苛立った様子でディスクをテーブルに叩きつけた。 「それで、生田くんさ、できるの、できないの? どっち?」 「明日の正午までで宜しければ、まあ、なんとか」 「そう、じゃあ頼んだよ。ああ、これはあくまで事務同士の助け合いなんだから、上には黙っといてよね、わかった?」 わざとらしくカツカツと食堂の床を蹴って進む係長を眺め、私は小さく息を吐いた。 本職以外の仕事を押し付けられたのはこれで今月に入って二桁にはなるだろう。それもほとんどサービスに近い形、無報酬の奉仕。 ただいいように使われていると自覚はあったが――それでも断らなかったのは仕事に支障をきたさない程度の量であった事、そして断った時の相手の顔を見てしまうのが怖かったからである。 人の顔が醜くひしゃげる瞬間が、どうも苦手なのだ。 いつまでも記憶の隅にこべりついて離れない嫌な顔。気味の悪い顔。私がただ一つ、望む物があるとすればそれは忘却する能力だ。 また一つ周囲が私の陰口を叩く音が聞こえた。 その言葉は彼等にとってはほんの気まぐれ、軽口、食事中に行われる仲間以外を蔑みグループ意識を向上させるコミュニケーションの一種なのだとしても――彼等の意志とは反し、その呪いの言葉は私の記憶の中に永遠に生き続ける。 彼等がその日の晩に忘れてしまったとしても、私の中では一生反芻し続けるのだ。あの醜くひしゃげた唇と共に――。 せめて気分を誤魔化すために、私はパソコン用のシャープデザインの眼鏡をかけた。 ディスクとUSBをタブレットPCに繋ぎ、食事を再開しながら眺めていると、また一人、来客がやって来たが――今度の相手は警戒する必要などなかった。 「なんだい生田君、ずいぶんと気持ちの悪いモノが見える場所で食事しているじゃないか」 そう言って声を掛けてきたのは、私が務める営業二課、そして我が社の花形である営業一課の責任者である前田部長。 彼は性格に癖があるが、上がり気味の口角が印象的な紳士面をした美丈夫だった。 年齢を感じさせない華やかさと一流スーツを嫌みなく着こなす立ち振る舞いから大変モテるらしく――部内外ともに評判も高い。 どうしてただの営業二課、それも営業職ではなく一介の事務職である私が部長と親しいのか。それは単純に住まいである社員寮が同じだからである。 部長にまでなってしまうと特定の友人を作りづらいとは彼の弁だが、私はなんとなく彼が孤独な理由を察していた。 一言でいえば変人、なのである。 「外を見ながらだとどうしても目に入ってしまいますからね、慣れましたよ」 日替わりサンマ定食を乗せたトレーを抱えた部長に同席を促され、私はテーブルの真ん中に広げていたタブレットPCを下げた。 「モズのはやにえだっけ? 獲物を木の枝に刺しておくなんて趣味が悪い鳥だよね、あそこに刺さってるバッタなんでまだ生きているじゃないか。あっちのムカデは死んでいるか、むこうのカエルなんてもう干乾びている。なんだか、こわいね」 「越冬のために栄養をつけているんでしょうかね、まあ悪趣味なのは確かですけど、仕方ないんじゃないですか」 芳ばしく焼けたサンマのはらわたを箸で避けながら苦笑する私を眺め、前田部長はふふんとした様子で高い鼻から息を漏らす。 「そうか、生田君は知らないんだね。実はアレさ、餌じゃないらしいよ?」 「どういう意味ですか」 「生田君さ、毎日ここで食事しているみたいだけど、モズがあの刺さった獲物を食らった瞬間、みたことあるかい?」 サンマのはらわたを引き裂き美味しそうに口にする部長から、モズのはやにえに視線を移し、私は答えた。 「たしかに、見た事ないですね。じゃああれはいったい何のためにその――串刺しにしているんでしょうね」 「君はどう思う?」 「食欲じゃないとしたら、縄張り争い、または――求愛、メスへのアピールでしょうか。自分はこれほどに大きな獲物を捕らえられる強いオスだと、主張できますからね」 「なるほど、面白い見解だね。君は現実主義者なのかな」 というと、この答えは外れだったのだろう。まるで心理クイズのような口ぶりに、私は少し唇を曲げた。 「それで、答えは何なんですか?」 部長はクスクスと笑みながら瞳を閉じた。 「実はボクも知らないんだ。と、いうよりも明確の理由がわかっていないってのが正しいかな。日本のモズだけの習性じゃなくて海外のモズにも似た習性があるらしくてね、英国あたりでは屠殺人の鳥なんて呼ばれているらしいよ」 「ズルイですね」 「何がだい?」 「私にばかり答えのない解答をさせてですよ、部長はどうお考えなんですか」 「ボクかい、そうだねボクは――あれは釣り餌なんじゃないかと思うんだ。ほら、はやにえの匂いに惹かれてまた肉食の虫が寄ってきているだろう? それをモズはずっと遠くから眺めていて――本当に大好きな獲物がかかったら、サッと浚っていくつもりなんじゃないかな。あとはそうだね狩りじゃないとすれば――オスとしての本能かもしれないね」 「オスの本能?」 「ああ、そうだよ。はやにえにつられて寄ってきた同種のメスが、生贄にされた獲物を食べている間に誘拐する――そのための罠なんじゃないかな。そうすれば君の言う求愛の手間も省けるだろう?」 「悪趣味な答えですね」 「嫌いかい?」 「まあ、勉強にはなりますね」 冷たく返した私に、彼は小さく笑んだ。 「なんだかエッチな野鳥だよね」 「そう――ですね」 部長はモズとはやにえを眺めていたが、私は違った。干乾びた生贄の串刺しにされた身を濡らす雨がエッチだと感じて、目が離せなくなってしまっていたのである。 部長はうすらと汗ばみながら雨を眺める私の指に、そっと指先を当てる。 そして床をトントン――と、良く手入れが届いたピカピカな革靴で意味ありげに叩いた後、雨に震える私の股に靴裏を押し当て、踏み込んだ。 「今日は雨だね――大丈夫かい?」 「ええ……まあ、その」 誰からも見えない角度で、ぐぐぐ――と乱雑なステップが私の欲望を煽っている。 「あれ、おかしいな。お願いはちゃんと口にしないとわからない、そういつも言っていなかったかな?」 「お願いしても構いませんか?」 願望を隠すように、意識して淡々と呟いた私だったが――内心は劣情で溢れていた。 からかい楽しむような好奇な視線、美貌の壮年が私の顔を眺め微笑んでいる。 居た堪らなくなってしまうが、どうしようもなかった。雨が私の官能を犯していると知っている部長は、私の悪癖に付き合ってくれているのである。 「ああ、もちろんだよ。仕事が終わって帰ったら、ボクの部屋に来ればいい」 カタカタとテーブルを揺らすほど震えながら、私はこくりと頷いた。 「冷たい君の顔が歪む瞬間は――とてもかわいいからね、今夜が楽しみだよ」 艶を孕んだ低音と共に、意地悪な足が離れていった。 そこで思いだしたかのように部長は言った。 「ところでさ、一課期待の新人の話、聞いたかい?」 不意に仕事の話に戻された私はなんとか頭を切り替え、眼鏡と共に感情を整えた。 「いえ――、あいにくと、事務ばかりだと噂話が耳に入りにくいですから」 「グラフを気にしなくていいと楽でいいね、羨ましいよ」 「嫌味は結構ですよ。誰かがやらないといけない仕事なんですから、馬鹿にしないでください。それに男のくせに事務職、なんて馬鹿にされるのもそれなりに大変なんですけどね」 「苛められたりしたらすぐに報告しておくれよ、職権乱用してクビにしちゃうからさ」 きさくすぎる管理職の戯れ言に、私はなんとも答えようがなかった。 「それで、その新人がどうかしたんですか?」 「TOEICフルスコアで容貌も優秀、頭も性格もいいんだけど――少し問題があってね」 「それだけ聞いていれば何も問題ないと思うのですが――」 「何か心的外傷を患っている様でね、少し情緒が不安定なんだ。けれど本当に優秀だからさ、寮に入れて近くで見ててあげようと思ってね。実は今朝もう、荷物も運んであるんだ」 「あいかわらず仕事が早いですね」 「早い方が嫌われないらしいよ?」 「好みによると思いますが、まあプロの女性はそうお答えになるでしょうね。で、私にどうさせたいんですか」 指で卑猥な形を作った部長の冗談を聞き流し、私はそう先を促した。 「彼は重役のコネ入社でね、あまり無下にもできないんだ。だから彼に嫌われない様に中とか周りとか案内してあげて欲しいんだよ」 「部長が由縁を気にするなんて、珍しいですね。どなたのコネなんですか?」 「ボクの遠縁なんだ」 種明かしをする部長のしたり顔がまた一つ私の脳に刻まれた。 ――……予定より少し遅れてしまったか。 定時を一時間ほど遅れて退社した時、彼は既にエントランスで待っていた。 遅れる事が分かっていたので、前田部長に先に寮に向かっておいてくれと連絡して貰っていた筈だが――。 どうやら向こうは私に気が付いたようで、大きな身体をぶるりと振るわせ長い脚でカツカツカッカッと床を蹴りやってくる。 「生田先輩、ですよね?」 逆三角の身体のラインが際立つシャープなブラックスーツを着込んだ、長身の若者だった。目線を逸らしたまま私は言った。 「ああ、そうだよ。悪いね、どうやらだいぶ待たせてしまったようだ」 「とんでもないです、まだ五十七分二十三秒しか待っていませんし、それに僕が勝手に待たせていただいていただけですから」 「君は時間に厳しいんだね、そうでなかったら皮肉屋かな?」 「すみません、冗談のつもりだったんですが――外しちゃいましたね」 「ああ、なるほど。すまない、冗談だと気が付かなかったんだ。それで君、名前は?」 「桜庭実です、すみませんわざわざ案内までしてもらうのに……ご紹介が遅れました」 有能な新人くんはお辞儀までもがまるでファッションモデルのように整っていた。彼は自ら自己紹介をしない鈍感さを指摘されバツが悪いのか、何度も何度も頭を下げ、そして大きな手の平をこちらに差し出した。 握手の強制の様だ。一見すると情緒は安定しているように思えるが――。 体育会系のノリなのかもしれない。きっとそりが合わないだろうと思いながらも握手に応じた私は、事務的な声を意識して作る。 「構わないよ、これも仕事のうちだからね」 触れる彼の大きな手の平はまるで氷のように冷たい、冷え症なのだろう。 「温かい手、ですね」 「そうだろうか、あまりそう言われた事はないのだけれど――たぶん君の手が冷たいだけだと思うよ」 そう言って、その手をすげなく振り払ったのは、まるで彼の指の冷たさに引き込まれてしまいそうになったからだ。 かすかな劣情が浮かんでしまったのは、きっと外でじんわりと滴るこの雨のせいだろう。 やはり雨の日は落ち着かない。 「先にこれを渡しておこうか、私は事務係の生田。皆からは融通のきかない頑固人間と呼ばれているから――まあそういう感じの人間さ、よろしく頼むよ」 「どれくらい頑固なんですか?」 「そうだね、君を待たせると分かっていながら定時までに終わらせられなかった仕事を優先させるぐらいには、頑固だろうと思うよ。それでこれが、残業の理由」 と、できたばかりの彼の名刺をついでとばかりにケースごと手渡すと、彼はすこしあたふたとした様子で受け取った。たどたどしい手付きで名刺ケースをビジネスバッグにしまい込もうとするが。 「え、あ――あぁ、すみません」 彼は名刺をばらまいてしまった。 「君はどうやら色々と面倒そうな人間だ」 思わず苦笑と嫌味が飛び出てしまった。微かに濡れてしまった名刺を共に拾っていると、指先が触れ合ってしまった。彼は小さく窺うようにこちらを眺め、にんまりと頬を緩めた。 「すみません」 「いや――別に、君は謝ってばかりだね」 かすかに触れた筋張った指の硬さが、私の指先にしこりのようにひっかかっていた。 彼の瞳はまるで獲物を追う猫のように、ギョロリと私の指を追っていた。緊張して目の置きどころに困っているのだろうか。 いつまでも止まないしつこい秋雨の音を聞きながら、私は誤魔化すように手を拭った。 「では私についてきてください、歩いてすぐだから、まあ迷う事はないと思うよ」 「はい、今日からよろしくお願いします」 「私と君とは部は同じだけど、課も違うし係も違うんだ。ため口は困るけれど、そんなに畏まらなくてもいい」 「いえ、はい、その――すみません。まだ上下関係になれていなくて勝手が分からなくて、そのすみません」 ――顔だけしか取り柄のなさそうな坊やがTOEICフルスコアとはね。変な感じだよ。 人はみかけによらないのか、それともビジネス会話だけに秀でているのか。私は値踏みするように彼を上から下へと観察した。 まず印象に残るのはその長身、百八十は優に超えているだろう。 顔立ちの是非に点数をつけるのならば、普通なら好みの差が表れるだろうが――彼は別格だった。文句のつけようがない程に整った顔立ちをしていたのである。 まるで墨汁を吸わせたように真黒な髪と、怜悧で無機質そうな黒い眼が特徴的な美男子だ。イケメンであるには違いないが――ワイルドなハンサムというよりは、気品のある端整な顔立ち、と言った方がしっくりくるだろうか。 私の視線に気付いたのか、彼は小さくはにかんだ。 思わず視線を逸らしてしまった。きっと不躾で失礼な先客だと思われただろう。しかし彼は何とも思っていなかったのか、私の視線を追い掛け――さらに頬を緩めて微笑んだ。 「あの、もし良かったら。僕と友達になって貰えませんか?」 「どうだろうね、君ならもっといい友達がみつかるんじゃないかな」 私は答えをはぐらかした。会社に慣れればどうせ私の事など忘れてしまうだろう、ならばさほど親しくする必要もない、そう思っていた。 けれど彼は一瞬、ムッとした様子を見せて立ち止まった。そして――。 「僕は、あなたがいい」 と、彼はいつのまにか私の携帯をポケットから抜き取っていたのかスラスラとアドレスを交換してしまっていた。 交換が終わるとよほど嬉しかったのか、彼は満面の笑みですみませんと私に詫びを入れ、携帯電話を返してくれた。 変な男だ、それが素直な感想だった。 アドレスを交換したからか、もう友達だとばかりにきさくに語りかけてくる桜庭。その話に適当に相槌を打ちながら歩くと、丘の上にある小さな建物が見えてきた。 「ついたよ、あそこが寮だ。意外と近いだろう?」 「ついたって、どこに寮があるんですか?」 「あの物置みたいなボロっちいアパートが見えるだろう、アレだよ」 まさか営業一課二課に分けるほどには大きい企業の用意している寮が、こんなに古臭くチンケなアパートだとは、彼も想像していなかったのだろう。 困ったように固まった後、彼は取り繕うように言葉を漏らした。 「随分と古い施設なんですね」 「驚いただろう、それでも住んでみればけっこう良い場所だよ。内装だけは改善されているし、コンビニは近いし駅にも近い、家賃はほとんどタダも同然、まあ社に近過ぎるからたまに休日出勤を言い渡されるのが欠点――かな。ああ、洗濯は夜十時までによろしくね」 煤けたアパートの床に足を踏み入れた途端、ぎしりと鈍い音が鳴ったからか――彼は唇を尖らせながらもなんとかヒクついた笑顔を作った。 「あの、お風呂は?」 「大きな風呂ガマはないけれど、個人の部屋にちゃんとユニットバス、トイレと一緒にシャワールームが備え付けられているから衛生面は安心していいかな。まあどうしても大きな湯船に浸かりたいのなら銭湯が二つ奥の大通りにあるけれど――入店は八時までだから気をつけるといい」 「そのシャワールームは、二人で入ったら狭いですかね?」 「さあ、どうだろうね」 彼女でも連れこもうと言うのだろうか――最近の子のテンションにはついていけないと聞き流した私は、彼の部屋になる四号室の鍵を開けた。 前の入居者が部屋を明け渡す際に清掃したとはいえ、ずっと人の気配がなかったからだろう、中からは埃を孕んだ饐えた匂いが広がってくる。内部構造が同じだと知っていた私は迷わず電気をつけ、窓を開いた。 雨風の匂いが、私の鼻孔を揺すった。 「生田さんは三号室なんですね」 目の早い男だ。洞察力を買われてやってきたとの前評判は伊達じゃないのかもしれない。 「そう、それで前田部長が一号室。今日からは三人で暮らすんだ、ちゃんと部長にも挨拶しないと駄目だよ」 「あれ、四人寮なんですよね。なんで二号室は空いているんですか?」 「さあ、社の備品、催事用の脚立やら古い電灯が置いてあるらしいって話だけど――最近は経費節減、社内で催しモノをやらないからね、ずっとあかずのままさ。なんなら部長にカギ開けて貰うかい?」 「いえ、幽霊とかでたら嫌なんで、結構です」 「ふーん、君、幽霊駄目なんだ」 思わず笑んでしまった私に、彼もまた狐につままれたような顔をした後、深く笑んだ。 「他の社員の方が見られないのですが――もしかして、この棟しかないんですか?」 「他の棟は全部取り壊されたんだよ」 そう言って、私は窓の外を指差した。 取り壊された棟の跡地は、社が緑化を進める協会に入っているせいか、小動物の住む小さな林となっていた。丘の上に建つこのアパートは、木々の中心が覗ける位置にある。 特に目立つのはモフモフの生き物。外来生物である異国のリスだろうか。 「リス、お好きなんですか?」 「ああ、まあ嫌いじゃない」 「かわいいですね」 それはリスの方を差した言葉だったのだろうが、なぜか自分に言われている様な気がして口を噤んでしまう。 ――妙な雰囲気のある男だ。 と、私は警戒するように腕を組んでしまった。あからさまだったかもしれないが――構わず、彼は端整な顔立ちに柔和な笑みを浮かべている。 「餌とかやったら怒られちゃいますかね」 「そうだね、たぶん市には禁止されていると思うよ」 それでも彼が腕を伸ばすと、電線を辿りリスが釣られてやってきた。街に住むリスは人慣れしてしまっている種もいるとの話は、本当だったのかもしれない。 情緒不安定の期待の新人だと聞いていたが、こんなにへたれて鈍間そうなら警戒する必要もないだろう――と、私は肩の力を抜いた。 しかし、リスが集まり過ぎてしまったせいだろうか。獲物を求めてアレはやってきた。 奇怪な鳴き声が、雨に震える寮にこだました。リス達は怯え木の奥へと隠れてしまった。 「今のカタタタタってマシンガンみたいな鳴き声、なんなんですか?」 「モズだよ」 私は先ほどと同様に、窓の外の林、その隅に刺さる枯れ木を指差した。 枯れ木の枝先には、新たな獲物が胴から貫かれゆらゆらと揺れていた。 「あのオブジェみたいになっているのが、モズって生き物なんですか?」 「違うさ、あれはモズのはやにえっていうんだ。速度の速いに生贄の贄って書いて、はやにえ。昔の人は生贄の儀式だとも思っていたらしいよ。日本人なんてモズを凶鳥と認識していてね、彼等が啼く夜は死人がでるか、または死者が蘇ってくる――なんて信じていた地域もあるらしい」 「詳しいんですね」 知識を披露できる舞台を与えられている様な気がして、かすかな優越感が浮かんだ。 「部長に中途半端に問題を出されてね、悔しいから調べたんだ」 「負けず嫌いなんですか?」 私は唇を尖らせ、苛立ちを示すように強く腕を組んだ。 「そういうのじゃない、これは後学のためだよ」 桜庭はそう告げた私の顔を眺め小さく苦笑した。まるで解説をする私の表情を愉しむかのような、温かい表情だった。誤魔化すように私は、そこから二つ隣のまだ葉っぱを携えた木に隠れている小型の鳥を指差し、続けた。 「それで――あそこに少し変わったスズメみたいな鳥がいるだろう? アレがモズ。小さいけれど実は獰猛でね。あいつがこの枯れ木に獲物を刺し『はやにえ』にしているんだ。断続的な鳴き声を上げているのもあのモズさ」 しかし彼はモズではなく、はやにえの方に興味を湧かせている様である。 枯れ木と同化し始めていた独特なはやにえを眺めながら、彼は大げさとも思えるほどに目を丸くしていた。 「まだ生きているのもいますね、こういうの初めて見ましたが――ちょっと新鮮ですね」 「君はどうしてモズがこうするのだと思う?」 餌じゃないんだ。そう言って上から目線でからかってやろうと思っていた。しかし彼は妙に艶めいた微笑を携え答えた。 「きっと、彼はあの子が好きなんですよ」 「好き?」 「ええ、好きだから――ああして、遠くからあの子が困っている様をずっと眺めているんです。自分ではどうする事の出来ない現実にもがいて、鳴いて、苦しんで、じたばたと懸命に動いているあの子の苦悩を、ずっと楽しんでいたいんじゃないでしょうか」 そしてさきほどまで自らの腕になついていたリスを眺め平然と呟いた。 「いつかあのリスも刺されるんでしょうね」 違和感が過った。 常人ならば、あれを餌だと思うものだと、私は信じ切っていた。 思わず逃げ腰になってしまったせいで、リスが落としていたどんぐりを踏んでしまったのだろう。踏みつぶされた実が雨を吸った畳の上で、ぎしぎしと音を立て――割れた。 どんぐりから目線を戻した瞬間。私は息をのんだ。黒々とした彼の視線がまばたきすらせずに私の姿態をまじまじと覗いていたのだ。 ぞっとした。 突然だった。 まるで逃がすまいとばかりに――彼の腕が私の腰を抱きしめ、甘ったるい息を吐いた。 「こうして生田さんと対等にお話しできるの、なんだかとても幸せですね」 「君さ。私は一応先輩なんだ、対等じゃない」 息苦しさを感じた私は、咎めるようにそう呟いていた。 贄の刺さった枯れ木が――揺れた。 「どうしてですか? 僕達、友達になったんですよね」 何かのスイッチが入ってしまったように、彼の指はぎりぎりと私を掴んで離さない。 「あの、離してくれないかな?」 「僕はあなたと友達になりたい、駄目ですか?」 その握力の痛さ、執念を感じさせる重さが、なぜだかなつかしい甘さを放っている。 「どうかしましたか?」 私はハッとしてしまうような既視感に襲われていた。淫らで怠惰な白昼夢。それは力強い彼に支配されるあさましい劣情だった。 ――あの日のように、何もかも忘れてしまうぐらいにムチャクチャに犯されたい。 そうだ、あの少年に抱かれたあの瞬間だけは――私の脳は快楽だけに満たされていた。呪いの様に蠢くひしゃげた人間の唇を忘れる事が出来た。 触れる指先からじわりと劣情が浮かんでくる。鼻がスンスン揺れた。全部雨のせいだ。 私はおそるおそると彼を眺めてしまった。モズに怯えるリス達も、ざわつくアパートをおそるおそる窺っている。 「……なんでもないよ」 「なんでもないなんて思っていないですよね?」 壊れた人形のように首を傾げそう囀る彼は、息をのんでしまうほど端整な顔立ちだった、けれど冷たく強張ったまるで仮面、いや死人みたいな表情だった。 「なんでもないって言っているだろう」 「なら――いいんですが……」 そこで一度言葉を区切り、縋るような瞳で彼はせつなそうに唇を震わせた。 「僕の事、嫌いになったりしませんよね?」 突然正体を失った彼に、私は混乱していた。 「あ、ああ――嫌いになったりするわけないじゃないか。初めて聞いた意見だったから、少し驚いただけだよ」 無表情に強張っていた彼の端整な顔立ち。その黒く蠱惑的な容貌から表情が緩んでいく度に、堅く私を戒めていた指が、一つひとつ解けていく。 にんまりと頬笑み、彼は言った。 「良かった――僕達きっといい友達になれると思うんですよね。生田さんもそう思いますよね? そうだ、今晩一緒に食事いかがですか」 「今晩は駄目だ、部長と――その……仕事の打ち合わせがあるから」 「そうですか、それはとても残念です」 ぎしりと掴まれていた手首が、じんじんじわりと疼いていた。彼はまるで私を狙う猛禽類だ――とそんなありもしない錯覚が私の官能を蝕んでいた。目が潤んで、指が彼を求めて伸びそうになったが、私は必死に自制した。 「それじゃあ、悪いけど、あとは自分で荷解きしてくれ」 「はい、ありがとうございました。ではまた――」 彼は唇だけをバタバタと蠢かし、意味ありげにそう囁いた。惹き込まれてしまいそうになるほど、性的な色を持った男だった。 逃げるように部屋から飛び出すと、いやがおうでも雨の音が私の鼓膜をぽつりぽつりと叩く。私は雨と彼に怯えながら、部長の帰りを自室で待つ事にした。 窓の外ではモズが新たな獲物を枝に突き刺し、けたたましく囀りを上げた。 『カルテ4 前田部長――多淫症』 やはり夜になっても秋雨は止まず。 水滴がボロボロの屋根を叩く音が、私の肌をレイプしたままだった。砂利を踏み込む革靴の音を聞き、私は待ち侘びたように衣服を整え、廊下に飛びだした。 雨の日だけ行われる私と部長の秘密を、桜庭に知られる訳にはいかない。声をひそめ、唇を震わせた。 「部長――生田です」 一号室、部長の部屋の戸を震える指の背で叩き、うずうずと雨を眺めた。 あの一つひとつが、私の性器をさすっているようにさえ思えた。まるで麻薬中毒患者にさえなってしまったと思えるほどに、私は揺れているが――どうしても我慢が出来ない。 「ああ、開いているよ、入っておいで」 部長はまだ帰ったばかりなので、質の良いスーツを纏ったままだった。雨の滴を弾くコートの照り返りが、私の視界を甘く擽る。 部長の部屋は寮長室を兼ねているため他の部屋に比べると少しだけ広い。私はカチリと鍵を閉めた。清潔そうなシーツが張られたベッドに腰かける部長は、言葉を選び悩む私に、指をスッと差し伸べ穏やかな口調で囁いた。 「寒いんだろう? はやくおいでよ」 「はい、すみません……」 寝具に深く腰掛けた部長。その長い脚の間に座った私のスラックスを、部長の長い指がまさぐり、下ろしていく。 「石鹸の香りがするね」 「失礼がないようにと思って――変、でしたでしょうか」 「いやちょっとかわいいなって思っただけさ。それとアレだね、髪まで洗ってきたんだ、なんだか慣れていない女性を相手にしているようでおかしいかな」 「すみません」 「君は謝ってばかりだね、それもかわいいけれどもっと甘えてくれた方が楽しめるよ」 そう言って、濡れた私の髪を撫でてくれるその指は優しい。 部長の指からは女性の香水の匂いがした。おそらくここに来る前にも誰かと夜を愉しんでいたのだろう。部長は性に奔放だったのだ。 部長との夜は、申し訳なさと快楽とでいつも言葉が詰まってしまう。 けれど恋人でもない部長にこうして雨の夜を慰めてもらうのは、心地良くて好きだった。きっかけは飲み会。どちらのせいだったかは、正直分からない。 ただあの日、部長は言ったのだ。股を震わせながら雨を眺める酔った私の顔を見つけ、意地悪そうに微笑を作り――囁いたのだ。 君、男にムチャクチャに抱かれたいんだろう? ――と。 あの日、あの少年に犯され得た絶頂を忘れられないでいた私は、頷いていた。 「ボクはまだシャワーを浴びていないのだけれど、待っていられるかな?」 私はあさましく首を横に振った。 呆れとからかいの含んだ部長の吐息が、私のうなじを掻いた。 「このまま犯されたいのかい?」 「ん……ッ――」 私は息をのみ、頷いていた。 また深く笑んだ部長の指が、すでに慣らしておいた秘所に触れる。 「君の中、女の子みたいにヒクついて濡れているね。雨の日の君は本当に、淫乱だ。それとも待ち切れずに、自分で少ししてしまったのかな?」 「仰らないでください……」 「どうしてだい?」 「恥ずかしいですから」 「もっと恥ずかしくしてあげるよ」 性を熟知した大人の声音が、私の背筋を揺すった。 「腰上げて、私の上に座ってごらん?」 部長の硬い塊が――ズズッと入り込んできた。部長のスーツの生地が、私の剥き出しの脚を甘く擦っている。 「どうだい、自分よりも年上の男にはしたない場所を貫かれている感想は?」 「ぁ……ッ、……――すこし痛い……です」 たまらなかった。 「本当に痛いだけかな?」 「あつくて大きぃけど……きもちいい、です」 「よし、良い子だね」 スラックスのジッパーだけを寛がせる部長に対して、私はシャツとネクタイを羽織っただけの恥ずかしい姿。けれど部長は私のシャツを絶対に落としたりはしない、その下にある蛇のタトゥーを見られるのが嫌いな私を知っているのだろう。 部長は私のタトゥーを見ても、何も言わずにただ噛んだだけだったが――そういう場所から流れてきた者だとは気付いた筈だ。しかし何も聞こうとしなかった。言いたくない、知られたくない私の願望を汲み取ってくれたのだ。そして優しく包みこんでくれる部長を、私は人として尊敬していた。 けれど――愛じゃない。そして部長も私を暇つぶしの性玩具だと思っている、その自覚もあった。 「考え事かい? けっこう余裕じゃないか」 「ふぐ……――っあ……、部長――声を、抑えないと、きこえちゃいます――……から」 雨と部長のスーツの香りに恍惚とする私の身体を、部長は根元から味わうように腰を揺すり始めている。カシャリカシャリと部長のベルトの打ち鳴る音が、私の罪悪感を煽るように部屋にこだましていた。 「大丈夫さ、雨音で聞こえないし――鍵だって閉まっている」 顔に似合わず性に奔放な部長は、腹の中の感触を愉しむように深々と私を突き刺して――スイングする。奥の奥まで入り込んでくる熱い欲望に、腰の奥がぞくぞくと痺れていた。 「あ――すみません、イキそう……です」 「そう、ならイッちゃっていいよ。ボクはいつものように勝手に君の身体を使わせてもらうからさ、お互いに好きにやろうじゃないか」 頷いた私のうなじを、部長の意地悪な唇が吸った。何度も啄ばむようにキスを落とされ、ぞくりぞくりと身が震えてしまう。視界が弾けてしまいそうになる。達してしまいそうになる。けれど、あの日の絶頂には程遠い。もっと、もっとあの日は弾けていた。 「君はほんとうに、まじめそうな顔に似合わず――エッチだね」 「あ……ッ、ッ――」 壊されるくらい愛されたい――ぽっかりと空いた私の心が、そう叫んでいた。 恥ずべき願望が私の頭に浮かんだ――瞬間。 ノックの音が私の思考に入り込んできた。 「苦しそうな声が聞こえていますが、どうかなさったんですか?」 今日入居してきたばかりの桜庭の声だった。 狼狽する私とは裏腹に、部長はうってかわった冷静な仕草で私の口元を大きな手で覆い、言った。 「なんでもないよ、テレビの音が大きかったかな。すまなかったね」 そう言いながらも、部長の悪戯な腰使いは止まらない。むしろ羞恥から感じてしまう私の悪癖を煽るように、絶頂目掛けての激しいピストン運動を行っている。まるでレイプのような手の置かれ方に、私の性は昂っていく。 官能を題材にした漫画によくあるシチュエーションであったが、実際に体験してみるとそれは想像以上の背徳感だった。腰の奥からじわりと広がる広範囲な痺れが、股と脳を擽っていた。 「……ぅ……う……――!」 身を痙攣させてしまった私は、部長の手に声と息を殺されながら――達していた。きゅっと丸まってしまう足先は、恥ずかしながらも死にゆく虫のように小刻みに痙攣している。 感じ過ぎて、痙攣が止まらないのだ。恥ずかしくて、堪らなかった。 そんな私の気も知らずに、桜庭は柔和な声音で呟いた。 「あ、すみません。せっかくお休みだった所を邪魔してしまったみたいですね」 「気にしないでくれていいさ。ところでどうだい、会社には慣れそうかな?」 「ええ、みなさんとても良い人ばかりで――僕にはもったいないほど優しくしてくれます」 ポタポタポタと、床に放たれていく私の白濁を眺めながら部長が一瞬だけ、深く息を呑み込んだ。 「そうか、それはよかった。君には期待しているんだ、上手くやってくれる事を期待しているよ」 温かい異物が、体内に埋め込まれていく感覚に私の身は焦れて揺れた。吐精の瞬間、熱い肉棒が中で脈打つその独特な感触が、たまらなく心地良かったのである。 「あの、ちょっとご相談があるんですが、いま大丈夫でしょうか?」 「んー、そうだね。少しだけ待ってくれるかな」 部長は私の中に飛沫を放ちながらも、普段とかわらぬ飄々とした声音で返答をしている。その余裕さになぜだかオスの強さを感じてしまった私は、強い男に支配される被虐官能に擽られ、ますます身悶えてしまった。 「……っ」 締めつけてしまったからか、こら――と、部長が私を小声で窘める。 塞がれた私の口からは、ふーふーとくぐもった甘い息が漏れていた。手の平で覆われた私の顔は次第にこもった熱を帯びていく。 「大丈夫、鍵は閉めたんだろう?」 と、部長は真赤に実った私の耳をかじり囁いた。私は身をぶるりと揺らしながら頷いた。 「相談ってなにかな?」 「生田さんの事で、ちょっと」 心臓が跳ねてしまいそうだった。 「彼にかい?」 「ええ、生田さん。いまそちらにいらっしゃいますよね?」 凛とした口調。しかし断言したような物言いは、まるで私を責めているかのようにさえ思えた。 それでも私は部長の上で――感じていた。 「いらっしゃいますよね?」 ガチャガチャガチャと、ノブを乱雑に回す音が部屋に響く。 震える私の腰のくびれを掴んだ部長は小声で私に囁いた。 「どうするかい、どうやら彼は気付いているようだ。せっかくだから一緒に、可愛がってもらうかい?」 状況を愉しむような跳ねた声音だった。私は首を横に振った。 「……ッ!」 扉が軋むほど強く、音が鳴っていた。それはまるでホラー映画の様に、がたりがたりと響き続けている。そして――ついに、扉が外れたのか、雨を背景にした闇の中で彼の姿がぼんやりと浮かび上がった。 ギョロリと重たい視線が、部長の上ではしたなく脚を開いている私の素肌に乗ってくる。私は羞恥のあまり声を漏らしてしまいそうだったが、いまだ部長の大きな手に口を塞がれているせいで声は漏れなかった。 桜庭は首の後ろに手を置き、申し訳なさそうに私を眺め、唇だけを動かせて見せた。 「部長と生田さんがそういう関係だって噂、本当だったんですね」 「まいったな、ボクはこれでも管理職だからね。あまりこういう事を口外されると困ってしまうんだよ」 部長の声音も井戸水の様に低く湿っていた。 「誰にも言いませんから、僕にもお借りできませんか?」 「だってさ、まあ仕方ないよね――生田君」 私は首を横に振った。ぶんぶんぶんぶん、と駄々をこねる子供みたいに暴れていたのだと思う。 あまりにも突然の共謀に、私は理性を奮い立たせ抗った。声を求めて部長の指に噛みついたが、その指はまったく離れようとしない。 だんだんと血が滲んできたが、部長はいつもと変わらぬ飄々とした声で微笑していた。 「大丈夫、だって生田君。嫌だって言っていないから」 私は怖くなっていた。初めて部長の飽くなき性への欲求が怖いと感じていた。 身を引こうとする部長を制止し、桜庭は唇を妖しく蠢かせた。 「部長はそのままでいいですよ。ねぇ生田さん、三人じゃないとできないこと、しましょうか?」 と、桜庭は部長と同様にジッパーだけを寛がせ、既に猛った雄々しい塊を私と部長が繋がる箇所に押し当てた。 何をされるか分かってしまった私は――暴れた。 「いきなりそれは不味いんじゃないかな? まあボクは刺激があった方が愉しいから、構わないけれどね」 「大丈夫です、生田さんも入れて欲しいって顔していますから」 塞がれた口をギュッと結び、私は再び顔を横に振った。 けれど大人の男二人の力に叶う筈もなかった。 「本当ですか? 僕にはあなたが待ち望んでいるようにしか思えないのですが――限界ギリギリまで身体の中心に熱いモノを埋め込まれて、むちゃくちゃに壊されたい、愛されたい……何もかも忘れてしまいたい。そんなエッチな顔、してますよね?」 私は涙でグジョグジョにした顔を腫らして、鼻をスンスン鳴らして必死に否定をした。けれど、心のどこかではもっと強い刺激を待望していた。 桜庭は部長の指をぎしぎしと一本ずつ外していき、開いた私の唇に向かい唇を近付けながら甘く囁いた。 「エッチで淫らでうそつきなあなたは、かわいいですね」 唇が深く重なった瞬間。 暗い微笑と息遣い、そして雨音と共に――彼が私の身に入り込んできた。 「んぐぅぅぅ……ッ、ッッ――」 めしりめしり――と、いままで感じた事のない悦楽が私の中を満たしていた。肉の襞がぴりぴりと辛子を咥えこんだように、熱く震えていた。けれど、痛みすらも心地良いと感じてしまうほど頭がチカチカとした。 私の視界には彼の美しい顔立ちと、ドアが壊れたせいで廊下が丸見えになってしまったその先――秋雨が降り注ぐ夜空が映っている。 陰惨だけれども甘いレイプだった。鳥肌が立ってしまうほど、感じていた。 「……少しだけ、狭かったですね。けれど大丈夫、切れてなんかいませんよ」 「うぅぅぅ……むぅ――……ッ」 ようやく全ての刀身を埋め込んだのか、桜庭は満足そうに息を吐いた。ズビズビと鼻を鳴らす私の顔を長く筋張った指で拭い清め、また深くキスをよこす。呼吸さえも奪う様な濃いキスだった。 信じられないほどの圧迫感だったが、私の屹立は存在を主張し蜜を溢れさせていた。 「それじゃあ生田君、悪いけれど――ボクも勝手に楽しませて貰うよ」 「んぐぅ……んッ――ん、んッ!」 酸素を求めもがくが、二人の男は弱っていく私を愉しむように交互に身を奮い始めた。 前から後ろから、強靭な成人男性が好き勝手に私を使っている。 ずしりぎしりと寝具が凹み、ガタガタガタと床を鳴らしている。愛してもいない男二人に甘く犯されている。歪んだ背徳感に、私の身震いは吐精となって更に寝具を揺らした。 私の達した痙攣音を聞いたのだろう。桜庭は「よくできました」と、私の頬を褒めるように撫でてくれる。 それでも二人はまだ達していないからか、私を揺すりながら談笑を始めてしまう。 「桜庭くんさ、君はどうして生田君を抱きたいと思ったんだい?」 「どうしてと言われても――あれほど熱っぽくかわいく誘われ続けてたら、誰だってこうしていたと思いますよ」 答えた桜庭の唇の代わりに再び大きな手で私の口を覆い、部長はくすりと微笑した。 「だからって上司と一緒に二輪ざしするのかい? それも初日に――やっぱり君は変わっているね」 「一目惚れって、信じますか?」 「さあ、ボクはあまり信じないね。非――現実的なんじゃないかな?」 そう言いながら、部長の指が再びそそりはじめた私の陰茎をモノの様に掴み、暇つぶしの様に扱き始めた。 「……ッ」 「部長こそ、どうして生田さんを抱いてあげていたんですか?」 「そうだね――彼がいつも独りで甘ったるい顔で欲しがっていたからかな。誰かに愛されたい、可愛がられたいって願っていた――ボクもお気に入りに逃げられてしまった直後で寂しかったから、ちょうどよかったのかもしれないね」 「僕が貰っても、かまいませんよね? 部長、他に好きな人がいるみたいですし」 初めて部長の動きが緩んだ。そして、冷淡な口調で言った。 「いいよ、君が協力してくれるなら――あげるよ」 私は悪夢にさえ思える淫乱な現実の中で、拒絶と充実感に囚われ――鳴いた。 『カルテ5 生田勇吾――異常記憶(忘れたい病)』 一週間が経っていた。 彼、桜庭実はたった七日で私の懐に図々しく寄りかかる様になっていた。 彼は天性の人間誑しだったのだ。 定時が終わるといつも何故か、私は彼の部屋にいた。休日も、なぜかいつのまにか彼の部屋へと招き入れられ、何事もなく腕の中に抱かれていた。まるで飼い主をみつけた忠犬とばかりに、べったりと懐かれてしまったのである。 彼は私の心の隙間に入り込んできていた。 彼と居ると、心地が良いのである。 彼が来てから私に対する社内の評判はまるで変わってしまった。私の唯一の特技である記憶能力の良さ、それをすぐに見抜いた彼は徐々に、だが確実に周囲にアピールしてくれたのだ。 特技と言えば聞こえが良いが――これは脳に患った病気と同じだった。 私の脳は忘却能力を忘れてしまったのである。 私を診察した医者は私の事を影でサヴァンのできそこないだと言っていた。サヴァン症候群――脳に何らかの障害を持つが、特定分野において類稀な才能を発揮する人種。そこから連想された揶揄だろう。 けれど、私には彼等ほどの天才的な能力は無かった。 ただ忘れられないだけ、それしか能がないのである。 しかしたったそれだけの事が私には苦痛だった。どんなに嫌な事があっても、どんなに辛い思いをしても一生、忘れる事が出来ない。歳を取れば取るほどに、嫌な思い出が雪だるまのように膨らんでいくのだ。 ひしゃげた悪鬼の顔をした母に捨てられる度、帰り道を必死に記憶し忘れないようにと脳をフル稼働し続けたせいだ――と私自身は原因をそう思っていたが、実際のところは分からない。ただ、母に捨てられてしまうほどに異常な記憶力を持っていたのは確かだった。 どれほど遠くに、どれほど難解の場所に捨てられてもボロボロになって帰ってくる私を怯えながら見つめる母の顔。そしてあの唇は、今も私の記憶の中で罵声を吐き続けている。 気持ち悪い子。あの子、怖いの。生田君は普通じゃない。生田君はオバケみたいで、嫌。 醜く歪んだ唇が、いつもどこかで私を罵り嘲笑っていた。 忘れたい。忘れたい。あの恐ろしい唇を一瞬でもいいから忘れたい。 だから、全てを吹き飛ばしてしまうほどの快楽をくれる情事が――忘れられないのだ。 けれど彼はそれを才能だと褒めてくれた。そしてまるで赤子にハイハイを教えるかのように、ゆっくりと丁寧に前向きな流れへと変えてくれたのである。 たとえば毎日欠かさず目を通している新聞は、年号と日付を言われただけで一言一句間違えずに暗唱できる。それを営業部の事務として務め、眺めてきた資料にも応用できると教えてくれたのだ。 二課のみならず一課全員の営業先と契約の有無、取った仕事の量、個人情報保護法によりデータとして残せない顧客先の家族情報、訪ねてきた取引先の名刺、電話番号、通っているキャバクラの名前と場所など――一度見聞きした情報を全て暗記してしまう私の呪われた脳を、仕事に生かしてくれているのである。 初めこそ周囲はそんなに覚えている筈がないと笑っていた。しかし、ことあるごとに私を訪ね質問を繰り返す新入社員の桜庭の問いに、資料を閲覧せずにツンケンと答える私を見ていたのだろう。 周囲は私を生き字引とばかりに頼る様になっていた。 生田さんに聞けばいい。あの生田さんなら覚えている筈だ。あの生田さんなら――……。 そう言われる様になったせいか、おかげか、私は少々多忙になったが。いままでただの頑固な事務男と言われていた私にとって、仕事への賞賛はなにより新鮮で――嬉しかった。 むろん、桜庭は前評判通りのエースそのものだった。 一課の壁には、たった一週間で塗り替えられた新記録を示すグラフが、まるで表彰状の様に飾られている。成績良好、器量も抜群、性格もすこし変わっているが明るく聡明。彼はすぐさま社内で人気になり、誰からも可愛がられるようになっていた。そんな彼が私に懐いてくれる――それも嬉しかった。 しかし、それと同時に、すこし怖くなった。幸せすぎて怖いのだ。 私は記憶力が良過ぎる事が災いしてか、一度覚えてしまったら欲さえも二度と忘れる事が出来ない。だからこの優越感を忘れられない。あさましい心がもっと賞賛を求め、うずうずと蠢いている。 周囲からの評価が上がれば上がるほど、失望される時がくるのではないかと不安に揺らぐ瞬間がある。そして彼に懐かれる今は楽しいが、もし彼が去ってしまったら自分には何も残らない。一度手にした幸福が指から零れてしまうかもしれない恐怖に、怯えた。 不意に、私を思考の渦から呼び起こす声が聞こえてきた。声まで凛々しい彼の声だ。 「何か手伝いましょうか?」 「いや、大丈夫だ。休んでいてくれて構わないよ」 と、私は怯えを隠しながら答えた。彼を怒らせてはいけない、彼に嫌われてはいけない。 それは最優先事項だ。 だから今もこうして、彼の部屋で、彼のために――小さなキッチンで彼が望む、彼が好きそうなモノを作り、彼の気を引きとめようとしている。 「すみません、いつもあなたにばかり食事を頼ってしまって」 「いや、一人分を作るのも二人分を作るのも一緒だからね。気にしないでくれていいさ」 私は自らの汚さ、醜さを自覚していたが――やめることなどできなかった。強迫観念に似た衝動に支配され、どうすることもできなかった。 口でこそ辛辣に反発しては見るモノの、気が付くと、いつも彼の望みを最優先にしていた。まるでマインドコントロールされているようだったが――どうしても抗えないのだ。 そして彼はそれを喜んでいる。 逆らえない私を近くで眺め、うっとりと端整な顔立ちを傾け、甘ったるい声で私の名を呼ぶのである。 「生田さんは優しいですね」 「うるさい、気が散るから……あまり変な事言わないでくれるかな」 「はーい、すみません。あーあ、また怒られちゃいましたね」 これは、かつてのあの日。あの少年に支配されていた日々に、少し似ていた。 しかし彼は彼じゃない。いくら七年の月日が経っているとはいえ、記憶力の良い私が彼の顔を彼と見間違える筈がない。 そもそも彼の髪の色はブロンド、瞳の色はスカイブルー。そして彼は髪も瞳も真黒だ。 そこでようやく私はあの少年を彼と呼び、桜庭の事も彼と呼び、混同している自分の思考の迷いに気が付いた。 もしや桜庭は成長した真くんなのではないか、そんなありえない思考が過る。 それは――願望、だったのかもしれない。 心のどこかで私はあの少年を待ち侘びていたのだ。一人さびしい暮らしから掬いあげてくれる誰かを探していたのである。 白馬に乗った王子様、シンデレラシンドローム、誰かが助けてくれると、誰かに助けて欲しいと過ぎた妄想をしてしまったのだろう。 けれど、彼は妄想ではなく――実際に私を助けてくれた。でも彼じゃない、彼の筈がない。まるで心を読んでしまうほどに聡い彼だったら、今すぐにでも私の思考を汲み取り、浅ましい望みを叶えてくれる筈だ。 あの日のように犯されたい――と。 ターンッ……と、振りおろした包丁が豚バラ肉の塊をまっぷたつに切り裂いた。 ――そんなのばかげている。 脂ぎった包丁に反射し映る私の顔は、醜い欲で歪んでいた。 それにもし彼が生きていたのなら、きっと私を怨んでいるだろう。消えてしまえと願っておきながらいまさら彼に縋るなんて、身勝手で強欲過ぎる。 リビングで待っていた素足の桜庭がゆったりと歩み寄り、私を背後から抱きしめながら甘く囁いた。 「どうしたんですか、そんなに怖い顔して」 「いや、なんでもない。ちょっと玉ねぎが目に染みたのかな」 たまねぎではなく崩れた豚バラ肉を眺め、彼は嘘を見抜いたのだろう、小さく苦笑した。 「あ……」 まるで新妻を眺める顔で、彼は当然のように私の腰を抱きしめ肩に顎を乗せ、嬉しそうにまた囁いた。 「今日は何を作ってくれるんですか?」 まるで恋人の距離感だった。図々しい人間は嫌いな筈なのに、なぜか心は彼を受け入れていた。距離感のおかしさ、異常さを理性では把握しているが――心と体が麻痺して動かなかった。 「じゃがいもが食べたいって言っていただろう? だから、肉じゃが、それと副菜にほうれん草の胡麻あえと――オクラが良さそうなのあったから醤油とカツオ節で食べようと思うんだ、すこし安直だったかな?」 「いえ、嬉しいです」 更に強く抱きついてきた彼の長い足の指先が、私のかかとをこつりとさすった。 私はぎこちなく、肩を蠢かせているのだと思う。しかし、そんな私を腕に抱き彼はしんそこ嬉しそうに息を吐いていた。 そのまま腕を腰に回してくれないだろうか。 思った瞬間、彼の指が私の腰に回った。 痺れと共に、快楽は恐怖となった。 「あんまり引っ付かないでくれよ、刃物を持っているんだ、危ないだろ」 「なんだか兄ができたみたいで嬉しくて、すみません」 私が本気で嫌だと思ったその瞬間――彼はその手を離してくれた。 まばらに屋根を叩く雨音が、理性の扉を擽る。官能的な劣情が腰の奥をずしりと回った。 ――本当に、今の私はどうかしている。 私の脳のモニターにはいつもあの日の淫らな映像が流れている。そしてそれに加え、部長と彼と三人で淫らに交わったあの日の記憶も刻まれていた。 不意に、ドス黒く甘い声音が私を現実に引き戻した。 「ムチャクチャにされたいんですか?」 「え?」 それはこの柔和そうな青年から零れた言葉だった。 聞き間違いだったのだろうか。 振り向こうとするが、思いのほか彼は怪力なのか――背後から私を抱く逞しい腕が邪魔をして叶わない。 恐怖と支配される快楽に満たされた。 唾を飲み込んだ喉が鳴って、彼の指が触れる箇所がざわざわと火照り始めた。 雨音が響く窓の外から、モズの鳴き声が響き渡っていた。 ――どうしようか、何か言わなくてはならないのに、言葉が見つからない。君から話しかけてくれれば……楽なのに。 もしかしたら桜庭はあの少年と同じ人種なのかもしれない。けれど彼じゃない。私が欲しいのは、私が待っているのは――彼だ。 それが彼への償いだ。そして、真くんを心の一番に置きたい、それが私の願望だった。 命を投げ捨ててしまえるほどに私を愛してくれた彼の愛が、たまらなく愛しいものに思えていた。 思わず後ずさる私を彼は何食わぬ顔で正面から抱きしめた。 「どうして本気で逃げるんですか?」 「悪い、こういう冗談は嫌いだ」 「なんだかすごく抱き心地いいですよね。こうしていると安心しませんか? 僕はします」 ぞくりと舐めまわすような蜜のようなぬめった声音が肌を撫でていた。 一瞬、あの少年の顔が浮かんだ。 そして脚が男を受け入れやすいように自然と開いてしまいそうになった。あの時みたいに、犯されたい。そんな恥ずべき条件反射に気付いた私の足先は、カタカタと震えていた。 「ごめん、本当に放してくれないかな」 「もう少し、いいじゃないですか」 腰が砕けてしまいそうだった。 「はなしてくれ!」 私は思わず彼を突き飛ばしていた。 前屈みになっていた私は口元を押さえ、なんとか荒い呼吸を整えた。 「どうして嫌なんですか、あなたが望んでいた事なのに」 首を斜めに傾げた桜庭は、首の後ろに手を置き淡々とそう呟いた。 「どうして私の考えが分かるんだ」 まばたきすら忘れて、食い入るように私を眺める彼の視線は、重い。熱い。痛い。 「どうしてって、あなたの顔に書いてあるじゃないですか? あなたは僕に抱かれたがっている、ここまでは間違っていませんよね? ならオカシイですよ。生田さん、ちょっと変ですよ。なんで拒まれるのか、僕にはそれが分からない。おかしいですよ、ちゃんと説明していただくまで僕はあなたを何度でも抱きしめます」 ――変なのは君だ! そう叫びそうになった。 けれど距離感の測り方を知らない彼も怖いが、なによりも怖いのは――その熱を欲してしまっている浅ましい私の願望だった。 「いいですよ、なら――あなたが望んでくれるようになるまで、僕は絶対にあなたを抱いてあげません。それでいいですよね?」 「勝手にすればいい」 「なら勝負しましょうか、どちらが先に折れるか――素直になれるのかの勝負です」 私の一番は桜庭ではなく真くんだ。 「私は君には従わないっ!」 「ああ、そうですか。まあ僕はあなたが素直になれたら考えてあげてもいいですけど、どうしますか?」 揶揄を孕んだ言葉だった。 私は意地でも彼に従いたくなくなった。けれど、抗えない。抗いたくなくなるほどに彼の腕の中は甘そうだった。甘ったるい誘惑が私の鼻をスンスンと揺すり続ける。 「どうしました? もう、我慢できないんですか」 「そんなんじゃない……」 「どうして素直になれないのか、僕には理解が出来ません」 「君が――真くんならよかったのに」 言ってしまった後、二人の世界は確かに止まった。 しばらくして。 唇を震わせ床に向かい吐いた私の言葉を堪能したのか、彼の瞳もまるで歓喜したように震えた。 突然だった。 「僕の負けでいいです」 かみつくようなキスが何度も何度も襲ってきた。 情熱を帯びた甘いキスだった。 「……ふぅ――ッ!」 股に長い脚を通され、上に乗せられていた。煽るように、肌を擦りつけてくる彼はまるで人が変わってしまったように強引だった。獣が異性にフェロモンをすりつけるような、執拗な愛撫だった。 浮いた爪先がカッカッと床を蹴ってしまうと、畳の匂いが鼻孔を擽る。 「あなたの一番を僕に下さい」 「いやだ……これは真くんのモノだ。これだけは、あげられない」 「そんなもの僕が奪ってあげますよ」 どうしようもなくなってしまう。そう思った瞬間、思わぬ助け船がやってきた。 「あー、ちょっと用があるんだけど――もしかしてお邪魔だったかな?」 そこに現れたのは、部長だった。 救いの手に、私は跳ねる心臓を抑えながら掴まった。桜庭の瞳がざわざわと揺らいだ。腕が私を抱きしめる形でふわふわと浮いていた。 「いえ、それでどうしたんですか?」 「えっと――生田君、ちょっといいかな。君にお客さんなんだ」 私はまるで捨てられた子犬のような顔をしている桜庭から目を背けた。 「はい、いま行きますのでちょっと待っていて貰って下さい。すみません」 部長は分かったと頷き、部屋の戸を閉めた。 「生田さん、すみません――その、冗談が過ぎました」 「悪いけど、二度とその話はしないでくれないか」 「そんなの、嫌です」 「しばらく距離を置かせてくれ」 私の吐き捨てた言葉に、彼は明らかに傷付いた顔をした。 「なんで、そんなの一方的に酷いですよ」 「部長とお客さん、待たせてるから――ごめん」 私は彼から逃げだした。 『カルテ6 藤堂保――相貌失認(顔なし病)』 厄は続いてやって来るものなのだろうか――私の部屋の前に、部長とそしてもう一人懐かしい男がいた。 そこにいたのは思いもしなかった人物、かつて私を支配していた主――藤堂保だった。 人の顔を忘れられない私と真逆で、人の顔を覚えられない男。この男もまた距離感の測り方を知らない怖い男だ。 「よぉ、元気にしてたか!」 「藤堂……さん」 昔から凛々しい顔立ちをした男だったが、今の彼には明らかな貫禄がついていた。 藤堂は部長に営業スマイルを作り、眉を上げながらヘラヘラと頭を下げた。 「えーと、アンタ寮長さん? わりぃな案内させちまって」 「構いませんよ、なかなか良いコートをお召しだね。イギリス製かな?」 そう言って部長は、藤堂が袖を通さず偉そうに羽織っているコートを眺め、感心したように腕を組んでいた。 「お、分かってくれるんか。いやぁ、お目が高い寮長さんだな、なぁ、勇吾」 ファーストネームで呼ぶ関係だと知ったからか、部長の瞳から警戒の色が消えていく。 まさか部長がいる目の前で藤堂と話をするわけにはいかない、そんな空気を察したのか部長は藤堂のスーツから目線を逸らし一度だけ礼をした。 「それじゃあごゆっくりどうぞ――生田君、僕は先に休ませてもらうよ」 「アンタも一緒にどうだい?」 そう言って藤堂は手土産だったのか、酒を覗かせた大きな袋を片手だけで掲げてみせた。 部長は肩を竦めて眉を下げた。 「折角だけど遠慮させてもらうよ。七年ぶりの再会なんだろう? 邪魔したら悪いからね、うるさい上司は退散させて貰うさ。あまり騒がないでおくれよ」 気配りの回る上司を疎ましく思ったのはこれが初めてだった。 藤堂は部長が自室に戻ったのを確認すると、酒を放り投げ私を掴み――部屋へと引きずり込んだ。 「っ……つ」 着崩したカジュアルスーツから漂ってくる濃い香水の匂いが、私の鼻孔を刺す。 畳みへと叩きつけられ、尻餅をついた私を藤堂は複雑な表情を浮かべて眺めている。 鋭い目つきに無理やりに笑みを作った藤堂は、まるで私の心を探るような声音で囁いた。 「七年振りか、久しいな。あれだお前、相変わらずその怨みがましい面は変わってねぇな」 身体が震えてしまいそうだった。何度も暴力を教え込まれた身体が揺れていた。 しかしあの蛇のタトゥーがコートに隠れているせいか、なんとか話す事だけはできた。 せめてもの虚勢を作り、私は嘲笑した。 「あなたが私の顔を覚えているなんて、まるで病が治ったような口ぶりですね」 「減らず口も変わらずか、なんだか嬉しいなぁ――昔の女がそのまんま蘇ってきた気分だ。なぁ、おい勇吾。これが今のオレの顔だ、オレのかわりにちゃんと覚えておいてくれよ」 「……帰って下さい、今のあなたの顔なんて覚えたくもないです」 「ずいぶんと冷てぇ言い方だな、え、勇吾。おまえ、まさかさんざんオレに世話になったの忘れちまったわけじゃねぇだろうな」 「私が忘れるわけ――忘れられるわけ、ないじゃないですか」 「そうだよな、お前、そういう変な才能だけはあったもんな。懐かしいな、おい、あった奴の顔も名前もタバコの銘柄、扱ってる麻薬の種類だって全部一発で覚えちまう。今思えば、お前、それは才能だったんだろうな」 やはり、だからこそこの男は私に執着していたのだろうか。 「帰って下さい、ヤクザはもううんざりなんです。警察呼びますよ」 「なに言ってやがる、背中にあんな猛々しい蛇を背負ってるくせに――はは、笑わせるんじゃねぇよ」 「嫌がる私に無理やり――っ、むりやり押さえつけて彫らせたんじゃないですか」 腕を押さえつけられ、足を押さえつけられ――麻酔もなしに無理やりにタトゥーを彫られた痛みの数々が今さらになって背をきつく刺していた。記憶力の良過ぎる脳が、痛みだけをフラッシュバックしていたのだ。 あの時の藤堂は痛みに泣く私を眺め、まるで支配欲を満たすように狂気じみた笑みを浮かべながら写真を撮り続けていた。 「たりめぇだ、箔がつくってーのに、いつまで経ってもオレの命令無視して彫らなかったてめぇが全部悪いんだろ、あいかわらずグズな野郎だ」 あいかわらず本音の言えない男だと感じていた。 藤堂は私の背に蛇を刻む事によって、目印をつけたのだ。人間の顔だけを覚えられないこの男は、その蛇の顔を眺めることで私を私だと認識していたのだ。 あの時、もっとこの男が素直になってくれたのなら、そして私が頑固で利己的な心醜い人間ではなかったら――今頃二人はどうしていたのだろうか。 怯む心を奮い立たせ、私はなんとか気丈さを保ち男を睨んだ。 「……それで――いまさら私に何の用ですか?」 「実はな、ボスから独立して新しい組を作ったんだ」 「孤立の間違えじゃないですか?」 「減らず口を」 と、藤堂は嬉しそうに鼻を鳴らした。そして一枚の写真を見せてくる。おそらく金融ヤクザに戻ったのだろう、そこには立派なビルが映っていた。 「あなたに付き従うモノ好きがまだいたんですね」 「てめぇどうせ暇なんだろ、オレの下に戻ってこいや。最近はサツもけっこう煩くてな、すぐにガサ入れきめやがる。うかうかと顧客のデータを電子上に残せねぇんだ。なぁ、ここまで言えば分かるだろ?」 「分かりたくありません」 「一度見聞きしたもんは絶対に忘れないお前が、今のオレには必要なんだ。オレのメモ帳になれ、ずっと一緒に置いてやる。美味いもん食わせてやるし、良いスーツだって買ってやる。そうだな、マンションだって買ってやったっていい。どうだ、悪い話じゃねぇだろ」 それはまるで機嫌を探るような猫なで声だった。 「私は、今の生活を捨てたくありません」 「お前、じゃがいもって知ってるか」 「当たり前ですよ、いきなりどうしたんですか」 「メークイン、男爵、さやか、スノーデン」 「からかっているなら、もう警察呼びますよ」 「すげぇ気に入って、すげぇ愛して抱いた女でもな――次の朝になるとどのじゃがいもなのか分からないんだ」 「だからあなたはいつも女の髪の毛を一本だけ持ってきて私に聞きましたよね、これはどの女の髪の毛か――って」 そしていつもその女の人相書きを私に描かせた。髪の毛から女の顔を認識していた私は鉛筆の濃淡だけでその女の顔を正確に描き起こす、すると藤堂は安心したようにタバコを吸って深い息を吐いていた。 「だけど、お前がいなくなってからは――お前の顔だけがじゃがいもの中に浮かぶんだ。お前の顔だけが、毎日毎日オレを見てるんだ。そりゃお前、本物のお前を探したくなるだろ。んで、連れ戻したくなるだろうが」 それはまるで告白の様だった。 彼の願望が私には理解できてしまった。けれど、私は侮蔑すら殺した冷めた瞳で男を眺めていたのだと思う。 「私はあなたが私にしてきた事を、絶対に忘れない」 「昔見たいなヒデェことはしねぇから、戻ってこいよ。なぁ、勇吾」 女を誘う様な甘い息だった。彼の熱望が嫌というほどに伝わってくる。 「ずっとお前に謝りたかった。ずっとお前を探していた――見つけるのに七年も経っちまったが、お前をもういちどオレのモノにしたい、駄目か?」 その言葉には真摯な重さがあった。嘘でも偽りでもない、真の心がこもっていた。 それでも心動かさない私に焦れたのか、藤堂は額に脈を浮かび上がらせ詰め寄ってきた。 「いつまでもグダグダ我儘ばっかいってんじぇねぇ! てめぇは前みたいに黙ってペコペコオレに怯えて、ずっと一緒に、一生っ、オレとヤクザをすればいいだけだ、なんでそんな簡単なこともわからねぇんだ!」 けれど私の憎悪は揺るがない。二度と忘れる事の出来ない私のサガだ。 「あなたがそうやって身勝手な欲望ばかりおしつけてくるからっ――だから私は――ッ!」 なぜか左手だけで迫ってくる男を振り払い――そして、私は絶句した。 「どうして、腕が――、蛇がいないんですか……」 片方の腕を失っていた藤堂は、些事だとばかりに唇を動かした。 「そりゃあお前のためだろうが、誠意ってもんだろ」 脳を通さず私の唇だけが、なんで――と呟いていた。 「だっていつもお前を殴っていた腕だ、これがあったらお前、ぜったい前みたいに怯えてオレの話なんて聞いてくれないだろう? だから置いてきたんだ、ま、気にすんな」 男はコートに袖を通さず纏っていたのではなく、片方の腕が欠損していたせいで――羽織る事しかできなかったのだろう。 吐き気がした。 「あいかわらず……クレイジーですね」 「言っただろ、ずっとお前を探していたって――オレには、お前が必要なんだ。やっと分かったんだ。オレはお前が欲しいんだ」 藤堂は不器用そうに笑んだ。 相貌失認の藤堂が私を探し当てるのはさぞや苦労したのだろう。 本当に、全てを投げ捨てて私を探し続けていたのだろう。 「ありがとうございます」 それでもあの日々を私は忘れない。 「もし――その言葉を、もっと前に、まだあなたに拾われたばかりの……あなたを尊敬していた頃の私が言われていたら、きっと頷いていたんでしょうね」 私は、藤堂の顔を正面から眺め、答えた。 それは憎悪を殺した精一杯の返答だった。確かに彼からは酷い扱いばかりを受けていたが――当時、彼に拾われなかったら、行く当てのなかった私はとっくに死んでいたはずだ、と、微かな感謝が残っていたからだ。 彼のコートは秋風にバサリバサリと揺られ、床に落ちた。 私に向かい伸びてきた彼の指が、止まった。 かくりと、椿の花が落ちるように重力に従い落ちていった。 「そうか――そりゃあ、そうだよな」 私の返答の意図を察したのだろう、藤堂は寂しそうにそう言った。 コートを拾い上げる男の背は、酷く小さく弱々しいモノに映っていた。 「また、明日、来てもいいか?」 私はその問いには答えなかった。 「一つだけ、お聞きしたい事があるのですが」 「なんだ、なんでも聞いていいぞ。お前のためなら、なんだって答えてやる」 と、まるで褒美を待つ犬のように男は身を震わせていた。 私も身を震わせ――頭に浮かんでいた疑問を口にした。 「真くん、元気にしていますか?」 もしや桜庭が真くんなのではないか、私の願いを叶えにやってきてくれたのではないか――そんな自分勝手な都合のよい考えが頭を支配し離れない。 藤堂は珍しく動揺した様子で、瞳を大きく開けていた。 「お前、何も知らされていないのか?」 「知らされていないって、何がですか?」 「そうか――おまえ、オレの誘いに乗らないのは奴が迎えに来るとでも勘違いして、それで断りやがったのか。なんだ、ならまだオレにだって可能性あるじゃねぇか」 男はバカみたいに大きく口を開けて、笑いだした。 「奴は七年前に死んだんだ」 私は男を追いだした。 『カルテ7 桜庭実――百舌鳥のはやにえ(収穫)』 あんな男の言葉は嘘だ。 彼が死ぬ筈なんてない。そんな筈はない。 予想通りの言葉であったのに、私は藤堂の言葉を信じなかった。 私は荒れた。 荒れて、荒れて、荒れた。 やはり私が、あの少年を殺してしまった。殺してしまった。殺してしまった。 ――願わなければよかった。けれど口に出さない、出したくもない願いまでも引きずり出されてしまったのだから、どうする事もできなかった筈だ。 そんな言い訳しか、浮かばなかった。 私の気も知らずに藤堂は毎日のように私の下を訪れては、甲斐甲斐しく己の魅力をアピールするようになっていた。 たとえば私が昔に好きだったファーストフードのフライドポテトを、あの片方の腕だけでぎこちなく抱えてやってくる。無視した私が街の中へと逃げると、藤堂は必死に追いかけて――とまどったように人混みの中を探る。 男の視界にはじゃがいもばかりが映っているのだろう。それでも一時間以上もかけて私の顔を見つけようと彷徨うのだ。 ようやく私を見つけたとしても、けして暴力を振るわず、帰ってきて欲しいと縋るのだ。 どれほど逃げても、どれほどすげなく扱っても――男は私の顔をみつけると切なそうにそして不器用そうに笑むのだ。 私は自らの病を呪った。 もし忘れる事が出来たなら、藤堂の拙いあの笑顔を受け入れる事ができたのかもしれない。そう思う瞬間があったのだ。 けれど、真くん――そしてなぜか桜庭の顔が浮かんでしまい、心が動かない。 その日も私は藤堂を人混みの中へ置き去りにし、四人寮に戻っていた。 整理した桜庭の部屋で部長と私、そして桜庭とで軽い宴を行っていたのだ。予定していた桜庭の歓迎会だった。 きっと藤堂は何も知らずに、いまだにあの場で私を探しているのだろう。 私は自分の気持ちが分からなくなっていた。 そしてそんな揺れる私を、桜庭の視線がいつまでもじっと、眺めている。部長もあいかわらず何を考えているか分からない。 荒れて酒ばかりを飲む私に、あの時の出来事を気にしているのかバツの悪そうに酒を煽る桜庭、そして何故か物憂げに盃を傾ける部長がいた。 異様な宴だったと思う。けれど三人共に酒を飲みたい、そんな共通意識があったからか酒の減る量は早かった。 主役はすぐに寝てしまった。 彼はあまり酒が得意ではなかったのか、私にもたれかかるようにして深い寝息を立ててしまったのである。 「どうしたんだい君達、最近二人とも――なんか変だよ」 「いえ、あの――すみません、ちょっと飲み過ぎたのかもしれません」 「そう、だったらいいけれど。悪いね、ボクはこれからちょっと用事があるんだ、そこでスヤァーって寝ている新人君の事、頼めるかな」 「ええ……あ、はい。わかりました――……」 部長はいつも以上に口角を吊り上げ鼻歌すら聞こえてきそうな程に楽しそうに、立ち上がる。ほろ酔いで足腰立たずうなだれる私に向かい、二人とも疲れがたまっていたのだろうと部長は笑い、自分の部屋に戻っていく。 私もぐるぐる回る視界と込み上げてくる熱にうなされ、部屋に戻ろうと腰を上げようとするが、深く眠ってしまった彼がそれを許さなかった。せめて彼を組み立て式の簡易ベッドに移そうと声をかけるが、まるで起きる気配がない。 彼を担ぎやっと寝具に落とすと、再び彼の腕が蛇のように私の腕に絡みついてくる。 「なんなんだろうね、まったく……君は本当に図々しいよ」 「ん……っ――いくたしゃん」 私の手の平に頬を擦り付け零す言葉はとても幸せそうだ。 これほど泥酔してしまったのなら一人放置しておくのは不味い。嘔吐物を喉に詰まらせ窒息死なんてされたら堪らない。入居早々に迷惑をかけてきた新人は、抵抗を諦め畳に座った私を殊更に強く抱きしめた。 「君さ、本当は起きているんじゃないのかな?」 「ぅ……ぶぅ……」 その高い鼻をツンと指で弾いてみるが、やはり目を覚ます気配がない。 私を女と勘違いでもしているのだろうか、嬉しそうに頬を緩めデレデレと眉を下げて彼はクーカークーカーと気持ちよさそうに寝息を吐いている。 真くんが生きていたら、きっと彼と同じぐらい端整に育っただろう。 また思い出してしまった。忘れたいのに、忘れられない。 ほんの気まぐれだったが、私は彼の鼻と口を押さえた。苦しくなれば起きるだろうと考えたのだ。 十秒経ったが、彼は起きない。 二十秒、三十秒。一分、二分、五分。 それでも彼は起きない、それどころか私の手の平の感触を愉しむかのように冷たい鼻と口を擦りつけ笑んでいた。 だんだんと私は怖くなってきた。 いくらなんでも窒息してしまう。私は不可解な感情を否定するように指を離したが、彼の指が私の腕を追った。 「っ……!」 そして、私の手の平を骨が軋むほどに強く抱きしめ、幸せそうに笑んだ。本当に寝ているのだろうか、これはただの寝たふりなのではないか。 確かめようと彼の端整な顔立ちを観察するが、そこには嘘も虚勢も見られない。 たしかに一度寝てしまうと、どんなに起こしても起きる事の出来ない人種は存在する。 窓の外。雨音が潮騒のように鳴っていた。 私の脳裏にも、甘い誘惑が渦巻き始めた。 もしあの少年が死んでしまっていたとしたら、私は二度とあの快楽を体験できずに死んでしまう。それは何よりも恐ろしい事実だ。 そして、彼に似た彼が無防備に私の前で眠っている。 自然と、喉に絡まった唾が落ちていた。 「……っ」 雨音が強くなっていく。横殴りの秋雨がまるであの日の淫らな欲望を煽るかのように、ボロアパートの背中をたたく。 私はそっと手を伸ばした。 寝返りを打った彼の端整な顔立ち、その寝息が私の髪を揺らした。唇の形も、メリハリの強い鼻梁も、涙袋までもが美麗に整っていた。 真くんの死を聞き、私もどこか心のネジが外れてしまったのだろうか。 心も身も歪んでいた。性感帯を爪で掻きむしられる様な官能が、火照る脳を擽っていた。 「ごめん――」 私は誘惑に耐え切れず、その唇に唇を重ねた。寝ていながらも彼は反射的にだろう、その陰影の深い唇を薄く開いた。 私はあの日のように、互いの温度が伝わるほどに深く舌を絡めた。 「んぅ……っ」 彼も心地良いのか、呻きながらも私のキスに甘く応え始めている。タバコの味のしない無垢な感触がした。 喉が震えた。頭がグラグラと火照っていた。いけないことだと分かっているからこそ、淫らな暴走が止められなかった。先走りで下着の表面がはしたなく濡れているのが分かる。 あれほど呼吸を塞いでも起きなかったのだ。きっと何をしても起きないだろう、そんな都合のよい考えが頭に浮かんでいた。 就寝の代謝運動なのか、彼のスラックスの前は成長していた。私を取り押さえていた彼の指から力が抜けていった。 「……ッ」 酩酊にも似た甘い感覚が私の理性を奪った。 彼のベルトを緩めスラックスをずらすと、意外に着やせするタイプだったのか、よくトレーニングされた筋肉の乗った腰、その側面に隆起したくびれが妖しさと共に浮かんでくる。まるで海外のセレブモデルやサッカー選手のような綺麗な筋肉だった。 気が付けば眠る彼に跨り、成長しきった彼の肉茎に自身の秘所を押し当てていた。彼の怒張はその長身と同じく、長大。私は宴の名残が広がるテーブルから、サラダにかけていたはずのオリーブオイルを手に取り、自らの後ろに塗りたくった。 「ぁ……っ」 恥ずべき行為だとは理解していた。人としての品性を欠く行為だと自覚もあった。けれどもう、止められなかった。 「――……っく」 息を殺し、私は十分に慣らした濡れた箇所に彼のソレをもう一度押し当てた。ぞくりと脚が震えていた。それは痛みからくる痙攣ではない、明らかな悦楽だった。 彼の大きな熱が、徐々に、徐々に、しかし確実に入り込んでくる。 「ぁ……っ――ん」 あの少年に抱かれたあの日にしか本当の快楽を感じる事のなかった肉襞が、蜜のように甘い逸物を咥えこむ喜びを覚えていた。 桜庭の顔にほんのりと赤い色が乗り始める。きっと私の身はもっと灯っているのだろう。罪悪感を覚えながらも、行為をやめるつもりはなかった。やめられるはずがなかった。 「――……はぁ、ぁ……ぁ、っ」 彼の全部を根元まで呑み込むにはどれほど時間が掛かったのだろうか。久方ぶりの快楽がぞくぞくと全身を這っていた。過敏に揺れる足の裏までも、甘い舌と鞭で舐めあげられるような圧倒的な愉悦が包んでいた。 腹の中に座る重量感が、まるで私の不安を取り除いてくれるように甘く震えている。 脆い簡易ベットはぎしぎしと緩やかな悲鳴を上げていた。擦りつけるように腰を回すと、彼のくさむらが私の臀部をさわりと擽る。 気味の悪い子――と、母に捨てられる前、たった一度だけ抱きしめられた温もりが――頭の中で何度も何度も巡って爆ぜる。性欲よりも人間としての矜持を満たしてくれる、そんな麻薬の様にじっとりとしたセックスだった。 だから夢見心地で揺れてしまった。 だから気が付かなかった。 「ん、ん……ぁ、きもちぃぃ……」 振動に目を起こした彼が、耳まで桜色に染め凝視していたとも知らずに――私は断続的に息を吐き、彼のシャツを白い穢れで濡らした。 そして、彼の広い胸板に崩れ落ちた私はようやく察した。 端整な顔立ちが、じっとこちらを眺めている。 黒々とした眼差しが、うっとりと揺らいでいた。 彼は私の視線に気づいたのか、闇の中でギギギと口角を吊り上げ、端整な唇をうれしそうに動かした。 「エッチな顔、ですね――そんなに気持ち良かったんですか?」 勝者は彼の方だった。 「ッ……違う、これは違うんだ」 何が違うというのだろうか。 彼のシャープで筋張った細身の筋肉の上で、はしたなく勃起している自身をシャツで隠しながら私は鼻をスンと鳴らしたが――口からは甘ったるい吐息が漏れている。 「男の人に寝込みを襲われたのは、初めてです」 彼はとても意地の悪そうな顔をしていた。 言うならば、獲物の首に噛みついた瞬間の猛獣、動物としての欲望を露わにした素の表情、そんな顔だった。 こんな状況にもかかわらず、まだ猛りから蜜を滴らせる私の白濁を長い指ですくい、味わうように口元に運んだ。 うすらと覗くなめらかな舌が、妖しく、その気持ちよさそうな筋張った指を這っている。 「違うんだ、だからこれは――その、悪い……すまなかった。すこし悪酔いしてしまったみたいで……どうか許して欲しい」 「生田さんが僕に謝ってるなんて――ああ、そうか、これはいつも見ている僕の夢ですね」 「そう、これは……君の夢だ」 逃げ道を見つけた私の零した言葉に、彼は強く噛みついた。 「なら――何をしたって構いませんよね」 男のギラついた欲望が、私の震える股を覗いていた。 「許して……ほしいんだ」 「ええ、かわいいあなたがそう望むなら、なんだって許せてしまえますよ」 そう言って、彼は鼻梁に深い濃淡と厭らしい笑みを作り、甘さに痙攣する私の身を硬いシーツに倒しこんだ。 いまだ埋まったままだった彼の雄々しいシンボルが、鋭利な角度で腹の中をうねるように進んでいく。腹の内側の熱い襞を、硬く大きな彼の自身が、強く圧迫していた。 「ぁ、なにっ?」 「嬉しいな、今日の夢は色も形も匂いまでもはっきりしてるんですね。まるで本物の生田さんを食べているみたいです」 突然だった。信じられないほどの質量が、私の中で暴れ始めた。 一人用の簡素な寝具が、断末魔にも似た断続的な悲鳴を上げていた。壊れてしまいそうなほどに寝具の金具がガンガンと床で擦れている。そしてその衝撃は、全て私の身の中でも同様に暴れているのだ。 「ひ……っ、あ、ア……――やめっ!」 私は彼をなだめようと必死に腕を伸ばすが、絡め取られてしまい逆に指先を甘く噛まれてしまう。 「指まで甘いんですね、生田さんは全部がエッチで甘そうだ」 「アァ……ッ、や、まって……ん、激しいッのはイヤだ」 「そんな筈ないですよ、これは僕の夢なんです。夢の中の生田さんは毎日毎晩、いつだって僕に良い所ばかりをぐしゃぐしゃに突かれて、涎を垂らして喜んでいるじゃないですか」 頭がどうにかなってしまいそうな私は、彼にしがみ付き涙声で縋った。 「っく……ん、違うっ、これは……っ、こんなの――夢じゃない、ゆめじゃないから……、謝るから……、どうか、やめてくれっ」 しかし彼は縋る私の震える唇を深く奪い、たしなめるような強い力で私の陰茎の根元を握った。急所をありえないほどの怪腕に握られ、思わず怯えた私の頬に、彼の優しい唇が何度も何度もキスを落とす。 もはや恋人のソレだった。 「いいえ、夢です。だって現実世界のあなたは言っていたじゃないですか、僕とそういう関係になる筈ないって」 まるで人が変わってしまったように冷たい声だった。咎めるような声にさえ聞こえている。しかし官能を擽る声音だ。 「それなのにあなたは桜餅みたいに染まった肌を震わせて甘く揺れていますよね、お尻の中に僕のペニスを突っ込まれて、はしたなくおしっこみたいに射精して――こんなに顔を赤くして女の子以上によがってるんですから、夢に決まっているでしょう? だから僕はあなたに何をしたって咎められる事はない」 彼は自らのネクタイを片手でしゅるりと器用に外し、私の手首に押し当て、良い角度を探るように掴んだ私の腕を人形遊びのように振っている。縛ろうとしているのだろう。 「駄目だって、そんなことされたらまた、変な事、覚えてしまうから……っ」 「縛られないとイケなくなってしまうからですか?」 「君だって知っているだろ、私は……一度覚えてしまったら、にどと忘れられない」 渇いた私の喉から、湿った声が漏れていた。 「いいじゃないですか、淫らなあなたはもっと可愛くなれますよ――でも、まあそうですね――なら、こうしましょうか」 そう言って、彼は私の中に埋めていた雄々しい塊をゆっくりと焦らすように引き抜いていく。湯気が出てしまいそうな程に熱いソレが、ぬちりと抜け出る衝撃は、甘かった。 甘さに項垂れる私を怪腕で押さえつけた彼は、私の視界をタオルで覆ってしまった。 「な、なんだよ……っ、よせ」 「こうすれば視界には入らないでしょう?」 「だって、こんな事されたら――っ、目をつぶる度に……おもいだしてしまうじゃないか」 私は必死で抵抗した。襲ってくる官能から逃げるように、シーツを這った。 彼の素足だろうか、私の身体を押さえつけるように硬い皮膚の感触が腹の上に乗った。やはり彼は足の指さえもが筋張って長く、端整だ。 「まばたきをする度に、僕とのこの日を思い出して貰うためのおまじないです」 簡易ベッドの金具に縛られた腕を拘束されたのだろうか、両手を上げられたままの姿勢で固定されてしまったようだ。 視界がない分、感覚が過敏に反応してしまう。彼の指がツツツ、と内腿を這った。 「ほら、あなたの腕をネクタイで縛ってしまいました。ストイックなシャツを肌蹴させて、顔をタオルで覆われて――腕を吊るされた鶏みたいに縛りあげられて、オマケに半身はかわいく素肌を覗かせている。それなのにあなたは感じている。想像してみてください、今のあなたがどれほど淫乱で卑猥な姿をしているか」 オイルで濡れた肉襞に、彼の指がからかうように忍び寄ってきているようだ。ズクリと、長い指が入り込んでくる。 「一気に三本入っちゃいましたね、まあ僕を逆レイプしていたのだから僕の指の三本や四本、簡単に入りますよね――分かりますか?」 からかうように良い所ばかりを指の腹が押していた、撫でていた、掻きむしっていた。 「ッ、ッ――あぁぁ、ッ!」 「けれど、あなたは悪い人だ。僕の身体を勝手に使って一人で遊んでいたんですから――一人上手なあなたにプレゼントを上げますよ」 お腹の中に、小さく丸い何かがぬるっと入り込んでくる感覚が襲った。 「ひっ――……な、なに、なんだ、コレ……っ」 「大人のおもちゃ、使った事ないんですか?」 「あるわけないだろ、やめろ、冷たいから、抜いてくれっ」 突き放すような言葉が、私の耳を襲った。 「いいじゃないですか、今のあなたは僕の夢なんですから。まだいっぱいあるんです、お客さんから冗談で貰ったものだったんですけど――全部中に入れてあげましょうね」 信じられない言葉と共に、私のヒクつく肉襞の入口に冷たく硬い塊が押し当てられていた。それは巧みな彼の指の中からぬめりと私の体内に入り込んでいき、揺れる柔壁を押し込んで緩く震えている。 中を探るように、悪戯な指が玩具を咥えこむ淫らな口に入り込んでくる。 「すごいですね、小さいとはいえもう三個入っちゃいましたよ? すごく、気持ちよさそうに揺れてますね。そんなにいいんですか?」 「ん、っく……ん……――ッ」 玩具はコードで繋がれているのだろうか、股に何本もの紐状の何かがぶつかる感触が妙にリアルで――涙目になっていた私はスンと鼻につく声を漏らしてしまった。 指が抜けると、また緩い振動と共に硬く冷たい玩具が埋め込まれていく。 「もぅ、むりぃ……っ、はいんない、おなかがへんになるからっ」 「僕のをあんなにぎっしり淫乱に咥えこんでいたんです、玩具の五個や六個簡単に入りますよ」 冷淡に責められると、なぜだか心がぞくりと波立つ。 「これ、いっぺんに出力を最高にしたら――生田さん、どうなってしまうんでしょうね」 官能をくすぐる甘い吐息が、私の耳朶を擽っていた。 「むりだから、そんなの……ぜったいにだめだからっ!」 もはや泣いていたのだと思う。 衝撃に備え警戒したが――ローターの出力が同時に上げられる事はなかった。 ぐずる私の頬に、彼の優しい指が触れた。 「すみません、いくら夢だからと言って少し苛めすぎてしまいましたね。反省しますので――許してくれますか?」 「……っ」 私は鼻を鳴らし、頷いた。 その途端だ。彼は甘く、腰が痺れてしまうほどに優しく囁いた。 「じゃあ、ご褒美です」 「ッ、ァァ――……!」 大量の冷たい玩具をねじ込まれていたお腹の中に、圧倒的に熱く甘い塊が一息に根元まで入り込んできた。 「許してあげるのは、僕のをちゃんと咥えさせてあげてからじゃないと、駄目ですよね」 「や……っ!」 「生田さんの中、すごくあったかいですよ。分かりますか? 玩具でこんなに中が甘く痙攣してるんです、気持ち良いんでしょうね」 私の頬から離れた彼の指が機械を操作しはじめたのだろう、カチカチカチとプラスティックの操作盤をねじる卑猥な音がしていた。 ヴァブブブヴィヴ――と、機械独特のモーター音が私の脳と官能を揺さぶり始めた。 「あ……あッ、ん……――ッ!」 「このまま中であなたを味わってもいいですか?」 暗く湿った官能的な声だった。 高鳴る期待に、私はこくりと頷いた。もう、我慢できなかった。どうなってもいいと思ってさえいた。けれど、疼いてしまうほどの甘さは襲ってこない。 動揺する私に、彼の甘ったるい声が届く。そして、細身だがきちんと筋肉のついた彼の理想体型がずしりと上に落ちてきた。 「ん……なんでだろう、夢の中なのにまた眠くなってきちゃいました」 「あ、酷い……起きろよ、なぁ、起きろって」 しかし彼はがしりと私を抱いたまま、動かない。 またさっきのように、何をしても起きなかった彼に戻ってしまったのか――私を犯したまましんそこ幸せそうに寝息を立てていた。 「やめ、抜いて……こんなの、ひどいって、ヤダ」 私がどれだけ泣いても、どれだけ抗っても、眠る彼は動かない。 視界も行動も戒められていた。そして、彼の甘い肉棒は私を残酷に貫いたまま、熱く火照って存在を主張している。 串刺しにされたまま、びくりびくりとどうしようもない現実にもがくが――どうすることもできずにただ痙攣することしかできない。それなのに熱く脈打つ彼も、玩具の振動も止まらない。むしろどんどんと過敏になっていくお腹の中は、もどかしさを誤魔化そうと快楽に身を沈め始めていた。 「ン、ン……ぁぁぁ……ッ!」 私は、達していた。 劣情は止まらない。淫らな夜は、止まらない。これが私の犯した罪への罰なのだろうか。 縛られ痙攣する身体をもてあました私は、眠る彼に貫かれたまま、ただ泣きながら快楽に翻弄される時間を送った。 彼が目覚めたのは明け方。 私は全身を痙攣させ、彼の身体に挟まれていた自身から大量の恥ずかしい液を垂れ流している。腹の中で蠢いていた玩具の数々も、電池がなくなりかけ弱くなっていたが――微弱な振動は続いていた。 目隠しが、そっと外された。 朝の眩しさと主に、健やかで端整な彼の顔が入り込んでくる。 私はどれほど淫らで卑しい顔をしていたのだろうか、彼は涙と涎と鼻水でグジョグジョになっていた私の顔を幸せそうに覗いていた。 「いま解きますから動かないでくださいね」 私は唇をぶるぶると一文字に噛みしめ、怨みがましく頷いた。 「ひどいだろ……こんなの、こんなのってひどすぎるだろ!」 やっとネクタイの拘束具が外された時。 一晩中、甘く淫らな拷問を受け続けた私は思わずそう叫んでいた。 「ごめんなさい、でも僕は本当に夢だと思っていたんです。だって、あの真面目で怜悧なあなたが僕の上に跨っているなんて――夢だと思うに決まっているじゃないですか」 そうだ、これは私が蒔いた種。自業自得。むしろ誹りを受けるべきは私の方だろう。 「ごめん……」 ぞくりとするような黒い視線と共に、彼はきつく私を抱きしめた。 「いえ、どうか謝らないでください。そうだ、このまま付き合っちゃいましょうよ、僕達」 そう言って、彼は私の痙攣する足を掴み、かかとを厭らしく齧った。 「っ……!」 長い舌が、過敏になった肌を伝う。揺れが止まらない足の指先を、彼の口が慰めるように咥えこんだ。この端整な男が、男である私の足を詫びるようにしゃぶっている、それがなんだかとても卑しくて、申し訳ない気分にさせられてしまう。 「抜いて……くれないかな」 お腹の中にはまだ猛々しい彼が鎮座したまま、それが恥ずかしくてもどかしい。 「あんなに出していたみたいなのに、まだ勃てているんですね。本当に、抜いちゃってもいいんですか?」 揶揄を愉しむような声音だった。私の胸は崩れていきそうな程に熱くなり、そして見捨てられてしまうかもしれない――そんな恐怖に襲われていた。 「……見ないでくれ、言わないでくれ」 「どうしてですか?」 「嫌わないでくれ、君に嫌われたら――そんなの耐えられない」 「嫌いになったりするわけないですよ、だってこんなにかわいい淫乱さんのあなたが僕はかわいくてかわいくて――かわいくて、どうしようもないほどかわいくて堪らないんです」 繋がったまま玩具のコードを掴み、引き抜いていく彼からは甘くて残酷な昨夜の獣の匂いがした。ただでさえ長大な彼の逸物を根元まで咥えているのに、狭い穴を強引に抜け出ていく玩具の大きさがぞくりと官能を揺すった。 「どうして欲しいですか?」 「どうって……ッ」 「昨日は中途半端で止めてしまいましたよね? あなたが望むなら、あなたが許可してくれるなら――僕はあの続きがしたいんです」 シーツに落ちる玩具の数々は通常サイズよりは小さなものであったが、それでもこんなにも多くの淫具が入っていたなんて――考えたくもなかった。 ずっと体内に入っていたからだろう、玩具からは熱が感じられる。 「あなたが僕にどうされたいか。願望を聞かせてください、僕はあなたの口からそれを聞きたい」 私は被虐的な快楽に満たされ、腰の奥を熱くしていた。 そんな私を眺める彼の眼差しも――熱い。 「イカせて……くれないか」 私の唇は自然とそう動いていた。 「望み通り、イカせてあげますから、どう犯して欲しいか教えてください、その通りに突いて、抉って、中に出してあげますから」 逆らえなかった。 「前から……」 「前からグイって貫かれて、それで次は?」 圧倒的な重量感が、臍のあたりにまでずしりと甘く満ちていく。どうしても抗えない。 「手を……握ってくれて」 「はい、握りました――素直になってくれたあなたは本当にかわいいですね。ああ、もうこれだけでグジョグジョじゃないですか。そんなに気持ち良いんですか?」 私は羞恥のあまりに言葉を出せなかったが、返事の代わりにカクリと頭を縦に振った。 貪るようなキスが私の唇に食らいついてきた。 「ん、あ、んん……あ、ん……っぐ……ぁぁ」 「ずっとこうして抱いてあげますよ、あなたの記憶が全て僕との思い出に埋まってしまうぐらい何度も何度も愛し合いましょう」 「あ……もぅ、また――出ちゃいそうだから、ちょっと待って――……っ、くれないか」 「いいんですよ、ほら、僕の下で何度も出しちゃって下さい」 彼の筋張り整った指先が、私の乳首を、まるで女性を扱うように優しく弾き始めた。ツンと立ち上がった先端に、彼の唇が張り付き、舌が這った。 腰の奥をズイズイと、突きあげられる。追い上げられる。愛を――囁かれる。 「ふぅ……ん、ん、ッ、ッッ!」 彼の下で身を痙攣させた私は、足先まで淫らに揺らし終らない絶頂を迎えていた。 荒い呼吸で彼の背にしがみつき快楽の余韻に浸る私の頭を、彼は優しく撫でてくれた。 瞳が合った。 外に広がる快晴のせいか、なぜだか彼の瞳がいつもの黒ではなくいつかみた青空のような色を放っている。 「僕はこれからもあなたの願望をずっと叶えてあげます、あなたが望む世界、あなたが望む暮らしをずっと――永遠に提供してあげます。あなたはただ、願うだけでいい……それだけで全てが済んでしまう暮らしを、僕はあなたにあげたいんです」 それだけの力が彼にはある、そんな気がした。 けれど、これは悪魔からの囁きの様な気がした。願いを叶えるには代価が必要だ。 「だから僕のお願い、一つだけでいいから聞いてくれませんか?」 「……おねがい?」 「ええ、ずっと一緒にいてください、どうか僕から逃げないでください。どうか僕を怖がらないでください。どうか僕を――捨てないでください。ただそれだけでいいんです。それだけでいいんです」 その言葉は自信なさげに震えていた。 「あなたに嫌われたく、ないんです」 なぜだろうか、私も真くんや桜庭のように相手の心が手に取るように分かってしまった。それは無限にも思えるほど多く記憶された人間の顔の中から、彼の表情を照らし合わせ――その内に秘めた心の中身を、私の脳が勝手に計算し導き出してしまったのだろうか。 もしかしたら彼等もこうして人間の表情から心を読み取っているのかもしれない。いや、忘れる事の出来ない私の様に――いつでも勝手に、見たくもない心の闇、相手の深層心理を自然と読んでしまうのかもしれない。 もし彼が子供のころから、そんな脳を持っていたとしたら――自分を捨てる母の心も読み取ってしまっていたのだろうか。そして本気で彼から逃げたいと思っていた私の心を読み取ってしまい、彼は自ら命を絶ったのだろうか。 それがどれほど彼にとって辛く悲しかったのか、私は悔いた。 けれど。 私にはどうしても彼が彼としか思えなかった。桜庭は、真くんだ。そう確信があったが、私にはどうしたらいいか分からなかった。 私はぽつりと呟いた。 「本当にそれだけでいいのか?」 「え――?」 「君の願いはそれだけじゃないんだろ?」 彼はわなわなと瞳を震わせ、私を抱き寄せ声を震わせた。 「どうか――僕を愛してくれませんか?」 まるで母に縋る赤子のように無垢な表情だった。 私は頷いた。 怯えたように私に縋りつく彼が、なぜだかとても小さく哀れな存在に思えてしまったのだ。 しかしそれは悪魔との契約だったのだろうか。 ぎょっとしてしまうほど官能的に、そして黒く――彼は笑んだ。 指が絡んで、シーツの中に沈んでいった。 『カルテ8 来栖真――無償の奉仕(叶えたい病)』 社内食堂から見える外の景色には、すっかりと冬の色が芽生えていた。 秋ももう終わるのだ。 冬に備え南下したのだろうか、モズの姿が見えなくなっていた。モズが残していったはやにえを食らっているのは、黒々としたカラス。藤堂もついに私を諦めたのか、姿を現さなくなった。しかし本当に藤堂は私を諦めたのだろうか。もし諦めていないのだとしたら――どこに消えてしまったのだろうか。 そんな考えを抱いていたある日、寮に公僕が訪ねてきた。 警察がやってきたのは、失踪した藤堂が最後にあった人物が私だったからだろう。 藤堂の組の人間も躍起になって探しているようだが、いまだ見つかっていないようだ。 臆病な私は何も言えなかった。 平穏の終わりが、怖かった。 私の頭に浮かんでいたのは、彼……桜庭だった。時折、寮の廊下で藤堂の髪の毛が落ちている時があるのだ。だけどそれはきっと、初めのあの日に落としたものなのだろうと、そう思い込むことで私は真実から目を背けた。 彼が来てから社内も変わってしまった。 誰もが彼の事を語っている。誰もが彼をうっとりと眺め、まるで現人神を拝めるように羨望を送っているのである。 私はそんな彼の恋人、公然の情人となっている事が、怖かった。周囲から何かを言われた訳ではない、罵られた訳でもない。逆に男同士の爛れた関係に――誰も、何も陰口を言わない事が怖いのだ。 暗い沼の底から伸びてくるようなぞくりとした悪寒が、背筋を掻きむしっていた。 食べ終えた食器を乗せたトレーを片付けていると、視界の隅に一人の男性が目に入る。 小早川係長だ。 グループ内で仲間はずれにされているのだ。しかし――うなだれる彼を助けようとする者は誰もいない。面倒ばかりおしつけてくる彼がこうして孤立してしまえばいい、たしかにそんな願望を抱いた瞬間もあったが――みせしめにしたかったわけじゃない。 その姿があまりに哀れで私は思わず手を差し伸べようとするが、硬い男の指が私の手首を掴んだ。前田部長の指だ。 「悪いね、ボクは今からが食事なんだ。デザート奢るからつきあってくれないかな」 「でも――あの」 私の手を強引に引き歩く部長は、社員証を照らしいつもと変わらぬ笑顔で食券を購入する。 「抹茶プリンなんてどうかな、生クリームを足して。キャラメルなんかトッピングしてさ」 「……係長、何かしたんですか?」 白けた様子で部長は答えた。 「小切手の二重振出、不正な裏書きによっての現金化。まあ単純な手法だよね」 「そんな簡単な不正なら、もっと前から――周りの誰かがすぐに気付いていたんじゃないですか?」 「だって彼が今まで事務の裏番、男の局さま、ずっと周囲を威圧して隠していたんだろうね。この件に関しては君も悪いんだ。どうやら君に仕事を押し付けて空いた時間でやっていたようなんだよ――事が公になった際には、君に全ての責任を押し付ける細工もしていたみたいだからね」 そのために、私に仕事を何度か頼んでいたのだろうか。思い当たる節があった私は、思わず唇を噛んでいた。 「すみません、軽率でした」 「いいんだよ、うちの期待のエース、桜庭君から恋人を頼みますって直接縋りつかれちゃったらね。尽力しないわけにはいかないだろう」 部長はいつもと変わらぬ飄々さで笑んでいるが、私は心穏やかにはいられなかった。 もしかしたらあの日の様に――私の願望を叶えようと、彼がこんな事をしたのではないか、そんな疑念が頭の中を渦巻いていた。 思わず噛んでしまった下唇から、うすらと血が滲んでしまった。 揺れる気持ちを一旦整理するべく、私は椅子から立ち上がる。 「すみません――ちょっと手洗いに行ってきます」 「ああ、ごゆっくり。ボクは君達を応援しているよ」 桜庭、桜庭、桜庭。今の社内はいつも彼が話題の中心にいた、彼がいつも、どこかで私を眺めている気がした。 悪寒を抑えながら廊下を進むと、誰もが私を振り返って声をかけてくる。あの桜庭君の友達。あの桜庭君と仲が良い彼と親しくなっておきたい。そんな手の平を返し、いまさら取り繕ってくる彼等の唇、その深い欲望と願望が私の頭を悩ませる。 怖いと感じた。醜いとさえ感じていた。 けれど、私が望んだ事だった。全てがあの時と似ていた。 不安は募っていく、やはり彼はあの彼――真くんなのではないか。そう思わずにはいられなかった。 顔を洗い、腕で覆い――私は洗面所で頭を整理していた。 けれど、どうしてもあの時の劣情に支配された夜が頭に浮かんできて思考の邪魔をする。 鏡の中には一人の青年が映っていた。 くたびれた男ではなく、艶を孕んだ端整な顔立ちをした青年がそこにいたのである。 私は違和感に襲われ、眉をしかめた。すると鏡の中の青年も、同時に眉をしかめる。 自らの顔に手を触れてみた。鏡の中の青年も、きめ細やかそうな肌に手を触れていた。 ――これが今の私なのだろうか。 これはきっと彼のおかげだろう。いつも硬く強張っていた表情筋が緩み健康そうな顔色を取り戻したから――少しだけ、容姿がまともに見えるようになったのかもしれない。 けれどなぜ鏡の中の自分が別人に見えるのだろうか。分からない。 ここは確かに現実の筈なのに、まるで夢の中に沈んでしまったかのように不安定だった。 もう何も考えたくなかった。 何も考えずに、あの淫らな時間に浸りたい――けれど、いけない事だ。そう思った瞬間。 チカチカと疎らに輝く切れかけた蛍光灯の緩灯りに、影が生じた。 鏡の中には、眉を下げ困惑したような桜庭の姿が浮かんでいた。 「どうして……喜んでくれないんですか?」 私は覚悟を決め、何度も唇を上下させた。 「こんなの違うよ、怖いよ、間違っているよ。そりゃあ確かに私は願っていたかもしれない、私を蔑んでいた彼等を見返してやりたい、後悔させてやりたいって思っていたさ。けれど違うんだ――こんなんじゃない」 「僕にはよくわかりません、あなたが望んだ願いを叶えてあげたのに、なんであなたは本気で拒絶しているのか。それが僕には分からないんです」 恐ろしいぐらいの無表情で、端整な男は首を斜めに傾け――私の瞳を、頬の筋肉を、眦を、まるで心を探るように眺めている。 異形とも思えるほどの天才は、やはりそうやって心を読んでいるのだろう。 「心を勝手に覗かれて、自分でも嫌になってしまうほど身勝手であさましい願望を勝手にひきずりだされて――それを、勝手に叶えられてしまう、まざまざと見せつけられてしまう、そんなの嫌に決まっているだろ」 「けれどあなたが望んだ事ですよ。誰もが自分を尊敬してくれる会社、誰もがうらやむ生田さん、本当の自分はこんな孤立をしてしまうような弱い人間じゃない、弱いのは自分を虐げる奴らの方だ。ずっとそう思っていたんじゃないですか?」 「……やめろ」 「そして今だって、内心では喜んでいる」 「やめろって、言っているだろう」 「僕にここまで愛されて、安堵しているじゃないですか。けれど、やっぱり少し悲しんでいる、それが分からないんです。ねえ、僕に教えてくれませんか? どうすればもっとあなたが素直に僕を愛してくれるか、僕に甘えてくれるか、どうか教えてください」 「これいじょう図々しく私の心を覗くなっ!」 彼の無表情が一瞬だけ、怯んだ。 「好きな人の願いを叶えてあげたい、それってそんなにオカシイ事ですか? 好きな人が困っている、だから助けてあげたい、それってそんなにオカシイ事ですか? 好きな人に好かれたいから――なんでもしてあげたい、それってそんなにオカシイ事ですか?」 「おかしくないけれど君のやり方は普通じゃないっ」 「僕はただ、あなたに嫌われたくないだけなんです――駄目ですか?」 それは彼がずっと抱いていたエゴだったのだろう。 彼と同じ、いや彼そのものだった。 私は勇気を振り絞り、言った。 「君、真くん――だろ?」 一度だけ目を見開いた彼は、やがてぽつりと呟いた。 「……あなたを愛している、それだけじゃ駄目ですか?」 「ああ、駄目だよ」 「僕は桜庭実、それだけじゃ駄目ですか? あなたに嫌われていた来栖真ではなく、僕は桜庭実、それでいいじゃないですか――あなたが望むカタギの世界で、あなたが望む平穏を手に入れて――何も変わらない日常を過ごして、老いて、死んでいく。それだけじゃ駄目ですか?」 「それでも私は――真実が知りたい」 私は心の中でも、そう強く願った。 私の願いを何でも叶えてくれる真くんなら、絶対に私に嘘はつかない。 私は再び、同じ言葉を吐いた。 「君、真くんだろ?」 彼は初めてあった時のぎこちない表情で、おそるおそると私を眺めた。 自らの瞳の表面を二つの指ですくった彼の手には、黒いコンタクトレンズがへばりついている。黒で覆われていたレンズの下から現れたのは、無垢な色をしたスカイブルー。 悪魔の様に美しかった少年。なんでも願いを叶えてくれる真くん、彼の瞳の色だ。 どうして、気が付かなかったのだろう。目の前にいるのは完全に、どう間違えようもない成長した彼だ。 ずっと、騙されていたのだろう。思えば黒々とした少年が七年間ずっと私を覗いていた。私が雨に震える姿を遠くから観察していたのだろう。 感情が昂ってどうすることもできなかった。 「どうして、泣いているんですか?」 「君が……好きだからだよ。だから君にこんなことまでさせてしまって、情けないんだ」 「どうかそんなに嘆かないでください。落ち込まないでください。いいんです僕は、あなたのためなら何だってできます。人だって殺せます。たとえそれが自分自身でも、あなたが望むなら――死ねます。これが、僕のあなたへの愛の証明です」 唇を震わせた私は、思わず彼の頬を強く叩いていた。 それほどに、私は真くんを愛していた。ずっと想い続けてくれた、そう思うと胸が愛を訴えて止まらなかった。そして死を決意させてしまうほど追いつめてしまった自身が恥ずかしくて、許せなくて、爆発しそうだった。 感情をぶつけられたのが嬉しかったのか、彼はまるで御満悦の子供の様に瞳を輝かせた。 「叱ってくれるなんて――初めてですね」 心底嬉しそうにそう囀って、彼は身勝手な私の唇を愛おしそうに奪った。 再会のキスは血の味がした。 「そんなに僕の事を愛してくれていたんですね、嬉しいです」 「君はまだ……、私なんかを好きなのかい?」 「ええ、大好きです。あなた以外の人では勃たないですし、触れたくもありません」 「なんで君は、こんな心まで醜い私を――っ」 「あなただけが僕のこだわりの一品で、他の人間は全部ゴミ以下の醜悪な塊だからですよ。僕の偏食は御存じでしょう? 僕にはあなた以外の人間は必要ない。あなたは初めて僕のこだわりを理解してくれた白馬の王子様。まあ今は白肌やらしいお姫様かもしれませんね」 言葉にならない啜り泣きを零す私の腕をとり、キスを落としながら彼は言った。 「どうして気付かなかったのか、知りたいですか?」 「……ああ、教えてくれ」 と、私は涙をためながら答えた。 「あなたみたいな完全記憶能力者は自分の記憶に絶対の自信を持っている、けれど記憶方法が常人とは違う……個人の顔のパーツを一つのグループと考えて、脳の中で記号のように暗記しているそうです――だから、こうして金髪とブルーアイ、大きな特徴を変えてしまうだけで区別がつかなくなる、鳥類などにもいるらしいですよそういう脳の持ち主、すこし木の特徴を変えるだけで巣が分からなくなって帰れなくなってしまう、そんな野鳥――なんだかかわいいですね」 「――死んだって、藤堂から聞いたよ。それはいったい、なんだったんだよ」 咎めるような私の問いに、彼は申し訳なさそうに眉を下げ答えた。 「父の命令でした。あなたがいなくなってしまったら藤堂が荒れちゃいましてね、父の寵愛を疑い始めてしまった――だから、彼の憎んでいた僕を死んだ事にしたんです。藤堂は人の顔を覚えられない男でしたから、簡単に騙されてしまった。それだけの事です。だから、あなたのせいじゃない」 そう言って、彼は穏やかに瞳を細め笑窪を作った。 「一つだけ、確かめさせて欲しいんだ」 「何をですか?」 彼の愛に応えたい、彼をもっと愛したい。だからこそ私は、はっきりとさせておきたかった。 「藤堂さんが消えたのは、失踪したのは――君の仕業かい?」 嘘のないまっさらな顔で、彼は首を横に振った。 「いいえ、僕は手を出していません」 私の腕は、自然と彼に縋りついていた。 「君に死んでほしいなんて願ったりして、ごめん。君を嫌った訳じゃないんだ」 「いいんですよ、僕だって結局死にきれず――あなたにずっと嘘をついていたんですから」 「ずっと君に会いたかった」 「嬉しいです」 「雨が降る度に、君に抱かれている様な気がした――君の匂いが甘さがずっと欲しかった」 「ええ、知っていますよ。ずっと眺めていましたから」 鏡の中では、大きく黒い闇の顔をした男が――ぎしりと口角をつりあげ私の身体を甘くきつく抱きしめている。 「ずっと君に焦がれていた、君が死んだと聞いた時私がどれほど辛かったと思う。酷いじゃないか、酷いよ、あんまりだよ」 身勝手な私の言い分さえも抱きしめてくれる彼が、欲しい。 「ごめんなさい、僕は桜庭実としてあなたを愛せればいい――そう思っていたんです、けれどそれは間違えだったんですね」 「ああ、そうだ。君は間違えだらけだよ」 どんな汚い私でも妄執的に受け入れてくれる彼が、大好きだ。 けれど、私の中にも一定のけじめが欲しかった。そうでもしないと、どんどん欲の渦に埋まってしまいそうだった。 「お願いだ、真くん。私からの最後の願いを、聞いてくれないだろうか」 「ええ、何でも聞いてあげますよ」 私には彼の道を正す義務があった。 「どうかもう私の願いを勝手に叶えないで欲しいんだ、もし何かして欲しいなら口に出して言うから――」 一瞬、空気が歪む音が聞こえた。 「どうしてですか?」 感情の薄そうな青の瞳を不思議そうにまん丸にして、彼が私を壁へと追い込み、そう訊ねた。私は本音で彼とぶつかった。 「――大好きな君に怖い事をして欲しくないから……駄目か?」 「駄目じゃないです――けれど、怖い事じゃないならいいんですよね? あなたのために尽くしたい、一緒に居たい、それは間違っていませんよね?」 満面の笑みを溜めこんだ彼の瞳のブルーが、私の心と身体をズンと揺らしていた。 「それは、まあ――そうだけど」 微かな後ろめたさが浮かんだ。思わず劣情を抱いてしまった私の欲望を感じ取ったのか、彼は意地悪そうに青い瞳を尖らせた。 「駄目ですよ、今は就業中なんですから答えを聞くまでは――エッチはお預けです」 「わ、分かってるよ」 「本当に我慢できるんですか?」 からかうように私の顔の横に手をつき腕の檻を作った彼が、前のめりになって私の鼻の先を齧った。 私は理由のわからない本能的な恐怖を感じ、後ずさっていた。 見当もつかない、けれど怖いのだ。身体が勝手に怯えているのだ。 まるで底のない沼に誘う様な暗いエロス、倒錯的な眼光が私を熱く眺めて微笑している。 もう何度もしているのだ、もう一回ぐらい、いいか。欲に従ったとしても、溺れる事はありえない、だから――したい。そんな誘惑が私の矜持を揺さぶっていた。 「本当に、我慢できますか?」 「あの――その……まだ休憩時間だから、時間あるし……」 「して欲しいなら、僕の手をとってこちらに来てください」 闇から腕が伸びてくる。 甘そうな匂いがする腕だ、けれどなんだかそれを握ると引き返せないような気がした。 「……うん」 でも、逆らえなかった。逆らう事が出来なかった。 私は街明かりに惹かれる夜虫のように、その手に惹かれた。筋張った指が、私の指先に触れた。 そして。 私はその手を強く握ってしまった。 がしりと。闇が手を強く握り返した。 「あなたが望む以上に、もっと気持ち良くしてあげます」 と、私の耳元で暗く囀った真くんは――まるで快楽殺人犯が仕事を果たした直後の顔で、愉悦の笑みを浮かべた。 性急な仕草で私の唇を奪った彼は私の腕を引きトイレの個室に連れこむと、もったいぶった仕草で扉を閉め、鍵も閉めた。 「生田さんのもっと恥ずかしがる顔が見たいです。駄目ですか?」 それは私の愛を試すような意地悪な男の顔だった。 「……駄目じゃないけど、無茶はしないでくれよ」 承諾を得るや否や、彼は私の腕をネクタイで縛り上げ器用に排水管へと繋いでしまった。 便器を跨ぎ、腰を真くんに向け捧げる状態になってしまった私は、あまりの恥ずかしさに自身の顔が紅潮しているのだと悟ってしまう。 「こういうエッチなの、嫌いですか?」 「あまり好きじゃないけど」 「けど、なんですか?」 「君の事は――好きだ」 満足そうに彼は頷く。まるで彼に調教されているようで、私はますます恥ずかしくなった。それをむしろ喜んで彼は私のベルトを外し、手品のように素早く下肢を剥いでしまう。 「じゃあ、すぐに入れてあげますからね」 「え――……まだ、慣らしてないだろ」 「大丈夫、挿入の圧迫感がすぐに気持ち良くなるようになりますよ。僕が保証します」 そう言って、いきなりの彼が私の肉壁を押し広げ存在を教え込むように入り込んできた。 まるでモンスターにレイプされているようだった。 「ん……くぅぅ……ッ」 「ほら、もう全部入ってしまいましたね。あなたのココも、僕の事が好きでいてくれているようで安心しました」 悪戯な彼の指が、私の下腹を促すように擦っていた。 挿入の痛みと腹を変に揺すられるもどかしさが、私のくるぶしを揺らす。キュッキュと二人の革靴が床を踏み込む音が、艶めかしく室内に広がっていた。 「僕の生殖器があなたのエッチなお腹の中を可愛がっているのが、分かりますか?」 肉壁の良い場所をずいずい熱く擦られ、お腹の中がどんどんどんどんと熱くなっていく。 「ごめんっ、まことくん……いったん、抜いてくれ」 「どうしてですか? 生田さん、いつもよりも感じてくれていますよね?」 「おしっこ……でそうなんだ」 言ってしまった後、私は唇を噛みしめ羞恥に身を震わせた。カタカタカタと、排水管が羞恥にあわせ鈍い音を奏でている。 「ああ、大丈夫ですよ。僕がそうさせているんですから」 「え……?」 「だって、恥ずかしい事、させてくれるんでしょう? まさかアレは嘘だったんですか?」 「嘘じゃないけど……だってっ」 彼の長く筋張ったエッチな指が、粗相を耐える私の排泄器官を握り込んでいた。 「それに、もう我慢したって間に合わないんじゃないですか? ほら、こんなに震えていますよ、かわいいですね」 先端をなでられて、捏ねまわされていた。あの端整な指が、私のモノを嬉しそうにもみしだいている。 「僕を愛してくれているなら、どうかあなたの全部をみせてください」 彼の口から零れているのは切なげな吐息だった。もう、我慢ができなかった。 「ふぁ……ぁぁっ、ん」 チョロロロロと、便器の中の水が跳ねる音と共に私の羞恥も跳ねていた。 「可愛い音ですね、今日からは毎朝、あなたのコレを手伝ってあげましょうか? いえ、手伝わせていただけませんか?」 「き、きみが望むんだったら……っ、しても――いいけど、はずかしいから毎日は、嫌だ」 「なら、週三日ぐらいでどうでしょうか?」 「それくらいなら……っ、あ、まって急に……っ」 承諾を得た彼がますます喜んだ様子で漏らしたのは――甘い吐息と激しい性行為。 あまりの恥ずかしさに鼻を啜った私の腰のくびれを掴み、彼は甘いスイングで床を踏み込み暴れ始めた。 「でも、気持ちいいんですよね」 「ぅぅん……っ、っ――」 羞恥と性に囚われた私は、甘えるような仕草で彼のスーツに臀部を擦りつけてしまっていた。 「いいんですよ。もっと素直になって下さい――僕はあなたの願いを叶える事が何よりも幸せなんです、だから――もっともっと我儘に、強欲になってくれていいんですよ。それが僕のおねだりです、駄目ですか?」 粗相を出し終えた私の肉茎を、汚れるのも構わず愛撫してくれる彼の指は、熱い。そして甘い。なにより嬉しい。 「だ、だめじゃなぃ……っ」 もうどうしようもなく感じてしまう、もっと奥まで温かいモノで慰められたい。 「僕はあなたが幸せになってくれる、ただそれだけで幸せなんです」 「ぅぅ――あ、あ……っ!」 「どうして欲しいんですか、ちゃんと言ってみてください」 「中に……だして」 私は――彼の望みに従った。 「ええ、いいですよ――」 まるで闇の獣に犯されている様だった。悪魔の生贄にされている気分だった。 私は社内だと言う事すら忘れ、ただ彼が与えてくれる極上な時間に――溺れた。 『カルテ9 生田勇吾・来栖真――人間(欲しがる病)』 真くんと結ばれて数日、私と彼は四人寮で幸せな日常を過ごしている。 真くんになった彼は、ますます私に心と体を預け、べったりと甘えるようになった。そして私も彼に甘えた。愛する二人で、人生で一番幸せな時間を取り戻しているのだ。 今もこうして、私は胡坐を掻いた彼の膝の上でまるで猫のように頭を撫でられている。 部長も毎日が幸せそうだった。 本当に幸せだ。本当に幸せな筈なのに――けれど、少し物足りない。 そして。毎日、毎夜――寮のどこかから悲痛な悲鳴が漏れ伝っている。 声に惹かれた私は彼の長い脚と広い胸板の檻から抜けようとするが――。 「どうかしましたか?」 彼はうっとりとした眼差しで私を眺め、がしりと強く私の身体を背後から抱きしめる。 「トイレですか? なら一緒に行きましょうか、間に合わないと大変だから抱っこして連れていきましょうか」 「いや違う、トイレじゃない」 「じゃあ、したくなっちゃいましたか?」 耳朶に絡みつくような甘いバリトンが、私の心を擽った。けれど、いまはそれじゃない。 「違うよ」 「嫌なんですか?」 「そうじゃないけれど」 「だったらいいじゃないですか、とてもかわいいですよ」 ギュゥっと音が鳴るほどに強く、再び抱きしめられてしまった。 「……うん」 私の頭に顎を乗せ、彼が苦笑しながら囁いた。 「気になりますか? 本当はあなたにだって聞こえているんでしょう?」 「そう――だね」 聞こえてくるのは、聞き覚えのある声。 「じゃあ、行きましょうか」 まるでもっと深い暗闇の中、甘い沼の底に誘うかのような声音と共に――彼は私に手を差し伸べた。 私の中の誰かが言っていた。 愛されてる今は満たされている。けれどもっと愛されたい、もっと新しいモノが欲しい……もっと刺激が欲しい――と。 なんでも願いを叶えてくれる真くんは私の唇を奪いながら、私の手の平に冷たい何かを押し付け舌を吸った。 受け取った鍵は錆びていたが、まだ十分に使える様である。 私は、あかずのままになっている部屋の鍵をあけた。 雨戸も閉まっているからか、中は薄暗い空間だった。けれど饐えた匂いはしない、誰かが使っていた後が残っている。 そこには誰もいなかったが、私には男のいる場所の見当が付いていた。 グワングワンと音を鳴らす特大の冷蔵庫を開けると――そこにはやはりあの男がいた。 失踪してしまった藤堂だ。 蛇のタトゥーを持っていた男の背には、以前にはなかった蛇が彫られている。そしてその身体はまるで箱詰めされた蟹のように畳まれ、鎖と革の拘束具できつく戒められていた。 藤堂は失神しそうな程のうつろな眼を開け、紫色に凍えた唇を動かした。 「ゆうご……?」 「お久しぶりですね、藤堂さん」 「勇吾……ああ、勇吾――オレのために来てくれたのか」 冷たい身体を震えさせて、男はすがりつくように私の腕に落ちてきた。何か異物が体内に埋められているのか、その腹はうっすらと膨らんでいた。 まるでコンドームのようなゴム状の何かが、藤堂のヒクつく秘所から頭を覗かせている。 「抜いてくれ……頼むよ、勇吾」 言われた私は、男の願いを叶えてやった。 中からは、大きなゴムに包まれた藤堂の、いつも私を殴っていた蛇が出てきた。 防腐処理を施され、切り離されても形を保っていた藤堂の蛇が描かれた身体の一部だ。 やはり男は私のために蛇を消したのではなく、主人から逃げ出すための代価として蛇を切り落としたのだろう。 そして、藤堂の主人は闇の中から私をぼんやりと眺めていた。 「いつから藤堂さんを監禁していたんですか」 闇の中に声をかけると、男はまるで映画に出てくるサイコキラーのように無表情な笑顔で姿を現した。 「君が彼を繁華街に放置してくれて、真と遊んでくれていた日からさ。君だって、ずっと気付いていたんだろう?」 男はぺたりぺたりと素足のままで廊下を歩いてやってきた、藤堂の身体が強張っていくのが分かった。まるで怯えた小動物の様に、私の腕へとひしりと掴まり身を隠す様は――なぜだかとても淫靡だった。 「駄目だよ、生田君。それボクのなんだから」 そういって、部長は瞳の表面をつまみ黒々としたコンタクトレンズを取り外し、後ろに髪を掻きあげた。 「久しぶりだね生田君、真も悪かったね、黙って貰ってて」 そこにいたのは私も良く知っている人物。藤堂の主人であり、かつての私の上司でもあり、そして真くんの父でもあるボスだ。 桜庭が真くんだったのだ、その親戚がただの人である筈がない――そしてボスは藤堂に妄執的な溺愛を贈っていた。 真くんと同じ手段を使って、ずっと私を騙していたのだろう。そして人の顔を認識できない藤堂も騙されていたのだろう。自分を狙って七年間も待ち続けた男とも知らずに、寮の中で私の居場所を聞いていたのだ。 全てを知っていたのだろう、真くんは簡素なお辞儀をし、父に向かい苦言を零した。 「父さんは変わった人ですね、そんなに愛しているのに死なない程度に冷蔵庫に閉じ込めたり虐待ばかりをして――僕ならこんな酷い事は絶対にしないんですけどね」 息子に野次られ、父は飄々さを保ったまま口角を吊り上げた。 「だってせっかく可愛がってあげていたのに、逃げてしまうんだ。怒って当然だろう? それにね、冷やしておくと可愛いんだ、温もりを求めてガタガタ震えながら私に必死に身を寄せてくれてね――とってもヤラしいんだ」 「僕にはあなたの愛が良く分かりません」 眉をひそめた真くんのその言葉には、珍しくかすかな棘が含まれていた。 部長もまた珍しく眉を下げて、応じた。 「ごめんね、君だけを愛してあげられなくて――。ボクはほら、気が多いから、君がどの女の息子だったかも忘れちゃってね、どうしても親子の情が浮かばなかったんだよ」 「ええ、知っていますよ。けれど今のあなたは藤堂だけを気に入っている」 「ああ――大好きなんだ」 そう唇を動かした部長の顔には、慈愛すらも感じさせるほど優しい微笑が浮かんでいた。 けれど、その手は衰弱している藤堂の股間を乱暴にわしづかみにし持ち上げ、自らの懐へとたぐり寄せた。 「だからね、ボクはずっと君を――生田君を手中にしながら待っていた。いつかきっと、彼が君に釣られてフラフラァ~ってやってきて帰って来てくれると信じてね」 藤堂は委縮したように身を縮めるが――言葉と共に、部長の禍々しく育った逸物が藤堂の腹の中にずっしりと埋め込まれていった。 藤堂の身はまるでモズの生贄にされた蛇のように、びくりびくりと揺れていく。部長は好色を帯びた表情で私を眺めながら、続けた。 「そして実際――彼はボクの手の中に帰ってきてくれた。監禁当初の彼の可愛い反応、君にも見せたかったなぁ。彼さ、君の名前を迷子になった子供みたいに何度も何度も叫んじゃってね――それで、ボクの顔を見てようやく思い出したように震えだしたんだ」 虚ろな瞳に快楽の色を乗せ始めた藤堂が――わなわなと震えながら息を漏らした。 「いうな……勇吾に――んなこと、いうんじゃねぇ……よっ」 「その時は嬉しかったなぁ、君の顔しか覚える事の出来ない彼が、やっとボクの顔を思い出してくれたんだ。ボクを主人と認めてくれた――そう思ったら心の中がフワーっと膨らんでね、裏切りの代価に殺してやろうと思っていたんだけど、心が変わってしまった。仕方ないよね、欲しくなっちゃったんだから」 「いたい……っ、ボス――いてぇよ」 「綾香も正巳も桐生だってどうでもよくなっちゃってね、彼だけが――ボクの欲情を煽るようになった。これがたぶんボクの最初で最後の恋なんだろうね」 藤堂は体内をむちゃくちゃに犯されているのだろう。しかも相手はあの部長だ、きっと巧みな腰使いで、感じる場所だけを煽られ揺すられているのだろう。 「ん……ぐぅぅぅ――ひっ、勇吾、ゆぅごぉォォ……ッ」 「だから絶対に、逃がさないよ。悪いけれど、かわいい君でも返してはあげられないんだ」 焦点を失った瞳で痙攣する藤堂の口からは甘い唾液の糸が流れ始めていた。 やがてグスリグスリと泣きだした藤堂が、震える腕を私に伸ばし上擦った息を吐いた。 「勇吾に触れたい……っ」 本当に私を欲して欲して、たまらないのだろう。どれだけ部長に揺すられても、藤堂の指は私を求めて揺れ続けていた。 「勇吾に……謝りたい、オレはっ――勇吾と一緒にいたい」 部長はそんな藤堂を嫣然と眺めながら、深いキスを贈る。大人の獣の香りがした。 「生田君に焦がれる君は本当にかわいいね、藤堂君」 「アンタのものになるからッ、だから頼むよ……勇吾を、勇吾をこっちに呼んでくれよッ」 「だってさ、どうする生田君」 部長の言葉の返答を考える私は、答えを探るように真くんを眺めた。 闇の中に佇む真くんはまるで純白の陶器を指で弾く様な凛とした声で囁いた。 「僕はあなたが大好きです、あなたが望むことなら何でも叶えてあげたくなってしまう。だから、あなたが望むように、願うままに、したいようにすればいいんですよ」 そう言った真くんは、部長に貫かれ期待に屹立させた藤堂の男性器をモノのように掴み上げ、ごしりごしりとからかうように扱き始める。 まるで女のような嬌声が、あの藤堂の口から零れ始めた。 あの暴君が、私をさんざんに支配し弄んでいた藤堂が部長に――いや、ボスに貫かれ女の様に身を焦がして揺れている。 そして私を欲していた。 腰の奥に暗くじめりとした快楽が浮かんでいた。歪んだ優越感が、私の胸を満たしていた。口角が、自然とつり上がっていると自覚できるほど、私の頬は緩んでいる。 そんな私を眺め、二人の親子は幸せそうに息を吐いた。 「君もしてあげてよ、彼が望んでいるんだ。前にボクと真とでしてあげた事があっただろう? あれをやってあげようと思うんだ、それが彼の願望でもある」 私は藤堂の途切れた腕の付け根を撫でながら、正面から男の顔を見据えた。 「藤堂さん、あなたは私にどうして欲しいですか?」 自分でも驚いてしまうほど、淡々とした吐息が漏れていた。 そして自らのスラックスのジッパーを、わざともったいぶった仕草でジィィィィと下げ――既に部長が埋まった藤堂の肉襞に、怒張を擦りつけた。 入口をからかってやると、面白いぐらい愉快に鼻を啜っている。耳を赤くし、眦に欲情の朱を咲かせていた。 「ゆうご――頼む……っ、いれて――イカせて」 「はい、いいですよ」 私は笑窪が出来てしまうほど強い笑みを作り、男の中に身を侵入させた。 やわらかく温かな感触ときつい感覚、両方が襲っている。 「……むぅぅ――んぐ……ぐぅぅ」 チャラチャラチャラと、鎖が鳴る。下剋上にも似た男としての快感が私を支配した。 私はたまらずに、藤堂の唇を奪っていた。私を暴行し笑っていたあの藤堂の身が、桃色に染まっていく。それがなぜだかとても嬉しくて――私の浅ましい心はますます男としての優越感と達成感に満たされていく。 もっと欲しい、もっと愛されたい、もっと――。 「じゃあ僕は生田さんのこっちを喜ばせてあげますね。もっと気持ち良くしてあげますから、ずっと一生、僕をあなたの一番に置いてください」 「ぐぅ……んっ……!」 私の中に、真くんの熱く滾った欲望が入り込んできた。 「愛しています、生田さん」 「ぁ……っ、ん、真くん……ッ」 私は藤堂の筋張った脇腹に腕を置き、衝撃を堪え息を漏らした。思わず唾液が垂れたのか、藤堂の肩が私の体液で濡れていた。 「勇吾……っ」 藤堂はまるで甘露とばかりに浅ましく舌で追った。浅ましい彼の欲望に、私の欲望もエスカレートしていく。犬のようにかわいい藤堂の唇が、また欲しくなってしまったのだ。 「ん……ぅ」 私が彼と唇を合わせ、互いに舌を合わせていると――不意に、拗ねたような男の声音が降ってきた。 「君達だけでずるいじゃないか――」 と、そう呟いたのは嬉しそうに尾を振る藤堂を眺め、満面の笑みを零し続ける部長。 「ん……」 部長がまるで藤堂の嫉妬を促すように、私の唇を奪った。深く巧みなキスだった。 それに嫉妬したのだろうか、真くんが私の背中の蛇を煽るように噛みつき始めた。 お腹の中に鎮座する真くんの暴れん坊が、自分を忘れるなと何度も何度も良い箇所ばかりを擦って回る。ネジを回すような角度で、正確に――。 彼はまるで奉仕の様に私の身を犯してくれるのだ。 「そろそろイキたいんですよね、生田さん?」 背後から蜜よりも甘い声音が降ってきたせいで、私は身震いしながらコクリコクリと頷いてしまう。 私の願望を言い当てた彼も吐息を零し、抉るような腰使いで中を満たしてくれる。 「生田君、彼にもう一度キスしてあげておくれよ。ボクはね、大好きな君に甘く犯されてあさましく感じている彼が見たいんだ」 部長に促された私は、切なげに息を漏らした藤堂の唇にもう一度キスをした。 すると藤堂の体内が甘く蠢き私を締めつける、同時に、真くんが私のお腹の中の一番いい場所をゴツゴツと小突く。 「……ッ、ッ!」 「ゆう……ごっ」 頭の中が壊れてしまいそうだった。 新たに限界を超えた快楽を脳に刻み、私は長く断続的に股を痙攣させ絶頂してしまった。 同じ男の体内に入り込んでいる部長の脈動が、私の性器をズシリと揺する快感も甘い。 藤堂もまた達していたのか――私の種を植えられてもどかしそうな嬉しいような、複雑だが艶めいた表情を見せ、キスをねだり私にしがみ付いてくる。 そんな私達を親子の重い視線がじっとりとねめつけていた。 「可愛いですね、二人とも」 「ああ、そうだね」 そして、私と藤堂を犯す彼等はまだ達していない。 吐精の余韻で蛇の様に絡み合う私と藤堂は、同時にくたりと力なく縺れるが、二人の男の律動は止まらない。むしろ劣情は増していく。弱って蠢く私と藤堂をもっと愉しませるかのように、激しいピストンとなって男の性をアピールし始めていたのだ。 部長と真くんは汗で絡まったシャツを脱ぎ捨てた。 親子の肩には、組の家紋でもある凛々しい鳥のタトゥーがまるで威嚇するように並んでいる。親子は互いに共謀者の顔で、視線を合わせていた。そして、まるでモズが木の枝に獲物を刺してしまうように、二人は痙攣する私達を甘い肉の幹で突き刺し――中に支配の印を蒔いたのだ。 もはや四人で溶けてしまいそうだった。それほどの快楽――至福だった。 「真、君はいま幸せかい?」 「ええ、生田さんの欲が満たされて幸せになる、それが僕の一番の幸せなんです」 真くんは優しい声でそう言って、私の蛇を味わうように背中に舌を這わせた。 「そうか――それは良い事だね」 そう言って、深く息を吐いた部長の声は安らかだった。 そのとき部長は初めて父親の表情を見せたのだろうか、真くんは嬉しそうに笑んでいた。 親子の絆が――怠惰な劣情の夜で繋がったのだろう。 私と藤堂とも、昔にはなかった絆が生まれている気がした。 無数に絡み合った絆が、夜を彩りますます快楽は甘く濃厚になっていく。 夜はまだ長い。 私と藤堂は二人のモズに貫かれ、甘く啼き――淫らな夜の生贄となった。 『カルテ10 生田勇吾――しあわせ』 奇妙な四人暮らしは続いていた。 開かずの間――二号室の正式な住人になった藤堂は今日もまた、私の腕の中に無理やり押し入ってきて、幸せそうに頬を寄せている。 「なぁ勇吾。オレはこんな風にお前と暮らせるなんて思ってもいなかった。今、すっげぇ幸せなんだ」 「部長のペットとしてでも、ですか?」 「うっせーよ、茶化すな。でも、まぁ……あの飄々面を歪ませて、七年間ずっと待ち続けてたって膝抱っこされながら延々恨み言いわれちまったら、付き合ってやるしかないだろ」 「部長の膝の上で鎖に繋がれてお尻に玩具ねじ込まれて、ぐすぐす泣いてましたよね」 「は? テメェッ、なんで知ってやがるんだよっ」 「部長から自慢されて動画を見させられたんですよ。愛されてるんですね」 そして私は、最近の藤堂が部長の顔を写真に治め始めている事も知っていた。 「キス、してもいいか?」 「部長に怒られますよ」 「お前とだったら、いいって――そう言ってくれてるから」 藤堂の言葉が言い終わった直後、私は快楽を煽るような深く濃厚なキスを男に贈った。 快楽と酸欠で息苦しいのか、藤堂は耳まで赤く染めて恥ずかしそうに身を捩った。 「ま、まてって……勇吾――ッ……ん」 私は逃げる藤堂を追い、以前の仕返しとばかりに深くきついキスばかりをした。 それをどこかで眺めていたのだろう、 「おや、生田君とキスができただけでそんなにしちゃって、君は本当にはしたない犬だね」 藤堂の主人が青い瞳をからかいの色に染めやってきた。 「しかたねぇだろ、惚れてるんだから」 「ボクのことはどうだろうか?」 「アンタはっ、毎晩毎晩変なことばっかしやがって、嫌いに決まってんだろうが!」 「そう、嫌いな男の顔を覚えてしまって、君も災難だね。もっともどんなに君に嫌われた所で、ボクは君を手放すつもりはないけれどね」 多淫症からくる弊害で、一人の人間を愛する事の出来なかった部長だが、今はもう藤堂だけを思い続けている。これもまた、一つの幸せの形なのだろう。 幸せそうな二人を眺める私の背を、闇からそっと現れた真くんが抱き寄せた。 「生田さん」 「どうしたんだい、真くん」 なんでも願いを叶えてくれる真くんの誘惑声が、私の耳を狡猾に擽る。 「今度は何が欲しいですか?」 「君さえいれば、他に何も要らないよ」 私もまた、彼のおかげで嫌な思い出ばかりに潰される事もなくなっていた。 完全記憶能力がなくなったわけではないが、嫌な記憶以上の温かく幸せな記憶が彼によって与えられているから――嫌な事を思い出す暇がないのだ。 「君は私にどうして欲しい?」 「どうか僕を嫌わないでください」 「こっちむいてごらん、真くん」 私は心音が分かるように胸を合わせ、彼を腕の中に抱いた。もう二度と離すまいと、ひしりと強く抱きしめた。 「ほら、こうしていれば私が君を愛しているって、絶対に嫌いにならないって分かるだろう?」 「僕はもう――あなたがいないと生きていけない」 「ああ、そうだね。私ももう、君がいないと生きていけないんだ」 ぎしりと音が鳴るほどに、彼が私の身体を強く抱きしめ返してくれた。 窓の外ではいつか見たあのリスが巣作りをしていた。百舌鳥の羽毛を素材にし、ふかふかそうなベッドを作る。 私達は四人とも何かが欠けた人間なのかもしれないが――それでもこうして幸せを手に入れる事が出来た。 私達を知った者は病的だと不気味がって怯えるが、それでも私達は誰よりも何よりも幸せだった。 部長も藤堂も、そしてなによりも真くんも――全員が欲しい、全部が欲しい、全部私のモノにしたい。 浅ましい私の願いをなんでも叶えてくれる真くんが、叶えてくれた。 そして毎日、一番欲しいモノを枕元に届けてくれる。 「僕達、幸せですね」 「ああ、きっと世界中のだれよりも幸せなんだろうね」 秋雨は止んでいたが、私のこころにはいつも甘い雨が降っていた。 私はいつものように心の中で願った――。 あくる日、願いは成就された。 枕元。零れるほどの頬笑みを浮かべる真くんが、幸せそうに私の顔を眺めていた。 私は言った――君は何が欲しい? 彼は私を指差した。 〈了〉 |
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