【獣医マツダと優雅なバカ犬】

 獣医、松田伸也は愛嬌ある顔立ちに悪態をのせ、潰れた缶ビールを自室の壁にたたきつけた。
「なにが仕事だ、なぁにが早く慣れろだ。えらそうにしやがってあのハゲズラ鼠」
 今日、勤め先を辞めた。
 そして獣医も辞めようと考えていた。
 向いていなかったのだと、そう思う。これからなにをしようか考えてもいない。足下も思考も将来もフワフワしていた。
 ビリビリビリと紙が鳴る。
 下唇をぎゅっと噛みしめた松田は、無言で、自分の名刺をいちまいいちまい破り捨てた。
 獣医師と書かれた硬い紙。初めて手にした時はワクワクと責任の重さに一喜一憂した紙。
 その滑稽な紙をちぎっていくたびに、プライドと信念が裂かれている気分だった。心の中が冷えて、冷えて、冷えて、まるで井戸の中に沈んでしまったみたいに凍えていた。
 硬い紙質だったせいか、指の端がわずかに切れてしまった。
 心の糸も切れてしまいそうだった。
 じゃあ処理しといてね、と自分に安楽死を任せキャバクラへと向かってしまった上司の顔を思い出すたびに虫唾が走る。
「面倒だからって僕におしつけちゃってさ、なら、てめぇがヤレってんだ。だいたいあのデメキン顔の飼い主も飼い主さ、ハムスターが手術で治る可能性があるなんて奇跡的な確率なんだよ? 初期の腫瘍なら開腹する必要だってない、術後だってけっこう生きますよ。ええ、そりゃもう、生きますってば。それを少しの金を惜しんでさ? 息子には内緒で処分して欲しい? 冗談じゃない。あの子はまだ生きられたのにさ、痛みが出始めるまえ苦しくなりはじめる直前まで待って、せいいっぱいかわいがってやればよかったのに。それを処分、処分、処分。いやわかってますよ、治療費が払いたくても払えないギリギリの家庭だってありますよ。ペットが苦しむ姿をみたくないって人もいる、そりゃわかってますって。でも、あのバアさんは違うっしょ? こどもが勝手に飼ったこどもが勝手に買ったって言えば全部かいけつするわけないっしょ。ワーキャーワーキャーうっせぇうっせえ、ああ、うるさいっ。アンタが抱えてるワニ革バッグを売りゃ簡単に作れるだろうに、なにが暴利だぼったくりだよ。ったく、だいたいガキもガキだ。自分で獣医にみせるほどの勇気もなければ、責任も取れないってんなら飼うんじゃねえっつーんだよ、スマホで犬でも飼って、うぁかわいいとかいって満足してろよバーカ」
 ひとしきり叫んだ後、松田は座り込んだ床から手だけを伸ばした。ずるずるガサガサとビニール袋を探る指に冷たい感触が走る。
 結露で濡れた缶ビールとあのハムスターの体温は、すこし似ていた。
(かわいそうだったよな)
 痛いほど喉にささるビールの冷たさを感じながら、松田はぼろっちい天井を眺めた。
 脳裏には夕方永眠させてしまったハムスターの顔がぼんやりと浮かんでいる。
 二度と起きられない麻酔とも知らずに、人間と飼い主を信用し心安らかに眠っていく穏やかな表情。あの顔が忘れられない。
 心に反して、松田はケラケラと笑いながら蜘蛛のように折った四肢をばたつかせた。
「ハム次郎ちゃんだってさ、なにそれ馬鹿みたいな安直な名前。とっとことっとこ走るってか、はは、そんな名前つけちゃうぐらいだから助けられる命を捨てちゃうぐらい馬鹿だったんだろうね。あは……はは、はぁ」
(僕にあの馬鹿飼い主どもを説得するだけの力とかさ、全部ウチでひきとりますっ! て、金でもあったら別だったのにねぇ)
 胸ヤケにも似た苛立ちと罪悪感をかきむしる松田の胸板はあまり厚くない。短髪の髪をかきむしる指も繊細そうだった。
 たまには現実から逃げたくなる時もある。
 いまがそのときだと、もう一本、缶ビールを手に取った。あけようとタブをこするが、こういうときに限ってうまくひっかかりやしない。
「どいつもこいつもつまんないね、もうほんとうに、なんなんだろうね」
 やっと蓋が開いて、いっきに呷った。
 深酒に満たされた体が、松田の独り言を加速させる。
「なあ真弓、おまえもそう思うだろ? なあ、おい、なあってば聞いてんの?」
 もっさりと起き上がった松田は同棲中の恋人を探そうと顔を傾げた。リビングを覗くがだれもいない、キッチンも同じ。
「まゆみー、まゆみちゃーん。バッグ買ってあげられなかったことまだ怒ってんの?」
 まさか冷蔵庫の中に入っているのではないか、と冗談まじりに開く。そこには何週間もまえに作ってくれていたカレーの鍋が煤けて転がっている。
 思い出したように松田は唇だけをひねらせた。
「あー、そっか。真弓、もういないんだっけ」
 浮気したのはあっち、けれど別れた原因はまちがいなく自分。
『獣医さんって聞いてたからもっとお金持ちだとおもってたのに……ぜんぜんなのね』
 呆れと冷めた表情を残していった恋人。
 彼女はすくなくとも自分よりはしたたかで、現実的だった。と、松田は醒めた瞳で煤けた鍋を眺めた。
「人間様の医者じゃないんだからさぁ、金持ちなわけないでしょ? そんなんもわかんないでさ、こーんなつまらない僕と付き合っちゃうんだからバカだな、うん、バカ」
 早朝出勤、帰りは深夜。平均就業時間は十四時間。休日出勤は当たり前、盆暮れ正月は、なし。そんな重労働ばかりの日々を送る獣医。その月収はさぞや高いのだろうと、彼女がそう勘違いしてしまったのは仕方ないか。
 初めからの土地持ち開業医でもないかぎり、獣医の平均月収はかなり低い。
 それでも獣医を続けていたのは動物が好きだったから。そしてなにより、動物を家族のように愛してくれる飼い主のために、少しでも力になりたいと思っていたからだ。
(それ以外にもいろいろあるけどさ)
 それなりの理想があった。
 けれど現実はご覧のありさま。
(べつに、カレーの鍋を返すだけだし……)
 もぞもぞとスラックスの後ろから薄い携帯電話を取り出した松田は、家から出て行ってしまった恋人に電話をかけた。
 すでに番号はかわっていた。
「なにが別れても友達でいましょうね、だよ」
 乾いた笑いをこじらせて、松田はわなわなと肩を震わせた。
 なにか一本、糸が切れてしまったのかもしれない。
 うまくいっていると思っていた。
 けれど違った。松田は恋人に贈れなかった指輪、揃いのリングを空き缶の詰まったゴミ袋に投げた。
 こんなときだけ綺麗な軌道を描いて、指輪は順調にゴミの中へと落ちていく。
「つまんねえ、ああつまんねー、つまんねえのッ。いっそ人間やめっか」
 ぱたんと扉を閉じた冷蔵庫。その照りつく樹脂の戸に額をおしつけ、松田は再度吐き捨てる。
「どっかの金持ち? 石油王とかハリウッドスター? とかそんなセレブ? あの金持ち馬鹿どものペットにでもなりたいよ、ほんとにさ。冷暖房が整った豪邸でさ、専用の個室に食事ルームまで完備、まいにちまいにち美味い飯食って寝りゃいいだけの生活さ、そんなの――あるわけねえよな」
 そんな自分自身のぼやきに、松田は自嘲をこぼした。
(ほんと、なにやってるんだろう)
 そこまで頭に思い浮かべ、松田は跳ね起き流しへと駆け込む。
 本来、酒なんかろくに飲めもしないのに無理矢理呷った反動だろう。
「……ぅ、げぇ……さいてい」
 さらさらの胃液にはなにひとつ食べ物の欠片はなかった。
 口元を拭い、床に散った胃液を新聞で拭いていると、煌びやかな装飾文字でかかれた旅行代理店の広告が目に入る。
(海外旅行か――昔はよく行ったっけ……くっだらないけど、気分晴らしにいいかもね)
 思い立ったが吉日。
 現実を忘れたい。いっときでいいから夢の世界ですごしたい。
 松田はゴミ袋をがさりと漁った。



 ゴミ袋から拾いなおした婚約指輪は、一晩のうちに札束へと変わった。
 雲より高い空の上。
 ペアの新品リングを受け取った質屋の、なんともいえないお悔やみ顔を吹き飛ばすほどの青空が目の前に広がっている。
 学生生活最後の思い出にとパリに行った際に作ったパスポートは、ぎりぎり有効期限内。すべてを忘れて休むにはちょうどいい、世界全体がそう言っている気がした。
 旅行を告げる友人も身内もいない、気ままな一人旅。
 狭いエコノミークラスの通路をもろともせずに、松田はCAにむかい鷹揚に手を振った。
「ねえお姉さん、こっちにトマトジュースお願いね」
 向かうさきは、最近観光地として話題になりはじめていると噂の中東国家、ドゥーバイだ。
(砂上国家でありながら都心は緑豊かな楽園。海にカジノに遊園地、疲れたあなたを癒す夢の国ドゥーバイ! ねえ、うっさんくさい広告だよ、まったくさ。こりゃあ騙されたのかもね)
 妙になれなれしかった腰の低い旅行代理店の店主の顔を思い出し、松田は重いため息をついた。
 頭に浮かぶ言葉は二文字。
 カモ。カモカモカモ。世間慣れしていない自分はきっといいカモだったのだと、いまさらに気づいたがもう遅い。
 シートを背にずるずるとだらしなく腰を落とし、廊下に足を投げ出す。シートモニターに映るのはいかがわしいアダルト動画。
 いくらうなだれているとはいえ松田にも常識があった。なのにこんな迷惑な行為を行っている、それにはもちろん理由がある。
「お姉さん、こっちだよ、こっち。ト・マ・ト・ジュース! ねえ聞いてるの?」
 青スカーフと白い手袋のワンポイントが魅力的な女性CAが、額に青筋を浮かべながら紙箱のトマトジュースをシートデスクに置く。
「お客様、そう何度もお呼ばれになられますと業務に支障が」
「いいじゃない、他のお客さんなんてまったくいないんだからさ」
 行く先は観光地のはずなのに、普通なら一番乗客が多い格安エコノミー席にもかかわらず、他の客はゼロ。
「それと、そういった映像はお控えくださいますようお願いさせていただいております」
「音も消してるから問題ないじゃない、って……はい、わかりましたよ、そんな怖い顔しないでくださいよ。すみませんでした!」
「ご協力ありがとうございます」
「でさ、ちょっと聞きたいんだけどドゥーバイってさ、しあわせの国でエンジョイタウンで夢の楽園なんじゃなかったの?」
「――は……!?」
 CAは思わず素をだしてしまったようで、コホンと慌てて詫び、続けた。
「失礼いたしました。ドゥーバイはたしかに綺麗な国ではありますね。ただ、正直その――ジャパンの一部の旅行代理店ではそういった宣伝をなさっているのかもしれませんが、あまり観光に行かれるような場所ではないのは確かですね」
 ですよねぇ、と動画のチャンネルを変えながら松田はこどもみたいにうなだれた。
「そうだお姉さんさ、とっても綺麗だからさ、ヒマなら僕と一緒に観光なんてどうかな?」
 と、松田は肩を竦めてみせた。きちんとした身なりさえしていれば、中の上くらいの容姿に映る自信がある。が。
 ふふん、と斜に構えたCAは腕にまかれた高級時計を覗かせてみせた。
「もうしわけありません。せっかくのお誘いですがあいにくと私は浪費家でございます。せめてビジネスクラスに乗られる方でないと、すぐに離陸してしまいますよ」
 現実主義の女性は強くて魅力的だが、別れた彼女と重なる。感傷が勝ってしまう。
 松田はしょげた様子で、大人しく椅子に座りなおす。
(やっぱり男は金だよな、金。帰国したら大学通いなおして人間の医者を目指すってのもありかもしれないね)
「手厳しいね、じゃあせめてさ、もういっぱいトマトジュース貰えない? あとお腹冷えるといけないでしょ、膝カケも頼めないかな」
 客との戯れ顔から業務顔に戻し、CAは凛とした口調で薄いリップをひらいた。
「かしこまりました。こちらは現地案内のパンフレットでございます。空の旅はまだまだ長いですから、どうぞ、ごゆっくり」
 CAも他の乗客がいないからか、気さくすぎる松田に勝ち誇った笑みを浮かべ重いカタログを渡し去っていく。
 松田はやはりずるずるとだらしなくシートに寝そべり、カタログをめくった。
 ドゥーバイ観光局が発行したというカタログにはさまざまな注意点が書かれている。
(肌の露出は控えろ。タバコは禁止、酒もだめ。宗教じゃなくて風習らしいけど、ずいぶんと前時代的だよね。面倒そう)
 文句ばかりが浮かぶ。
 いつだってそうだ。文句ばかりが心の中で達者に詭弁を語るが、実際に口に出すことはない。仕事だってそうだ。結局ただ流されるまま規則に従い、受動的にたんたんと仕事をこなすだけ。
(いや、仕事に関してはそうでもないか……)
 思えば衝突ばかりの日々だった。
 自分の信念と上司の信念には違いが生じていた。ペットの命、金、飼い主の事情、どこに重きを置くかに答えなんてない。きっとどちらも間違っていなかったのだと思う。
 だから疲れてしまった。
 本当に動物が好きなら獣医は止めたほうがいい、そう大学時代の先輩から注意された言葉がいまさらになって胸を叩いていた。
 そもそも日本獣医の根源はペットを癒すための医療ではなく、人間が動物を扱う際に生じる様々な問題を解決するための畜産。動物が好きならば、トリマーや自然保護活動を視野に入れた方が良いと言ってくれたのも先輩だった。
 けれど物言えぬ動物の命を救いたい、その信念だけはどうしても譲れなかった。
(だって仕方ないじゃん、僕わがままで頑固だし。まあその結果がクビ同然の辞職だけど)
 リラックスしにきた筈が、頭の中はリアルで埋まっている。
 獣医としての仕事を続けるか、それともまったく別の仕事をするか。
 松田は今年でもう二十八歳。
 新しい道を歩むなら早い方が良いだろう、そう感じていた。
 えり好みさえしなければ、松田のような獣医師免許所持者がなれる仕事は意外に多い。
 いままでのようにペット治療に重点をおいた民間獣医師としての臨床獣医。畜産方面にも求人はある。安定を重視した公務員だってあるが、主な仕事はやはり殺処分だ。特定感染症のさらなる伝染を防ぐためには誰かがやらないといけない仕事なのだから、存在を否定するつもりもない。
 けれど、もう自分は動物の生死に関わるのは嫌だった。いや、正確に言うなら人間側の一方的な理由で死んでしまう動物を見たくない。
 とくに人間になつく動物が殺されてしまうなんて勘弁してほしい。
 まあ現実的な範囲として、民間保険会社で、飼い主ならぬペットに対する保険、ペット保険担当者になるのが妥当な線だろうか。これも獣医師資格保持者がなれる獣医以外の仕事ではある。
 やはり、獣医は辞めよう。そう決意した松田は観光に頭を切り替えるべくカタログに視線を戻した。
 けだるそうに欠伸しながらパラパラとページをめくる松田の指が止まる。
(んー、アラ・カチューの文化が残っている? アラ・カチュー、聞き慣れない言葉だね)
 注訳の書かれているページにいっきにめくると、やっとその正体が判明した。
 唇を尖らせた松田はうんざりとした様子で、自らの前髪にむかって遊ぶように息を吐く。
 アラ・カチュー。
 日本語で訳すと誘拐婚、略奪婚、ひったくり婚。
 文字通り、意中の相手を誘拐し強引に婚姻の儀式を行ってしまう伝統らしい。
 一目惚れの相手を浚ってしまう恐ろしい文化だが、それが恋愛婚や見合い婚と並んで一般的な婚姻方法だというから驚きである。
 このカタログが正しいのなら、手順はこうだ。
 まず男性が女性に恋をすることから始まる。
(まあ、そりゃそうだよね。そうじゃなくちゃはじまらない)
 次にアラ・カチューをおこなう男性側が戦力――親類や友人を集め、花嫁誘拐の準備をする。その間に自宅に残る家人が式の準備を進めてしまう。花嫁の意思など関係なく勝手に婚姻の支度を整えてしまうわけだ。
 準備が整ったら意中の相手を道でまちぶせし、仲間とともに誘拐。
(わざわざ※じるしで、現在では主に車が使われています、なんて書かなくてもいいのに。卒業式のパンフレットとか運動会のお知らせじゃないんだからさ)
 誘拐した男は意中の相手をそのまま自宅に監禁、婚姻を承諾するまで説得しつづける。ここで説得に応じたら、もうその日のうちに二人は夫婦。新婚さんのできあがり。
 むろん強引に浚われた花嫁は抵抗するが、その抵抗が激しいほど、涙をながせばながすほど幸せな結婚の予兆になる、と考えられているとのことだから酷い話だ。
 断ったとしても、そのまま男性の自宅に閉じ込められるともう後がない。
 男の家内で一晩が経ってしまうと試合終了、花嫁は花婿と一夜を共にしたと判別され、婚姻が成立してしまうのである。実際にそういう行為があるなしに関わらずだ。
 一度でも姦通してしまうとその男と結婚しなくてはならない純潔主義の思想、古い文化、悪しき風習を利用した――花嫁側にしてみれば最悪な習慣であることに違いはない。
(法律では建前上禁じられてるけど、それも文化だからって警察も不可侵ってんだから、サイテーな習慣だよ。いくら治安が悪い中東とはいえこの人権時代に信じらんないね)
 けれどそれを喜ぶ女性がいるのも確からしい。
 資料には、婚姻の証、純白のストールをまかれた貴婦人が、嬉しそうに旦那に肩を抱かれる姿が写真におさめられている。
 まるで日本とは別世界。そういった意味では日本社会に疲れた松田には、悪くない観光場所かもしれない――。
 まあ男の自分には関係ないか。と、松田は分厚い本を閉じた。
 そんな野蛮な文化が残る国家がほんとうに観光地として栄えているのか? その答えはこの誰もいない客室が物語っているだろう。
 チューチューとトマトジュースをすすり、瞳を閉じた松田は膝カケにくるまり体を伸ばした。
(いっそさ、とんぼがえりしちゃうのが正解なのかもしれない)
 松田がそう思った時だった。普段は聞き慣れない音声が流れた後、機内放送が響いた。
「お客様の中にお医者様は――」
 途切れた機内放送を無視し、松田は瞳を閉じたまま。悠々と足をのばしチューチューチューチューとジュースを美味しそうに啜る。
 獣医は医者とは違う、人間を診る権利を与えられていない。獣医が人間を診るのは違法行為なのだ。もちろん、基礎医療は大学で習うしなにより一般人よりははるかに医療知識は豊富かもしれない。他に医者がいなければ機長の指示のもと、特例で診察する場合もある。が、あえてトラブルに顔を突っ込もうとするほど松田は人間を好いていなかった。
「いえ、お客様の中に獣医の方はいらっしゃいますでしょうか?」
 なぜだろうか。
 もはや獣医に嫌気がさしていたはずなのに、体は自然と跳ね起きた。

 瞳に怜悧な色を乗せ、仕事道具を手に歩く松田の足は速い。
(介助犬か猫か――それともペットか、とにかく急がないとね)
 あれほど獣医から逃げようとしていたのに、なぜ。
 そんなことは頭に浮かばなかった。
 今回の旅は、機内へのペットの持ち込みが禁止されていることの多い国内線ではなく、国際線。それも外国航空会社。
 さまざまに制限があるだろうが、機内にペットがいたとしても不思議ではない。
 動物の急患だとすると、おそらくビジネスかファーストクラスだろう。航空機内に連れていけるペットの数は会社によって差異はあるが、このエアラインはたしかファーストが四匹、ビジネスが二匹。
 しかしビジネスクラスに足を踏み入れたが獣の匂いはしない。
 ビジネスには乗客がそこそこいたのか、何事かと睨む瞳が突き刺さる。しかし松田はまったく構いもしない。鼻をスンスンと動かし、ファーストクラスへと急ぐ――が、CAがロックを解かないとその境が開かない。
 さきほどのCAを捕まえた松田は真剣な表情で自身が獣医であることを告げた。
「ジャパンの民間獣医師です」
「あなたは――わかりました」
 あまりに真摯な表情だったからか、CAはそれをすぐに信じ、状況を冷静に説明しながら松田を現場へと案内した。
(犬の急患。心停止した直後か、急がないと蘇生できたとしても脳に障害が残る……)
 そうなったら、飼い主はその子を最後まで世話できるだろうか。
 日本での嫌な記憶ばかりが松田の焦燥を煽る。
(そんなことはさせたくない、急ごう、急いで、急いで、ぜったいに助けないと)
 ファーストクラスの室内はそれぞれが二畳ほどの区切りで仕切られた、近未来的なデザインの空間になっている。
 該当の個室に前についた途端、獣毛の香りが松田の鼻腔を擽った。
 プライベート空間を演出するモザイク扉を開く。
 泡を吹き動かない中型犬と、そしてその犬を腕に抱き狼狽した様子で震えている一人の外国人がいる。
「どうしてこんなこどもが来るのだ、遊びではないのだ帰ってくれ!」
 と、責めるように叫んだ大柄の外国人はおそらくこの犬の飼い主だろう。ジャラジャラと鳴る金の装飾と、黒のカンドゥーラ――中東人が好んで着るローブ状の布服を身に纏ったいかにも金持ちそうな男だった。
 アラビアンナイトの貴族の衣装を想像すれば、近しいイメージが浮かぶだろうか。
 松田は流暢な共通語をあやつりながら、許可を待たずに部屋に侵入する。
「はいはい、日系人がガキっぽいとかそういのはいいからさ。ちょっと邪魔するよ」
 くだけた口調とは裏腹に松田の瞳には真摯な強さがあった。
「無礼者!」
「しずかに、音が聞こえない」
 聴診器を取り出す松田の手つきは慣れていた。動転し、殴りかかってきそうな男の腕をしずかにいなし、犬の脈を診る。
 心音も脈も止まっている。
 足下には犬が嘔吐したとみられる固形物が浮かんでいた。形状から判断するに睡眠薬だろう。
 犬種は――シバ犬にも似たスピッツ系の一種だった。松田の記憶が正しければ、イスラエル原産の地雷除去犬として一時話題になった種である。
(まだ十分助かる、か)
「すぐに処置を行うから、ちょっと場所をあけてね」
 犬を預かろうとするが、男はそれを拒んだ。
 飄々さを捨てた松田は、医師としての瞳で穏やかにいった。
「カナーンドッグ、別名ケレフ・カナーニ。この子はそうだね、年齢は十二歳前後。おそらく多数の出産経験あるメスだね。ストレスがたまるからって睡眠薬の処方を獣医から推奨されたんだろう? けれど、こうして動かなくなってしまった、違うかい?」
 男は息を呑み、警戒するように松田の腕を掴んだ。
「そうだ、なぜ私の記憶がわかる。さてはきさま、悪魔の使いの類ではなかろうな」
「残念、僕は正真正銘の動物のお医者さん。気圧の変化と睡眠薬の重荷、ダブルパンチで体がまいっちゃったんだろうね。けれどショックで止まっているだけさ、心停止からまだ僅かしか経っていない筈だ、君が邪魔しなければ蘇生確率はうんと跳ねあがる。心配なのはわかるけれど、すこしおちついてくれないかな?」
 推察は当たっていたのだろう、男は松田に犬を引き渡し「頼む」と唇を震わせた。
 面倒な飼い主からやっと動かぬ犬を手に入れた松田は、犬の体の右側を下に、心臓が上にくる位置に横たえた。肋骨を指で辿り、六本目と七本目の間を探る。
 犬の顎を押さえ大きく息を吸いこんだ松田は、鼻から人工呼吸を行う。
「お姉さん、高そうな時計もってたよね。十秒間隔で教えて、いいね」
 CAはこういった応急処置のために正確な時計を持ち、軽度の補佐能力も持ち合わせている、との話はほんとうだったのだろう。彼女は松田の指示に従い、時計を構え、声を出さずにうなずいた。
 再度、鼻から息を送り込み。戻って来いと願いを込めて、命の音を動かぬ体に送り込む。
 さらに続いて十回、心臓マッサージ。リズムは一分に八十から百、トントントトンと十回ごとに叩いたら、また人工呼吸。
 松田の手際は医療のマニュアル動画をそのままなぞったように精確だった。
 けれど一瞬、迷いが生まれた。
(もし、脳に障害が残ってしまったとしたら。もしこの飼い主がその後、この子に酷い扱いをしてしまうようなら――いっそ……幸せな記憶をもったまま)
 蘇生に成功させたのに、新しい犬が欲しかったのにと罵倒されたことさえあった。寝たきりになってしまった犬を介護しきれず、放置して、腐らせてしまった飼い主だっている。犬はかわいいから飼いたい、だけど面倒ならもう要らない。
 そんな、人間の中に沈む醜い一面を懸念したのだ。
 心肺蘇生術を見守る男は、強く握った指をぎしぎしと鳴らしている。真剣にこの犬を心配しているのだろう。
(そんな心配はなさそうだ、それに、やっぱり見捨てることなどできない)
 松田は唇をギュっと噛みしめ、瞳に力を込めた。
 三分ほどした時だった。
 犬の鼻から命の息吹が芽生え始めた。足もびくりびくりと動き始める。
 おそるおそると瞳を開けた犬は松田の顔をながめると、怯えたようにクンと吠えた。
『クゥゥゥン』
 さらに周囲を探るような、甘える声が犬の口から届いてくる。
 睡眠薬がきっかけに起こった心臓マヒならば、覚醒とともに状態が安定するだろう。
 犬は自分の足で立ち上がり、何事もなかったようにきょろきょろと歩き始めた。
(よかった……)
 と、松田はおもわず心の中で呟いていた。
 飼い主の男は動く犬をながめ、声を震わせた。
「……大丈夫、なのか?」
「ああ、なんとかね」
 松田も唇に一文字を刻み、安堵の息を吐いた。
 が、気が落ちついてくると、しだいに苛立ちが湧いてくる。
 動きだした犬の脈を測りながら、松田はマシンガンのように男を責め立てた。
「よくあるんだよねえ、飛行中の睡眠薬投与による心臓麻痺さ。騒ぐからって勧める獣医も増えたみたいだけど、犬にとって睡眠薬ってけっこう重荷なんだよ? 貨物扱いで暗い部屋に閉じ込められる国内線ならまだわかるけど、機内持ち込みファーストクラスだろう? なら睡眠薬を使う必要は低かった筈だ。その辺りはちゃんと聞いたの? それにフライトの三十分前までに服用させろって注意されなかった? これ守ってないよね? そもそもアレだよ、君さ飼い主でしょ? 駄目だよこんな老犬に無理な旅させちゃあさ」
 獣医としての松田は厳しく凛としていた。
 愛嬌ある顔立ちにあるのは厳格な教師、あるいは裁判官、まるで人の道を正す聖職者をイメージさせる凛々しさ。
 続く叱責に、怯んだように瞳を瞬かせた男は、うなだれながらぽつりと呟いた。
「すまない」
「謝るならこの子に謝りなよ」
 主人の憔悴に気づいたのか、心優しい犬は男に向かい甘えるように尾を振り始めた。
『ワフッ』
 犬が吠えた。
 ただそれだけで空気が緩んでいく。
 そうして、場が落ちついてくると、松田は熱くなりすぎている自身に気づき、急に恥ずかしくなってきた。
(またやっちゃったよ)
 日本にいた頃、獣医をまだ辞めようと思う前。松田は、獣医師の言いつけを守らずペットを傷付けてしまう飼い主に叱責する場面が多々あった。だからよくトラブルを起こした。民間臨床獣医師にとって飼い主はあくまでお客さん。どんな落ち度があっても責めてはならない、そんな営業マニュアルにも嫌気がさしていた。
 幸いにも男は素直に忠告を受け入れたようだが――、これが日本だったらまたトラブルを起こしていたかもしれない。
 自己嫌悪をかくすように目線を逸らしながら、松田は小さくことばを漏らした。
「まあ……君の犬の命なんて僕には関係ないからどうだっていいけどさ、この子が少しでも大事なら次からは、獣医の指示はちゃんと聞いておくんだね。だけど……その、きつく言いすぎたかもしれないね、悪かったよ」
「いや肝に銘じておこう、ありがとう恩人よ」
 弱々しいことばに帰ってきたのは、深々とした礼だった。
 最近はろくな飼い主に当たっていなかったからだろう、松田の胸にその言葉がスゥっと温かく入り込んでいく。汚い裏側ばかりが目立つペット業界。命を救うよりも静かに消してしまう機会が多く沈んでいた心の中で、やはり獣医になって良かったと、そう思える僅かな機会だ。
 男の表情は安堵からか、なんとも言えない不思議な微笑を零している。さきほどまでは犬の容態に気を取られ気づかなかったが、男はかなりの美貌の持ち主だった。
 おそらく中東系と日系のハーフだろう。
 猛禽類にも似たワイルドな顔立ちの中に、日本人としてのシュっとしたシャープさが浮かんでいる。座っているので正しい身長はわからないがかなりの長身なのだろう、上質そうな生地に包まれる脚はまるでモデルのように長い。
 しかし相手がどれほど異国美男だったとしても、男じゃなんの意味もない。
 松田はすぐに犬へと視線を戻した。呼吸も安定している、脈はすこし乱れているが正常値の範囲内だろう。問題ない。
 カナーンドッグは飼い主以外には慣れにくい犬種だ。松田は男の腿に犬を戻し、安定させておくように指示を出す。心停止してから五分以内の蘇生ならば脳への障害もないだろう。そう伝えると男の強張った表情がますます緩む。
「まさかこんな少ない乗客の中でアニマルドクターがいたとは、私は天とオマエに深く感謝を述べよう」
「礼なら詐欺にひっかかった僕の間抜けさと、悪徳ジャパンな旅行代理店にするんだね」
「オマエはまぬけなのか?」
「いや、そっちに突っ込むなんて君さ、けっこう空気読めない人?」
 コーカソイド特有の幻想的な緑の瞳が松田を眺めている。飼い犬の安否を気にしよほど取り乱していたのか、彫りの深い顔立ちはいまだに汗で湿っていた。色黒の肌、その凛々しい額にからみつく黒髪には濃厚な艶がある。
 テレビの中でしか見たことのない異国美男に正面から眺められると、なんだか変な気分になってしまう。
「気分を害してしまったのなら悪かった。私はまだ共通語が不得手でな、なにか失礼な言葉がふくまれていたのなら詫びよう。すまない、どうか許してくれないだろうか」
 誠実なわびに松田はきょとんとした顔で、頬を掻いた。
 テレを隠すように鼻をこすり、松田はそっぽを向いて口早にまくしたてる。
「はは、まあいいよ。君さ、いま汗びっしょり。男前が台無しじゃない。お姉さんここの金持ちさんにタオルでも持ってきてあげてよ、それとこの子の体を拭きたいんだ。清潔な布も頼めるかな?」
 促されたCAも安堵した様子でうなずいた。
「ありがとうございますお客様、すぐにご用意いたします。それで大変申し訳ないのですが、経由空港到着まで診ていただく訳には――」
 松田は返答に迷った。
 充分な設備がないこの空間でできることと言えば、体調の急変にそなえ、付き添うぐらいしかない。犬と一緒に旅ができるのは魅力的だが、男と密室でふたりきりなど勘弁してほしい。
 けれど優柔不断が災いして拒否できない。
「んー、こっちの旦那がかまわないなら別にいいけどさ」
 悩むうちに、CAは犬にも使えるブドウ糖の点滴準備をしている。
 脱水症状を防ぐため犬の皮膚下に点滴の注射針を刺しこんだ松田は、視線だけで飼い主の男に返答を促した。
「私からもぜひお願いしたい」
 男はグリーンの瞳を輝かせてうなずいた。
 首の後ろを掻きながら、松田はCAに向かいに苦い笑みを浮かべた。
「あー、じゃあさ。席に荷物がまだ残ってるんだ、それとトマトジュースも持ってきてよ」
「かしこまりました」と、CAは微笑を零した。
 その頬笑みには多分に好感が含まれている。表情には出会いにはなかった尊敬の念が含まれていた。
「あなたのことを少し誤解していましたわ、その……とても誠実な方だったのですね。いまお荷物をお持ちしますので、しばらくお待ちください」
 艶のあるリップから漏れたことばは甘かった。
 途端、松田は好奇心旺盛な犬のようにピンと体を起き上がらせる。男の直感がひしひしと色気だっていた。
 たしかに、獣医としての凛々しさをみせる松田はモテる。飼い主からアプローチをかけられることも少なくはなかった。
(おっと、これはチャンスかもしれないよね? そうだよね)
 退出しようとするCAも後ろ髪を引かれたように、一瞬、立ち止まった。
 松田はデレデレとしそうになる顔を引き締め、心も引き締めた。
 CAが青スカーフをなびかせ、振り向いた。
 二人の間にかすかな電流が走る。
(間違いないよ、これは運命の出会い、旅がプレゼントしてくれた恋の始まりにきまっているじゃないか!)
 そんなCAと松田を、異国美男はおもしろくなさそうに眺めていた。
 松田は夢のような恋を直感し、腕を伸ばした。
「あの、おねえさ――っあが」
 が、その手首を掴んだのは、異国美男――瞳を尖らせた飼い主の男だった。
 緑と黒の瞳がぶつかりあった。
 なにかつよい電流が、二人のあいだにビリビリと流れていた。
 腕に走る電気をふりはらうように、松田は声を荒らげた。
「なにするんだいっ」
「職務に従事するレディの肌をみだりに触るのはよくないことだ」
 異国美男は唇をフンとへの字に曲げ、そう唸った。
 運命の出会いをキャンセルされた松田は、毛を逆立てながら相手を睨んだ。
「連絡先のメモをポケットにいれようとしただけじゃないか、邪魔しないでもらいたいね」
「私の犬を救ってくれたことは感謝しよう。だが目の前で行われるハレンチでいかがわしいハラスメントを見過ごすわけにはいかない」
 ずいぶんと堅物そうな男だ、と松田は呆れたように眉を下げた。
「アラビアンナイトの騎士気取りかな。流行んないんじゃないかなあ、この時代にそういうのさ。それにこれはハラスメントじゃなくて、恋の第一歩。チャンスがあったら狙いたくなる男の純情くらいわかるだろう?」
「女性は敬うべき存在だ、いかなる理由があろうとも許可なく触るなどと私には理解できん。猛省を促そう」
 間違ったことは言っていない。だからムカついた。正義漢を気取るそのまっすぐさが松田の苛立ちの尾を掴んでいた。
 けれどなぜだろうか。松田はすなおに従っていた。
 異国美男のあまい息が、松田の鼻腔をゆらした。
(なんだろう、とってもいい香りがする……)
「わかったよ……、僕が悪かった」
「ふん、分かればいいのだ。まあ座れ、庶民のオマエにはファーストクラスの椅子は柔らかすぎるかも知れんがな」
 気位の高い猛獣に恫喝され、籠絡させられたような、そんな非現実な感覚が胸を戒めていた。
 異国美男はまるで敵を威嚇する瞳でCAを睨んだ。
「すまないな、この者にはやく荷物をもってきてやってくれ」
「は、はい。もうしわけありません」
 呆然としていたCAは不意に現実に引き戻されたのか、そそくさと去ってしまった。
「なにをしている、まあこっちに座れ」
 離れて座ろうとする松田の腕を掴んだまま、男はすぐ隣に座るように促す。
 柔らかいシートに腰を落とすと、気分がすこし落ち着いてきた。
 たしかに犬を看るのなら近くにいた方が脈も息も調べられるので最適。けれど松田はかすかな居心地の悪さを感じていた。
 なぜか、男に顔を深く覗かれていたからだ。
「なにみてるのさ」
「いや、透き通った黄色のうつくしい肌が珍しくてな。肌の匂いも良い。わが国にはオマエのような、なめらかな肌の人間はいない」
 アジア人の松田には肌の匂いといわれてもピンとこなかった。褒められているようだったが、値踏みされたような感覚に松田は唇を尖らせた。
「君ねえ、アジアンに肌の色うんぬん言うのは人種差別にあたるんだよ」
「うつくしいモノを美しいと言って何が悪いのだ?」
「なにがって、もういいよ」
 本当に空気のよめない男なのだろう、と松田はこの金持ちコーカソイドに深く追及することをやめた。
 しかしおもしろくない。
 せっかくの恋のチャンスを邪魔された松田はだんだんと仕返しをしてやりたくなってきた。膝の上に肘を置き、ヤンキーのようにだるそうに肩肘をつきながら言った。
「なんて名前なのさ」
「私はジャマル。ジャマル=ウル=アルラシード。ドゥーバイの民だ」
 ジャマルは松田の顔を正面からながめ名乗った。
 しかし松田は飄々とした様子で返す。
「君の名前になんか興味はないよ、僕が訊きたいのはこっちのかわいい子のほう。僕のお空の患者さんのナマエ、OK? 規則なんだ、カルテに記入しないとね」
 はじめからからかうつもりだった松田は、ムッとした様子をみせるジャマルの眉間のシワをながめほくそ笑んだ。
「タロウ」
「女の子なのにタロウかい、センスないねぇ」
 と、さらさらとシートに記入しながら、松田はくっくっと小馬鹿にした笑みを浮かべた。
「とっとっと、はいこれで大丈夫。着陸したらそっちの獣医に渡してね、空港内に獣医スタッフもいるだろうからさ」
「オマエの名は?」
 さきほどからオマエ、オマエ、オマエとオマエよばわりされて、松田はかすかにカチンとしていた。が、男の口調が妙に毅然と透き通っていたからか、素直に答えていた。
「松田」
「マツダか、どこかできいたことのある名だ」
「ああ、それきっと車。ブンブンなるなるクルマの会社と似てるからね、日本じゃけっこうありがちな名前だし」
 松田がハンドルを操作する真似をしてみせると、ジャマルは大きく口元を緩めた。
「ファーストネームは?」
「いいじゃない別にそんなことどうだって」
「私はオマエの名が知りたい。駄目か?」
 はぁ、と大げさに息を吐き松田は答えた。
「伸也、シンヤだよ」
「シンヤか、ハープを奏でたような気高く美しい響きだ」
 と、微笑をこぼしつづけるジャマルの声音はまるでミュージカルのバリトンだった。
「ドゥーバイに着く限られた時間とはいえ、最高のもてなしをさせて貰おう。あらためて礼を言うぞ、シンヤよ」
 変な男だ、それが正直な感想だった。
 まるで昔の洋画にでてきたような一風変わった紳士にさえ思えた。
「変なこと訊くけどさ、君、なんか撮影中の俳優だったり過去からワープしてきた貴族だったりなんかする?」
「オマエはなにを言っているのだ?」
「いや、いちいち臭いと言うか回りくどいって言うか――」
 直通便のないドゥーバイへの到着予定は日本時間でまるまる一日。
 つまりこんな変な男とおよそ二十四時間、一緒に行動しなければならないわけだ。
 これでこの男、ジャマルが女性だったら良い出会いだったのだろうが。やはり、いくら絶世の美形とはいえ男じゃなんの価値もない。
「はあ、まあ適当によろしく頼んだよ」
「まかせておけ」
 こうして、松田とジャマル、そしてタロウの奇妙なフライトは始まった。



 二時間経ったが、まだ目的地に着きやしない。
 ジャマルとの雑談もまだ続いている。いや、雑談というよりは相手からの一方的な質問ばかりだった。
「ドゥーバイにはなにをしに行くのだ」
「旅行」
「どうして旅行に行くのだ」
「獣医を辞めるから」
「これほど優秀であるのに獣医を辞めるのか、どうしてなのだ?」
 逃げ場所のない空間での途切れ途切れの会話は、変に愛想のよすぎるタクシー運転手に捕まった気分に近かった。
「日本人にはね色々あるのさ、しがらみとか」
「しがらみ?」
 そっぽを向いて会話を切ろうとするが、ジャマルはお構いなしにハスキーで甘いバリトンを繰り返すばかり。
 松田は雲より高い空を眺めながらつまらなそうに呟いた。
「人間関係とかモンスタークライアントとか、自信喪失とか将来への不安とか、不満とか? まあいろいろ。それで疲れちゃったりなんかして、今後どうするか決める前に慰安旅行、みたいな?」
「そんな理由で獣医を辞めるのか?」
「そんなの僕の勝手だろう」
「シンヤは独りで旅行するのだな」
「友達いないからね」
「恋人はいるのか?」
「逃げられたよ」
「そうか、なるほど。この状況から推察すると――つまりオマエは癒されにドゥーバイに行くのだな?」
 勝ち誇ったように、ジャマルは納得顔でそう唸った。
(だから、はじめからそう言ってるじゃないか)
 悪意がないだけタチが悪い。
 男のドヤ顔に目をやった松田はわざとらしく肩を落とした。
「うん、まあそう」
「うむ、ドゥーバイは良き国だ。きっとオマエの人生の糧になってくれるに違いない、良い判断であると褒めてやろう」
(まったく、この男はよくもまあこんなに、くっちゃべられるもんだ。これじゃあまるでお見合いだね、サイテェ)
 ふわふわした印象のイケメン中東人から目を逸らし、松田はあらためて周囲を見渡した。
 調度品まで備え付けられたファーストクラスは、高級ホテルの一室をイメージさせるだろうか。けれど狭いことにかわりはない。中型犬と成人男性二人がいるだけで場所はほとんど埋まってしまう。
 居心地の悪さも変わっていない。そもそも松田は他人と話すのが苦手なのに――ジャマルはそんなことなど構うものかと深い微笑を作る。
 また目が合ってしまった。
 偶然? いや、どうやらジャマルが食い入るようにこちらを眺めているようだ。
「観光旅行だろうに、なぜオマエはビジネスシャツにタイを装着しているのだ?」
 指摘されて松田は自身の姿をうすらと眺める、白のワイシャツにえんじ色のネクタイ、シングルスラックスにありきたりな革靴。
 ごくごく普通のジャパニーズリーマンに見えるだろう。
「たいした理由じゃないよ、別にどうだっていいじゃない」
「たいした理由でないなら話してくれても構わないのでは?」
 鷹の目のジャマルは興味津々をかくさず、正面からグリーンアイで覗いてくる。
 またこれだ、と松田はトマトジュースをすすりながら応じた。
「若造に見られたくないからだよ、ほら、こういう格好するとすこしは威厳がでるからさ」
「なるほど、実に合理的だ」
「そりゃどうも」
(まったく変な会話だよ)
 せめてもの気晴らしにタロウの背を撫でる。
『バウゥゥ』
 と、タロウは嬉しそうに息を漏らした。
 二時間ほどともにいたせいか、タロウはすっかり松田に懐いてしまっていた。ジャマルの膝の上からモソモソと這いずって、膝の上に乗ってしまう。
 耳と尾をパタパタと嬉しそうに振り、まるで所有権を主張するように甘える仕草はなかなか愛らしかった。
 松田はようやく表情を崩した。
「ちょっといくらなんでもそれは図々しいんじゃない?」
『バフゥゥゥブフフフッ』
「むぅ、まずいな。タロウ、戻るのだ」
 ジャマルが慌てた様子でタロウの背を掴もうとする。が、時はすでに遅かった。
 じょぼじょぼー、と松田のスラックスになまあたたかい水分が広がっていく。
 しまったといった表情で鼻梁を手で覆い、ジャマルはかぶりを振った。
「すまない、タロウは気に入ったものにすぐ尿をかけるクセがあってな」
「へえ、じゃあ僕はこの子に気に入られちゃったわけだ」
「どうやらタロウもそうらしい、大変失礼なふるまいをとってしまった。タロウに悪気はなかったのだ。どうかこの通り、許してくれ」
 悪いことをきちんと悪いと頭を下げられる人間の詫びに、松田は眉を下げただけで受け入れた。
(動物だけにはよく好かれるんだけどねぇ、できたら人間の女の子に好かれたいよ)
「気にしてないよ。どうせ安物スラックスだし、それにこの子のせいじゃない。点滴したから尿がでやすくなっているのさ。色も匂いも正常だ、これなら安心かな」
 おしっこをかけられても松田は動じず、むしろ回復にむかっていく犬を嬉しそうに眺める。その穏やかにあがった松田の口角を眺めるジャマルは、浅黒い肌にほんのりとした桜の色を乗せた。
 タロウを腕の中に抱き、足だけで器用にスラックスを落としながら松田は言う。
「悪いけどさ、あのCAのお姉さん呼んでくれない? さすがにおしっこズボンのままでファーストシートに座ってるわけにはいかないしね」
「あ、ああ。すぐに呼んでくる」
 幸いにもシートに尿は飛んでいない。
 スラックスを受け取った件のCAは深々とお辞儀をして、かさねがさねご迷惑をおかけしますと言い残し。モザイク調の扉を閉めた。
 経由空港に着くまであと五時間。それまでに洗濯と乾燥を済ませてくれるようだ。
 陶然としたほのぼの顔で松田の腕の中で眠るタロウ。そのモフモフを抱いて、よっ、とシートの上であぐらをかいて松田は苦笑いを零す。
「まいったなあ、着替えなんて用意してないんだけど。乾くまでだし、まあいいか」
 松田の繊細そうな指がタロウの頬の毛を揉む。
 タロウの呼吸も心音もやはり落ちついていた。
(体感体温は三十八度の二、三分ってところか、平常だね)
 まさか退屈なフライト時間を犬とファーストクラスで過ごせると思っていなかった松田は、タロウのモフ毛の上に軽く顎を乗せ、うっとりと表情を緩ませる。
 デレデレと脂下がった表情といっても遠くないだろう。
 それほど油断した無防備な姿だった。
 それをジャマルは狼狽しながらもちらり、ちらりと盗み見ていた。
 男の視線に気がついた松田が顔を上げると、
「……あまり見せつけるな」
 襲ってきたのは、恨みがましいとさえ聞こえてしまうほど上擦った声。
 松田は人形遊びのようにタロウの腕を振りながら、飄々とした笑みを浮かべる。
「ワンワンを盗られて嫉妬なんてかわいいところもあるじゃない」
『バウッゥゥゥ?』
 寝惚けまなこのタロウも主人の狼狽に不思議そうな声を上げていた。
「ちがう、脚だ、その白い柔肌をしまえと、私はそういっているのだっ」
 と、ジャマルは自らのしかめっ面を隠すように、筋張った手の平で額を覆った。
「脚?」
 そう言われて松田はタロウを抱えたまま膝を動かした。
「恥を知れ。恥を!」
 突然シートから跳ねあがり顔を真っ赤にしてしまったジャマルを眺め、不思議そうに松田は呟いた。
「どうしたんだい。急に」
「オマエのその姿が破廉恥なのだと、そう言っているッ」
 言われて松田は首を傾げた。
 ストイックな純白シャツとシックな赤ネクタイの上半身、その下、黒のボクサータイプの下着から伸びるのはしなやかな素足だった。
 身長こそ並しかないが、松田の手脚は思いのほか長い。しかも獣医である松田の脚は、長時間の手術に耐えうる――アスリートとは違った鍛えられた細身の筋肉が乗っている。
 体毛も薄く肌はなめらかだ。
 体格の良い中東人の目には、それはどんな風に映っているのだろうか。
(ああ、ドゥーバイの人って肌の露出が苦手なんだっけ)
 脚を組み直したせいか、シートがぎしりと生々しい音を立てた。
「悪かったよ。けど、そこまで大声をださなくたっていいだろう」
 体温維持もかねタロウの体ごとタオルケットをかぶり、肌をすこし隠す。が、薄らと覗く健康そうなくるぶしなどは、むしろ色気が際立ってしまっている。
「は、はやくその淫らな脚をしまうがいい」
「そう言われてもね、そんなに今時中高生みたいなウブな反応されちゃうと、君がゲイだって勘違いしちゃうよ」
「ゲイとはなんだ?」
「えーと、ドゥーバイの言葉でなんて言ったらいいんだろう」
 しばし思案し、カタログから単語集を取り出した松田は口を開いた。
「同性愛者、かな」
「同性愛?」
「わかんない人だね、つまり男に惚れちゃう男の人だよ」
「なにをいっているんだ、恋愛に男も女も関係あるまい?」
「はぁ、なにいってるんだよ」
「なにが『なにいってるんだよ』なのだ?」
 噛み合わない会話に髪を掻き、松田はうまい翻訳を探そうと分厚いカタログを手に取る。
 カタログの最後のほうに僅か数行。
 こういった記述がされていた。
 ドゥーバイでは異性愛、同性愛といった概念はなく、気に入った相手はみな恋人候補になってしまう――と。

 面白い玩具をみつけたとばかりに、松田はジャマルの顔を覗く。
「もしかして、君達ドゥーバイ男子って男もイケちゃうわけ?」
 こくこくとジャマルはうなずいた。
 彼は目の前の素肌に動揺しているのか、たどたどしく絡まった言葉で口を動かした。
「ふむ、なるほど、そうか――むしろ異国の民にとって異性愛の方が正常だということ、それが私にとっては驚きだ」
 美貌の男が狼狽する仕草には、ほのかな色っぽさがあった。
 文化が違えば恋も違う。
 たしかに誘拐婚などと奇妙な風習が残っている地域だ、両性愛が一般的だとしても不思議ではない。
(日本だってつい百年前までは同性愛の風習が残ってたっていうし、まあそういう国もあるんだろうね)
 松田はからかうようにジャマルを眺めた。
「へぇ、つまり今君は僕をみてちょっと興奮しちゃってる訳だ」
「う、うるさいッ」
 生足から目線を逸らすジャマルは耳まで赤くし、ぷるぷると肩を震わせている。
 くっくっくと、皮肉げに唇を尖らせたあと、松田はきさくに手を振り笑った。
「大丈夫、僕だって自意識過剰じゃないからさ。自分が狙われているなんて変な勘違いはしないよ」
 たとえ相手が両性愛者だとしても、自分がターゲットにされているわけではない。そもそも好みがあるはずだ。自分だってまったく趣向にあわない女性に勘違いされ、「あんれぇ、いやだわぁ、だれか助けてくんろぉッ、アタスねらわてるのおぅぅ」なんて叫ばれたら良い気分はしない。
 気楽な言葉を吐いた松田は実に爽やかだった。
 これでこの話は終わる筈だった。すくなくとも松田はそう思っていた。
 が。ジャマルはムゥと唇を曲げた。
「勘違いなどではない、私はオマエに並々ならぬ劣情を抱いている」
「……はい?」
 気がついたら手を握られている。
 おそらく先ほどからかったことへの意趣返しだろう。頭ではそう分かっていても、長身の美貌異国人に迫られる圧迫感は強い。
 松田はタロウを落とさないようにしながらも、ずざざとシートの上を後じさる。
「オマエ、たしか彼女と別れたと言っていたな。ならばフリーなのだろう、私の嫁にしてやってもいいが、どうする?」
「お嫁さんって、君の国じゃ男同士で結婚したりできるわけ?」
「できるに決まっているだろう。俗世ではなにやら女としか結婚できない悪しき風習がまかり通っているようだが、それは男女差別ではないだろうか」
 ずいずいと近づいてくる男の息は微かに甘い。
 ジャガーの吐息には相手を魅了する成分が含まれている。そんな神話をきいたことがあったが、まさにそれを彷彿とさせるほどの蜜を帯びた息だった。
 虜になってしまいそうな心をブンブンと否定し、松田は声を荒らげた。
「差別じゃなくて性差による区別でしょ。国際常識的に考えてさ」
「それは思慮の浅い異文化の考えだ。オマエのような魅力的な男を見逃すことなど私の中の常識が許さない」
 自分が性愛の対象になっているなんて信じられる筈がない。
(ああ、そうか。なるほどね)
 男が女を誘わないのは失礼だからと、社交辞令で相手を誘う文化をもつ国がある。きっとドゥーバイにも似た文化があるのだろうと判断した松田はケタケタと笑った。
「はは。君冗談きついねぇ。そういうお世辞はもういいから、ちょっと吐息がかかってくすぐったいよ、離れて」
 まるで大きなオス犬にのしかかられているようだった。
 豪華な毛並みの優雅ワンコってところか、となぜか松田は男の顔をまじまじと眺めてしまう。
 不思議な緊張感に、胸がとくんと疼いた。
「オマエを気に入った。そう言ったらどうする?」
 これではまるで本当に狙われているようだった。
「どうするって。あはは……はは、は――。からかったのは悪かったよ。反省した。だからほんとに、そろそろ降りてくれないかな?」
 きりりとしたシャープな鼻梁、ツンと悪戯そうにあがった口角。鋭利をイメージさせる美貌の持ち主。誠実そうなグリーンアイがまっすぐ、松田を眺めている。
 その眼力のせいだろう。本気で狙われていると錯覚してしまいそうだった。
(なんだろうね、すごい心臓がドキドキする)
 性差を超える美しい顔貌に惹き込まれてしまいそうだった。
「私は嘘を言わない」
 抵抗を考える間もなく、唇と唇が重なっていた。
 香りに色などないはずなのに、ピンク色の香りが鼻腔をあわく擽っている。鼻をスンと鳴らし、松田は男をやわらかく押し返した。
 けれど、案外に厚い胸板は、まるで鋼鉄の鎧を纏ったかのようにビクともしない。
「何をしているか、分かるか?」
「キスだね」
「ああ、キスだ。私の言葉に偽りはないと信じて貰えたな?」
 間の抜けた会話の直後、ジャマルは指先までも端整な長い指を松田の素肌に這わせた。
「あ……」
「やはり良い肌だ、いままで触れてきたどの女性よりもなめらかできめ細かい。これを私のモノにしたいのだが、どうしたらいい?」
「いや、まあ。無理、なんじゃないかな」
 魅了してくる美貌に抗えない。
 ヘビに睨まれたカエルというよりは、ねこじゃらしに惹かれるネコになってしまった気分だった。本能が男の誘惑に惹かれていた。この腕の中に囚われたら、きっと安堵してしまう。そんな気がして――男から、目が離せないのである。
『バフゥゥゥ?』
 タロウは二人の緊張にかまわず体全体を振り、かまってかまってとアピールをはじめた。
 主人と松田が遊んでいるのだと勘違いしているのだろう。
「私はオマエに恋をしてしまったのだ。颯爽とあらわれ憎まれ口とともに私のタロウを癒してくれた、オマエにな」
 タオルケットの内側、下着にまで指を這わされた松田は思わず怯んだ。
「ぎゃああ、え? はあ? うげえッ!」
 さすがに男に触られて気持ちいい筈がない。
 それなのに。その筈なのに。ジャマルの筋張った指が肌に触れると、熱湯がはりついたようにピリピリとする。
 思えば多忙にかまけてそういう処理をしてこなかった。まだ恋人がいた頃は、せがまれる形でガス抜きもしていた。けれど、今は違う。淡白だった体にも熱い何かが疼いていたのだろう。
 体は男の愛撫をもとめて揺れていた。
「品のない声だが、悪くない。だがあまり可愛い声をあげるでない、不審に思われてしまえばCAが飛んできてしまうからな」
 そう言って、ジャマルは松田の唇を大きな手の平で覆う。
「んむぅ……っ!」
「感じやすい体だ、なるほどこれほどに熱がこもっていたのなら仕方ない。オマエが淫らに脚を開き私を誘った理由も納得できよう」
 まさかこのまま強姦される? 冗談じゃないと、松田は青褪めた。
 なのに体はひさびさの快楽にぶるりぶるりと痙攣していた。
 それほどに体を這う男の長い指が巧みだった。
 赤くそまった鼻をすすり、嫌々と必死に顔を振る松田は怯えていた。
 するとジャマルは突然おおきくわらった後、くくく、と人の悪い笑みを浮かべた。
「安心しろ、オマエを好いたのは本当だが、こんなところで肉欲に流されるまま事に及ぼうとは思わん。すこしからかってやりたくなっただけだ」
 ふいに、現実に引き戻された松田はカァァっと顔を桜色に染めた。
「いったいぜんたい、君はまったくッ、とつぜん何するんだっ! 人権問題、国際問題、大問題だよ!」
 長く詰め寄った松田。
 裏腹に、返すジャマルの言葉は淡々としていた。
「嫌だったのか?」
「当たり前だろう、日本男子はね、男と男じゃキスなんてしないの! 体もそんなにねちっこくイヤらしく触っちゃだめだからねッ!」
「ふむ、なるほど。ならば私はオマエとはじめてキスをした男になるわけだな。悪くない」
「とにかく、日本人はそっちの気がある人は少ないし、僕はそっちの趣味はない。今度勝手に触ったりしたら訴えるからね」
 警戒の色を強くした途端、ジャマルはなぜ警戒されるのか分からないと言った様子でヘソを曲げてしまう。
「なぜ好いた者に触れてはならないのか、理解に苦しむ」
「あのねえ、いくら君がそんな変なキモチを起こしたとしても、その、なんだよ。アレだ、僕が君を好きにならないと駄目なわけでしょ」
「ならば安心だな、私は誰からも好かれる自信がある」
 フンと居丈高になるジャマルを眺め、松田は呆れた様子で息を吐いた。
 この男はやはりバカなのだ。
 それも大型犬を彷彿とさせる、猪突猛進のバカ。
「オマエはほんとうに良い香りだ、ほらどうした、私に寄りかかっても良いのだぞ」
 くんくんと鼻を鳴らし迫ってこようとするジャマルに、ついに我慢の尾が弾けた。
 タロウを抱えたまま、素足で男を蹴り返そうと松田があられもなく足を上げた途端。
 ノックが響いた。
 焦る松田があわあわしている間に、悪戯小僧の顔でジャマルがどうぞと言ってしまった。
「簡易乾燥機で乾かしてまいりましたが……あら、もしかしてお邪魔だったでしょうか」
 松田の一張羅を腕にだいたCAは、まあ、といった様子で陶然と息を吐いた。
 異国美男がほそみのアジアンを襲う姿はなかなかにノスタルジックだった。
「ちがう、これはちがうからね!」
 CAは心得たといった様子で、おだやかな微笑を零した。
「安心してください、当社には守秘義務がございますから。ではお客様のよきフライトを祈っております」
 旅路の愛。美人CAとの危ない関係。運命の出会い。松田が思い描いていた恋のチャンスは終わってしまった。
 CAが乾かしもってきてくれたスラックスをいそいそと履く松田の赤面を、ジャマルは熱い眼差しで堪能しつづけた。


 経由空港での待機時間。
 松田は硬い黒椅子に肩肘をつき、だらしなく足を投げ出していた。
 EUにできた新興国、マハコヨの空港内ロビーから覗くのは黒い空。それはまるで松田の心模様にも似た嵐だった。
 怒りと羞恥と混乱で、まさに荒れ模様。
『ドゥーバイ行き、二十一便は悪天候のため欠航』
 ついていない時はとことんついていないのだろう。日本に戻ろうと便を探そうにも、同じく欠航。
 そしてついていないもう一つの理由。
 それは奇妙な異国人に妙に懐かれてしまったことだった。
「君はいつまで人のことを眺めているつもりなんだい、うざいしうっとうしいしキモいよ。ストーカーは国際犯罪だって知らないのかい」
 呼ばれたジャマルはわざわざ松田の後ろの席に座り、ケージにいれられたタロウを腕に抱えながらわざとらしい声をあげた。
「なあタロウ。マツダはなにをあんなに怒っているんだろうな?」
『ワフゥゥゥ、バウバウ』
「そうなのだ。恋をするのは人間としてごく普通の生理反応なのに、なぜかあんなに怒っているのだ。マツダは大人げないな?」
『ブゥゥブゥゥゥ、ブフゥ』
「うむ、そうだな。もっと笑えばいいのになあ、まったくこの私のアプローチを無視するなんてマツダはきっと朴念仁とよばれる人種なのだろうな」
 口の端をヒクつかせ松田は言葉を尖らせる。
「いいたいことがあるなら、はっきり直接くっきりと僕に言えばいいんじゃないかな?」
「オマエを私のモノにしたい」
「ずいぶんと抽象的な言い方だね」
「オマエの排泄器官に私の生殖器を埋め込んで喜ばせてあげたいのだ」
「わーお、具体的だ。即物的なのは嫌いだね、却下だよ」
「オマエとセックスしたい」
「もう少し本音を包んで言ったらどうかな」
 しばし考えるように上方を眺め、ジャマルは微笑んだ。
「オマエを私の嫁にしたい」
(君は本当に、かまってほしい犬みたいだね。まあ正面から口説かれるのは悪い気分じゃないけどさ)
 惚れられているようだと分かれば強気にもなれる。意地の悪い顔をした松田はからかうようにクククと笑った。
「それを日本語で言ってくれたら考えてあげてもいいよ」
 かわいい犬にちょっとした悪戯をしたくなってしまう、ただそんな気楽に言ったことばだった。
 けれどジャマルは勝機を得たとばかりににんまりと口角をつりあげる。
『ワイめっちゃアンタがすきやねん、一生ワイの味噌スープをつくってくれへんやろか?』
 唖然。浮かんだ言葉はソレだった。
 異国人から不意に飛び出てきた拙いエセ関西弁に、さすがの松田も腰を抜かした。
「君、日本語できるんだね」
 負けた気分だった。
 自分が優位に立っていた筈なのに、いつのまにか彼のペースに乗せられている気がした。
『私はいちどその国に行けば、その国の言葉をとても自由に覚えられることが可能なのです。私はあなたが気に入りました。とてもつよく気に入りました。あなたはとても強く賢い私の一生の奥さんになるべきであろうです』
 今度は、まるで翻訳機を通したようなたどたどしい日本語がジャマルの口から紡がれる。
 本当に行くだけで言葉を覚えてしまうのなら天才だろう。世の中にはたしかにそういう人種は存在するが、彼がそうとは思えない。おそらく携帯アプリで事前に練習していたのだろうと松田はまともに取り合わなかった。
 思わぬ特技に気を緩めたせいか、ジャマルへの警戒心がすこし和らいでしまう。
「却下だね。で、じゃれあいはこの辺りでいいからさ、本題に入ってよ」
 今度は共通語でジャマルは答えた。
「一時入国が許可されたそうだ、それを伝えにな」
 松田は違和感を覚えた。
「変だね。一時入国って、たしかマハコヨは入国審査に厳しくてトランジットじゃあ入れないんじゃなかったかな?」
「トランジットとはなんだ」
 いちいち話の腰を折る男である。
 だんだんと松田もジャマルのことが分かりつつあった、顔の造形と頭の中身が一致していないのだと。
「直通便がない場合の一時寄港、乗り換えの待ち時間。つまり今の状態だよ。たいていの場合はこうしてロビーで時間をつぶすんじゃないかな」
「今回は特例らしい――なんでもどこかの王族も同乗していたとかなんだ、そう言っていたな。きっと素晴らしい人物が乗っていたのだろう」
「王族ねえ、金持ちなら自家用ジェットでも使えばいいのにね」
 と、さして興味もなさそうにする松田は背もたれに体を預け、ずりずりと、さらに深くだらしなく足を投げ出す。
「自家用ジェットは危険だ、操縦士にスパイがまぎれこんだ事例があとを絶たないのでな。オマエはそんなこともしらないのか?」
「あいにくと人間の世情には疎くてね、僕は日本国内の新聞しか読まない」
 まるで自分が王族にでもなったつもりなのか、ジャマルは偉そうにふんぞり返ったまま訊いた。
「私は入国するつもりだが、オマエはどうする。私はオマエと行動を共にしたいのだが?」
 女性を誘うような機嫌を窺う声音だった。
 もしジャマルに犬の尾が生えていたのなら、きっとブンブンブンブンと高速回転していたのではないだろうか。
 けれど松田はタロウを指差しまじめな口調ではっきりと唇を紡ぐ。
「やめておいたほうがいいんじゃないかな」
「狂犬病もレプトスピラ病のワクチンもしている、マイクロチップも装着済みだ。ジャパンの検疫を通過したならば問題ないだろう」
 日本で定められている二種のウィルス性疫病、そのワクチンの有無を告げるジャマルに松田は少しだけ感心した。
 特に検疫に厳しい日本から出国したのだから、知っていて当然といえば当然だが、松田にとってのジャマルはただのバカ。けれどそれは不慣れな共通語のせいでバカに見えるだけなのだろうか。
「違うよそういう問題じゃない。犬にとって検疫はかなりのストレスなんだ、入国と出国最低でもチェックに二時間はかかるだろう? とてもお勧めはできないね」
 そういえば検疫にも獣医師免許所有者の求人がある。そっちの仕事を探すのも悪くない。
「オマエは動物には優しいのだな」
「かわいい女の子にも優しいよ、うん、とくに甘えさせてくれそうなタイプなんて最高だね」
 いつのまにかジャマルが正面に跪いていた。スゥっと手が差し伸べられる。
「私にも優しくして欲しいのだが?」
「君に優しくして僕に何の利があるんだい」
「私を喜ばすことができる、その資格がオマエにはあるのだもっと喜び感謝しても構わないのだぞ」
 厚顔無恥な願いだった。
(どうやら、僕に惚れちゃったっていうのは嘘じゃないみたい、だね)
 ならどうやって諦めさせようか、うまい考えは浮かばない。
 呆れた松田は、吸い終わったトマトジュースの箱を吸ったり吐いたりボコボコと、つまらなそうに弄びながら提案した。
「僕にとって男に優しくする価値なんてまったくないの。なんならさタロウちゃんは僕が預かるから一人で行ってきたらどうだい?」
「タロウにも外の世界を見せてやりたいのだ」
 敵はアプローチを変えた。
 犬のこととなれば、松田の食指は自然と反応してしまう。
 人の弱点を利用したうまいやり方だと思いながらも、松田はひねくれた物言いで返す。
「まるでずっと檻の中に入れていたような言い草だね」
「ああ、そうだ。タロウは私が引き取るまで一度たりとも外の世界にでたことがない。老い先短いならばこそ、多くの世界をみせてやりたいのだ」
 寂しげに呟いたジャマルの顔には、貫禄にも似た重厚さがある。
 草原のように澄んだ色のグリーンアイが、誠実そうに眺めてくる。訴えてくる。胸の中に入り込んでくる。
 松田は一瞬、息を呑んだ。
「そのためにはオマエの助力が必要だ。どうかお願いできないだろうか」
 ドキリとしてしまいそうな程に鋭いオーラが放たれていた。
「そんなこと、言われてもねえ」
 松田はかすかにジャマルの侘しい表情に惹かれてしまいそうな自分に気がつき、目線を逸らす。
 視界には、狭いケージの中で外にでたがりウズウズと尾を振るタロウが映っている。
 タロウがどういう事情の犬なのかは知らない。けれど獣医である松田は、ケージの中で一生を終える犬が多い事実も知っていた。
(まあ僕がこの男にアプローチを受けて迷惑してるのとは別問題、だよね)
 追撃するようにジャマルが松田の指を掴む。
「獣医のオマエが同席してくれれば検疫もたやすく済むはずだ、駄目だろうか?」
 まるで恋人のように手の平が合わさった。勝手に手を握られた怒りよりも、温かさとむず痒さが松田の胸をくすぐる。
『バフフフフ』
 と、タイミングよくタロウも鳴く。
 もし民間獣医師を辞めるとなると、タロウは最後のクライアント。松田はいつのまにか恋人繋ぎになっていた指を振り払い、顔を真っ赤にしながら叫んだ。
「わかったよ、わかった、わかりましたってば。トランジット入国可能なチケットか旅行会社に確認してくるから待っててよ。けれど滞在費は君持ちだからね」
「ふん、初めから素直に私についていきたいと言えばいいモノを」
 この勝負は自分の負けだろう。
 けれど敗北の苦味は薄い。
 たしかに老犬ならばこそ、軽い運動をさせなければさらに足腰が弱ってしまう。タロウのためなら、そんな義務感が勝っていた。
 松田の予想とは反し、検疫は三十分も待たずに完了した。
 タロウに埋め込まれたマイクロチップにはかなり詳細なデータが記載されていたのだろう。
 マハコヨの市街に出るなり、タロウはリードをぐいぐい引っ張りアスファルトを走る。
 雨風を防ぐために空港内で買った犬用のカッパからは、くねくねと揺らめく長い尾が愛らしく踊っている。
 タロウにとって雨が降っていたのは幸いだっただろう。アスファルトに溜まった熱が散ったおかげで、熱中症を起こす心配はない。
「ちょっとタロウちゃん、もっとゆっくり歩こうよ」
『バウバブバフゥッ!』
 港の見える公園。緑豊かな街路樹。綺麗な街並みはネズミも少なそうなのでタロウが感染症にかかる心配も低いだろう。
 タロウにとって外はほんとうに新鮮なのか。街路樹に花や草をみつけるたびに立ち止まり、スンスンスンスン鼻を吸って匂いを確かめている。
 はしゃぐ犬を見守る松田、その穏やかな表情をさらに見守るジャマルの視線は、熱い。ともすれば抱きついてきそうな空気さえ孕んでいたが、松田はあえて距離を置こうとはしなかった。
 少しだけ、彼等に興味が湧いていた。
「タロウちゃんさ、なんでずっと檻の中にいたんだい」
「繁殖用個体だったからな、ドゥーバイに地雷が多いのは知っているだろう?」
 むろん、松田が読んでいたカタログにはそんなマイナス情報は書かれていない。
「まあ中東にそういうのが多いってぐらいはね」
「タロウの父母は優秀な地雷探知犬だった。そのエリートな血筋を買われてしまったのだろうな。産まれたときから生体を管理され、ただこどもを産ませるためだけに飼われていたのだ。長い間、太陽も知らずに狭いケージの中で閉じ込められてな」
「どこの国でもあるんだね、そういうのさ。ちょっと耳が痛いかな」
 愛嬌ある顔立ちを苦く崩す松田に、ジャマルは淡々と続ける。
「事実、タロウの子は全て優秀だった――民たちもタロウの子のおかげで何人も命を救われただろうが、私の心は揺らいだ。自分が出したお触れが過ちだったのではないかと後悔しているのだ」
「別に君が繁殖の指示をだしたわけじゃないんだろ、気に病むこともないでしょ」
「私は王だからな、全ての責は私にある」
(あー、了解、了解。この人ちょっと頭がオカシイ人だ)
 と、自ら王を自称するジャマルの言葉を聞き流した。


 空港付属のホテルにチェックインを済ませた二人は、展望豊かなラウンジで遅い夕食をとっていた。
 まるで西洋貴族の社交界を彷彿とさせるアンティーク調のフロアは、ドゥーバイ便の再開を待つ中東人で溢れている。
 一番奥の窓際席。
 せっかくの特等席なのに雨と男で台無しだ。
 と、海鮮トマトの冷製パスタの上から、いちまいいちまいハーブを取り除きながら、松田は口の端をヒクつかせた。
「で、どうして僕と君が同席しないといけないんだい」
「緊急の滞在だからな、空きがすくなかったのだ仕方ないだろう。こらシンヤ、シェフがせっかく添えてくれた緑を省くとは失礼だろう」
「だってただの雑草にみえるし、嫌いなんだから仕方ないですしぃ」
 やれやれと、わざとらしくかぶりを振るジャマル。その高い鼻を目掛けてハーブを飛ばしてやろうかとも思ったが、食べ物を粗末にできない性分の松田は黙ってジャマルの皿へと移す。
 すると突然、隣に座っていた長身の中東人がジャマルに向かいなにやら語りかけた。
 言葉はよく聞き取れなかった。いや、正確には知らない言語だった。
 ジャマルが流暢にことばをあやつると、男達は松田を眺めた後、うやうやしく礼をする。
「知り合いかい?」
「私の護衛の者たちだ。オマエが毒を盛ろうとしているのではないかと心配しているようでな、まったく見る目がないやつらだが、私を心配しての狼藉だ、許せ」
 ジャマルはまだ王様ごっこを続けている。
 ドゥーバイ語なのだろうか。男達からなにやら話しかけられた松田は、戸惑った様子でジャマルに助けを求めた。
「ちょっと、この人たちなんて言ってるのさ」
「オマエ、ドゥーバイ語を知らないのか?」
「知ってるわけないだろう、僕が知ってるのは日本語と英語、医学書用のドイツ語くらいだもの」
 すべて医学のため、立派な獣医になるために必死に覚えた言語だった。思えばあの頃から休む暇なんてなかった。学生時代は毎日が勉強の日々で、いざ獣医になったら今度はもっと忙しくなり――疲れきってしまった。
 だからこうして、異国の男とまるでデートのような状態ですごしているのは新鮮だった。
(これでこの男が絶世の美女、それこそ中東のプリンセスだったら良かったのにね)
「ははは、あは……お勤めごくろうさまです」
 松田は護衛と称する男達に、日本人特有のなんともいえない愛想笑いを浮かべた。
 ジャマルは突然たちあがり、責めるような声を上げた。
「シンヤ、彼等を誘惑するな。ドゥーバイの民は性差別などしないと教えたばかりであろう」
「こんなへにゃへにゃな僕の体に欲情する節操なしは君ぐらいだろうからね、安心しなよ」
 のらりくらりと手を振る松田に、ジャマルはムゥと呟きながら椅子に座りなおす。
 まるで周囲もこの席を観察しているような、そんな感覚が過ったが松田は勘違いだろうとさして気にもしない。
「謙遜は止せ、トムソンガゼルを彷彿とさせる無骨を知らないジャポネスクでしなやかな脚肉は我らドゥーバイの民をまどわす淫靡な脚だ。薄い顔立ちもしとやかで男心を擽る。その繊細そうな指もそうだ、細い手首など食らいついてしまいそうな程に欲をそそる。オマエは危険なのだ。ゆめゆめ忘れるなよ」
 モンゴルあたりではふくよかな日本女性が大変もてるらしいと聞いたことがあるが、それと似たような現象が男の自分にも起こっているのだろうか。
「だいたい男も恋愛対象だって言うなら、君みたいな美丈夫が一番に好かれるんじゃないかな。僕より君が警戒した方が懸命だね」
「つまり外見だけならば、私はオマエの審美眼に適ったのだな」
 どこまでも自分に都合の良い発想ができる男だ。
「そうじゃない、一般論さ」
「オマエがはしたないほど魅力的で無防備だから心配しているのだ。誘拐されてしまったらオマエ、その場で犯されアラカチュられてしまうぞ」
 そんな動詞は存在しない。
「ああ、例の野蛮な誘拐婚ね。よそ様の国を悪く言いたくはないけどさ、そういう風習はちょっとどうかと思うよ」
「アラられた女性は一族の誉れ。己にとっても名誉なことなのだ。自分は誘拐されてしまうほど価値のある人間だと認められるのだからな。シンヤよ、オマエはドゥーバイでは貴重な獣医だ、結婚目的でなくても狙われる可能性は高いだろうな」
 たしかに、発展途上の国では獣医は人間の医者以上に重宝される場合もあるが――。
「あはは、はは……はは、冗談だよね?」
「断言しよう、隙を見せればオマエは必ずアラカチュられる。ドゥーバイについたら私の傍を離れるなよ」
 ジャマルのことばはどこか焦点のずれた台詞だったが、緑に輝く瞳は真剣だった。
(いや、きっとからかっているのだろう。そうだよ、自分が王様だなんて嘘をつく人間だ。きっとこれも嘘)
 松田は戯れ言を聞き流し、食事を再開する。トマトの酸味とパスタソースの塩味が口の中で混ざり合う。
「それで話が逸れたけど、彼等は僕になにを訊いているんだい?」
「あなたは王の恋人ですか? とな」
「それで、君はなんて答えたんだい」
「今夜が勝負どころだと答えたが?」
 と、偉そうにふんぞり返り獅子を彷彿とさせる尊大さでジャマルは唸った。
 松田は指ではじいたハーブを男の顔に貼りつけた。

 空港から明日の朝には運航できると連絡が届いたのは、マハコヨ時間で午後十時。
 ジャマルの寝室で行っていたのはタロウの診察。
「すまないな、夜分遅くに」
「かまわないよ、平気だったとはいえタロウちゃんは一度心停止したんだ。注意深く観察する必要があるからね」
 診察を行う松田の姿からは、きりりとした高潔さと気丈さが滲んでいる。
 どんな小さな点も見逃さないよう注意深く、目を輝かせるからだろう。普段の愛嬌ある顔立ちからのギャップはなかなかに印象深い。
「バイタルも安定してるし、鼻の粘膜状態も肉球の状態も悪くない。大丈夫。これなら明日の搭乗も問題なくできると思うよ」
 タロウの診察をし終えた松田は、柔らかすぎる寝具に腰を落とし息を吐いた。外の世界ではしゃぎ過ぎたからだろう、タロウはぐっすり眠っている。
 たった一日なのに、この犬はずいぶんと自分になついてしまった。もしかしたら助けられた自覚があったのかもしれない。
「ゆっくりお休み、タロウちゃん」
 静かに眠る犬の頭をやさしく撫でる松田の顔は、聖母をおもわせるほどに穏やかだ。
 あと残る問題はこの男。
 自分に愛だ恋だを囁き続けるジャマルだと、松田は男をさりげなく一瞥した。
 部屋まではついてきてしまった。
 診察ならば自分の部屋でもできるのに。
 たぶん人間としてのジャマルは嫌いじゃない。けれどやはり恋には程遠い。
 松田は男を穏便に諦めさせる手段を考えながら、タロウの頭を静かに撫でつづける。
 しかけてきたのは向こうが先だった。
「やはりオマエは優しいのだな」
「それは、君の勘違いだよ」
 乾いた言葉に、ジャマルは不思議そうに首を傾げた。
「そうか? 私にはそうとしか思えない。私はオマエのその優しさに惹かれたのだから間違いない」
「ふーん、そう」
 まだ親しげだった松田の表情は、徐々に冷めていった。
 惹かれた理由なんて聞くんじゃなかった。
 それは夢の終わり。恋の冷めた瞬間に似ていたのだろうか。
 急につまらなくなった。どうでもいい、そんな気さえした。
「そう機嫌を悪くするな。詫びにオマエの悩みをきいてやろう、私でよければ相談に乗ってやるぞ。さあ、なんなりと私に頼るがいい」
 松田は苛立ちを隠しながら、穏やかな口調で口を開き始めた。
「僕に悩みなんてないさ」
「オマエは動物を癒すのは上手いが、嘘をつくのは下手なようだな。悩みのない人間が慰安旅行にはこないだろう」
 そう言えば機内ですこし愚痴ってしまったと思い出した松田は、唇を強く噛んだまま黙り込んでしまった。
 ことばを探すが選びきれない。なにをいっても言い訳に聞こえてしまいそうだった。
「そもそもなぜオマエは獣医になろうと思ったのだ。私はそこにオマエの悩みの根底が眠っているのだとそう感じている」
 どうせこの旅が終われば二度と会わない男だ。
 醜く卑怯な自分をさらけ出したとしても、一時の恥。いっそ嫌われてしまった方が楽ではないか。そんな逃げの姿勢が浮かんでいた。
 そして、無遠慮に人のこころをかき乱す男に苛立った。
「当ててみなよ。そうだね――もし理由を当てられたら君との話、すこしは真剣に考えてあげてもいいよ」
「そのことばに偽りはないな?」
「安心してかまわないんじゃないかな。僕は嘘はつくけれど約束は破らない、なんなら念書にでもしたためようか?」
「無用な心配だ、私はオマエを信じる。愛しているからな」
 からかいには、正面からのラブパンチがことばとなって襲いかかってきた。
「ちょっと待ちなよ、いつのまにラブに進化しちゃったのさ。肉欲だけなら、まあ、まだわかるけど、いくらなんでもそれは早いんじゃない」
「愛が実るのに時間など不要だ。自然を見ろ、動物を見るがいい。彼等は会ったその日で互いに惹かれあい、愛を成就させているではないか」
 はっきり言って、ジャマルの感情にはついていけなかった。
「たった一日で愛を語る人間なんて、一番信用できないだろうけどね。まあどうぞ、当てられるものなら当ててみなよ。僕が獣医になった理由」
 ジャマルは姿勢を立て直し、真剣な表情で松田の顔にことばを投げかける。
「命を助けたかったから」
「違う」
「正しい行いだと思ったからではないか」
 ジャマルはさらに松田の瞳の色を探った。
 瞳を覗かれると、なんだか腰の奥が疼いた。ずしりとしたなにかが甘く刺した。
 それはきっとジャマルが並外れた美形だから、ちょっと心が勘違いしているだけだろう。
「はずれ。解答権は後いっかいにしようか、もうそろそろ日付も変わる。眠らないといけないし、いつまでも君の恋愛ごっこに付き合ってはいられない」
「ではそうだな……ふむ」
 どうせ当てられる筈がない、松田がそう皮肉に笑んだ瞬間。
 男はまっすぐにこちらを眺め、言った。
「怖かったから、ではないか」
(……っ)
 ぎょっとした。当てられるなんて思ってもいなかった。
 まるでまだ幼かったあの頃、母に悪戯を見つかったような、そんな後ろめたさにも似たおちつかない感覚が胸の下を横切る。
 ざわりざわりと心が揺れた。
 そして確信した。
 この男は、聡い。それも、いままで会ってきただれよりも。そんな直感が松田の関心と感心を引いた。
「すごいね、君」
「どうやら正解だったようだな、しかしその理由がわからない。どうかオマエの心を私に教えてくれないだろうか?」
(――……)
 まるで心の底までも見透かされているような気がした。ジャマルは真剣に自分の心を読み取ろうとしている、それはきっと本当に恋をしているからだろう。そう思うと不意に心が温かくなり、そして冷たくもなっていく。
 好かれた相手に愛想を尽かされるのは、怖い。そんな人間的な理由。
 そして自分の中の見られたくない、自分でさえも認めたくない汚い部分まで覗かれているように感じるからだ。
 この男には隠しごとは通用しない。そう感じた松田は観念したように重く唇を開く。
「僕が獣医になった理由。動物が好きだったから――っていうのは言い訳かな。君が言うとおり本当はね、怖かったんだと思う」
「怖かった、か。当てておいてなんだがずいぶん抽象的だな」
「別に動物が怖かった訳じゃないさ、怖かったのはもっと別のモノさ。僕の家はだいだい医者の家系でね、僕も幼い頃から人間の医者になるべく教育されていた。うちの両親は志っていうのかな、そういう上昇志向があったからけっこう大変だったよ」
「ふむ、幼い頃のオマエはさぞかし愛らしかったのだろうな」
 心が暗く沈みそうになってしまうタイミングで、戯れ言が潜り込んできた。
 松田は感嘆と共に苦笑した。
「愛らしかったかどうかは割愛させてもらうけど――まあ自分で言うのはアレだね、これでもなかなか優秀に育ってたんだ。けれどね、僕はプレッシャーに弱いと言うか芯が脆いと言うか、なんだろうね。自分が他人の命を握っちゃうと思うとね、どうしても医者になれなかった。目指すことさえできなかった。どうしようもないほどの他人の僕が人間の皮膚にメスを入れる? 冗談じゃない、そんな責任重大なことできるわけないじゃない。そう思うと医科大学に入るのさえ及び腰になっちゃってね――だから」
 友人にも恋人にも家族にも言ったことのない本心が、口から滑り落ちていく。
「たとえ死なせてしまっても心が痛まない獣医を目指した」
 本当は動物なんてさほど好きじゃなかった。
 たしかに人並みには動物への親しみがあった、好きか嫌いか問われれば間違いなく好きと答えた。けれどいまほどに愛情が浮かんでいたわけではない。
 好きになったのは、大事にしてあげたいと思ったのは、あの出来事があったからだ。
「犬や猫は自分で痛いとは言えないからね、たとえ僕がミスをしたとしても飼い主に訴えたりはできない。それってすごい気が楽だったんだよね。どっちも同じ命、いまとなっては同じ重さだとわかっているつもりだけど、当時は僕もまだ若くてね、そんな安易で最低な理由で獣医を目指したんだ」
「まだ若くてと言うが、オマエ、いま歳はいくつなのだ」
 あいかわらず話の腰を折る男だと、松田は肩を竦めながら答えた。
「二十八」
「むぅ、ティーンエイジャーかと思っていた」
「日本の獣医は六年大学で研修してからじゃないとなれない、最短でも二十四歳だろうね」
「年上女房も悪くない」
 と、なるとジャマルは年下なのだろう。
「ところで君さ、ビーグル犬って知ってるかな」
「シブヤとやらで主人の帰りを待ち続けるアレか」
「それは秋田犬」
「では人命救助を得意とする名犬――」
「それはラッシーでコリーだよ。ほんとうに君はバカだね」
 ついにバカと言ってしまった。
 賢いけれど、バカ。バカだけど、妙なところで鋭い。まるで犬のようだ。
「生まれて初めて言われた」
「へえ、ドゥーバイ人っていうのはきっとみんな優しいんだろうね」
「そうかオマエから見ると私はバカに見えるのか」
 そうか、そうかと、何故か嬉しそうにジャマルは頬を緩める。
 まるで対等の関係、戯れ言、何気なくもくだらない会話を楽しんでいる、そんな風にさえみえてしまう。
「まあいいや、ともかくそのビーグル犬はおそらく日本で飼われている数が一番多いんだろうけど、その理由、予想できるかな?」
「日本のペットで登録数が一番多いのはプードルと聞く。ならば、そうだな――タロウと同じ愛玩動物としてではなく飼育される存在、研究用の個体、だろうな」
 また彼は答えをひきあてた。
 正解、と松田はそらぞらしい拍手をジャマルに贈った。
(この男、実際にはかなり賢いのかもしれないね)
 松田は初めて彼のことが知りたくなった。
「君さ、ホテルの受付でも流暢なフランス語を話していたみたいだけど、何カ国語扱えるんだい?」
「そうだな、数えたことはないが読み書き以外ならばたいていの主要国のはな。今は私のことなどいいではないか、それでそのスヌーピー的なビーグルがどうしたのだ」
(ほらやっぱり、ビーグル犬の代表例を知っているじゃないか)
 能ある鷹は爪を隠す、とでも言いたいのだろうか。
 徐々に外堀を埋められている気がした。松田はあきらかにジャマルを意識し始めている自身に気がついていた。
 ジャマルはまるでソレに気づいたように、にんまりと微笑んだ。
 ますます胸が熱くなった。
(どうしたんだろう、なんか……胸が変に鳴ってる。まさかね、あるはずがない)
 松田は自身の変化を誤魔化すように話を進めた。
「僕達獣医になる学生はね、最初の実習で健康なビーグルの腹を開くんだ」
「獣医を目指す学生の技術向上のための実験体、か」
「外科実習もせずにいきなりペットの手術をするわけにもいかないからね。使われるのは大学で飼われている専用のビーグル犬。どうしてビーグルなのかって訊きたそうな顔をしているね? 使われる理由は単純、彼等は個体差が少ないんだ。ケージの中で生まれてケージの中で一生を終える、そんな実験動物専用の繁殖施設から送られてくる犬。彼等の命を貰うんだ。僕が犬ならきっと抗議しているね」
「あまり賛同はできんな」
「だろうね」
 たぶん自分は本来、ジャマルに嫌われる人種だろうと松田は挑戦的ともとれるほど威圧的に言った。
 倫理の是非に答えはないだろう。
 狂犬病やレプトスピラ病のワクチンを作るのだって無数の動物の命が犠牲になっている。中には酷な実験もあっただろう。けれど、その上で、今ワクチンを受けているペット達は安全に暮らしていける。
 だから、松田は悩んでいた。答えがないから悩む。
 頭の中のモヤモヤがこんがらがって、弾けて、飛んでしまったから、こうして単身旅行にでてしまった。
 そんな中で自分に変なアプローチをかけてきたこの外国人が、うっとうしい。
 何も考えずに休んで、遊んで、帰国して、獣医を辞める決心がつくはずだった。なのにこの男のせいで、自分は獣医についてあらためて自分なりの答えを探そうとしている。
 悩んでしまっている。
 思考を整理し、松田は続けた。
「ともあれ手術を手に覚えさせるために、麻酔で眠らせたビーグルのお腹を開いて――まあ、いろいろと手術の練習をさせてもらうんだ」
 松田は言葉を濁した。
 けれど、頭にはあの日の未熟な自分の姿が浮かんでいた。
「これでも僕は主席だったからね、人一倍プライドもあったし、実習にも自信があった。当然、だれよりも早くだれよりも正確に手術を終わらせる――そのつもりだった。みんなもたぶん、そう思っていたはずさ。けれど、うまくいかないものだね。本や資料でさんざん頭に叩き込んできたのに、なんでだろうね、いざその子のお腹を開いてみると指が震えるんだ。血の熱さや体温、強烈な匂いがなまなましすぎたせいなのかな。指が、どうしても動かなかったんだ。周りの仲間が縫合を終えて、安堵したような悲しいような難しい顔をしている中で、僕だけがいつまでも怯んでた」
 その時、指導員に言われた言葉は今でも頭に残っている。
 この程度で怯んでいるなら、キミ、向いていないよ。
 と。
 いままで必死に隠していた自分のよわさを、周囲に暴かれた気分だった。ただそこに立っているだけで居たたまれなくなっていた。だれも笑ってなどいないのに、笑われているような錯覚に陥っていた。
 当然だ。周りは皆、自分とは違いなにか強い志をもって獣医を目指していたのだから。
 自分には決定的ななにかが欠けていた。
 決意。
 いまとなってはたぶんそれだったのだと思う。
「正直ショックだったと思うよ。僕は自分に必死に言い聞かせた。この犬はいつも食べてる豚と牛と同じ、実験のための家畜、このためだけに作られた存在なんだから過度に気に病む必要はないってね。僕はそんな気持ちでメスを入れたんだ。最低だろ」
「勇気のいる決断だな。私にはできん」
「生まれて初めての手術はそこで終わった。けれど実習は終わりじゃない、そこからが本番なんだ。実際に自分で手術した犬の経過を飼育しながら観察しないといけないんだよ」
 ――今思えばそれが一番、辛かった。
 と、松田は消え入りそうな声で喉を震わせた。
「ケージで育った実験体が、唯一外を楽しめる時間。その子ははじめてみる外が楽しくて仕方がないんだろうね、スンスンスンスン鼻をすって草や地面の匂いを嗅ぐんだ。それでパッとこっち振り返ってほんとうに嬉しそうに、鳴くんだよ。ワンワンキャンキャン跳ねまわって、鳴くんだ」
 それはまるで外の世界を嬉しそうに散歩していたタロウの姿と重なっていた。
「その途端だったね、この子は動物実験用に繁殖させられて生まれてきたけど――やっぱり命だったんだって、そう思っちゃったんだ。そうしたらね、涙がぼろぼろ零れてきた」
 深く息を吐き、松田は続けた。
「そんなこともお構いなしに、あの子、僕に懐いちゃったんだ。罪悪感に押し潰されそうだったよ。僕が結んだヘタな縫合痕をぶるぶる震わせてね、苦しそうに、でも甘えた声で鳴くんだ。僕はごめんごめんって謝るけど、その子はだんだんと衰弱していく。ようするに手術は失敗していたわけだ。情けないよね」
 なぜだろうか、言葉にするとすこしだけ気が安らいでいく気がした。
 ここまでで質問は? そう訊ねる松田にジャマルは首を横に振った。
「次の日、僕は生まれて初めて生きたまま動物を殺した。安楽死、いまは尊厳死ともいうけれどね」
「術後に引き取ることはできなかったのか?」
「できないんだ」
 規則なのだと、松田は首を横に振った。
 動物実験で過度な苦痛を与えてはならない。それが大学側のポリシーであり、命を扱ううえでの礼儀なのだという理論だ。
「どうしてなのだ?」
「規則に従えないものは獣医になる資格はない。それが僕の学んだ大学の方針さ。心の授業でもあったのかな。疫病を断つために法で定められた殺処分をおこなう必要があるのに、かわいそうだから殺せない、なんて本末転倒な獣医を作らないためだろうね。まあ他の大学にはまた別のルールがあるだろうけど」
「そうか、辛い経験だな」
「でもね。僕は自分の手で楽にしてあげられることができたのは間違いじゃなかったと思ってる、もし無事に手術が成功していても別の実験に使われて、新しい苦しみを味わうんだ。そのために作られた命だったからね。けれど、二回も苦しまないといけないのはかわいそうだろ?」
 ジャマルは何も答えなかった。
 沈黙が、松田の胸に刺さっていた。
「その日からかな、僕は今まで以上に死に物狂いで勉強したよ。あの子の死を無駄にしたくない。あの命を使わせてもらったからには、絶対に腕のいい獣医になってみせるってさ」
 だから全速力で走り過ぎてしまったのだと思う。
「でも、僕には無理だったみたいだ」
 唇が勝手にことばを吐いた。
「僕には動物を生かす決意はあっても、殺す決意がどうしても足りないんだ。飼い主の心を守るため、大量感染を防ぐため、なによりペット自身のためにもね、いろんな場面で殺処分が必要な場合もあるとは頭ではわかっているつもりだよ。でも怖くて、結局辞めてしまった。逃げてしまった。悩みはそうだね、このまま辞めてしまって本当にいいのか、それとももっと努力をして、すくなくとも自分の信念だけは通せる獣医になるか。でもそれ以前の問題として――そもそも僕は獣医に向いていないんじゃないか、人間を刻むのが怖いから獣医になった、そんな安易な僕に資格はあるのだろうか。そう思うとなかなか今後が決められなくてね」
 支離滅裂な弱音が飛び出ていた。
 たぶんそれが本音だった。
「今もこわいんだ」
 自分でも驚いてしまうほど弱々しい声だった。
「ならば辞めるといい」
 松田はジャマルのことばに思わず顔を上げた。
 跳ね上げたといってもいい。予想外のことばに心と体が前のめりになっていた。
「他人事だからって簡単に言ってくれるね」
 いささか苛立った様子で松田はそう言い寄っていた。
「命を扱う職業だ。そのような不安定で浮ついた心ではやっていけないだろう。オマエは充分よくやった、ただオマエの器では獣医の重さに耐えきれなかっただけの話。無理なら辞める、それは自然な流れであろう」
「意外だね、君みたいな大型犬タイプはなんの根拠もなく人をおだててさ、バカみたいに慰めてくれるモノかと思っていたよ」
「無責任な慰めは男を駄目にする。それにオマエと私は今日出会ったばかり、そのような僅かな情報で獣医としてのオマエを肯定して、オマエは満足するのか? オマエは納得するのか? オマエの悩みは晴れるのか?」
「厳しいね」
 痛いほどの正論だった。
 けれどなぜ痛いのか。なぜ苛立つのか。
 それはたぶん、自分がまだ獣医の世界に未練を残しているからだろう。
 物言えぬ動物達の命を救ってやりたい。それが叶わないならせめて痛みだけでも取り除いてやりたい。
 初めて手術に失敗したあの日、そう決意したはずだ。
 ハッと気づいたその瞬間、ジャマルが緑輝く瞳でまっすぐと囁いた。
「しかし、オマエがそういった過程を経てアニマルドクターになったくれたから、オマエが自身の獣医の資質を疑い旅にでてくれたからこそタロウはこうして助かった。私もタロウもオマエに感謝している。その事実にかわりはない」
 うってかわった優しい声音が、松田の心の扉を撫でていた。
 そして男は笑った。
 太陽のように明るい笑顔だった。
 ささくれた胸に、ずしりと刺さった。
「私の勝手な見解であるが、オマエは獣医に向いているのだろうと思う。オマエが抱えている悩みは、働くモノならば、だれしもが通る共通の悩みなのではないだろうか。自分の資質を疑い、現在の職に対する責任感や苦悩と向き合う通過儀礼といったところか」
「むずかしい言葉は嫌いだよ」
「ようは成長しているのだろう」
「知った風な口だね」
「私も常に悩んでいるからな。それにオマエは私が認めた男だ、きっと強く賢い獣医になれるだろう、私はそう確信している。安心しろ、私が認めた男はみんな大成した」
 正論は耳に痛いから嫌いだ。この男が吐くとんでも理論はもっと嫌いだ。
 けれど、なんとなく、松田の悩みの種はなくなりそうだった。
「本当に、君に認められた男は立派になれたのかい」
「ああ、当然だ。私は嘘を言わない」
 断言する男のことばには、強さがあった。
 背中をとんと押して貰えたような気がした。
(僕はやっぱり獣医を続けたい)
 今、はっきりとそう思った。
 強気を取り戻した松田は、ふだんの飄々さも取り戻し、悪戯そうに口の端を上げた。
「つまり君はいままで色んな男の成長を見てきたわけだ」
「嫉妬か?」
「そうじゃない、ただ成功した男たちの行く末が気になっただけさ」
「成長した鳥は二度と巣には帰らない」
 男は寂しげに笑った。
 苦味の混じったジャマルの美貌が、苦悩する松田の視界に映る。
 松田は取り返しがつかなくなるまえにと、意識して目線を逸らした。
「さてと、こんなつまらない僕に変な勘違いさせちゃって悪かったね。さっきの払いは僕が持つよ」
 チップを残し、レシートを掴んだ松田の指をジャマルの指が制止する。
 つつつ、と触れる指の意味がわからないほど松田は朴念仁ではない。
「心弱く震えるオマエは、愛らしい。決意を孕んだオマエは、なお美しい」
「そりゃどうも、手、離してよ」
「私が正解したら妻になると約束したではないか」
「すこしは考えてみるって話だっただろう。考えた結果、僕はね、君みたいなまっすぐでギラギラしたタイプが苦手なんだ」
「ならば問題あるまい。オマエが慣れれば済むだけのはなしだな」
 なついてくるジャマルの体を押し返し、松田は真剣な表情で答えた。
「僕は日本に帰る」
「なぜだ、オマエはいま私に惹かれている筈ではないのか」
 勘が鋭い男に嘘をついても無駄だと、松田は素直にうなずいた。
「そうだね、悔しいけれどそうらしい」
「ならば――」
「それでも僕は日本に帰る。日本に帰って今度はもっと強い獣医になるよ。傷心ぐらいで慰安旅行に逃げないような立派な獣医にね。君のおかげだよ、ありがとう」
「なるほど、つまり私は天秤にかけられ負けた訳か」
「そういうこと」
 一日でも早く日本に帰りたい。
 そう浮き足立つ松田の耳に規則的な音が届いた。心臓の音だった。
 なぜ心臓が弾けそうな程に熱くなるのか、その理由はあまり考えたくない。自分に道を示してくれた男に惹かれているのは事実だ。
 けれど。いまならまだ引き返せる、そんな気がした。
 カコーンカコーンと、時計も鳴った。
 ゼロ時をすぎたのだろう。
 突然、ジャマルはなにか仕掛ける獣の顔で、松田の腕を掴んだ。
「マハコヨ時間で日付が変わった。これが何を意味するかわかるか?」
 肌が触れている場所から、ますます熱さと音が強くなってきた。
「もう寝なさいって意味だろ」
「いいや、違う」
 要領の得ない男のことばに、松田は眉をしかめた。
「?」
「オマエが私の妻になったということだ」
 いつのまにか、松田の首には白いストールが巻かれていた。

 婚約の証を胸に巻かれた松田が呆然としている間に。
 ジャマルは強引ともおもえるほどの力で、松田の体を正面から抱きしめた。
「男の寝室で日付を超えたら婚約成立。オマエも知っているのだろう?」
 漂う雰囲気には情愛が滲んでいる。
 ともすれば流されてしまいそうな甘い空気感だった。
 逞しい男の腕のなかで身じろぎながら松田は唸った。
「待て、ちょっとまってよ! それはドゥーバイでの話だろう、不意打ちなんて卑怯じゃないか」
「不意打ちではない、男の純情だ」
 たかなる心臓は、まるで本当に恋したかのようにバクバク騒いでいる。
「人のことばを真似しないでくれるかなっ」
「花だってきちんと用意した。ホワイトローズだ、ジャパニーズは花にひとつひとつ言葉をつけるらしいな。意味はわかるな?」
「知らないね、日本で花言葉をふかく気にするのなんて純粋な女の子か花屋の店主か、水商売のママくらいさ」
 では教えてやろう、とジャマルが松田の胸元に白薔薇をささげながら囁いた。
「私はあなたにふさわしい」
 耳元がぞくりと揺れたが、松田はなんとか淡白な声をしぼりだした。
「うわー、あいかわらず自信家だね」
「相手に花を贈ることの意味はわかるだろう?」
「股を開け」
「心も開いてもらわないと困るな」
 再び、あまいバリトンが松田の耳朶をしびれさせるほどにゆすっていた。
 日本人がおなじセリフを言ったとしたら、たぶん松田は彼をぶんなぐっていただろう。
 頬に男らしいゴツゴツとした、だが指先までも端整なジャマルの手の平が触れる。
「……っ」
「愛しいオマエがどうしても欲しいのだ」
 異国美男だからこそ許されるくさいセリフに、松田の口はぷるぷるともどかしそうに揺れていた。
「うーむ、おかしいな。これでかわいいあの子は恋に落ちると日本の恋愛指南所に書いてあったのだが」
「……なにを参考にしたのさ」
「女学生たちを対象とした恋がちりばめられた恋愛雑誌なのだ」
「あー、少女マンガね」
 雰囲気に流されてはいけない。
 これは罠だ。
 わざと滑稽さを前面にみせ、じっくりと心の隙間に入り込んでくる、そんな悪い男の甘い罠だ。
 松田は現実をみすえて口を開いた。
「君が日本に来る気はないかな。そうしたら考えてあげてもいいよ」
 けれどジャマルは精悍を崩さず、はっきりと答えた。
「それは無理だ、言ったであろう私は王だ。民を見捨てるわけにはいかない」
「仮に君が本当に王族だったとして。なんで王様が日本に遊びに来ていたのさ」
「オマエと同じ理由だ。そしてドゥーバイに帰らなくてはならない理由も同じだ。苦悩するオマエをみていると私にも志が見えてきてな。私はドゥーバイに戻り、これからはもっと真剣に王としての職務を果たそうと思うのだ。むろんいままでだって真面目に取り組んではいたがな」
 ジャマルのことばには真摯な重さがあった。
 嘘をつく気配もない。
 もしかしたら王と言うのは会社かなにかの役職、社長やCEO、代表取締役の誤訳なのかもしれない。
 決意を持った男の顔は精悍で爽やかだ。
 松田はますますジャマルに惹かれた。が、新たに決意を増した獣医への志には敵わない。
 静かにおとこを押し返した。
「なら、今夜でお別れだね」
「ああ、残念だがそのようだ」
 おとこは素直にしたがった。
 だけど理性とは違う何かがジャマルの背を押したのか。
 退出しようとする松田の背に、温もりが覆い被さる。背後から訴えるように抱きしめられていた。
 ふたりの心臓が近づいたせいか、たがいの恋の音が聞こえていた。
 たぶん振り返ったら、大人の関係になってしまう。そうとわかっていながら――。
 松田は振り返った。
 どちらからともなく、唇が重なり合った。
「……ん」
 ともすればバスタオルにさえみえてしまう男の纏うカンドゥーラが、いまは本当にアラブの王が纏う高貴な布地に思えてしまう。
 松田は一瞬、タロウを眺めた。もうぐっすりと眠っている。あれほど熟睡しているのならしばらくは起きないだろう。
「いいのか?」
「そっちこそ、王様が民間人とセックスしちゃってもいいのかい」
「私ははじめからオマエを欲している。オマエは悪い男だ、たった一日で私の心を鷲掴みにし奪ってしまったのだからな」
「なんだい、それ」
 くくく、と松田はからかうように笑う。
 早すぎるとは頭で理解していた。だが、男とセックスすることへの嫌悪感は浮かばない。これほどの美貌の持ち主なら、一度くらい、そんな好奇心も浮かんでいた。
 松田はおもいのほか強い力でジャマルの腰を抱き寄せ、ベッドに押し倒した。
「君はどうやって抱いて欲しいのかな」
 と、松田は男の衣服の隙間に指を忍び込ませながら妖しく囁いた。
 浅黒い褐色の肌は弾力のあるすじばった筋肉で覆われている。凹凸の深い胸板と脇をくすぐるように撫で、乳首を悪戯につつく。ジャマルの胸の突起は女性とは違いうすく硬いが、すこしだけ反応し始めている。すると、ジャマルは小さく息を吐いた。
 性の準備をしようとする松田に、ジャマルはきょとんとするばかり。
「どうしちゃったの、そんなに呆然としちゃってさ。もしかして自分から誘っておきながらおじけついたのかな」
 きっと緊張しているのだろう、と、判断した松田はジャマルをリラックスさせるため軽いくちづけを唇に落とした。
(なんだろう、すっごいドキドキだね)
「もしかしてオマエ、私を抱こうとしているのか?」
「そうだよ、当たり前じゃないか」
「美しいオマエにこうやって愛撫されるのは魅力的だが、すまんな、私はオマエをめちゃくちゃに乱れさせてやりたいのだ」
 そう言って、ジャマルは深く松田の唇を奪った。
 同時に、まるでマジシャンのような器用な指が松田の下肢を裸に剥こうとベルトの金具に触れている。
 かちゃりかちゃりとベルトが床に落ちた。松田の心も跳ねた。
(かんがえてもいなかったけど、もしかしてっ、僕が抱かれるほうなの!?)
「んぐ……ッ、ん!」
 一度、話し合おうとジャマルの胸を押し返すがビクともしない。
 巧みなキスが松田の頬とまなじり、耳までも桜色に染めていた。剥き出しにされた下着に男の長い指が入り込んでくる。すでに猛っていたペニスにからみついてきた。
「ふぐぅ、ん……ま、まって――ん」
 なんとか男の矜持を保とうと、松田はジャマルを押し返した。
 くちもとを何度も何度もぬぐいながら、松田はネクタイシャツと下着、靴下だけを纏った姿で抗議した。
「ストップ、ストォォップ!」
 性を急にとめられたジャマルは唇をヘの字に曲げて呟いた。
「なんだ情緒のない声を上げて。私ははやくオマエが欲しい。オマエにはいりたい、オマエを支配したい。オマエを私だけの愛らしい存在にしたいのだ」
 エサを待てされた犬のように、いまにも飛びかかりそうなほどの興奮をなんとかおさえている。今のジャマルはそんな臨戦態勢だった。
 褐色に浮かぶ興奮の赤。上下する肩はなまめかしくて、 蠱惑的だ。
「僕、男に抱かれるなんてムリだよ」
「安心しろ、私はうまい」
「そういう問題じゃないの」
 たがいに退く気がないことは分かっていた。
 それほどに、もうたがいのことが分かり始めていた。
 恋愛が相手をふかく理解することから始めるのならば、もはやふたりは足を踏み入れてしまったのだろう。
「ではこうしよう。日本にはジャンケンと呼ばれる国技があると習った。それで勝負をつけようではないか」
「あ、ああ。わかった、いっとくけど勝った方が相手を抱くんだからね。あとからルールの変更はなし、いい!」
 ふたりの指が、同時に動いた。
「私の勝ちだな」
 尾をふりふりさせていそうな程の深い笑顔で、ジャマルが鼻を鳴らした。
「いまのは練習だよ」
「そうか、ならば本番だ」
 往生際の悪い勝負は、同じ結果になった。
「私の勝ちだな」
「一回勝負だとは、いってないし、日本じゃね大事な試合の時は三回勝負なのっ」
「そうなのか、伝統ならば仕方あるまいな」
 またジャマルの勝ち。
 男は狼狽でますます顔を赤くする松田の顔を眺めながら、肩を竦めてみせた。
「私の勝ちだな」
「君さ、なんで全勝できるんだい」
「オマエの眼と顔、二の腕の動き、そして手首の筋肉の流れをみれば簡単にわかるだろう」
 この男はどれほどの天才なのだろうか。
「汚いじゃないかっ、つまり君はインチキ――」
「それほどにオマエを抱きたい、気丈で生意気、けれど繊細なオマエを私の熱いペニスで慰め貫き、愛してやりたいのだ。だめか?」
 どう足掻こうとも勝てない。
 松田は目線を逸らしながら、覚悟を決めた。
「もう、きかなくていいよ。どうやったって君が僕を抱くんだろ」
「ああ、そのとおりだ」
 勝ち誇った、けれど柔和な笑みが松田の心をくすぐる。
 あぐらをかいたジャマルの膝の中に乗せられた松田は、男の腹筋と胸板に体を預け降伏した。
「深く息を吐け、最高にきもちよくしてやる。やはり私に抱かれて良かったとつよく思ってしまうほどにな」
「どうだか」
「まあみていろ」
 秘伝の軟膏だという薬をたっぷりと後腔に塗りたくられて、松田はふかく息を呑む。
 あの長く筋張った指が、体内に入り込んで解している。本来、排泄器官にすぎない箇所に繋がるため淡々と解している。セックスのために――。
 松田はもどかしさと同時に腹の中の熱い場所を知った。
「どうだ、心地良いのだろう?」
「ん……まあ、ね」
 犬並みの直感と人間のずる賢さを同時にあわせもつジャマルの性は、ほんとうに巧みだった。
 たびたび声が漏れそうになった。
 指が一本、二本と増えていく。その都度、男性器で得るのとは方向性の違うまったく新しい鈍い快楽が増していく。快楽をこらえる松田の吐息と、指をかき混ぜる水音が、なまなましく部屋の中を渡り歩いていた。
 勃ってしまった松田の生殖器を掴んだジャマルは性を帯びたからかい声を落とした。
「どうやら感じているようだな」
「そう……だね。けれど君のも――っ、すごいことになってるね」
 腰に感じる質量、熱さ。ジャマルの熱棒が、ぐいぐいと、はやく入りたいのだと松田に訴えていた。
 ジャマルが松田の腰を抱え、持ち上げた。
「すまん、まてそうにない」
「節操のない犬だ、主人の顔がみてみたいよ」
 たわむれる声はすこし震えていた。
 やはり男に犯されるのは、怖い。それほどの質量がジャマルの股でかまくびをもたげている。松田のソレよりもふたまわりは大きな、長身で体格の良いジャマルに見合った王者の生殖器だ。
 けれど、それを吹き飛ばすほどの甘え声が松田の耳朶をゆらしていた。
「痛いかもしれんな」
「いいよ、僕も君を……覚えていたい」
「あいしている」
 人並みを外れたジャマルの立派すぎる男性器が、松田の濡れた秘所にあてられる。
 徐々に、男が入り込んできた。
「ん……くう、っああッ」
 男の腿にまとわる衣服を掴みながら、松田は侵入してくる熱すぎるペニスの大きさに耐える。背後から、快楽を甘受する男の吐息が聞こえてきた。うなじを揺すった。心も、すこしだけ揺らしていた。
 本当に、男に犯されてしまった。
 けれど、悪い気分じゃない。
「すごいな根元まで入ってしまった」
「ああ、はいっちゃった……ね。あついよ。ったく、男性器までずうずうしい男なんだね、きみって……っ」
 あんなに大きなものが入り込んでしまった。
 不思議と、痛みは少なかった。けれど、やはり重厚的な圧迫感は強い。
「痛いか、辛いならばもう少し待つが?」
「そうだね、すこし待ってなよ」
 腰骨がじんじんと揺れている気がした。
 慰めようとしているのか、ジャマルが松田の肌をなだめるように撫で始める。主人が犬をなでるときの優しい手つきだ。
 しだいに、痛みが熱へとかわりはじめた。
「あ、なんか……へん、かも」
「動くぞ」
 松田は、うなずいた。
「ぁ……ッ、ッッ――ああ、ん、や……く、ん、あッ」
「気持ちよさそうだな、安心したぞ」
 良い所ばかりを、ジャマルの雄々しい塊が行ったり来たり、往復していた。まるで襞肉にむかって甘い蜜を擦り込まれているような、濃厚な快楽が松田の鼻を擽る。
 スンスンと、鼻をすすり快楽をこらえる松田のまなじりに涙がたまりはじめていた。
 後背座位でよかったと、松田がひそかに安堵していたそのとき。
「なっ!?」
 ふいに向きが変えられていた。
「やはりオマエのかわいい顔は正面からみたいからな、こっちがいいのだ」
 体面から逃れようと体を捩じると、松田の半身はシーツの上にゆったりと落ちていく。ボスッと急激におちなかったのは、きちんとジャマルが背を支えてくれていたから。
 それはまるで恋人をきづかう紳士の腕だった。
(ほんとうに愛されてるかんじが、しちゃうじゃないか)
 シーツの上で置きどころに困って遊んでいた松田の指に、硬い男の指が重なる。自然な仕草で恋人繋ぎになっていた。
 優しいてつきだったが、逃げられないように拘束されている感じもしてしまう。
 松田はむずむずと唇を噛む。
「オマエはやはりかわいいな」
 ジャマルが微笑んだ。性的な色を孕んだ笑みだった。
 男が悪戯そうに、腰を揺すり始めた。トントントントンと、お腹のなかを甘く齧り始めていた。
 松田のお腹も男のペニスを味わうように噛みつきはじめている。それが、恥ずかしくて恥ずかしくて堪らない。
 恥ずかしい顔をこの端整な顔立ちにまじまじ覗かれていると思うと、ふいに、びくりびくりと爪先が揺れはじめた。
 正座の痺れにも似た不安定なぴりぴりが、全身に広がっていくようだった。
「感じているようだな」
「……っ」
 松田は羞恥でおもわず首を横に振っていた。
 愛らしいとばかりに、余裕を持った表情でジャマルはフーと肩を竦めた。
「なら素直にさせてやろう」
「やあ、すごい……、ま、まって、へんだから、まてってっ」
「悪いな、もう待てはできそうにない」
 ジャマルは自らの衣服を投げ捨て、そう吠えた。
 男の体が覆い被さってくる。美丈夫の興奮した息が、松田の前髪を揺らす。
 裸になった男は、裸体までも神秘的な美をもっていた。かた太りを知らないネコ科の肉食獣を彷彿とさせる細い筋肉質。
(こんな完璧な男だから、こんな男に愛を囁かれ続けたから僕は勘違いしちゃったんだ。こんなことになっちゃったのは僕のせいじゃないし)
 松田はくやしさに唇を尖らせた。
「ずるいね……君っ、顔だけじゃなくてこっち……ま、で、イケメンじゃないか」
「イケメンとはどういうことばだ?」
「悪い男って意味……さッ」
 胸と胸が重なるせいか、相手のドキドキがちょくせつ伝わってきた。
「愛しているぞ、シンヤ」
「う……う、るさいよ、ばか犬」
 男は極上な微笑をこぼした。
「そうだ、私はオマエの犬だ。オマエにだけ懐き、オマエにだけ甘える。オマエだけの犬だ。これほど熱い感情に支配されたのは、生まれて初めてだ」
 本当に排泄器官が生殖器になってしまったように、快楽だけが松田の胸を揺すっていた。ドキドキがはじけてどうにかなってしまいそうだった。
 ごりごりと、男の肉刀のくびれに、前立腺を断続的に小突かれてしまう。
「あ、ああ……っく、ぐぅ……っ」
 松田の体の先端、いたるところが甘い痺れで痙攣していた。それほどの快楽。それほどの恍惚だった。
 絶頂をむかえる女性のように、ながく続く痺れにも似た疼きに松田の顔はとろりと緩んでいた。
 開いた口に、男の口が重なる。
 唾液が混じって、たがいにたがいの舌を絡めて求めあった。舌のつけねまで丹念に愛撫され、喉までもが痙攣したように甘えて疼く。
 ますます、体は男に犯される快感を覚えてしまう。
「シンヤ、私のシンヤ――愛している、愛しているんだ」
「ん、ん……ッ、わ、わかってるよっ、しつこいね」
 汗をしたたらせるジャマルが、松田の指を握り口元に運ぶ。
 まるで騎士が王に行う敬礼のように、紳士的なくちづけが落とされた。
「オマエにも、愛しているといってほしい」
「あいして……」
「愛して?」
「愛してやっても、いい」
 ことばにした途端、胸の中でなにかが弾けた。
 口の端に歓喜を認めたジャマルが、松田のどうしようもなく感じてしまう箇所ばかりを狙いすませ、励んだ。
 男の腕の檻の中で、逃げ場のない快楽が襲ってくる。性感帯をからみついてくるように小突かれ、煽られ、甘えられた。
 セックスまで饒舌な男に翻弄された松田は、ひときわ大きく体をのけぞらせ揺れた。
 とどめとばかりに、男が甘い吐息を漏らした。
「く……ッ」
「あ、ああああ……ん、ぐ、あ、ああ!」
「くぅ……シンヤッ」
 目の前が真っ白になって、びくりびくりと心も身体も痙攣した。
 吐精の余韻は甘く重い。
 ジャマルの腹を汚した自分の精液も、体内にたっぷりと注がれたジャマルの精液も熱い。そしてふたりの心も熱いのだろうか。
 互いに見つめ合った。惹かれあった。
 ふたりは長いキスをした。
「ふぅ……ん、ん――」
 しばらく抱き合って、もつれて、絡み合った。
 もう再会することはないだろう。そんな予感が松田の劣情を高めていた。そして火照る自分を、ジャマルもいまだに眺めている。
 どうしてだろうか、こんな時なのに自前の負けず嫌いが顔を覗かせている。
 誘うように松田は、くくくと口の端を歪ませた。
「一回で足りるのかな?」
「あまり誘うな、これでも欲を抑えているのだ。オマエを壊したくはない」
「僕は勝負に負けたんだ。あとで難癖つけられるのは嫌だよ」
 夜はそのうち明けてしまう。
「してよ、お願いだ」
「ああ、我慢などできるはずがなかった」
 こんなに相手を欲しいと思ったのは、はじめてだった。
(それでも僕は、もっとちゃんとした獣医になるために、僕は僕の道を歩くよ)
 だから、思い出が欲しい。
 窓から照らす太陽が、二人の最後の愛を暴いていった。
 綺麗事などかなぐり捨てて、まるで蛇がもつれ合うように絡まるふたりの姿はあられもないが――淫靡なエロスが滲んでいる。
 松田は男に抱かれ、啼いた。
 嵐の去った青空は晴れていた。
 そのうちタロウが起き出して、ふたりと一匹は最後の散歩をした。


 別れの空港で、松田は首に巻かれたストールを返し言った。
「これ、返すよ」
「いや、オマエに持っていて欲しい。駄目か?」
「そうだね。膝カケには使えるから、持っていてあげてもいいかな」
 自分は日本に帰る。ジャマルはドゥーバイに帰る。
 ただそれだけのこと。
 けれど、ふたりの中になにかが芽生えた今となっては大きな出来事だった。
 タロウを救ってくれたせめてもの礼だと言われ、松田は日本行きファーストクラスのチケットを受け取る。
 紙をきしりと握って、松田はことばを探るようにゆったりと唇を動かした。
「引き止めないのかい」
「私は私のわがままでオマエの信念を捻じ曲げたくはない」
 自分とおなじかと、松田はまたひとつジャマルに惹かれた。
 きっと自分が泣いて縋りついて日本に一緒に来て欲しいと願えば、叶えてくれるだろう。確信があった。けれどそれをしないのは、ジャマルの信念を壊したくないからだ。
 王だか社長だか知らないが、この旅、この出逢いでなにかを決意したらしい彼の道を邪魔したくない。
「泣いてもいいのだぞ?」
「いやだねえ、すぐにそうやって勘違いしちゃう人ってさ」
「そうか、ではまたいつか再会する日を待っている」
「まあ一応、君のことは覚えていてあげるよ」
「私は一生、オマエを忘れない。一生だ」
 まるでストーカーだ、と。松田は小さく肩を竦めてみせた。
「それじゃあね、タロウちゃん」
 犬は賢い生き物だ。別れがわかるのだろう。
『ワフゥゥゥ』
 タロウは鳴いた。
 何度も鳴いた。
 まるでなにかを代弁するかのように、心苦しい声を上げていた。
『クウゥゥゥゥン!』
 なごり惜しさを振り切った松田は、一度たりとも振り返らなかった。
 振り返ったらどうなってしまうか、自分でもわからなかった。だから、振り返らない。いや、振り返ることができなかった。
 気づいたら、駆け足になっていた。
 どうやって搭乗したかわからないくらいに、頭がふわふわと揺れていた。
 なにも考えられなかった。
 なぜか頭の中にはあの男の顔しか浮かんでいない。
 いまさらになって、腰の奥がじんじんと痛くなってきた。それはきっと柔らかすぎるシートのせいだ。別に、あの男の名残じゃない。
 そんな馬鹿な考えをしている内に、時間になった。
 飛行機は離陸する。
 雨に濡れた地面を離れ、雲の上、爽やかな青空を進む。
 文字通り、そらぞらしい空だった。
(まったく僕は我ながら利己的だよね、我が強くて負けず嫌いで、嫌になっちゃうよ)
 いつだってそうだ。強がりばかりは一人前だった。
「……」
 やはり本当の恋ではなかったのだろうと思う。
 寂しいと思う気持ちはあれど、泣くまでにはいたらない。
 そんなのあたりまえだ、彼と出会ったのはたった一日前。そんな簡単に恋におちるはずがない、だから泣くなんてありえない。
 そう思ったら気が楽になった。
 あんな顔だけのバカで、ちょっとエッチで、実はすこしだけ賢いあの男に、自分の心を持って行かれた筈なんてない。
 そのはずだったのに。
(あれ……っ)
 視界はじんわりと水で濡れていた。
 鼻の奥がツンと熱くなって、喉がヒクヒクとみじめな嗚咽をもらしていた。
 旅が終われば夢は終わる。
 夢よりも現実を選んだ自分の判断は間違っていない。
 なのに。
 嗚咽とともに、おもわず声が飛び出ていた。
「バカだねぇ、あんな男に恋するなんて」
 ひとりごとに答える者は誰もいない。
「そうか、ならば私の胸の中でぞんぶんに泣くといい」
「いやだよ、僕はね他人に寄りかかるのって好きじゃないんだ」
「自立心とプライドが高いのだろうな、その気丈さが崩れた昨夜は最高にかわいかったがな」
「はいはい、そういうのはいいから」
「さあ、どうした。遠慮せず私との別れに恋焦がれ儚くも美しい姿を見せるがいいぞ」
「遠慮しておくよ、君の胸を借りたらますます……え!?」
 おもわず縋りついてしまいたくなったそのとき、違和感に気がついた。
 振り向くと彼等がいた。
『バウバウワフゥゥゥ!』
 タロウまでいる。これは夢でも幻でもない、本物のジャマルとタロウだ。
「どうして……」
 呆然と呟く松田のとなりにドンと座り、偉そうに腕を組んだジャマルはなにごともなかったように言った。
「アラ・カチュー。シンヤ、私はオマエを誘拐する」
 濡れた眼を見開いて、松田は彼等をぶえんりょに指差し吠えた。
「だって君はっ、日本には来れないって言っていたじゃないか!」
「ああ、私はドゥーバイに帰る。けれどだ。よく考えたのだがな、獣医ならばドゥーバイでもなれるな。オマエがこちらに来ればいいだけのことだ」
「じゃあ、なんで、はぁ!? 意味がわからない。この便は日本行きなのッ。君達はあっちの便に乗るのが正解でしょうが!」
 と、空を指差し松田は言った。
「ふぅ、オマエは英語が読めないのか?」
 ジャマルの長い指が示すのは、ドゥーバイ行きを告げる機内表示。
「この便は飛行機ごと私が買い取った。いまはドゥーバイに向かってちゃんとフライトをしているぞ。最近のアラ・カチューは車が流行っているが、まあ飛行機を使ったとしても問題ないだろう」
「他の乗客に迷惑じゃないか」
「周りを見てみろ、だれもいない。日本にむかうモノたちはちゃんと別の便で出発している」
 他人に迷惑をかけるのが嫌いな日本人への配慮もできている。
 松田は再び、負けを悟った。
「生真面目というか、なんていうか。なんだろうね。なんだ、なんだよアレだよね。まったく意味が分からないよ」
 騙されていたのだろう。
 この男ははじめから自分を諦めるつもりなどなかったのだ。
 スンスンと鼻をすすりながら、松田は唇をぎゅぅっと結んだ。
「まあ、ここまでお膳立てされたんだ。しばらくは付き合ってあげるよ」
 口からは憎まれ口がとび出ていた。
 けれど、指はぎゅっと男の指を握っていた。
「素直になれないオマエはかわいいな」
「君が欲望に素直すぎるんだよ」
 泣き顔を見られまいと、窓の外を眺めながら松田は呟く。
「これからどうするのさ」
「簡単に説明すると――そうだな。オマエをドゥーバイに連れ帰り式を上げる。私の家族がもうすでにオマエを待っている、私に恥をかかせたくなかったら大人しくしているのだな。それから――」
「長い、どこが簡単にだよ。もっと短い言葉があるんじゃないかな」
「オマエを愛している」
 オマエはどうだ? と、ジャマルが松田の顔を抱き寄せ囁いた。
「僕も……してやってもいい」
「ん、もういちど言ってみろ」
 いま言わなければ、恥ずかしくてしばらくその言葉を言えないかもしれない。
 ベッドの中でも言ったあの言葉。
 松田は羞恥の桜にそまった全身をふるわせ、さけんだ。
「愛してやっても――っ」
 そこまで言いかけて、
『バフバフゥゥゥバフフフッ』
 松田の声は歓喜にたかなるタロウの声にかき消された。
 松田の膝上に飛び乗ったタロウは、自分を忘れるな、とモフモフの体をおしつけ甘えていた。
 涙をぬぐい、松田は甘えてすがるタロウを撫でた。
「そうだったね、ごめんよ。タロウちゃんのことも愛してるよ」
 デレデレと愛犬にだきつく松田の顔を眺め、ジャマルは不満そうに息を漏らした。
「タロウ、おまえというやつはまったく、あと少しだったものを」
『ガフガフバゥゥッ』
「いいか、シンヤは私の妻だ」
『ウゥゥウバウッ』
「シンヤの膝枕は私のモノなのだ」
 そういって、ジャマルは大きな身体を松田の膝に乗せ、勝ち誇ったように笑んだ。
 タロウもジャマルの端整な顔を肉球でぐいぐいと押し返し、ワフンと松田の膝にアゴをのせる。
「ちょっと君達さすがに重いんだけど。どっちか降りてくれないかな」
 タロウに押し返され、歪にふくらんだ頬をうごかしジャマルはニヒルな笑みを作る。
「気にするな、これが私の愛の重さだ」
『クゥゥゥン、わふわふ』
 タロウもご満悦で尾を振った。
「これからが大変だな。まずは王族申請に結婚の儀。国民への挨拶も必要であるか、オマエの診療所も作らねばなるまい」
「はいはい、王様ごっこはもういいよ」
「ごっこなどではないと言うておるのに、まあドゥーバイに着けばわかるか。覚悟しているといいぞ」
 ドゥーバイに向かう飛行機は、青い空を迷うことなくつきすすんだ。

 〈了〉



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